業火の殺人者

奥田光治

第一章 ホテル火災

 その事件が起こったのは、年が明けて少しした二〇〇八年一月十一日金曜日の事だった。

 東京・杉並区高円寺。午後十時を過ぎた頃、一件の一一九番通報が東京消防庁から杉並第三消防署に入った。

『杉並区出火報! 高円寺×丁目××番地、ビジネスホテル「ホテル・ミラージュ」出火! 杉並第三消防署に出場要請!』

 数分後、消防署の車庫から隊員八名を乗せた消防車が飛び出してきた。サイレンを鳴らしながら、炎上しているというホテルに向かう。現場に近づくと、この時間でも明るい高円寺の町中の一角に、空が真っ赤に染まっている一角があるのが見えた。

 と、その時消防車の車内無線が鳴り響いた。

『情報続報! 現場ホテルは十階建てで、九階部分より出火! 八階以下の宿泊客はすでに避難済みとの事だが、九階以上の宿泊客二十名前後が取り残されている模様! 出火原因は不明!』

 ホテル火災……それは消防士たちにとって最も危険度の高い任務の一つである。日本の消防の歴史は、こうしたホテル火災に代表されるビル火災との戦いの記録でもあった。

 東京のホテル火災と聞いて真っ先に思い返されるのは、一九八二年二月に東京・赤坂の空を真っ赤に染めたホテル・ニュージャパンの大火災だろう。都心に立つ超高級ホテルがその杜撰な防火体制から大炎上を起こし、宿泊客ら三十三名の死者を出した。当時の東京消防庁は東京中の消防車に出場要請をかける第四出場を発令し、一二八台の消防車が集結する消火作戦が行われた。

 杉並第三消防署特別救助隊隊長・蒲生晴孝がもうはるたかは消防車の中から前を見つめながら、不意にその頃の事を思い出していた。蒲生があのホテル・ニュージャパンの火災現場に出場したのは、彼が消防士になってわずか二年後の事である。当時わずか二十歳。高校卒業と同時にかねてからの夢だった消防士になった矢先の出来事だった。所属は品川方面にあった消防署だったが、第四出場の発令によって出場。目の前で燃え盛る高層ホテルの大規模火災を、この目で間近に見た瞬間だった。

 この火災の消火活動で活躍をしたのが、特別救助隊……いわゆる「レスキュー隊」と呼ばれる救助専門部隊である。蒲生は現場で見た特別救助隊の働きに感動し、やがて自身も特別救助隊に志願していた。

 あれから二十六年。四十六歳の蒲生はその特別救助隊の一部隊の隊長となっていた。特別救助隊は体力的な問題から隊長でも四十五歳程度で現場からは引退となる。引退後は昇進して他部署に移動する事となるが、蒲生も四月になった時点で隊長職から引退してかつての古巣である品川の消防署の課長職に就く事が内定している。そんな蒲生にとって、このホテル火災は自分にとって現場最後の大仕事になりそうであった。

 蒲生は車内を見回す。車体に白のラインが引かれた特別救助隊特有のこの消防車には、彼の優秀な部下たちが分厚い防火服を着て静かに現場への到着を待っていた。

 やがて、問題のビジネスホテルが見えてきた。消防車が停止し、蒲生達が飛び出していく。見上げると、九階部分の窓から炎を吹きだしているビルの姿があった。ビルの周辺には避難してきた宿泊客たちの姿もある。

 蒲生達の任務は消火ではなく逃げ遅れた人々のレスキューである。蒲生は一瞬周囲を確認すると、隊員たちに合図をして即座にホテルの一階ロビーへと飛び込んだ。

 ホテルのフロントにはまだホテルの職員が残っていて関係各所への連絡や駆けつけた消防士たちとの対応している。ロビーにいる他のホテルマンたちは宿泊客の誘導作業に忙しく、対応できるのは彼だけのようだった。蒲生はまずフロントで情報を集める事にする。

「特別救助隊の蒲生です。あなたは?」

「支配人の八町やまちです」

 どうやら支配人らしい。その表情は青白く歪んでいるが、今はそんな事を気にしている場合ではない。

「どういう状況になっていますか?」

「八階以下の避難は全員完了しましたが、九階以上のお客様二十三名がまだ閉じ込められたままです。スプリンクラーは作動しているはずですが、この火の勢いでほとんど役に立っていないようでして……」

「各階の詳しい人数は?」

「九階に十名、十階に十三名です」

「非常階段まで案内してください。今すぐに!」

「こちらです」

 八町がフロントを飛び出し、蒲生達も後に続いた。非常階段はフロントを出て少し行ったところにあった。

「これから救助に向かいますが、何か留意すべき点はありますか?」

「お客様の中に外国人の方が三名と、車椅子の方が一名おられます。あと、十階のお客様のうちの何人かが屋上に避難をしているようですが、出火元の九階のお客様に関してはよくわかりません。これが九階から十階の見取り図となります」

 八町が手渡した見取り図を、蒲生達は瞬時に頭に叩き込む。この状況では九階にいる客の救助が最優先となるだろう。

「行くぞ!」

 蒲生の言葉に、隊員たちは非常階段を駆け上がった。出火元の九階に近づくにつれて周囲の温度もだんだん上がって来る。やがて到着した九階の非常階段の扉は閉ざされており、その向こうから抑えきれない熱気が伝わってきた。

「ここが出火元だ」

 その言葉に全員に緊張が走る。と、階段の上から誰かが下りてくるのが見えた。見上げると、寝間着姿の客の一人のようである。服は煤汚れているが足取りはしっかりしているようだ。

「あ、あんたら消防か?」

「大丈夫ですか!」

 隊員の一人が咄嗟に駆け寄る。幸い怪我はない様子だ。

「あなたは十階の客ですか?」

「そ、そうだ! 助けてくれ! 十階の客はほとんど屋上に避難しているが、まだ何人か部屋に取り残されているようだ」

 客はわめくように言う。どうやら出火元の九階と違い、十階はまだ逃げる余裕があったためかほとんどが屋上へ避難している様子だ。とはいえ、まだ何人か残っているらしい。

「よし、南田は神田と浮島を連れて十階へ向かってくれ! 残っている人間がいないかを確認するように!」

「了解!」

 蒲生の右腕である副隊長の南田芳和みなみだよしかずはそう返事をすると、若手の神田裕次郎かんだゆうじろう浮島大樹うきしまたいきの両隊員と一緒にそのまま十階へと駆け上がっていった。状況から考えて九階に救助を集中すべきなのは明らかであるので、十階の救助活動には三人を振り分けるのが精一杯だったのである。そして蒲生の目の前には、残る四隊員……雨笠豊範あまがさとよのり古賀直沖こがなおおき下杉龍太郎しもすぎりゅうたろう時川敦人ときがわあつとが真剣な面持ちで指示を待っている。ここに蒲生を含めた五人でこれから燃え盛る八階の救助作業をしなければならない。

 と、そこへ後続の消火専門のポンプ隊の消防士数人が姿を見せた。その手にはホースが握られている。これで準備は整った。

「後ろから放水を頼む。我々はこれから九階に突入する!」

「了解!」

 到着したポンプ隊消防隊員たちが放水のセッティングをし、蒲生達は突入に備えて酸素ボンベの準備を進めていく。同時に、逃げてきた十階の客はそのまま消防士に連れられて下の階へ降りて行った。

「行くぞ!」

 その言葉と同時に消防士たちの援護放水が蒲生達に浴びせかけられる。同時に蒲生がゆっくりと非常口を開けてく。下手に早く開けると、急激な酸素の供給によりバッグドラフト現象が起こりかねない。

 直後、目の前に真っ赤な炎が出現した。幸いバッグドラフトは起こらなかったが、すでに廊下は火の海である。

「突入!」

 その蒲生の言葉を合図に、五人の勇敢な男たちは一斉に火災現場に突入していった。


 そして、それが生きた蒲生晴孝の姿が確認された、最後の瞬間となったのである。

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