第三章 亡霊は蘇る
翌日、すなわち十二月二十二日土曜日の朝、榊原と瑞穂は再び現場マンションの前に集合していた。が、今日はいきなり部屋に行かずに、周辺の様子をつぶさに観察している。
「周辺は廃工場が多いな。これは目撃証言が取れないと思った方がいいかもしれない」
榊原はそう言いながらベランダ側の駐車場から周囲を見回している。
「先生、あれ、非常階段ですよね?」
瑞穂が入口と反対側のマンションの隅を指さす。そこには確かに非常階段があったが、残念ながら外からドアを開ける事は出来なかった。
「内側からカギがかかっているみたいだな」
「でも、逆に言えば内側からなら開けられるって事になりますよね」
瑞穂の言葉に、榊原は首を振る。
「昨日確認しておいたが、非常階段内側のドアノブにはプラスチック製のカバーがかけられていて、緊急時にはこれを割って鍵を開ける仕組みらしい。少なくとも五階のカバーは割れていなかったし、それに仕組みから見るにどうも鍵が開いた時点で一階の警備室に信号が送られるようだ。警察が特に何も言っていないという事は、つまりあの日どの階においてもこの非常口のドアは開けられていないという事になる」
「うーん、うまくいきませんねぇ」
瑞穂は唸る。だが、榊原は非常階段に興味を持ったようでしばらく観察している。
「さすがに非常階段に監視カメラはないな。まぁ、このドアそのものが不審者対策になっているから当然か。これなら……」
そのまま榊原は階段を上っていく。瑞穂も後に続くが、十階に到着した後もまだ先があるのには驚いた。
「これは?」
「屋上へ行く階段らしい」
そのまま階段を上ると、予想通り屋上に到着した。ただし、当然というべきか屋上の前には背の高い鉄格子がそびえたっている。
「だが、覚悟をすれば無理をして越えられない高さじゃないな」
榊原はそう判断した。
「つまり、非常階段を使えば警備員室に気付かれずに屋上までは来られるって事ですか?」「まぁ、そうなるな。あくまで来られるだけで中に入れないのは変わらないが」
さすがにそのまま乗り越えるわけにもいかないので、榊原たちはそのまま回れ右をして階段を降りた。そのまま今度こそ正面の入口に向かう。そこには昨日と同じ警備員がいた。
「あれ、また来たんですか?」
さすがに警備員も怪訝そうな顔をする。
「どうも、こちらも仕事ですのでね」
「はぁ、大変ですね」
「ところで、少しお聞きしたいことがあるんですが……」
榊原はそう言って警備員相手に話し始めた。
「ここの警備は、どんな体制でやっているんですか?」
「基本は二人一組で一定時刻ごとにシフト交代しながらやっています。もちろん二十四時間ですよ。あの日も私たちの組がやっていました」
奥で相方らしい若い警備員が頭を下げる。二人なら互いに互いのアリバイを証明できる。つまり、今回は「実はマンションのセキュリティを管理している警備員が犯人だった」という超展開の推理は成立しないわけだ。
「エレベーターホールに監視カメラがありましたよね?」
「ええ。あそこのモニターでこちらも二十四時間監視しています」
「北町さんが死んだあの日、北町さんが帰宅してから遺体が発見されるまでの間に五階に足を踏み入れた人間というのはいますか? もちろん、住人は別として、ですが」
だが、警備員は首を振った。
「警察にも言いましたけどね、北町さんが帰ってきた零時頃から遺体が見つかるまでの間に五階のエレベーターホールにやってきた人間はいませんよ。少なくとも、監視カメラには誰も映っていませんし、私たちも五階に誰か通したという事はありません」
「逆に出ていった人間もいないという事ですか?」
「そういう事です」
だとするなら、部屋どころから五階そのものが一種の密室だった事になる。もちろん、元々そこに住んでいる五階の住人は別として、だが。
「では、同じ時間帯の間に五階以外に入った人間、もしくは出ていった人間はいますか?」
「そりゃ、何人かはいますけどね。でも、全員五階以外の階で確かに降りているのをこちらでも確認していますし、それに時間も警察に聞いた北町さんが死んだ時刻からかなりずれていますよ」
「どのくらいですか?」
「一番近い人でも、ざっと一時間以上は……」
それでは話にならない。
「では事件当日、北町さんの死以外でこのマンションで何か普段と違うような事はありましたか? 例えばどこかの警報が鳴ったとか」
「いや、何もなかったと思いますよ。何かあったら一人がここに残って、もう一人がその場所に行く決まりになっていますけど、あの日は二人ともずっとここにいましたから」
取り付く島もない。可能性がことごとく潰されていく気分に瑞穂はなった。だが、榊原はその程度の事は想定済みとばかりにこんな事を聞いた。
「あの、北町さんってどんな方でしたか?」
「どんなって……普段からちゃんと挨拶をしてくださる方でしたね。性格もよくて、どうしてこんな事になったのか私たちも戸惑っていたくらいですよ」
「彼女はいつからここに?」
「ええっと、確か二年くらい前からだったと思います。何でも、当時熱狂的なストーカーに追われていたとか何とかで」
「ストーカー?」
その言葉に榊原が反応した。
「当時出演していたアニメの熱狂的なファンか何かだったみたいですけどね。まぁ、結局そのストーカーが何者かはわからなかったらしいんですけど、とにかくそのストーカーから逃れるためにわざわざ都心の方にあるマンションからこのマンションに引っ越してきたんです。こちらの方が、セキュリティがちゃんとしているからって」
確かに、ここのセキュリティはかなり徹底しているようだから、そういう人間からしてみれば魅力的に見えるのだろう。
「彼女の部屋が五階なのもそれが理由なんです。当時、屋上からロープで最上階の部屋に侵入する泥棒が多くいて、そういう可能性を潰したいからと」
「……念のために、屋上を見せてもらうわけにはいきませんか?」
榊原が頼むと、さすがに警備員は警戒した表情を見せた。
「いやぁ、さすがに部外者の方に見せるわけには。うちの信用問題にもなりますし」
「……そうですか」
榊原はあっさりと言葉を引っ込めると、代わりに例のカードキーを出してこう言った。
「じゃあ、今日も部屋を見せてもらいたいのですが」
「それは別に構いませんが……」
「それと、五階の方々に一応話をお聞きしたいのですが、よろしいですか?」
「よろしいですかって……まぁ、制約はしませんが、でもこの時間帯は誰も部屋にいないと思いますよ。全員仕事で出かけているはずですから」
「それでも、一応です」
「……わかりました。どうぞ」
ドアが開き、榊原たちは再びエレベーターに向かった。中に乗り込むと昨日と同じく五階のボタンを押し、しばらくすると目的の階に到着する。榊原はまずそのまま北町の部屋へと向かい、カードキーを使ってドアを開けると中に入った。昨日同様に二人とも手袋と足袋をつける。
「さて、昨日はざっと調べただけだったが、今日は本格的にここを調べる事にしようか」
「でも先生、何を調べるんですか?」
「殺人の疑いが出ている以上、密室が破れなければ話にならない。まずは密室トリックに関係しそうな何かがないかという事について調べてみよう」
そう言いながら、榊原はキッチンに置かれていた例の懸賞用ハガキを手に取った。
「それが例のハガキですか?」
「あぁ。同じものを私も昨日のうちに買っておいた」
そう言うと、榊原は持っていたアタッシュケースから一冊の文庫本を取り出し、そこから全く同じハガキを取り出した。違うのは、部屋にあったハガキにはすでに内容が書かれているという点である。本の表紙にはウェディングドレスを着た花嫁がなぜかロケットランチャーを構えている挿絵が書かれていて、そこに大きくタイトルが書かれている。
『恋のロケットランチャー』
何ともコメントしづらいタイトルの小説だった。
「あの、これは何の本だったんですか?」
「裏の紹介文を読む限り、どうも何かの恋愛小説らしい」
「こ、このタイトルで恋愛小説を名乗りますか……」
「まぁ、買ったばかりで私も詳しい内容は知らないがね。それよりも、このハガキはこの小説に関するアンケートに答えて懸賞を当てるもので、当然ながら事件当日に発売されたこの本のみに付属されている代物だ。となれば、必然的にどこかにこのハガキが付属していた本そのものがなければおかしいはずだが……瑞穂ちゃん、寝室にこの本はあったかね?」
瑞穂はしばらくその本の表紙を見ていたが、やがて小さく首を振った。
「見ていませんね。寝室の本に関しては役づくり関連のものばかりで、小説系の本がなかったのをよく覚えています。というか、それだけ特徴的なタイトルだったら、見ていたら絶対に記憶に残っていますよ」
「リビングやキッチンにもなかった。ハガキがある以上はどこかにあるはずだが……」
「犯人が持ち去った、って事ですか? 本があると自殺に見せかけられなくなるから」
「しかしそうなるとなぜハガキを残したのかが謎になる。見つからなかったと考えるべきなのかもしれないが……」
そう言いながら、榊原はアタッシュケースから別の紙を取り出した。
「それは?」
「この部屋の見取り図だ。記憶を頼りに昨日の夜に作っておいた」
瑞穂も横からその見取り図を確認する。榊原の記憶力は正確で、ほとんど間違いはない様子だった。
ドアから中に入ると廊下がまっすぐ続いていて、突き当りで右に折れている。つまり、廊下は「L」の字を右に九十度回転させた形をしているわけだ。その廊下が折れているところにリビングに続くドアがあって、キッチンにはそのリビングを通して入れる。廊下を曲がって左手にあるドアが寝室で、位置的にはリビングと隣り合っている関係だ。右側のドアは脱衣所やトイレに通じているらしい。
「へぇ、こうして見ると、この部屋って窓が二ヶ所しかないんですね」
「リビングにある問題のベランダと、寝室にある窓だな。寝室の窓はこの部屋のベランダと隣の部屋のベランダの間の隙間の場所に位置しているようだ」
「ちなみに、ベランダの鍵は開いていたとして、この寝室の窓はどうだったんですか?」
「警察の資料では、発見直後の捜査ではしっかり鍵がかかっていたようだな」
「そうですか。残念ですねぇ」
「……一応言っておくが、たとえ鍵が開いていても、リビングと違ってその外は地面まで何もない空間だ。横のベランダには壁があるし、ベランダとベランダの壁の間の幅は数メートルあるから両方の壁に手足をつけて突っ張る事も出来ない。侵入や脱出するどころか、窓から出た瞬間につかまる場所もなく真っ逆さまだぞ」
「それくらいわかっていますって」
瑞穂はふてくされたように頬を膨らませる。
「とはいえ、そうなるとこの部屋はますます密室だった事になるな」
「先生、密室って確かパターンがありませんでしたか?」
「大きく分けると二つだな。犯人が密室の中にいる場合と外にいる場合。後者はいわゆる遠隔殺人という事になる」
「でも、今回遠隔殺人はまずないんじゃないですか?」
「だろうね。少なくとも、カーテンレールに吊るして自殺の偽造工作をしているから一度は中に入っているはずだ。あれは遠隔ではまず無理だ」
「しかも、そもそも事件前後に五階に入った人間がいないっていうんだからお手上げです」
そう言いながら瑞穂はしばらく見取り図を見ていたが、不意にある一点で視線が止まった。
「先生、この部屋、玄関のすぐ横に物置があるんですね」
「らしいな。まぁ、さっき中を見たが特に変わったものはなかったよ」
だが、瑞穂はしばらくその見取り図を見続けた後、急におずおずと言った。
「あの、物凄く古典的な推理をしてもいいですか?」
「何だね?」
「例えばですよ、実は犯人がこの物置の中に隠れていたって事はないですか?」
「で、古典によくあるように、発見者が扉を開けて入った瞬間に隠れていた犯人が外へ出た、と?」
「駄目ですかね?」
「小説ではともかく現実でそこまでうまくいくとも思えないし、それに出たとしてどうするんだい? エレベーターホールにはカメラがあるし、一階に降りても警備員室の前を突破できない。ここの警備員は二人一組体制で、どんな時でも必ず一人が警備員室に残る事になっている。あの日、確かに警備員の一人はこの部屋を開けるためにここにいたが、もう一人は警備員室に残っていた。そして、カメラも警備員も、発見時の異常を察知していない。つまり、この密室は部屋を出た程度では脱出したとは言えないんだ」
「やっぱり、そんなに簡単じゃありませんよねぇ」
瑞穂はあっさりと自説を引っ込めた。
「うーん、考えれば考えるほど無理だと思うんですけどねぇ」
「問題は、ここの五階の住人に関してだな。仮に五階の誰かが関与していたとすれば、エレベーターホールに行く必要もなくなるからさっきの瑞穂ちゃんの推理も成立するかもしれないが……」
「このマンションはそれぞれの階に十二の部屋があるんですよね」
「しかも満室らしい。聞き込みは骨が折れるかもしれないな」
榊原はため息をついた。
その後、数時間を費やして榊原と瑞穂は五階の聞き込みを行った。とはいえ、警備員の言ったようにこの時間では仕事に出かけている人間が多く、いたとしてもいきなり現れた榊原という外部者に対する警戒は相当に強かった。
「で、どうでした?」
元の五〇八号室に戻って、二人はそれぞれの成果を報告していた。
「聞ける範囲は聞いたがね……どうも外れの臭いがするな」
榊原も瑞穂も、すっかり疲れ切った表情をしていた。
「まず五〇一号室はどうもどこかの政治家の密会部屋らしい。部屋そのものは取ってあるが本人がいる事はほとんどなく、事件の日も誰もいなかったようだ。当然、鍵はかかっている。その話をしていた五〇二号室の隣人はクラブのホステスで、こちらは事件の時間帯出勤中。店に電話してアリバイも確認できた。五〇三号室はこの上の階の六〇八号室に住んでいる作家さんの書庫になっているらしく、事件当夜、問題の作家はずっと六階の自室に編集者共々缶詰め状態だった。これは警備員の証言と監視カメラの映像、それに編集者の証言から間違いない。五〇四号室は本人不在だったが、五〇五号室の住人の証言から外資系のサラリーマンが住んでいる事が判明した。そして、彼は事件当日ロンドンに出張中だったそうだ。これは後で確認するが嘘とも思えない」
「その五〇五号室の住人はどうでしたか?」
「五〇五号室は個人経営のネットゲーム会社の事業所が入っていた。社員は社長含め二人だけという個人企業だが、そんなわけで普段から午後五時以降、部屋は無人になるそうだ。事件当夜も残業などはなく、したがって部屋には誰もいない。五〇六号室の住人は大学の教授で、彼は事件当日学会で大阪にいた。本人に話を聞いて確認してあるからこれもアリバイ成立。そして、現場であるこの部屋の隣、五〇七号室に住んでいるのはシナリオライターの男だが、こいつは事件当日にその部屋で大学時代の仲間数名と徹夜で麻雀をしていたそうだ。四人がそれぞれのアリバイを証明していて、こちらもアリバイ成立だ。そっちはどうだね?」
「私の方も似たようなものですね。もう一方の隣に当たる五〇九号室は週刊誌に連載中の漫画家の部屋で、事件当夜はアシスタント数名と部屋にこもって必死に徹夜で原稿を書いていたと言っていました。部屋にいた全員にアリバイを確認しましたから間違いありません。五一〇号室は親二人に子供二人の一家が住んでいましたが、事件当日は北海道へ旅行中。五一一号室は大学生四人がルームシェアをしている部屋なんですが、この四人は一晩中ゲームに夢中になっていたらしく、全員にアリバイが成立しました。私はよくわかりませんけど、狩猟ゲームなるものをやっていたようです」
「残る五一二号室は?」
「残念ですけど、ここも駄目ですね。五一一号室の住人の話だと、住んでいるのはフランス人の商社マンだそうです。何でも本国と日本を行ったり来たりしている人間で、日本にいるときはここに住んでいるんだとか。で、今は三ヶ月前からフランスにいるらしくて、部屋にはいないそうです」
そこまで聞いて、榊原はため息をつく。
「つまり、五階の住人全員にアリバイが成立しているという事か。要するに五階の誰かが犯人に協力したり、犯人が五階の他の部屋に逃げ込んだりするなどという芸当は不可能という事になるな」
「ますます密室が遠のきましたね……」
瑞穂が絶望的な表情をする。
「今の話だと事件当夜、このマンションの五階にいたのは五〇七号室の麻雀四人組、五〇九号室の漫画家たち、五一一号室の大学生五人組だけで、あとはマンションにすらいなかった事が確認されている。となると、彼らが何かを聞いていなかったかどうかが問題になるわけだが……」
「漫画家と大学生たちには話を聞きましたけど、特に何も気づく事はなかったと。先生はどうですか?」
「同じだな。五〇七号室の麻雀組も、特に何も気づかなかったそうだ。現場の隣室である五〇七号室と五〇九号室の住人なら、何か気づいてもおかしくないはずなのだが……」
榊原は考え込んでしまった。
「他の階の人にも話を聞きますか?」
「いや、エレベーターの監視カメラの件があるから、他の階の人間が五階に侵入した可能性は低い。そこをどう考えるか、だな」
そう言いながら、榊原は何気なく部屋のベランダから外の方を眺めた。
「ん?」
と、その顔が少し険しくなる。
「どうしたんですか?」
「あれだ」
榊原が指差したのはベランダ側に広がっている駐車場だった。その駐車場の一角から、こちらを見ている少年らしき人物が見えたのである。見た感じは中学生くらいだろうか。野球帽をかぶっていて素顔はよく見えないが、ジッとこの部屋を見ているのはわかる。
「あの子……」
「明らかにこの部屋を見ているな。行ってみるか」
そう言うや否や、榊原は部屋を飛び出した。瑞穂も慌てて後を追う。
「せ、先生! 待ってくださいよ!」
榊原たちはエレベーターに乗るとそのまま一階に降り、警備員室の前に到着した。
「あれ、どうしたんですか?」
「すぐ戻ります! 瑞穂ちゃん、手続き頼む」
「え、えぇっ!」
瑞穂を残し、榊原はマンションの裏手へと向かう。駐車場に到着すると、さっきの少年がマンション脇に止めてあった自転車に乗って今にも走り出そうとするところだった。
「おい、君!」
榊原が声をかけると、少年は慌てて走り出そうとする。が、榊原は咄嗟に少年の前に立ちふさがった。
「おっと、逃げる事はないだろう」
「わ、私は何も……」
少年はそう言って言い逃れしようとした。が、その声が妙に甲高い。それに一人称が「私」である。
「君は……女の子か?」
野球帽に男子っぽい恰好ではあるが、よく見ると確かに少年ではなく少女である。
「別にこんな格好をしていたっていいじゃないですか。おじさん、何ですか? 痴漢か何かですか?」
震える声で必死にそう言う少女を榊原は遮った。
「君に危害を加えるつもりはない。ただ、君の様子が気になってね。どうしてあのマンションを見ていたのかね?」
「べ、別に見てなんか。おじさんなんかに興味ないし……」
「ほう。という事は、あのマンションのあの部屋にいた私を見ていたという事だね」
榊原の指摘に、少女はしまったという表情をする。
「名乗っておこうか。私は榊原恵一。私立探偵をしている。ある依頼で、あの部屋で死んだ女性の事を調べているところだ。君の名前は?」
「……木村有希です」
少女……有希はそう名乗った。ただ、榊原をまだ胡散臭そうに見続けている。さすがに探偵という自己紹介では警戒されるのも当然かもしれない。
「先生~。どこですかぁ?」
と、ようやく瑞穂が追い付いてきた。
「ひどいですよ。私に手続きを押し付けるなんて」
「すまない。急がないと逃げられるところだったからね」
「まぁ、間に合ったんならいいですけど……って、女の子ですか?」
「あぁ。木村有希さん、というらしい」
と、その有希が今度は瑞穂の格好に興味を示した。
「あの、その制服、立山高校ですよね?」
「え、うん、そうだけど、何で知ってるの?」
「私の従姉が立山高校なので……」
「へぇ。有希ちゃん、中学生? どこの学校?」
「え、あの、宇原中学ですけど……」
この近くにある中学校の名前を告げる。どうやら、中学生という事で間違いなさそうだ。
「さて、すまないがいくつか質問させてほしい。君は、私たちがさっきまでいた部屋の事を見ていた。間違いないね?」
「……そうです」
もうごまかしても無駄と思ったのか、有希はしぶしぶそれを認めた。
「君はあの部屋が誰の部屋なのか知っていたのかい?」
「……声優の北町奈々子さん、の部屋ですよね」
「彼女が死んだ事は?」
「知っています」
有希は淡々と答える。
「……では、単刀直入に聞こうか。どうして君は北町奈々子さんの部屋を見ていたのかね?」
「それは……」
有希が口ごもる。と、瑞穂が何かに気づいたようにこう言った。
「もしかして有希ちゃん、北町さんのファンなんじゃないの?」
その言葉に、有希の肩が小さく震えた。どうやら図星らしい。
「瑞穂ちゃん、どうしてわかったんだい?」
「その自転車に積んであるリュックサック。例のアニメの派生商品です」
瑞穂がささやく。確かに、自転車の前かごに積んであるリュックサックには、『少女戦隊「ジャンヌ・ピュア」』のキャラクターが印刷してあった。
「しかし。あのアニメは小さな女の子向けと聞いたが」
「最近のアニメは年齢層が幅広いんです。このくらいなら、ファンの子がいてもおかしくないかと」
「……つまり、近所に大ファンのアニメの声優が住んでいると知って、こうして見に来るようになった、と」
榊原の言葉に、有希は恥ずかしそうに頷いた。
「あのマンション……警備が厳重だから入る事も出来なくて……それに、ここから見るだけでも充分幸せだったから……」
「そういう事か……」
この変装も周囲に自分とばれないための彼女なりの工夫なのだろう。まぁ、本音を言えば逆に目立っていると思われるのだが、とにかく彼女はいわゆる「追っかけ」という事になるらしかった。
榊原は一瞬呆れたような表情をした。が、すぐにその表情が真剣になった。
「待ってくれ。すると君は、事件前から毎日ここで彼女の部屋を見ていたという事か?」
だとするなら、何かを目撃している可能性がある。榊原は期待をこめた眼で有希を見やった。
ところが、そのとたんに有希の表所が真っ蒼になり、ガタガタ震えだした。
「わ、私……何も知りません! 何も見ていません!」
そう言って、そのまま逃げだそうとする。が、ここで手がかりを逃すわけにはいかない。瑞穂が必死に有希をなだめようとする。
「有希ちゃん、落ち着いて!」
「私、何も知らないんです! あれは夢、夢に違いないんです!」
「夢?」
榊原はその言葉に引っかかった。
「だとすると、君は何かを見ていたという事か?」
「ち、違う、私は……」
「有希ちゃん」
不意に、瑞穂が真剣な表情で有希の目を真剣に見つめた。
「私たち、北町さんの死の真相を探っているの。もしかしたら、有希ちゃんの見た事が、何か役に立つかもしれない」
「私が見た事が?」
「お願い、話してくれない? あとは、私たちが絶対に真相を見つけ出すから」
瑞穂の説得に対し、有希はまだしばらく迷っているようだったが、やがてポツリポツリと話し始めた。
「……あの日、私、両親と喧嘩しちゃって……家を飛び出していたんです」
榊原と瑞穂は顔を見合わせた。
「あの日、というのは北町さんが死んだ日の事か?」
「そうです。それで、行く当てもなくて、気が付いたらここに来ていました。時間は……夜の三時を少し過ぎた頃だったと思います」
榊原の表情が緊張に包まれる。北町奈々子の死亡推定時刻は午前二時から三時。まさに事件が起こったと思われる時間そのものである。
「それで?」
「それが……私がここに来たら……マンションのすぐ前に誰かが立っていて……」
榊原は思わず手を握りしめた。事件当夜、怪しい人物がマンションの前にいたという目撃情報である。今までにない情報だけに、その重要度は高い。
「君は、その人物の顔を見たのかね?」
「は、はい。薄暗かったけど、何とか見えました」
「その顔を今でも覚えているかね?」
覚えていれば似顔絵をかける。そう思った榊原だったが、次に有希が発した言葉は榊原の予想の斜め上を行った。
「……北町さんでした」
「……え?」
一瞬、聞き間違えかと思った。だが、次の瞬間、有希は首を振りながら絶叫するように断言したのだった。
「立っていたのは北町さんだったんです。しかも普段の表情じゃなくて、どこか青白い恨めしそうな眼をして……その目でマンションの前に立ちながら私をジッと見つめていたんです! わ、私、怖くなって喧嘩している事も忘れてそのまま帰って……朝になって北町さんが死んでいるってニュースが流れて……わ、私、幽霊を見たんです! 北町さんの幽霊を!」
あまりの事にさすがの榊原も絶句した。
密室だけでもお手上げ状態なのに、この上幽霊話とは普通ならもうどこから手を付けたらよいのかわからなくなってしまう。実際、瑞穂は何がどうなっているのかわからずパニック状態だった。だが、そこはさすがに榊原で、冷静に有希の話を検証しにかかった。
「見たのは間違いなく北町さんだと断言できるね?」
「はい。私が北町さんの顔を見間違えるはずがありません。前に一度イベントで見た事もありますし」
大ファンの彼女がそう言うなら間違いないのだろう。
「時間も間違いないね? これは重要な事なんだが」
「はい。ここに来る直前に一度腕時計をチェックしましたから。三時過ぎだったのは間違いありません」
何度も言うように、彼女の死亡推定時刻は午前二時から午前三時まで。それを過ぎていた以上、本物の彼女はこの時間帯すでに死んでいるはずだ。つまり、生きた彼女がそこに立つ事は不可能である。だが、彼女は死んだ彼女があり得ない場所に立っていたと言っているのである。
「間違いなく立っていたのかい? 座っていたとか、壁にもたれかかっていたとかじゃなくて」
「はい、少しうつむいてはいましたけど、ちゃんと背筋を伸ばして立っていました。だからこそ、私は幽霊だと思ったんです」
「その場所を正確に示せるかい?」
有希は黙ってある一ヶ所を指さした。そこは、ちょうどベランダとベランダの壁に挟まれた空間であった。しかも例の五〇八号室の真下である。
「被害者の部屋の真下に出た幽霊、か」
榊原はそう言いながらその場所へ向かって歩き出す。だが、その場所まで出向いて榊原の表情がさらに険しくなった。
「……これは」
そこには、マンションの壁に沿うように深さ三十センチほどの排水溝があったのだ。ふたがされていないので、排水溝の底に落ち葉がたまっているのがよく見える。
「ど、どういう事ですか?」
「どうもこうも……要するに、この場所では普通の人間でも立つ事は出来ない、という事だ」
「だ、だとしたら本当に幽霊……」
瑞穂の表情が青ざめる。殺人事件は平気でも、こういうオカルト話は少し苦手らしい。
「や、やっぱり、あの子の見間違えじゃないですか? 喧嘩で飛び出して心細かった時に、会いたいと思っていた北町さんの幻を見た、とか」
「私もその可能性は少し考えたがね」
そう言いながら、榊原は排水溝の底に積もった落ち葉の中から手袋をして何かを取り出した。
「こんなものがあるんじゃ、信じないわけにもいかないな」
それは、すっかり風雨でボロボロになった一冊の文庫本……被害者の自室から消えていた『恋のロケットランチャー』だったのである。
「そんな……」
「詳しくはちゃんと検査してからだが……多分、間違いなく被害者のものだろうな」
榊原はその本をビニール袋に入れる。
「つまり、事件当夜、死んだはずの彼女がこの場所に立っていたのは、間違いのない事実という事だ」
だが、瑞穂はあくまで認めたくないようだ。
「先生、死亡推定時刻が間違っていたらどうですか?」
「どういう事だね?」
「遺体は自殺として処理されたんですよね。だったら司法解剖もされませんから、遺体に何か細工がしてあってもわからないんじゃないでしょうか。推理小説だと遺体を冷やしたり温めたり、あるいは土に埋めたりして死亡推定時刻をごまかす事があるじゃないですか。つまり、あの死亡推定時刻は偽物で、ここに立っていたのは生きた北町奈々子さんだった。そう考えるのが自然だと思います」
「だが、この場所には排水溝があるぞ」
「彼女は暗い中で遠くから見たにすぎません。多少手前に立っていても、距離感はつかめないはずです」
「仮にそうだとしてもだ……その推理には最大の弱点がある。事件当夜、被害者が部屋に帰ったのを最後に遺体発見までに五階に人の出入りはなかったという事は何度も確認済みだ。当然、被害者がマンションを出たという事実もない」
「あ……」
「それに死亡推定時刻の間違いはないと思う。例えば監察医制度のない地域なら明らかに自殺と判断されれば表面観察だけで遺体が荼毘に付されてしまう事も確かにありうる。が、ここは世田谷区。東京二十三区は監察医制度の対象地区だ。この場合、明らかで他殺でないと判断されて司法解剖が行われなかった遺体でも、自殺などの変死体に関しては監察医が必ず行政解剖を行う事になっている。つまり、解剖は免れられないんだ。いずれにせよ、専門家による正式な解剖が行われている以上、死亡推定時刻を偽装するのは容易な事じゃない」
つまり、現実的な側面からも彼女の生存は否定されるのである。榊原は結論付けた。
「まぁ、本人にせよ幽霊にせよ、彼女をここに立たせるには、またしてもマンションの密室の壁が立ちふさがるわけだ。もっとも、幽霊なら壁をすり抜けた、というのもありかもしれないがな」
榊原の言葉に対し、瑞穂は何も答えなかった。本当にそうでもしない限り、有希が目撃したような事は実現できないのだから無理もない話である。
「あの、私の証言、役に立つでしょうか?」
と、すっかり蚊帳の外に置かれていた有希がおずおずと尋ねてきた。瑞穂としては事態が余計にややこしくなっただけなのだが、榊原はなぜか自信ありげにこう言った。
「役に立つよ。もしかしたら、君の証言ですべてがひっくり返るかもしれない」
そう言って小さく頷いて見せた。
「あとは、我々の仕事だ」
榊原の頭の中では、すでに何かが構築されつつあるようだった。
「……そうか、ありがとう」
その日の夕方、事務所に戻った榊原はどこかからかかってきた電話に出て何事か話していた。瑞穂はソファに座って難しそうに何かを考えている。
「先生、その電話、どこからですか?」
「科捜研だ。昔の知人に頼んで例の文庫本を調べてもらった」
「結果は?」
「文庫本から被害者・北町奈々子の指紋が検出された。あれが彼女のものである事は間違いなさそうだ」
そう言いながら、榊原も事務机の椅子に腰かける。
「脱出不可能な密室に被害者の幽霊……不可能犯罪のオンパレードですね」
「まぁ、ね」
「先生、何か考えはないんですか?」
「ない事もないが……まだ推測の段階を出ない。立証するには証拠があまりにもなさすぎるし、それに依然として犯人の正体は不明だ」
それでも何か考えられているだけましである。
「幽霊問題はとりあえず置いておく。問題は犯人の密室への侵入及び脱出方法だ。状況から考えるに、犯人は間違いなく一度は現場に入っていなければならない。でなければあの自殺偽造の工作は不可能だ」
「確かに、ロープをカーテンレールにかけたり結んだりするのはその場にいないと無理ですよね」
「だが、警備員の証言とエレベーターホールの監視カメラの映像から五階への人の出入りは被害者の帰宅後から遺体発見まで一切ない事がはっきりしていて、当日五階にいた住人も全員にアリバイが成立している。完全に手詰まりだ」
「……あの、ふと思いついたんですけど、横が駄目なら縦はどうですか?」
瑞穂が急にそんな事を言った。
「縦?」
「つまり、あのベランダの上下の部屋から侵入したとか」
「言っただろう。現場が五階である以上、屋上から侵入するのは不可能に近い。満室に近いこのマンションの住人に気づかれないなど無理だからだ。下からも同じだ。まさか梯子をかけるわけにもいかないし、そもそも五階に届くような梯子なんて消防車くらいしかないぞ」
「そうじゃなくて、その上下の部屋の住人が犯人である可能性はないんですか? これならロープか何かを使えば、誰にも気づかれる事なく侵入する事ができます」
だが、榊原は首を振った。
「現場の真上、すなわち六〇八号室の住人は例の五〇三号室を書庫代わりにしていた作家。彼は一晩中編集者と一緒にいてアリバイは完璧だ。同時に、彼らに気づかれずに六〇八号室のベランダを使う事も出来ない。まさか君もこの作家と編集者が共犯だとは言わないだろう」
「そりゃさすがに言いませんけど……」
「下の四〇八号室に誰が住んでいるのかはわからないが、こちらはさらに望みが薄い。上からなら自分のベランダの手すりにロープでも縛りつけて垂らす事で侵入する事が出来る。だが、下から上に上るとなると、まずは自分の部屋のベランダから上のベランダの手すりにロープをひっかける事から始めなければならない。これはかなり難しい作業だし、途中で被害者に気づかれる可能性も高い。百歩譲って気づかれなくても、ロープがちゃんと引っかかっているかを確認する事ができないから、危なっかしくて上る事などできないだろう。下手をすればロープが外れ、自分が真っ逆さまに墜落してあの世行になってしまう」
「そうですよねぇ……」
さすがに瑞穂も自分の推理の無謀さに気づいたようだった。
「……だが、五階以外の場所に注目しようというのはいい着眼点かもしれない。現状、私たちは五階しか調べていないからな」
「つまり、また聞き込みするんですか」
瑞穂が面倒くさそうに言う。
「そう言わない事だ。聞き込みは探偵の必須スキルだ」
「わかっていますけど……」
「ただ、問題はあの警備員が私たちを他の階に入れてくれるかどうか、だな。事件現場の五階ならともかく、何の関係もないと思われている他の階に入るのは難しいかもしれない」
今度は榊原が難しそうな表情をした。
と、その時不意に事務所のドアがノックされた。
「お客ですか?」
「聞いていないが……どうぞ」
榊原が呼び掛けると、ドアが開いて誰かが入ってきた。
「あのぉ、失礼します」
それは、先日スタジオで見た顔だった。
「あなたは……福島恵梨香さん、でしたね。マリアン役の」
「わぁ、覚えていてくれたんですかぁ」
訪問者……恵梨香はそう言って笑顔を浮かべた。
「今日はどうされたんですか? わざわざこんなところまで来てもらって……」
「他のみんなが探偵さんの捜査がどうなっているか気になるからって、私に聞いて来いって。私だって忙しいのになぁ」
そう言いながらも、恵梨香はどこか興味深そうに部屋の中をキョロキョロと見回している。
「そんなに見ても、大したものはありませんがね」
「いやぁ、今度少女探偵もののアニメの主役をやる事になったんで、その参考にならないかなぁって」
「残念ながら、現実の探偵とアニメの探偵では全然違いますよ」
そう言って苦笑しながら、榊原は恵梨香をソファに勧め、自分もその反対側のソファに腰かけた。ちなみに、ソファに座っていた瑞穂はさっさと榊原の後ろに避難している。
「さて、捜査の進捗情報を聞きたいとの事ですが、残念ながらそれほどお伝えする事はありませんね」
榊原はやんわりと切り出した。まずはこちらの手の内を隠したうえで、相手の様子を見るつもりらしい。榊原にとって、この面談も一種の勝負の場である。瑞穂もそれをわかっているので、口を挟むような事はしない。
「えー、でも奈々子のマンションを調べたりしているんですよねぇ」
「もちろん調べました。いくつか推論は成立しましたが、何分私の推測にすぎませんのでね。まだお話しする事はないという事ですよ」
「ふーん」
「もっとも、あなたが何か知っている事でもあれば別ですが」
榊原の言葉に、恵梨香はキョトンとした。
「私が?」
「正直行き詰っていましてね。少しでも情報がほしいのです。どうですか、何かありませんかね? 何でもいいんですが」
そう話を向けられて、元々話し好きそうな恵梨香はすぐに乗ってきた。
「えー、どうしよっかなぁ。そう言われると話したいこともあるんだけどなぁ」
「と言いますと?」
「うーん、言っちゃおっか。あのねぇ、奈々子ちゃんって二年くらい前にストーカー被害に遭っていたんですよぉ」
それはすでに警備員から聞いていた情報ではあったが、榊原はそんなことはおくびにも出さずに話を合わせる。
「ほう、そんな事があったんですか。しかし、スタジオを訪れたときは仕事以外に特にトラブルはなかったと聞いていましたが」
「何て言うかなぁ、もう解決した事だし、あんまり触れてほしくない事だからスタジオでもタブーになっているんです」
「解決とはどういう意味ですか?」
「だから、それまで住んでいたマンションから今の警備がちゃんとしているマンションに引っ越したんですよぉ。私が紹介したんですからぁ。それからストーカーもぱったりと止まって、奈々子ちゃん喜んでいたんですからぁ」
その言葉に榊原は引っかかった。
「待ってください。私が紹介した、というのは?」
「簡単ですよぉ。私、その時まであの部屋に住んでいたんですからぁ」
衝撃の発言に、榊原は少し厳しい表情を浮かべた。
「あの部屋は、北町さんが住むまではあなたの部屋だったんですか?」
「はい。でも、奈々子ちゃんがストーカーに悩んでいるっていうから、私が部屋を出て代わりに奈々子ちゃんに入ってもらったんです。私もそろそろ引っ越そうかなぁって思っていたから、ちょうどよかったんですよぉ」
「……あなた方二人は、声優学校時代からの友人と聞きましたが、その縁ですか?」
「そうでーす。会った時から馬が合って、一緒によく遊んだりしていました」
恵梨香は屈託なく答える。
「そのストーカーは結局誰だったんですか?」
「さぁ、わかりません。でも、引っ越した後にいなくなったって事は、引っ越し先がわからなくて諦めたんじゃないんですかねぇ」
「……そうですか」
榊原はそう言って小さく頷く。
「その二年前のストーカーに、心当たりはありますか?」
「わかりませんけど、奈々子は当時出演していたアニメのファンか何かだと思っていたみたいですよぉ。送られてくる手紙もそれ関連のものが多かったって。もちろん、全部処分したみたいですけど」
「警察には相談しなかったんですか?」
「それも検討していましたけど、引っ越した事で収まったんで結局しなかったんですよねぇ」
「……ちなみに、その二年前のアニメというのは?」
「あれぇ? 探偵さんも興味があるんですかぁ?」
恵梨香が目をキラキラさせながら聞く。
「そういうわけでは……。ただ、彼女の事はできるだけ知っておきたいので」
「えーっと、『戦国女子高生』っていうアニメですねぇ。奈々子ちゃんの出演三番目の作品です。戦国時代にタイムスリップした女子高生たちが戦国大名と協力して戦国の世を生き抜いていくっていう作品で、当時一部ではやったみたいです」
「一部ではやったって……それははやったと言わないのでは? それに、何だか『何とか自衛隊』と同じようなノリがする作品なんですが……」
「細かい事は気にしないでくださぁい」
恵梨香は笑いながら言う。
「とにかく、奈々子ちゃんはその作品のメインヒロインだったんです。私は出ていないからよくは知りませんけど」
「……わかりました。もう結構です」
榊原は小さくため息をつきながらそう言って話題を切り上げた。その顔からは「何でこんな質問をしたんだろう」と言わんばかりの疲れがにじみ出ている。
「これで役に立ちますかぁ?」
「ええ。貴重なご意見ありがとうございます。今後の参考にさせて頂きます」
どこか型通りの挨拶をする榊原に対し、恵梨香は満足そうに頷いた。
「だったらよかったでーす。それじゃ、私は帰りまーす。ではでは!」
そう言うと、恵梨香はそのまま風のように事務所から飛び出していった。後には静けさだけが残る。
「……何て言うか、嵐みたいな人でしたね」
「まぁね」
瑞穂は開けっ放しにされたドアを閉めると、榊原を振り返った。
「で、何か収穫はありましたか? 随分色々と隠していたみたいですけど」
「……もちろん」
そう言った榊原は、先程までの疲れた表情を一変させ、どこか不敵な笑みを浮かべていた。
「『戦国女子高生』か。ちょっとキャストでも調べてみるか」
「まったく、先生こそ大した役者ですね。重要な情報だったのに、よくあれだけ『聞くんじゃなかった』みたいな顔ができますよ。本当に声優にでもなったらどうですか?」
「冗談じゃないね。ま、相手から話を聞き出して、こちらの意図を相手に悟らせない事も、こういう事件調査では必要な事だ。取り調べなんかでは結構役に立ったものだよ」
榊原はしれっとそう言うと、事務机のパソコンの電源を入れて何かを調べ始める。その表情が、すぐに真剣なものに変わった。
「これは……なかなかにおもしろい結果が出たね」
そこにはこう書かれていた。
『戦国女子高生』CAST&STAFF(抜粋)
・佐藤蝶子(濃姫)……北町奈々子
・浅木音々(ねね)……海端香穂子
・小田中市子(お市)……野鹿翠
・織田信長……中木悠介
・脚本……荒切房徳
「海端さんに野鹿さんに中木さん、それに荒切監督まで……」
「今回の『少女戦隊「ジャンヌ・ピュア」と重なっているのはこの四人だけだ。もちろん、キャストが重なる事はよくあるだろうが、今回に限っては偶然、かな?」
榊原は意味深な言葉を発する。
「一応解説を読んでおくと、『戦国女子高生』は現代から戦国時代にタイムスリップした七人の女子高生が、史実に存在する姫となって戦国時代を生き抜いていくという話だ。主役は織田信長の妻である濃姫になる女子高生・佐藤蝶子。これを演じたのが北町奈々子で、相手役の織田信長を演じたのが依頼人の中木悠介だ」
「海端さんは羽柴秀吉の妻であるねねになる女子高生・浅木音々役ですか。それに浅井長政の妻であるお市になる女子高生・小田中市子役は野鹿さん。この小田中市子は準ヒロインでもあるようで、浅木音々は蝶子と市子以外に五人いるサブヒロインの一人という扱いらしいです。荒切監督はこの時は脚本家としてシリーズに関与しているみたいですね」
「夕凪哀、才原和歌美、三上友代、福島恵梨香の四人に関してはこのアニメには関与していないようだが……さて、何かあったのかな?」
そう呟くと、榊原はどこかに電話をかけた。電話は五分ほどで済み、榊原は電話を切る。
「どこにかけたんですか?」
「国民中央新聞の島原だ。この手の噂話はあいつに聞くのが一番いい」
「で?」
「やっぱりあったよ。このアニメにもそれなりの事が」
榊原は椅子にもたれかかって話し始めた。
「もめたのは主役の佐藤蝶子役だ。この主役をめぐって北町奈々子と海端香穂子が争っている。例によって野鹿翠はあっさり準ヒロインである小田中市子役に決まったが、主役がなかなか決まらなかった。で、困った監督は脚本家である荒切に意見を求めて、結果的に北町奈々子が主役抜擢。海端香穂子はサブヒロインの音々役に回されている」
「こうしてみると、翠さんって結構サブヒロインとか準ヒロインが多いですよね。経歴見てもそうですけど」
瑞穂がネットに表示された翠の出演作を見ながらコメントする。
「島原は今回の件で主役を取られて野鹿翠が北町奈々子を恨んでいたかもしれないと言っていたが、この経歴を見る限り野鹿翠は主役を張るというよりも二番手で結果を残すタイプだ。実際、今回の『少女戦隊「ジャンヌ・ピュア」』のオーディションで最初に受けていたのも脚本流出前は主役とは思われていなかったスノーホワイト役。こうなると、主役を逃したからと言って野鹿翠には動機にならないかもしれないな」
榊原は思案する。
「でも、逆に海端さんには動機が出てきましたよ」
「何か思いついたのかね?」
「問題のストーカーですけど、実はストーカーじゃなくてこの件を恨んだ海端さんの妨害工作だったって事はないでしょうか?」
瑞穂の意見に、榊原は黙って先を促した。
「確か、恵梨香さんの話だとそのストーカーは嫌がらせみたいな手紙を送っていたって事じゃないですか。これが妨害だったとしても何の不思議もないわけです。つまり、このストーカーが仮に役を取られた海端さんの仕業だとすれば、海端さんには北町さんに対してそれだけの恨みがあった事になります。その恨みが、今回の北町さんの配役をめぐる騒動で爆発した、とすれば?」
「……その推理だと気になる点がいくつかあるな」
榊原は遠慮なくそう言った。
「一つ目。問題のストーカーは彼女が引っ越した段階で終了している。だが、『戦国女子高生』の放映期間を調べてみると、彼女が引っ越したのは放映期間の中頃を過ぎた辺りだ。一方、海端がストーカーならぬ嫌がらせの犯人だった場合、同じ事務所所属の彼女は北町さんが引っ越した事実を知っているはずだな。つまり、住所がわからなかったという事はない。にもかかわらず、この時点でストーカー行為がなくなった理由は何だ?」
「それは……引っ越した後もストーカーを続けたら、引っ越しを知っている内部にその犯人がいる事がばれる恐れがあったから、とか……」
言いながらも、瑞穂も少しずつ自信がなくなっているようだった。
「また、前回と違って今回の配役は別に北町と海端がバッティングしたわけではない。その動機で殺しまでやるのは少し行き過ぎのような気もするがな」
「……ですよねぇ」
瑞穂はあっさりとそう言って引っ込んだ。
「やっぱり私はまだまだですね。すぐにそれだけ反証が出てくる先生もすごいですけど」
「いや、それだけの推理を考えられるだけでも充分だ。こういう論理的思考力は、探偵活動だけじゃなくて日常生活でも役立つものだ。訓練しておいて損はない」
「そんなものですか」
「まぁ、それはそれとして……気になるのは、声優陣が我々の捜査状況を知りたがっていたというところだ。どうやら、向こうも我々の活動に注意を払っているらしい。どういう意図があってなのかは知らないが、な」
そう言うと、榊原はパソコンの画面を軽く叩きながらこう呟いた。
「アニメの中ではいくら人が傷つこうが勧善懲悪な夢物語が展開されるのかもしれない。だが、現実の事件はそこまでメルヘンじゃない。正義も悪もなく、どこまでも無慈悲で残酷で、そして陰惨だ。そこにはハッピーエンドなどありはしない。あるのはアニメではとても表現できないような後味の悪く、重い現実だけだ」
榊原は瑞穂を見やる。
「なぁ、瑞穂ちゃん。もしこの事件が解決したとして、この事件の関係者たちは……そして、あのアニメを見て勧善懲悪のストーリーに酔っている全国の視聴者たちは、そんな重い現実を受け入れられると思うかね?」
榊原の意味深な問いに、瑞穂は何も答えられなかった。
それは、この勧善懲悪な魔女っ娘アニメの裏で起こった殺人事件の抱える、現実的な闇に対する何かを暗示しているように瑞穂には思えたのだった。
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