第四章 消えた政治家秘書

 翌日、十二月二十三日日曜日の朝、榊原と瑞穂は再び現場のマンションの前に姿を見せていた。

「今日で三回目……いい加減に警備員さんも不自然に思うんじゃないですか?」

「現場百回。捜査の鉄則だ。それに、今日の捜査対象は五階じゃない」

「とりあえずは、上の六階でしたね」

「あぁ、調べる事だけ調べたら、その時点で今日は撤収する予定だ」

「でも、入れてくれますかねぇ。今のところ、事件とは無関係ですし……」

 瑞穂は不安そうに言う。

「まぁ、言うだけ言ってみるさ」

 そう言って、榊原がマンションに向かって一歩足を踏み入れようとした時だった。

「あれ、あんたたち今日も捜査?」

 突然後ろから声をかけられた。咄嗟に二人は後ろを振り向き、そこで意外な顔を見た。

「海端さん……ですか」

 ジャンヌ・アンバー役で、昨日瑞穂に疑いを向けられていた海端香穂子がラフな格好でそこに立っていたのである。

「どうしてここに?」

 すぐに冷静さを取り戻した榊原のもっともな問いに、香穂子は髪を気だるそうにかき上げながら答えた。

「何? 用がなかったらここに来たらいけないの?」

「そうではありませんが、場所が場所ですからね」

 榊原の言葉に、香穂子はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑ってこう言った。

「そんなに怖い顔をしないでよ。ちょうど今日、収録のない日でさ。友達の家に遊びに来たんだよ」

「友達?」

「あぁ。このマンションの六階に住んでる子でね。たまに暇な時に一緒に話し込んだりしているんだけど」

 六階という言葉に榊原は反応した。

「このマンションの六階にあなたの友達がいるんですか?」

「まぁ、そうなるね。六〇一号室の波多野小奈美って子なんだけど」

「失礼ですが、どのような友達なんですか?」

 その質問に、香穂子は眉をひそめた。

「何? 小奈美がなにかしたの?」

「そうではありませんが……」

「小奈美は私が奈々子の部屋に出入りしているうちに知り合った仲よ。それ以上でも以下でもないわ」

「ちょっと待ってください」

 聞き捨てならない事を言われて榊原は思わず待ったをかけた。

「今何と言いましたか? 『奈々子の部屋に出入りしていた』?」

「うん。同じ事務所の所属だから、たまに奈々子から招待されて和歌美と一緒に五階の部屋に行ったりしていたのよ。ちなみに、私だけじゃなくて、あのアニメのキャストは、全員一回はあの部屋に入っているはずよ。奈々子、親交を深めるためって名目で共演した声優をよく自分の部屋に招待していたから」

 この話が本当なら、少なくともキャスト陣営は全員があの部屋に一度入っている事になる。当然、部屋の構造についてもよく知っていた事になろう。

「何でその事をこの間の聞き取りの時に話さなかったのですか?」

「理由はないわ。こんな事があの事件に関係しているとも思わなかったし。というか、何か関係でもあるの? 奈々子は自殺なんでしょ」

 香穂子の答えはあっさりしていた。

「とにかく、そろそろ行きたいんだけど、いい?」

「ああ、少し待ってください。六階と言いましたね」

「そうだけど」

「一緒に行かせてもらえませんか? 我々も六階を調べたいので」

 香穂子は眉をひそめた。

「奈々子の部屋は五階でしょ。六階に何があるの?」

「まぁ、色々と調べたい事がありましてね」

「あ、そう。まぁ、いいわ」

 香穂子は特にこだわる様子もなく、あっさりとその件を承諾して警備員室に向かった。警備員室には、シフトがたまたま同じなのか、またしてもあの警備員がいた。

「六〇一号室の波多野小奈美さんに会いたいんだけど」

「あぁ、海端さんですね。いつも元気そうで何よりです。少し待ってください」

 どうやら警備員にとっても香穂子は顔なじみらしい。そのまま六〇一号室への連絡をしようとして、警備員は後ろに控える榊原たちに気づいたようだ。

「また、あなたたちですか?」

「今日は彼女に話を聞きたいのです。それで、一緒に六階に入れてもらえませんか?」

「そうなんですか?」

 警備員は香穂子に確認する。香穂子は首をすくめた。

「らしいね」

「まぁ、彼女がそう言うなら構いませんけど……程々にしてくださいね。毎日来られるのも面倒なので」

 警備員はそう言うと、六〇一号室に来客を知らせるスイッチを押した。しばらくして、警備員室横のインターホンから声が聞こえた。

『はい、波多野です』

「小奈美、私よ」

『香穂子ちゃん! 急にどうしたの?』

「時間が急に空いてね。入ってもいい?」

『いいわよ。待ってるね』

 通話が切れる。それを聞いて、警備員がドアを開けた。どうやら、来客の時はこうやって知らせるシステムらしい。

「じゃ、行こうか」

 香穂子は一言そう言うと中に入り、榊原たちも警備員に一礼してその後に続いた。エレベーターに乗り、そのまま六階で降りる。見た感じは五階とそう大差はない様子だった。もっとも、マンションなのだから当然と言えば当然なのだろうが。

「こっちよ」

 香穂子は一番手前の部屋……六〇一号室の前に立つと、ドアをノックした。少しの沈黙ののち、ドアが小さく開かれ、その向こうから小柄な女性が姿を見せた。

「や、小奈美」

「香穂子ちゃん、久しぶり! 仕事がないのなら今日はゆっくりしていって……」

 そこまで言って、女性……波多野小奈美は香穂子の後ろに控える榊原たちに気づいたようだった。

「あの、どちら様ですか?」

「失礼。私立探偵の榊原恵一と言います」

「助手の深町瑞穂です」

 榊原たちは頭を下げる。香穂子はどうでもよさそうに付け加えた。

「奈々子の件を調べているんだって。私に話を聞きたいっていうから、一緒に来てもらったんだけど、いい?」

「う、うん。私は構わないけど……」

 そう言って、改めて自己紹介する。

「ゲーム会社で働いています波多野小奈美です。よろしくお願いします。とりあえず、中へどうぞ」

 小奈美に案内され、三人は室内に入った。部屋の構成は五〇八号室とほとんど変わらないが、ゲーム会社勤務という事もあってかその手のゲームやパソコンなどの器具が多かった。

「お二人はどうして知り合ったんですか?」

 瑞穂が興味津々に尋ねる。

「私が以前出演したゲームソフトの収録で出会ったのが最初でね。その後、奈々子の部屋に来ているうちに、偶然一階のホールで彼女と再会して、そこから仲良くなったのよ」

 香穂子が簡単に解説する。

「ところで、六階に何か用があったんじゃないの?」

「まぁ、そうなんですが……せっかくですのでお話を聞かせてもらえませんか?」

 榊原はそう言って頭を下げた。

「そう言われてもね……。話す事はこの間全部話したんだけどね」

「では、二年前の『戦国女子高生』の際に発生したストーカーの件についてはどうでしょう?」

 榊原がその言葉を発した瞬間、香穂子の表情が真剣なものに変わった。

「……調べたの?」

「それが私の仕事ですから」

「誰に聞いたの?」

 香穂子は端的に尋ねる。もったいぶった言い方は好きではないらしい。

「それは答えられませんね。ただ、私自身はこの件に興味を持ったもので、聞かせてもらえるとありがたいのです」

「物好きね。まぁ、そういうの嫌いじゃないけど。それで、そのアニメについてどんな風な事を知っているの?」

 香穂子はそう言って笑った。が、榊原は容赦なく切り込んでいく。

「そのアニメの主演争いであなたは敗れ、その直後に北町さんはストーカー被害に遭って、福島さんの伝手でこのマンションに引っ越した。そう聞いています」

「概ねその通りだけど……何? その言い方だと、私がそのストーカーだとでも言いたいの? ないない」

 香穂子は瞬時に榊原の考えを見抜くと、手をひらひらと振りながら笑う。

「なぜですか?」

「実際に演じてみてわかったのよ。あの役はやっぱり私より奈々子の方がよかった。私がやっていたら、あのアニメは失敗していたでしょうね」

 香穂子はいともあっさりとそう告げた。

「随分物分かりがいいんですね」

「そうでもないと、この業界ではやっていけないから」

「……問題のストーカーについて心当たりはありますか? 結局捕まらなかったようですが」

「さぁ。私にはわからないわね。そのストーカーが今回の奈々子の死に何か関係しているの?」

「わかりません。ただ、すべての可能性を考えるのが私のやり方ですので」

「大変ね。でも、その件に関して私が言えることがないのは本当。ご期待に沿えなくて残念ね」

 香穂子はからかうように言った。

「……先程、よくキャストの皆さんが北町さんの部屋に出入りしていたと聞きましたが」

「言ったわね」

「彼女が亡くなった十二月五日までの間で、最後にその集まりがあったのはいつですか?」

「そうねぇ。確かその三日前だったと思うけど」

 という事は、十二月二日だ。

「参加者は?」

「主要キャストがほとんど行ったんじゃないかしら」

「主要キャストというと、戦隊メンバーの五人と福島さん、中木さんですか?」

「そう。でも、女の子ばっかりだったから中木は遠慮して途中で帰ったかな。私も途中で抜けて小奈美の部屋に行ったし、もちろん、当時三上さんはメンバーじゃなかったからいなかったけど。残ったメンバーはあの部屋で朝まで騒いでいたみたいね」

「その時、何か変わった事は?」

「さぁ、言った通り、私も途中で抜けたしね」

 そう言ってから、香穂子はふと何かを思い出したような顔をした。

「そう言えば……哀も途中で一度抜けていたかな」

「哀というと……主演の夕凪哀さんですか?」

「そう。中木が帰る少し前だったかな。何か電話があったみたいで、その時に一度部屋から出ていったはず。しばらくして中木が出て行ったすぐ後くらいに戻って来たんだけど……何をやっていたのかはわからないわね」

「その件に関して夕凪さんは何と?」

「仕事の電話だって言ってたけど、本当かどうかわからないわ」

 そう言って、香穂子は榊原を見据えた。

「私の話はこれで本当におしまい。参考になった?」

「えぇ、まぁ。後は、この六階の事に関して知っている事があれば少し教えてほしいんですが」

「そんなの、私が知るはずないでしょ。実際にここに住んでいる小奈美に聞きなさいよ」

 それももっともな話であるが、榊原としては彼女からもう少し証言を引き出したいようで、しつこく粘った。

「それでも、第三者から見て何か見えるものがあるかもしれませんし」

「面倒ね。というかさ、六階を調べるんだったら、ついでに六一二号室の謎でも解いてほしいわね。あなた、凄腕の探偵なんでしょう?」

 香穂子はふとそんな言葉を漏らした。その言葉に、榊原と瑞穂は顔を見合わせる。

「あの、何ですか? その六一二号室の謎って」

「あれ、知らなかったの? ずっとマンションを調べていたから知っていた思ったんだけど」

「いや、初耳ですね」

 そう聞くと、香穂子は面白そうに小奈美に言った。

「ちょうどいいじゃない。せっかくだから、話してみたら?」

「え、でも……」

 仕事中なのにいいのかと言わんばかりの視線を小奈美は榊原に向けた。が、榊原としても少しでも情報がほしい。

「お願いします。六一二号室の謎とは、一体何の事なんですか?」

 小奈美はしばらく逡巡していたようだったが、やがて何かを決意したように告げた。

「北町さんの事件が起こったすぐ後の事です。密室だった六一二号室から住人が忽然と消えるっていう事件が起こったんです。私たち住人の間では『呪われた六一二号室』と呼んでいるんですけど」

「密室から、人が消えた?」

 どうやって密室に入るかを探しているというのに、今度は逆に密室から人が消えるという話である。もうわけがわからなかった。

「何なんですか? 密室で人が死んだり消えたりして、揚句に幽霊まで出て……ここは不思議のマンションか何かですか?」

「とにかく話を聞こう」

 ぼやく瑞穂をなだめながら、榊原は小奈美に話を促した。


 六一二号室に住んでいたのは、石渡美津子という女性だったらしい。らしいというのは、問題の消失事件が起こるまで、住人でさえそんな人間が住んでいる事に気が付かなかったからだそうだ。どうもこのマンションはプライバシーを重視するあまり、それぞれの階以外の人間との交流はないに等しいらしい。が、その中でもその石渡美津子は他の住人との交流が極端に少なく、同じ六階在住の小奈美さえたまに顔を見る程度だったという。

 そんな石渡美津子の職業は現在発言力が増している衆議院議員・奥村義三の秘書という事だった。奥村自身は元国土交通省の官僚で、今でも国土交通省には顔が効く人間である。有力政治家の秘書という事で一部には愛人の疑惑もあり、実際にマンションに奥村がやってきた事もあったらしい。

 ところが、その美津子が、マンションの自室から突然消えてしまったのだという。

「奥村……確か、収賄問題で騒がれている議員でしたよね?」

 榊原の問いに、小奈美は頷いた。

「はい。その関連で秘書だった美津子さんも事情を知っているかもしれないって話になって、マスコミがここに張り付く事態になったんです」

「私の記憶が正しければ、問題の収賄が発覚したのは十二月七日……北町さんの事件の二日後だったはず」

「そうです。その日からマスコミ関係者が連日このマンションを張り込んでいました。おかげで石渡さんは部屋から出る事ができなくなって、議員事務所からも顔を出すなって言われていたみたいです」

「そんな彼女が部屋から消えた?」

 小奈美は頷いた。

「十二月十日の事でした。ある新聞社が石渡さんへの独占取材を直接電話で申し込んだとかで、直接部屋までやって来たんです。でも、部屋の前まで来てドアをノックしても返事がなくて……」

「中を調べてみたら、部屋の中に彼女の姿はなかった、と」

「その通りです。当然、その人たちも必死に探したそうですけど、それまで部屋にいたはずの彼女の姿はどこにもなかったって。新聞では、汚職の実態がばれる事を恐れてどこから逃げたと言われていますけど……」

「なるほどね」

 榊原は考え込んでしまった。

「すみません。私も正直伝え聞いた話しか知らなくて……詳しい事はその当事者の方から聞くのがいいと思いますけど」

「その部屋を訪ねた新聞社というのは?」

 その問いに対し、小奈美はあっさりと答えた。

「国民中央新聞です。私のところにも話を聞きに来ましたから間違いありません」

 瑞穂はハッとした様子で榊原を見た。

「国民中央新聞って、島原さんの?」

「おそらく政治部だな。名前さえわかれば島原のやつを通じて話が聞けそうだが」

「あっ、そう言えば名刺をもらっていました」

 小奈美はそう言うと、キッチンの引き出しから一枚の名刺を取り出した。榊原はそれを受け取ると、そこに書かれている名前を見る。

『国民中央新聞政治部 土田康平』

 榊原の表情が少し険しくなった。

「これって、確か先生の捜査一課時代に島原さんがいた国民中央新聞遊撃隊の一人だった人じゃ……」

「こんな所でこの名前が出てくるとはな。どうやら、島原を通じる必要もなさそうだ。この男の連絡先は私も知っている」

 榊原は名刺を返すと、小さくため息をついた。

「一応聞いておきますが、その石渡という秘書と北町奈々子さんとの間に、何かつながりはありましたか?」

「いや……ないと思いますよ。同じマンションとはいえ階も違いますし。私も他の階の方の事はあまり詳しくないんです。北町さんの事も、香穂子を通じて初めて知ったくらいですから」

 つまり、肝心の被害者同士につながりらしいつながりは存在しないという事だ。

「その六一二号室とやらも見てみたいが……さすがにそれは無理でしょうね」

「あくまで行方不明扱いなので、名義は未だに石渡さんのものになっているはずです。だから、入るのはまずいと思います」

「現場が見られないとなると、まずは話を聞くのが先決か」

 榊原の言葉に、瑞穂は先端を見やった。

「先生、この失踪事件が奈々子さんの事件に関係していると思っているんですか?」

「わからんが……両方が密室に関係していて、しかも日付が近いというのが少し気になる」

「でも、石渡さんの事件は奈々子さんの事件の五日後ですよ。それで何か関係しているとは思えないんですが……」

「一見するとそうだな。両者の部屋はあまりにもずれているし、何より本人たち自身に現段階では何のつながりも見いだせない。だが、これ以外に手がかりがないのも事実だ」

「微妙な手がかりですね」

「言うな。私もそう思っている」

 そう言ってから、榊原は小奈美たちに向き直った。

「念のため、あなたが知る限りでいいのでこの階の住人がどのような人なのかを教えてもらえませんか?」

「はぁ、構いませんけど……」

 困惑しつつも、小奈美は六階の住人について話してくれる。榊原はそれをメモしながらもう一つ尋ねた。

「それと、問題の十二月五日に何か変わった事はありませんでしたか? 何でもいいんですけどね」

「変わった事、ですか? さぁ、わかりません」

 まぁ、それも無理もない。現場の部屋からかなり離れているこの部屋では、気付けと言う方に無理があるだろう。

「……色々ありがとうございました。名刺を渡しておきますので、何か思い出した事があればご連絡ください」

 榊原はそう言って名刺を一枚取り出すと立ち上がった。どうやら、この辺が潮時と判断したらしい。

「終わったの?」

 香穂子が面白そうに聞く。

「いえ、これから六階の他の部屋の方々に話を聞く必要もありますから」

「大変ね。まぁ、頑張って。私も、奈々子の死の真相は知りたいしね」

 手をひらひら振りながら香穂子は榊原を見送る。榊原は黙って一礼するとドアへと向かい、瑞穂も慌ててその後に続いた。


 それから二時間後、榊原と瑞穂は疲れ果てた表情でマンションを後にしていた。

「空振りでしたね」

「まぁ、ある程度は予想できた事だ」

 あの後、当初の予定通り六階の住人たちに話を聞いて回ったのだが、特に新たな情報もないまま聞き込みは終わってしまったのである。問題の六一二号室も訪れたが当然誰も出ず、何も収穫がないまま榊原たちはマンションを出る事になったのだった。

「結局、今日の収穫って問題の消失事件の情報だけですか?」

「それも外観だけだからな。詳しい話はこれから検討する他ないが……」

「検討って?」

「さっき、当事者を呼んでおいた。もうすぐ来るはずだ」

 と、そんな事を言っているうちに、マンションの前に一台の車が止まった。新聞社が取材に使うような大型のライトバンである。

「おいでなすったな。さすがに行動が速い」

 車から降りてきたのは、スーツ姿の温厚そうな男性だった。男性は周囲をしばらく見回していたが、やがて榊原を見つけるとにっこり笑って近づいてきた。

「お久しぶりです。まさか、あなたから連絡があるとは思いませんでしたよ」

「私も、まさか君に連絡する事になるとは思わなかった」

 そう言ってから、榊原は瑞穂に男を紹介した。

「もう紹介しなくても察しはついていると思うが……国民中央新聞政治部の土田康平記者だ。問題の消失事件の説明のために来てもらった」

「土田です。あなたが深町瑞穂さんですね。島原君から話は聞いています」

 どこかアクの強そうな感じだった島原に対し、土田は一見すると温厚そうな記者であった。が、榊原によれば彼も社会部時代に榊原に引っ付いていた遊撃隊の一人なのである。それだけに、見た目だけではその力量を推し量れない部分があった。

「しかし、榊原さんが石渡美津子に興味を持つとは思いませんでした。一体、何を調べているんですか?」

「とぼけるな。島原から話は聞いていないのか?」

「まぁ、一応は。でも、それと石渡の事件がどう関係しているのか、凡庸な僕には全くわからないもので」

「何が凡庸だ。虫も殺さないような顔をしておいて、容赦なく極秘情報をすっぱぬいていく君の手腕ほど恐ろしいものはなかった。私は三人の中で、一番得体が知れないのは君だと思っていたほどだ」

「そんな、評価のしすぎですよ」

 土原はそう言ってはぐらかす。

「政治部でも活躍しているそうだな」

「えぇ、まぁ。今は奥村議員の汚職疑惑を追及しています」

「石渡美津子は今でも行方不明なのか?」

「残念ながら。僕たちも全力で追っているのですが」

「議員が自分の秘密を知る石渡秘書に隠れるように指示したという噂もあるな」

 だが、これに対して土田は首を振った。

「確かに他の週刊誌なんかはそう報じているところもありますが、僕の判断からすると、どうも今回のこれは議員側も想定外みたいです」

「というと?」

「僕の情報網の中では、当の奥村議員が彼女の行方を必死に探しているようなんです。もちろん、表向きは隠していますけど、奥村が慌てているのは間違いなさそうです」

「つまり、石渡の失踪は奥村にとっても想定外の事だと?」

「その可能性が高いです」

 榊原は一瞬マンションを見上げたが、すぐに本題に入った。

「問題の失踪事件、何があったか話してくれないか?」

「それは構いませんが……その代わりに一つお願いがあります」

「……大方、これから私がこの失踪事件を調べて、その最中にその石渡を見つけたら、君に知らせてほしいとでも言うつもりじゃないのか?」

「さすがは榊原さん。話が早くて助かります」

「まぁ、いいだろう。私が今受けている依頼は北町奈々子の死の真相を暴く事だ。奥村議員の汚職に関して私が守秘義務を守る意味合いはない」

 榊原はそう言って土田の条件を飲んだ。

「ありがとうございます。では、どこから話しましょうか?」

「問題の汚職が発覚したのは十二月七日だったな。そこから話してほしい」

「わかりました。では、立ち話も何なので」

 そう言うと、土田は先程の車へ二人を案内した。後部座席はシートが向かい合っていて、その一方に榊原と瑞穂が、もう一方に土田が腰かける。

「まず、確認ですが問題の奥山議員の汚職疑惑がどのようなものなのかはご存知ですか?」

「新聞に載っている程度ならな。確か、典型的な官製談合だったと記憶している」

「その通りです。御存じのように、奥山議員は元国土交通省の官僚で、その縁から国土交通省との強いパイプを持っています。一方、国土交通省では今年になって東北地方の西側を貫く新高速道路の建設計画が行われていて、この高速道路建設を請け負う会社の入札が行われていました。結果は、大手ゼネコンの熊谷建設がこの高速道路建設工事の権利を勝ち取っています。ところが、ここで熊谷建設が高速建設を確実に自社のものとするために、国土交通省に顔が効く奥山議員への賄賂工作を行った疑いが浮上したんです。疑惑では、奥山議員はこの賄賂金を懐に入れた上で、自身の後輩でもあった国土交通省の担当職員に対して熊谷建設への天下りの斡旋を条件に不正入札を行うよう指示をし、それを実行に移したとされています」

「奥山議員はもちろん、熊谷建設も国土交通省も、この疑惑に関しては否定していたな」

「はい。現在、東京地検特捜部が捜査に乗り出していますが、確たる証拠もないのでかなり苦戦しているようです。そんな中で注目されたのが、奥山議員の秘書であり、奥山議員に関するお金の流れをすべて把握しているはずの石渡美津子だったんです。もしこの疑惑が本当だとするならば、彼女が汚職の事実に気づかないはずがありません」

「この疑惑自体はどんな経緯で湧き出たんだ?」

 榊原の問いに対し、土田は心なしか声を潜めながら言った。

「密告です」

「密告?」

「元々熊谷建設が入札を勝ち取った辺りから噂程度ならあったんです。それが一気に具体的になったのは、問題の十二月七日に都内の新聞各社に送り付けられた密告文だったんです」

「密告文、ねぇ」

 何やらきな臭い話になってきた。

「その密告文の送り主はわかったのか?」

「いえ、残念ながら確定するまでには至っていません。ただし、密告文には金の流れがかなり詳細に書かれていた事から、僕個人の見解を言えば、これは問題の石渡秘書が送ったものではないかと思われます」

 もっとも、彼女自身が失踪してしまっているので確認しようがないのですが、と土田は肩をすくめる。

「それで、その密告を受けてマスコミはこのマンションを取り囲んだ、と」

「その通りです。ですが、彼女は部屋にこもったまま一度も顔を出しませんでした。無理もないです。その二日前に自殺事件があった事もあって、マンション周辺は少し殺伐としていましたから」

「それまでの彼女の動きは?」

「事件二日前から前日、つまり十二月五日から六日にかけて彼女は有休をとっています。その事もあってか、彼女はその有休日の前の晩……すなわち四日の夜に旧友数名と居酒屋で飲み会をしていて、翌日午後四時半頃にこのマンションに酔って帰宅しています。これは入口の警備員にも確認済みです。今、そこで警備しているあの警備員ですよ」

 土田はそう言ってマンションの入口を示した。もはや顔見知りになりつつあったあの警備員の姿が榊原の目に入る。確か、北町の事件当日もシフトに入っていたと本人も言っていたのを、榊原は思い出していた。

「それで、肝心の有休二日間は二日酔いで一日寝ていたようで、マンションから外出していません。そして運命の七日、汚職発覚によりマンションが早朝から取り囲まれ、出勤どころではなくなって部屋から出られなくなりました」

「推測にしては随分詳しいが」

「本人から聞いたんです。失踪する前にね」

 土田の言葉に、榊原は眉をひそめた。

「話をしているのか?」

「電話越しですけどね。私も奥山議員とは以前何度か会った事があって、その際に石渡さんとも会っていますから、本人かそうでないかくらいはわかります」

「その電話越しの話の中で、君はついに本人と直接出会う事を承諾させた。そうだな?」

「おっしゃる通りです。発覚から三日後の事でしたね」

 いよいよ本題である。

「さっきも言ったように、僕の中ではあの密告書を送ったのは彼女だと考えていたので、交渉次第ではうちの独占スクープに持ち込めるかもしれないと思っていたんです。なので、事態発覚後から、彼女に電話をかけて取材を受けてくれるように粘り強く交渉を続けていました。それで、三日目の朝になってようやく部屋に行く許可をもらったんです」

「それで、君はあのマンションへ向かった」

「えぇ。警備員さんには彼女自身が話を通して、我々……私とカメラマンの二人はマンションの六階に行きました。しかし、彼女の部屋の前に行きノックをしても誰も出る様子はない。おかしいと思って警備員さんにマスターキーで鍵を開けてもらったんです」

「それで中に入った?」

「嫌な予感がしましたからね。自殺でもされたかと思ったんですよ。幸い自殺体は見つかりませんでしたけど、その代り部屋の中には誰もいませんでした。電話で許可をもらってから部屋に行くまで十分程度の事です。しかも、マンションの周りにはマスコミが張り付いていて、とても気づかれずに脱出する事などできない。要するに、彼女はわずか十分の間に、衆人環視のマンションからいきなり姿を消してしまったんです」

 土田の言葉に、榊原は思案する。

「その失踪事件の具体的な時間はわかるか?」

「電話があったのは朝の九時十三分でした。証拠はこれです」

 そう言って土田は自身の携帯電話を差し出す。そこには、着信履歴に『石渡美津子』の名前がはっきり残っていた。

「彼女の携帯電話からの直接の着信でした。部屋に入ったのは、確か九時二十五分頃だったと思います。後でカメラマンのとっていたカメラの時刻表示を見て確認しましたから間違いありません」

 と、そこで榊原は土田の言葉を止めた。

「ちょっと待て。彼女は携帯電話で話をしていたのか?」

「そうです。彼女の部屋に固定電話はありません。すべてを携帯電話で処理していたようです」

 その言葉に、榊原は呆れたようにコメントした。

「それなら、部屋にいると言っておきながら実は外からかけていた、という実に馬鹿らしい芸当ができるはずだ。その可能性は考えなかったのか?」

「考えましたよ。僕もそこまで馬鹿じゃありません」

 土田は反論する。

「でも、そう考えても彼女がマンションの中にいたのは間違いない事なんです」

「なぜだ?」

「言ったはずです。彼女が最後に目撃されたのは有休当日の午前四時半。酔っぱらってマンションに帰宅したのを警備員が目撃しています。そして、その後から僕たちが部屋に行くまでの五日間。彼女は一歩たりともマンションから出ていないんです。それは、玄関の警備員がはっきりと証言しています。あのマンションから出るには必ず玄関を通らなければならない。そこを通っていない以上、彼女があの時点までマンションにいたのは確実なんです」

 榊原と瑞穂は思わず顔を見合わせた。

「先生、これって……」

「あぁ」

 状況は、北町奈々子の部屋から消えた犯人と全く同じだった。両方の事件とも、脱出できるはずのないマンションから人が消えているのである。

「防犯カメラは確認したのか?」

「僕は直接見ていませんが、一応警備員さんに確認してもらいました。けど、彼女の帰宅後から失踪の発覚までの間に、石渡さんらしい人が出ていった映像は映っていなかったそうです。正直、僕にはもうさっぱりなんですよ……」

 土田はそう言ってため息をついた。冗談でもなんでもなく、本当に参っているらしい。

「榊原さん、あなたにはこの謎が解けますか?」

「さぁ、どうだろうな……」

 一つでも大変なのに同じような事件が二つ。瑞穂からしてみれば、手掛かりが増えるどころか謎が増殖したようにしか思えなかったのだった。


「五階と六階、それぞれでまったく同じ状況で人が消えているんですよねぇ」

 土田と別れて事務所に戻った後、瑞穂はソファに寝転んでそう呟いていた。榊原はといえば、デスクで腕組みして難しい表情をしている。

「これって要するに、この密室トリックには部屋の場所は全く関係ないって事なんですかね」

「どうだろうな。そう決めつけるのも早計だとは思うが……」

 そう言いながらも榊原は腕組みを崩さない。今回ははったりでもなんでもなく、本気で悩んでいる様子だ。

「でも、魔女っ娘アニメの声優の自殺事件を調べていて、まさか政治家の汚職事件が出てくるなんて想定外もいいところですよ」

「魔女っ娘アニメと政治家の汚職……これほど相反する組み合わせもないな」

「いっそ、そういうアニメを作ってみたらどうですかね」

 瑞穂が少しやけになっていう。

「どんなアニメだね?」

「悪の組織と戦う魔女っ娘たち。しかし、その悪の組織の背後には、実は政治家の汚職事件がかかわっていた。怪人と戦う魔女っ娘たちは、徐々にその政治闘争に巻き込まれていく、とか」

「却下だな。そんなもの誰が楽しむんだ」

「わかりませんよ。今度京さんに会ったら言ってみようかな」

「やめてくれ。恥以外の何物でもない」

 榊原は容赦がなかった。瑞穂は小さく舌を出す。

「ま、それはともかく、これからどうしますか? 正直、八方塞がりにしか思えないんですけど」

「同感だが、ここで立ち止まったらそれこそどうしようもなくなる。少し頭を冷やす必要があるかもしれないな」

「じゃ、何か食べにでも行きますか?」

「どうしてそうなるんだ」

「いやぁ、腹が減っては何とやら、って言いますし」

 榊原は深いため息をついた。

「……取っ掛かりか何かはないんですか?」

 瑞穂は不意に言葉を改めてそう尋ねた。榊原の事だから何かは考えていると思ったのだ。

 案の定、榊原はこう返した。

「まぁ、気になる事はある」

「何ですか?」

「その密告文とやらだ。密告文という事は、少なくともそれは手紙だったわけだな」

「そうですね」

「土田は東京各所の新聞社に手紙が送られたと言っていた。一方、マンションの場所は世田谷。となれば、手紙が投函されたのはせいぜい一日前という事になるだろう」

「まぁ、そうなりますね」

 当たり前の事ばかり聞いていく榊原に、瑞穂はどう答えたらいいのかわからない。

 だが、続く榊原の言葉で、瑞穂は榊原が何を言いたいのかを悟った。

「ならば、仮にその密告文を出したのが石渡美津子だった場合、彼女は少なくとも汚職が発覚する一日前にその手紙をどこかのポストに投函するためにマンションを出なければならないはずだが」

「あ」

 言われてみれば確かにそうだ。

「ポストの件もそうだが、携帯だけで会話をしているなど怪しい点が多すぎる。どうも私は、汚職発覚後に石渡美津子が部屋の中にいたとは思えない。携帯の会話であたかも部屋の中にいるように見せかけていただけで、本人は最初から外にいたとすれば、六一二号室の謎は謎ではなくなる」

「何のためにそんな事を?」

「考えられるのは、汚職の追及を逃れるためだ。奥山議員にとって、汚職のすべてを知る彼女はまさに爆弾だ。だから、彼女を世間の目から隠すためにわざわざあんな事をしたと考えれば一応の納得はできる」

「という事は、この場合奥山議員もこの隠蔽工作に加担している事になりますよね。でも、土田さんの話だと奥山議員は今回の事態にかなり焦っているようですけど」

「計画が成功した後、彼女が予想外の行動に出ているのかもしれない。勝手に自分の知らないところに隠れてしまったとかな。その辺はわからないが、とにかくこの密室は彼女が最初から部屋にいなかったと判断すれば解決できる。そして、この推理を立証するために最大の問題になるのが……」

「汚職発覚の二日前の朝に彼女がマンションに帰宅したっていう警備員の証言ですね」

 瑞穂も薄々はわかっていたようだ。

「もし、彼女が実は帰宅していなかったとするなら、その時警備員が見た『石渡美津子』が本人であるはずがない。となると、警備員が嘘をついていない限り、その時帰宅した『石渡美津子』は真っ赤な別人だった事になる。逆に言えば、今回の密室を形成している根拠はこの警備員の証言の一点だけに過ぎない。だから、帰宅した彼女が偽者だったと立証できれば、この六一二号室の謎はとりあえず片付くのだが……」

 榊原は苦々しい顔をした。瑞穂も難しい顔をする。

「でも先生、もしこの推理が正しかったら、これって結局汚職を巡る隠蔽工作なだけで、肝心の北町奈々子さんの事件とは全く関係ありませんよね?」

「そこなんだ。私たちは別に汚職事件の捜査をしているわけじゃない。それを承知でこちらの捜査を続けるのかという根本的な問題はある。それにだ、その道のプロである警備員をそう簡単に騙せるとも思えないし、仮に帰宅したのが偽者だと立証できても、今度は『じゃあ、その偽者はどこへ行ったのか』という新たな疑問が浮かんでしまう。言ったように、マンションを出るには入口の警備員室前を通らなければならないからね」

「ど、堂々巡りじゃないですか」

 榊原は天井を見上げた。

「要するに、不毛になるのを覚悟で北町奈々子の一件と関係なさそうなこの筋を追いかけるべきかどうか、だ。何しろ、期限が今年中と指定されてしまっているからね。それさえなければもう少し詳しい調査もできるのだが……」

「うーん、何だか事件の本質から離れていっているような気がしないでもないですね」

 何とも微妙な空気がその場に流れる。

「……そもそも、私たち何で六階に行ったんでしたっけ?」

「密室の謎を解くため、だったはずだが」

「それが何で汚職事件?」

「さぁ……」

「肝心の密室の手掛かりは何か?」

「さぁ……」

 話題が終わってしまった。

「はぁ、手詰まりですね」

「一度事件を整理してみるか」

 そう言うと、榊原は部屋に備え付けられているホワイトボードを取り出して何やら書き始めた。

「私たちが現在調査しているのは、声優・北町奈々子の死に関する真相の解明だ。北町奈々子の死に関しては自殺判断が下されているが、諸々の情報から、私はこれが殺人だと考えている。彼女の死亡推定時刻は十二月五日の午前二時から三時の一時間」

 どうやら、事件のタイムテーブルを書いているようだ。

「それ以前の行動だが、彼女は収録終了後に自分同様に次の日が空いていた海端香穂子、才原和歌美両名と一緒に居酒屋で飲んでいる。居酒屋を出て彼女たち二人と別れたのは十二月四日午後十一時で、その一時間後、十二月五日午前零時にマンションに帰宅したのを警備員が確認している。これが彼女の生きている姿が目撃された最後の瞬間だ。犯行はその二時間~三時間後だと推測されている」

「ちなみに、石渡美津子さんがマンションに帰って来たのは同じ十二月五日の午後四時半の事ですよね」

 瑞穂が確認を求める。

「そうなるな。だが、死亡推定時刻から二時間~一時間半も後の話だ。警備員も言っていたが、死亡推定時刻から一時間前後にマンションに出入りした人間はいない」

「でも、微妙に近いのが少し気になります」

「ううん……」

 榊原が唸った。六一二号室の一件をどう扱うかかなり悩んでいるらしい。

「……あれ?」

 と、不意に瑞穂が首を傾げた。

「どうした?」

「先生、発見された奈々子さんの服装ってどんなのでしたっけ?」

「服装?」

 榊原は改めて警察からもらった資料を見直す。

「……どうやら、前日と同じ服装だったそうだ。警察では帰った後、着替えないまま自殺したものとしているが」

 そこまで言って、榊原の表情も難しいものになった。

「そう言えばおかしいな……」

「ですよね。自殺だったら警察の考えも納得できない事はありません。でも、殺人なら話は別です。彼女が帰宅したのが零時で、死んだのが二時から三時だったとするなら、普通だったらパジャマなりなんなりに着替えているはずですよね。少なくともシャワーを浴びて別の服に着替えているくらいの事はしていると思います。でも、彼女の服はそのままだった」

「犯人が着替えさせたのか? いや、そんな事をする意味はないな。それでもやったとするなら何か理由があるが……」

「あるいは、彼女自身が着替えずにいたのか、ですね」

 瑞穂はそう推測した。

「着替えずにいた? しかし、そんな事があり得るのか?」

「わかりません。誰か来客を待っていたとも考えられますけど……」

 自分で言っておきながら、瑞穂自身もあまり自信はないようだった。

「服の謎か……確かにこれは考える必要性があるかもしれないな」

 榊原がそう呟いた時だった。

 不意に、事務所のドアがノックされた。昨日と同じ展開である。瑞穂は反射的にソファから起き上がった。

「今日も誰か来たんですかね? 普段は閑古鳥が鳴いているのに、ここ最近は千客万来ですね」

「言うな。まぁ、とはいえ居留守を使うわけにもいかないだろうな」

 榊原そう言うと、どうぞと声をかけた。それを聞いて、ドアがゆっくり開くと、見知った顔がおずおずと入ってくる。

「あの……急にお邪魔してすみません」

 それは、ジャンヌ・オーキッド役にして、奈々子や香穂子と同じ事務所に所属している才原和歌美だった。

「これは……予想外の来客ですね」

 榊原はそう言うと、和歌美にソファを勧めた。

「昨日は福島恵梨香さんが来たんですがね、今日は何の御用ですか?」

 榊原が尋ねると、和歌美はもじもじとした様子で、

「えっと、その、香穂子さんから探偵さんの様子を見てくるように言われました」

「海端さんから、というと?」

「その、朝にマンションを出た後、どんな事を調べていたのか聞いて来いって……」

 要するに香穂子の使い走りである。何だかんだ言って、香穂子も榊原たちの行動に興味を持っているようだ。

「不思議ですね。聞くなら本人が来ればいいのに、どうしてあなたが? 確か、海端さんは今日収録がないはずでしたよね」

 榊原の疑問に対し、和歌美は恐縮気味に答える。

「その、私は事務所の後輩ですから……」

「ちなみに、他の声優の方々はどうしていますか?」

「え? いえ、知りません。『ジャンヌ・ピュア』の収録は今日ないので、みんなそれぞれの予定で動いているはずです。三上さんは久々に収録がないからって学校に行っているみたいですけど」

「確か、高校に通っているんでしたよね」

「はい。本業は高校一年生です。だから、収録がない日はできるだけ学校に行くようにしているらしくって。もう冬休みですけど、休んだ分、特別補習に出ているみたいです」

「え、じゃあ、私と同い年なんですか?」

 同じく高校一年生の瑞穂が驚く。高校生だとは聞いていたが同い年だとは思っていなかったようだ。榊原も意外そうに言葉を漏らす。

「学生をしながら声優とはね……随分大変だろうに」

 確かに並の努力ではできない事だろう。大女優・三上優子の血が流れている以上に、彼女自身もかなりの努力家らしい。

 一方、瑞穂は興味を持ったように和歌美に質問をしていた。

「どこの学校なんですか?」

「えっと、桜森学園の高等部だったはずです」

「桜森学園? 私の友達がそこに通っていますよ。うわぁ、今度個人的に紹介してもらおうかなぁ」

 瑞穂は一人盛り上がっているが、和歌美としては話の軌道を元に戻したいようだった。

「あの、それで……最初の質問の答えはどうなんですか?」

「いや、大した収穫もなく反省会をしているところですよ。まだまだ先は遠そうですね」

「そ、そうなんですか?」

「色々と問題点がありましてね。まぁ、お話しするような事はないという事です」

 和歌美はそんな榊原の返事を聞いてしばらく落ち着かなさそうにしていたが、やがてこんな言葉を発した。

「あの、北原さんが死んだのは自殺じゃないって事なんですか? 海端さんは、いえ、私たち全員が、探偵さんたちがここまで詳しく調べている事に疑問を感じています。もしかして、あれは自殺じゃないって事なんですか?」

「……そこまでは何とも。現時点では結論は出せませんね」

 榊原は和歌美の追及をやんわりとかわす。現段階でわざわざそれを明かす必要性もないという判断なのだろう。

「でも……」

「それよりも、私からも聞きたい事があるのですがよろしいですか?」

 和歌美が何か言う前に、榊原は場の流れを自分に引き込もうとする。

「え? あの、私なんかに何を?」

「北町さんが亡くなったあの日、あなたは海端さんも含めた三人で飲んでいますね。その際の様子について詳しく教えてもらえないかと」

「詳しくって言われても……次の日が休みだったから、普通に三人で飲んだだけです。何か変わった事もありませんでした」

「本当に何もなかったんですか?」

「はい。最近の事とか色々話して……というより、探偵さんの言う変わった事って、具体的にどんな事なんですか?」

 逆に聞かれて榊原が一瞬詰まる。代わりに瑞穂が答えた。

「例えば……部屋の鍵を店に置き忘れたとか」

 瑞穂としては、もしあの鍵が実は店に忘れられていて、それを第三者が持っていたとすれば、少なくともドアの密室は破れるのではと考えたのだ。だが、和歌美の反応は意外なものだった。

「それは……絶対にないと思います」

「え? なぜですか?」

 少しありかもと思っていただけに、瑞穂は不満そうに聞き返した。が、それに対する和歌美の回答はあまりにも明確なものだった。

「だって北町さん、鍵をなくすと困るからって、カードキーの上の方に穴をあけて、そこに紐を通していつも手首にブレスレットみたいにして結び付けていましたから。なくしようがないんです」

 その言葉に反応したのは榊原だった。

「それ、本当ですか?」

「はい。聞いた話ですけど……あのマンション、カードキーをなくしたときの処理が面倒くさいんだそうです。なくしたカードキーが悪用されないようにデータから何からすべて変えて、新しいカードを作るので、かなり高いお金がかかるんだとか。しかも、二回なくすと下手をしたら部屋を出ていくように言われる事もあるらしくって。北町さん、以前一回だけカードをなくした事があって、それ以来二度となくさないようにそうしているんだそうです」

「カードキーをなくした?」

 聞き捨てならない情報だったが、和歌美は焦ったように首を振った。

「あ、もちろん新発行した際にデータを書き換えたので、前のカードではドアを開ける事はできなくなっているはずです。北町さん自身がそう言っていました」

「それほどあの鍵を大切にしていたのですか」

 和歌美からしてみれば単なる世間話なのだろうが、榊原からしてみれば大変な情報だった。

「その事をみんな知っていたのですか?」

「え? あ、はい。やっぱり手に結びつけてあって目立ちますから」

「なるほど……」

 榊原は意味深に頷いていた。

「あの……カードキーがどうかしたんですか?」

「いえ、少し気になる事がありましてね。まぁ、ちゃんとわかったらその時はお知らせしますよ」

 榊原はまたしてもはぐらかした。その態度に、和歌美も不審な表情をする。

「わかりません……探偵さんの目的は何なんですか?」

「目的、ね。そうですね……」

 しばらく考えるような仕草をした後で、榊原はこんな事を言った。

「あなた方の演じているアニメ風に言うなら、正義面をしている裏切り者の正体を暴く、という事ですかね」

 和歌美はわけがわからないと言わんばかりに当惑した表情をしていたが、瑞穂にはその言葉の意味がはっきりとわかった。それは、おそらくは奈々子の関係者にいるであろう犯人に対する宣戦布告である、と。


 結局、その後和歌美は何とか榊原から情報を得られないかと頑張っていたようだが、最後には根負けした様子でそのまま事務所を去っていった。

「声優たちも私の行動に何かあると薄々感じているようだな。だからこそ、こうして探りを入れてくる。この調子だと、明日辺りにまた別の誰かが来そうだ」

「大丈夫ですか? 向こうは演技のプロです。ちょっとやそっとじゃ内面を明かしたりしませんよ」

「まぁ、福島恵梨香にせよ、海端香穂子にせよ、今の才原和歌美にしたって、結局自分の本音は隠しきっている様子だからな。かなり厄介だよ」

 榊原は苦笑しながらそう言うと、こう続けた。

「ただし、向こうが演技のプロなら、こっちはその演技や嘘を暴くプロだ。やれるところまでやってみるさ」

「アニメという虚構の世界を作る声優と、事件という徹底した現実を暴く探偵……ある意味、究極的に真反対な存在ですね」

「だが、虚構はいつか崩れるものだ。私も負けるつもりはない」

 そう言うと、榊原は立ち上がった。

「さて、休憩と事件の再検討はこの程度でいいだろう。カードキーの新しい情報も手に入ったところで、次の捜査に行くとしようか」

「どこへ行くんですか?」

「向こうから探りを入れられるくらいなら、こっちから仕掛けてみるのもいいかもしれない。話を聞いていない残り三人の声優に当たってみよう」

「ええっと、夕凪哀、野鹿翠、三上友代の三人ですか?」

「とりあえず三人の中で一番若い三上友代にアタックをかけよう。新人だけあって、他の二人に比べてまだ言動が読みやすい可能性がある。不意打ちで行けば、思わぬ話が効けるかもしれない」

「で、でも。三上友代さんはこの中では一番被害者とのかかわりが薄いです。北町さんが死んだからこそ『ジャンヌ・ピュア』のメンバーに入ったわけですから」

 瑞穂の言葉に、榊原は素直に頷く。

「表向きはね。だが、そこを探ってみるのも一興かもしれない」

「……石渡美津子の件はどうしますか?」

「とりあえず保留にする。事件に関係があるなら、おそらくこれからの調査のどこかで関連が見つかるはずだ。それが見つからなければ、石渡美津子の件は関係なかったと考えるべきだろう」

 榊原の判断に、瑞穂は頷いた。現状、それが精一杯の判断なのだろう。

「わかりました。じゃあ、三上友代さんに会いに行きますか」

「桜森学園だったな。さっきの才原和歌美の話では、今日は補習で登校しているそうだが」

「行ってみる価値はありそうですね」

 今にも瑞穂は飛び出そうとしていたが、それに榊原が待ったをかけた。

「待ってくれ。その前に下準備をしておきたい」

「下準備?」

「確か君の友達が桜森学園に通っているという話だったね。彼女と話す前に、校内での彼女の評判を聞いておきたい。その友達から少し情報を収集できないか?」

「できない事はないですけど……」

「では、やってくれ」

 榊原の言葉は単純だった。とはいえ、瑞穂としても彼女の学校での評判は気になるところである。

「じゃあ、電話しますんで、少し待っていてください」

「あぁ。その間に、私も少し仕込みをしておく」

 榊原はデスクの椅子に腰を下ろして、自身も何やら携帯をいじり始めた。それを横目に、瑞穂も電話を掛ける。

「もしもし? あ、私。元気にしてた?」

 そんな会話から始まって、瑞穂は何やら数十分ほど話し込んでいたが、やがて聞きたい事が聞けたのか満足そうに頷く。

「うん、それじゃあ、またお正月に初詣に行こうね。じゃあね」

 ちゃっかり何か約束をしながら電話を切って、榊原の方を振り返る。榊原はすでに「仕込み」とやらを終えていたらしく、ぼんやりと本を読みながらくつろいでいた。

「人を働かせておいて、いい身分ですね」

「やる事はやったから問題はない。というより、君も後半は単なる長電話になっていたような気がするが」

「本を読みながら聞いていたんですか?」

「聞きたくなくとも自然と耳に入ってくる」

 軽くそんな掛け合いをした後で、本題に入る。

「で、どうだった?」

「はい。ちょうどその友達が同じクラスだそうなんですけど、健気な努力家でクラスでも人気のある子らしいです。部活は演劇部に所属していて、仕事のせいでほとんど稽古ができないにもかかわらず、本番では完璧な演技をするって評判らしいですね。さすがにこの歳で声優業界を駆け上っているだけあって、演技力は他の声優にも負けていませんよ」

「なるほどね」

「それと、問題の十二月五日の事についても聞いておきました。あの日はちょうど収録がなかった日らしくって朝から授業に出席。その後部活に行ったそうです。部活に行ってからの事についてはわからないみたいですけど……」

「桜森学園は練馬区だったな」

「彼女自身も練馬に住んでいるみたいですね。世田谷の現場まではかなり距離があると思います」

「まぁ、状況いかんでは行けない事もないだろうが……他には?」

「一応、私たちがこれから行くって事は本人に伝えてくれたみたいです。あとは本人の口から直接聞いてくれって」

「そいつは助かるな。いいだろう。では、今度こそ本当に行くとしようか」

「その前に、さっき先生がしていた仕込みって何なんですか?」

 瑞穂の言葉に、榊原は何気ない口調でこういった。

「なぁに、島原に少し頼み事をしただけだ。北町奈々子の経歴を調べてくれってね」

「経歴?」

「考えてみれば、私たちは彼女の事についてまだよくわかっていない。声優としての彼女の事しか知らないんだ。だから、ちょっと視点を変えて調べてみようと思ってね」

 と、不意に榊原の携帯が鳴った。

「さすがに仕事が早いな」

 そう言って、榊原は携帯の画面を眺めたが、その顔がやがて満足げなものに変わる。

「なるほど。これはおもしろい結果が出た」

 一人そう呟くと、榊原は瑞穂に呼びかけた。

「さて、三度目の正直だ。出かけるとしよう」

「はい」

 二人はそのまま事務所を出て練馬区の桜森学園へと向かった。

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