第三章 不可能犯罪

『至急、至急! 警視庁から各局! 警視庁から各局! 品川区内、都立立山高校校舎内において殺人事件発生の通報あり! すでに複数名の被害者が発生している模様! 火災発生の通報もあり、現場は混乱中! 周辺捜査員、及び捜査一課捜査員は至急現場に急行せよ! 繰り返す……』

 警察無線が鳴り響く。無線を鳴らしている一一〇番指令センターの担当職員も緊迫した様子だ。代々木署の捜査本部にも、この連絡は即座に届いた。

「立山高校にて殺人事件発生! 確認されているだけですでに三名の死亡者を確認!」

 報告をもたらされ、代々木署で打ち合わせをしていた特別捜査チームのメンバーは凍りついていた。

「遅かったか」

 橋本が唇を噛み締める。

「課長! すぐに現場に向かいます!」

 斎藤がすぐさま行動に移った。

「わかった」

「俺も行くぞ」

 圷ものっそりと動く。その表情は真剣だ。

「よし、この一件の捜査、正式に斎藤班の担当とする。国友班は、神崎殺しの捜査本部の延長線上として、この事件の捜査に合流する事を認める」

「了解!」

 全員が緊張した様子で返事をする。

「最初に重要参考人の横川卓治について生存の確認を。確認でき次第、すぐに事情聴取に入る。その後は死亡者の詳細をすぐに報告してくれ。それと……」

 橋本は最後にこう告げた。

「榊原に連絡を取ってくれ。事は一刻を争う。あいつの協力が不可欠だ」

 斎藤は頷くと、すぐに携帯を手に取った。


 榊原の携帯が鳴った時、彼自身は今まで話を聞いていた病院から出て、ちょうど次の目的地に向かおうとしていたところだった。電話の画面を確認し、『斎藤』と表示されているのを見て、榊原の表情が瞬時に険しくなる。

「榊原だ」

『斎藤です』

 電話口で、斎藤は単刀直入に告げた。

『やられました』

 その言葉だけで、榊原はすぐに悟った。

「立山高校か?」

『すでに三人の死者が確認されています』

「被害者はミス研の人間なのか?」

『詳しくはまだ。現場は相当混乱しています』

 榊原はしばらく黙り込んだ。

『こちらとしては、榊原さんにご助力頂きたいと考えています。正直な所、あなたの協力が不可欠だというのが我々警察の判断です』

「……わかっている」

 榊原は小さく呟いた。

「これは私の事件だ。死んだ神崎さんのためにも、放り出すわけにはいかない」

 その顔は、何か覚悟を決めているようだった。

『では、すぐに来てください』

「その前に一つ。戸上警部に代わってもらえないか?」

『なぜですか』

 榊原は真剣な表情でこう言った。

「一つ調べてほしい事がある」


 午後三時半。立山高校は緊迫した空気に包まれていた。グラウンドには消防車やパトカーが何台も進入し、事件の主舞台となった三つの部室棟は何人もの警察関係者たちがうろついている。もはや文化祭の準備どころではない。校内にいる生徒たちはすぐさま教室に押し込められ、順次取調べが行われていた。

 現状、確認されている遺体は三つ。一号館の前に頭がかち割られた男子生徒の遺体。二号館と三号館の間に胸を刺された女子生徒の遺体。さらに、三号館二階の一室に、同じく胸を刺された女子生徒の死体である。三つの現場はそれなりに離れているが、事件発生はほぼ同じ。連続殺人ではなく、前代未聞の同時多発殺人事件である。

 美術部室の火災はすでに消し止められていたが、部屋からはいまだに白い煙が噴出しており、温度も高いため今も人が立ち入れない状態だった。火災鎮火の間、一号館周辺は立ち入る事ができなかったため、一号館の前にある村林の遺体は放置されたままになっている。

 その美術部室であるが、火の手は左右の隣室にも及んでいた。結果的に美術部室は全焼し、両隣にあった吹奏楽部室と科学部室が半焼の憂き目に遭っていた。もっとも三つの部室の部員は全員文化祭準備のため事件当時校舎におり、人的被害はないようだった。無論、炎の中に消えた横川の安否は確認できていないのであるが。

 斎藤や国友たちが現場に到着したのは、まさにそんな状況の時だった。

「これはひどいな」

 現場を見て、思わず斎藤は呟いた。黒焦げになった一号館の前に手付かずの遺体が転がっている。まさにこの世のものとは思えない光景だった。消防車のうち何台かは、いまだに白い煙がくすぶる美術部室に放水を続けている。ゆえに、まだ正面の遺体には近づけない状態であり、ただでさえ消防の際の影響で遺体は水に濡れ、地面に広がっていたであろう血溜りもほとんど流されてしまっているようだった。

「この場合、現場を荒らしたと責められる状況ではないな」

 斎藤はそう呟く。と、所轄の刑事が駆け寄ってきた。

「品川署の者です」

「捜査一課の斎藤だ。こっちは同じく捜査一課の国友で、その隣が鑑識課の圷。もう一人は私の部下で、捜査一課の新庄だ」

 斎藤の紹介に、残る三人も頭を下げる。なお、戸上は榊原の要請に従い、何か調べ物をしに別行動をとっている。

「斎藤警部に国友警部、それに圷警部まで。一体どうして……」

 品川署の刑事は目を白黒させている、本庁のエース級の刑事たちが一堂に会しているという事態に、ただ事ではないという感触を持ったようだ。

「少しばかり事情がある。さっそくだが、現場に案内してくれ」

「それは構いませんが……」

 刑事は戸惑いながらも頷く。と、校門辺りにタクシーが停止した。

「来ましたね」

 国友が言う。見ると校門から見知った顔が覗いていた。スーツにアタッシュケース。いつもの格好だった。

「榊原さん!」

 斎藤が呼びかける。玄関で警官と押し問答していた榊原であるが、斎藤に気がついて手を振った。斎藤が駆け寄る。

「お待ちしていました」

「予想以上にひどい事になっているようだな」

 榊原は厳しい表情で言う。

「あの、こちらは……」

「入れてあげなさい。捜査協力者だ」

 戸惑う警官に斎藤は簡単に告げ、警官は不審がりながらも榊原を現場に入れた。

「すみませんね」

「いや、当然の反応だ」

 榊原は表情を崩さずに言う。

「三人やられたとの事だが」

「一人はミス研の村林です」

 斎藤は一号館の前に転がっている遺体を指差しながら言った。

「あと二人は?」

「まだ確認していませんが、一人はミス研の部室で死んでいるらしいので、おそらくは……」

「三人だけなのか?」

「いえ、炎上した美術部室にもう一人いたという目撃があるようです」

「となると、少なくとも四人か」

 そう話し合いながら、榊原は国友たちと合流した。

「どうも」

「わずか半日でまた再会するとは思っていませんでしたよ」

 国友はそう言うが、目は笑っていない。榊原は答えなかった。すでに視線は現場に向いている。

「色々あるでしょうが、話は後ですね。行きましょうか」

 刑事たちと榊原は二号館に向かう。その間に、斎藤が所轄の刑事に状況確認の質問していく。刑事は榊原の存在に不審がりながらも、斎藤の質問に答えていった。

「遺体が三体あるとの事だが、あとの遺体は?」

「二号館と三号館の間に一体と、ミス研部室に一体。両方女子生徒です」

「死因は?」

「二人とも胸を刺されて死んでいます」

 やがて、二号館と三号館の間の通路に差し掛かる、幅三メートルほどの通路はすでに鑑識職員で一杯になっていた。

「あれです」

 刑事の指差す方向に、驚愕の表情を浮かべて横たわる女子高生の姿があった。

「朝桐英美ですね」

 国友がその名を告げる。

「やはりミス研の人間か」

「凶器のナイフは、あの被害者のすぐそばに落ちていました」

 刑事が説明する。

「もう一人は?」

「こちらへ」

 三号館の中に入り、二階に上がっていくと、ある部屋の前に刑事たちが群がっていた。

「ここです」

 部屋の中に、窓際の机にもたれかかるような体勢で女子生徒が座り込んでいる。

「溝岸幸……」

 斎藤が唇をかみ締めるように言う。

「一気に三人か。前代未聞もいいところだ」

 圷が吐き捨てるようにコメントした。

「予想通りと言うかなんと言うか、全員ミス研の部員ですね」

 斎藤が険しい表情で言った。

「榊原さんの勘が大当たりというわけですか」

「正直、当たってほしくはなかったがな。それに、ここまで事が早く起こるとは、さすがの私にとっても予想外だ」

 榊原はそう言って、幸の遺体を見据えた。

「部員は全部で九人。三人死亡で一人生死不明。残ったのは五人」

「彼らには聞きたい事が山ほどありますよ」

 斎藤はそう言ってジッと現場を見渡した。と、その時だった。

「火が消えたぞ!」

 外から大声が聞こえた。と、同時に消防の人間が駆け込んで来る。

「美術部室の鎮火が完了しました。入っても大丈夫です」

「行きますか。美術部室にいた四人目というのも気になります」

 刑事たちと榊原は頷き合うと、一号館に向かった。途中、所轄の刑事が解説を加える。

「目撃者の話では、美術部室にいたのは横川という男子生徒のようです」

「確かですか」

「複数の人間が目撃しているので間違いないかと。この横川と言う生徒は、美術部室の窓際に飾ってあった壷を、一号館の前で死んでいる村林という生徒の頭上に落として殺害し、直後に美術部室は火に包まれています」

「つまり、村林を殺害したのは横川だと?」

「目撃証言を総合するとそうなってしまうのですが……」

 そうこうしているうちに一号館に到着する。すでに何人もの消防関係者や鑑識が中に入り、検証を始めていた。中に入ってみると、火の手が回っていない一階にもかかわらず焦げ臭い臭いが当たり一面に充満しており、さらには消火の際の水や消火剤が二階から流れ落ちて、階段付近の廊下を濡らしていた。榊原たちは、そんな階段を上って二階に上がる。階段を上って廊下に出ると、少し行った所が真っ黒に焼け焦げ、無残な姿をさらしていた。

「つい三十分前まで生徒がいた場所とは思えないな」

 榊原が呟く。そして、そのまま全員で問題の部屋に顔を出す。

「ひどいな」

 圷が冷静に言う。部屋は一面が黒こげで、ほとんどまともなものが残っていない。美術部室だけあって中にあったのは絵や油絵の具などだと推測できるのだが、そういった類のものは一切見当たらない。なんとか机や椅子の金属の骨組み部分だけがかろうじて残っているくらいだ。窓ガラスは割れ、風が部屋の中に吹き込んでいる。

 そして、そんな黒一色の部屋の部屋のほぼ中央に、何か黒い塊のようなものが転がっていた。全身の脂肪が焼け焦げ、ほとんど炭のようになってやせ細ったそれは、しかしながらどう見ても人間が焼け焦げた姿であるとしか思えなかった。

「どうですか、圷さん?」

「男だな。骨盤の形を見ればわかる」

 しかし、国友と圷は何事もなかったかのように話を進める。いくつもの残虐な事件を担当してきたここにいる刑事たちにとって、こんな死体は特別騒ぐような類のものではない。特に年がら年中死体と向き合っている圷にとっては、もはや遺体が物とあまり変わりなく思えてしまっているようだった。

「こうなると、身元の特定は難しくなるか」

「いや、どうも歯形や内臓は残っているようだし、いざとなれば骨からDNA鑑定もできるだろう。元のサンプルさえあれば、身元確認はそこまで難しくないだろうな」

 圷はそう判断する。

「榊原さん、実は横川については新しい情報が出てきたところでして」

「というと?」

「問題の神崎殺しにおいて模倣されたとされていたホームレス狩りですが、つい先程目撃者が出まして、その目撃者の証言で作られた似顔絵が横川そっくりなんです」

 榊原の表情がさらに険しくなった。

「つまり、そもそものホームレス狩りもこのミス研が絡んでいたと?」

「ホームレス狩りは半年前からです。少なくとも、横川がホームレス狩りに関与していたのは間違いないでしょう。ただし、神崎殺しとの関連は不明ですし、それに肝心のホームレス狩りも複数犯の犯行。残りの面子もわかっていません」

「で、その横川が村林を殺して自殺、か。あまりにもできすぎているようにしか思えないな」

 榊原がうなる。

「いずれにせよ、これで遺体は四人目。要するに、四人の人間がほぼ同時に死んだってわけだ」

 圷の言葉に、榊原たちは沈黙する。

「……必ず解決する。それだけだ」

 榊原が告げる。

「行きましょう。関係者たちから証言を得る必要があります」

 斎藤の言葉に、刑事たちは頷いた。

「本当の戦いはここからだ」

 榊原は、遺体を見ながら自分に言い聞かせるように告げた。


 目が覚めると、そこは保健室だった。瑞穂はベッドから起き上がるとキョロキョロと辺りを見回す。部屋には誰もいない。ただ、部屋の外は何やら騒がしく、ただ事ではない様子がこちらにも伝わってきた。

「えっと……私は……」

 瑞穂は一瞬、自分がなぜこんな場所にいるのかわからなくなったが、すぐにあの凄惨な映像が頭に浮かび上がってきた。

「あ……」

 すべてを思い出し、瑞穂は顔色を変えた。目の前で村林が殺され、その犯人と思しき横川のいた美術部室は炎上し、さらに英美の遺体が発見され、次いでミス研部室で幸の遺体を見つけ、そのまま気絶して……。

 瑞穂は思わず自分の体を抱きしめた。よく聞くと、外からパトカーや消防車のサイレンらしき音も聞こえる。あの場で気絶し、そのままここに運ばれたらしい。

「みんなは……」

 状況がわかってくると、瑞穂は他のメンバーの事が心配になってきた。今、事態がどうなっているのか、ここでは一切わからない。

 と、唐突にドアが開いた。

「深町君、大丈夫かい?」

 ドアの向こうから野川が顔を出す。それに続いて佐脇と中栗、さらに先程は現場にいなかったようだが朝子も入ってくる。

「急に倒れて心配したよ。まぁ、あの場面を見たら仕方がないかもしれないけど」

 その言葉に、瑞穂の顔が曇る。

「じゃあ、あれは現実なんですね」

「残念ながらね。村林君、朝桐君、溝岸君。三人とも殺された。横川君も生死不明だよ」

「何で……何でこんな事に……」

 後ろで中栗が呻くように言った。

「今、警察が来て現場検証が行われている。すぐに僕たちにも事情聴取があるはずだよ」

「事情聴取?」

「殺されたのは全員我が部のメンバーです。当然、警察は我が部を疑うでしょうね」

 佐脇が現実的な答えを、表情を引きつらせながら言った。

「私、その時いなかったんだけど、話を聞いた限りだと村林君を殺したのは横川君なのよね」

 朝子が平坦な声で聞く。直接死体を見ていないためか、この中では一番落ち着いているようだ。

「残念ながらその可能性が高いそうだ。横川君が美術部室から花瓶を村林君の頭上に落とすのを何人もの人間が見ている」

「信じられないわね」

 朝子は眉をひそめて言う。が、瑞穂は反論した。

「私も見ました。横川先輩が花瓶を落としたんです」

「そう……。深町さんも見ていたの」

 朝子は残念そうにうなだれる。彼女自身、どこか信じられないと言う気持ちがあったのだろう。

「村林君の件はそうだとしても、残り二人の死は紛れもない殺人事件だ。当然、誰がやったのかと言う話になるだろうね」

 部屋に重苦しい空気が支配する。

「まぁ、この中の誰か。当然、そう考える人間がいるでしょう」

 沈黙を破って朝子が言う。

「いいだろう。最初に確認しておこう。あの二人を殺したとここで自首する人間はいないか?」

 野川がそう発言したが、誰も反応しない。ただ疑心暗鬼に周りを見渡すだけだ。

「なるほど。つまり、この中に犯人がいないか、あるいは犯人である事を隠しているか。そうう事になるね。僕としては前者を望むけど」

「そ、そんな……」

 中栗が絶句する。

「落ち着いてくれ。逆に言えば、この中に犯人がいない事さえ証明できれば問題ないわけだ」

「どう言う事?」

「つまり、朝桐君と溝岸君、この二人を殺す事が物理的に無理だと証明できればいい。そこでだ、全員のアリバイが重要になってくる」

 野川はそう告げた。その姿は、一端の素人探偵そのものである。

「今回の事件、生死不明の横川君もすでにあの業火で死んでいると仮定すると、合計四人の人間が死んでいる。そして、話を総合してみると、どうもこの一連の四つの死は、連続ではなく同時多発的に発生したらしい」

「同時多発的?」

「つまり、ほとんど時間を置く事なく、ほぼ同時かつ立て続けに四人の人間が一気に死に至った。どうしてもそうなってしまうんだ」

 瑞穂は絶句した。

「そんな事って……」

「僕も現実、小説問わずに初めてお目にかかるケースだよ。二人の人間が同時に殺されたという事件なら小説でも見た事があるけど、四人となるとさすがにない。この事件、四人の人間がまったく別々の場所でまったく同じ時間帯に死亡したという極めて珍しい事例になる」

「さっき、部長と話し合ってみたのですが、総合してみると午後三時からわずか数分ですべての事件が発生したと思われます」

 佐脇が補足する。

「いいかい? 中栗君の証言によると、彼は午後二時五十五分頃に、殺された溝岸君の指示でゲーム研の部室にビデオカメラを取りに行っている。この際、もう一人の被害者でもある朝桐君もほぼ同時に部屋から出た。これは中栗君とゲーム研部員の両方が確認している。知っての通り、ゲーム研は我が部の隣だ。ビデオを返却してもらうのにかかった時間はおよそ五分。そして午後三時過ぎに火事騒ぎに気付いた中栗君が部屋に戻ると、すでに溝岸君は死んでいたそうだ。わずか五分。とんでもない早業の犯行だよ」

 野川は続ける。

「そして、朝桐君が三号館から出てくるのを二号館入口にいた佐脇君が目撃している。彼女がそのまま二号館と三号館の間の通路に入っていくのを佐脇君は見ていたそうだ。そして、その後あの火事騒ぎが起こり、三号館に避難しようとした際に二号館と三号館の間の通路で朝桐君の死体を発見。朝桐君が通路に入ってから遺体で見つかるまで、この間わずか三分程度と僕は睨んでいる。つまり、犯人は佐脇君のすぐ傍で朝桐君を殺害したという事になるのだけどね」

 野川は全員を見回した。

「総合すると、少なくとも溝岸君と朝桐君が殺されたのは午後三時前後のわずか数分に絞られる。二人を同時に殺害するとなると、まずミス研部室で溝岸君を殺害し、その後窓から飛び降りてたまたまそこを通りかかった朝桐君を殺害、逃亡したという流れになるだろう。うちの部室は二階だから、窓にぶら下がれば飛び降りられない高さでもない。となると、少なくとも溝岸君を殺害するには一度は三号館に入る必要性がある。逆に言えば、該当時刻に三号館に入っていない事さえ証明できれば、充分な不在証明になると考えられる」

 野川は論理を積み上げていく。

「そしてだ、事件当時……正確には午後二時四十五分頃から二号館入口には佐脇君が陣取っていて、三つの部室棟の入口に、その時間帯、殺された朝桐君以外に出入りがしていなかった事を確認している。つまり、事件直前になって出入口から三号館に出入りする事はできない」

「あの、一階の各部室の窓から出入りする事はできないんですか。それだったら、南側から回れば北側にある入口に姿を見せる事はないですし」

 瑞穂はふと思った事を言った。だが、野川は首を振る。

「事件の後すぐ確認して回ったけど、一階には誰もいなくて、全部室に鍵がかかっていた。この調子じゃ、窓も多分全部閉まっている。一階の部室の窓からの出入りは無理だと考えた方がいいと思う」

「かと言って二階の窓からは、出るのはともかく入るのは無理よね」

 朝子が自問自答する。野川は頷いた。

「入るとなると、はしごのようなものがいると思う。となると、事件直前に三号館に入るルートは入口しかない。だけど、入口に出入りがなかった事は佐脇君が証明している」

 という事は、と野川は結論付けた。

「犯人は、佐脇君が入口に陣取る前から三号館にいたとしか考えられない。つまり、事件当時三号館にいなかった事を証明できれば、我々の無実は確定する」

 その言葉に、中栗は真っ青になった。

「ま、待ってください。それだと、僕が一番怪しいって事に……」

「なるだろうね。残念ながら」

 野川は冷静に言った。

「君は三号館にいた。確かにゲーム研を訪れてからの君の行動は確定している。対応したゲーム研の部員の証言があるからね。その後、火事騒ぎで君はそのゲーム部員と一緒にミス研の部室に帰っているから、ゲーム研訪問以降のアリバイは完璧といえる。でも、それ以前は君の証言だけ。生き残っているのが君だけである以上、ゲーム研を訪れる以前に殺人が完了していたという可能性もあると言わざるを得ない」

 けど、と野川は中栗が反論する前にこう続ける。

「だとすると、説明のつかない事が出てきてしまうんだ」

「それは?」

「溝岸君は殺せたとして、残る朝桐君の殺害はどうなる?」

 全員考え込んでしまった。

「朝桐君を殺害するには一度窓から飛び降りる必要性がある。となると、戻るには入口を通らなければならないけど、入口が使われていないのは佐脇君が証明している」

「あ」

 中栗は呆けた表情をした。

「第一、中栗君がゲーム研を訪れる前に溝岸君を殺していたのだとすれば、朝桐君がおとなしくしているはずがない。いくらのんびりやの彼女でも、大声で助けを求めただろう。それをしていないという事は、犯行は彼女が部室を去った後、つまり中栗君がゲーム研を訪れて以降に犯行が行われた事を示している。彼女が部室を去ったのが、中栗君がゲーム研を訪れた以降の出来事である事は、中栗君とゲーム研部員の二人で確認しているから間違いない。つまり、ゲーム研訪問以降のアリバイがある中栗君に、犯行は不可能という事になる」

 中栗はホッとした表情をする。

「そして、他のメンバーは大体の所在がはっきりしている。僕と佐脇君は二号館で剣道部の紙内君の依頼により竹刀捜索をしていた。深町君は武道場で剣道部の見学。唯一はっきりしないのは、恩田君、君という事になるけど」

 指名されても、恩田は顔色を変えない。

「私はその時校舎にいたわ」

「え?」

 瑞穂は少し意外に思った。

「あのまま、西ノ森さんと文芸部室で話をしていたんじゃないんですか?」

「そうしたかったのだけども、クラスの準備があったから午後二時頃に文芸部室を出たの。西ノ森さんは一人で部室に残ったわ」

 そう言えば、一号館は火災で炎上していたはず。文芸部室にいた西ノ森美穂はどうなったのだろうか。瑞穂は一瞬そのような事を考えた。

「事件当時は?」

「クラスの用事も終わって、校舎をブラブラと。証人はいないわ」

 朝子は淡々と答える。

「火事騒ぎから十五分くらい経って、校内放送で教室に戻るように言われて、その後ミス研関係者は別室に集まるように言われたから、こうしてここにいるんだけど」

「別室?」

 そう言えば、全校生徒が教室に押し込められている中、野川たちがここにいるのはおかしな話だと瑞穂は気づいた。それに対し、野川はこう解説する。

「事件当時三つの部室棟にいた人間、及び被害者の関係者であるミス研の人間は別室に集まってより詳しい事情聴取が行われるみたいだよ。だからこそ、僕たちはここにいるわけだけど」

「瑞穂ちゃんが気になるから見に行きたいって警察の人に頼んだんだ」

 中栗がそう言う。

「とはいえ、深町君が目覚めたとなると、そろそろ本格的に事情聴取が始まるかな」

 と、まさにその時ドアがノックされた。

「はい」

 野川が代表して答える。入ってきたのはスーツを着た刑事だった。

「品川署のものです。本庁の刑事さんが聞きたい事があるそうですので、ミステリー研究会の皆さんは来て頂けますか?」

「僕たちは構いませんが……」

 野川は瑞穂の方を気にした。

「私はもう大丈夫です」

 そう言って、瑞穂はベッドから降りる。

「……なら結構です」

「では、こちらに」

 刑事の先導で、ミス研メンバーは廊下に出る。すでに廊下は制服私服問わず、数多くの警官たちで埋め尽くされている。

 その警官たちの会話が瑞穂にも聞こえてきた。ひそひそと話しているので何とも聞き取りにくいが、おおむね内容はわかる。

「しかし、警視庁のエース級の刑事が三人も来るなんて、一体どうなっているんだ……」

「噂では、橋本一課長自ら指揮を採っているとか」

「本当か」

「おまけに、上はとんでもない助っ人を派遣してきたらしい。どうもこの事件に対する上の対応が過剰だ」

「どうなっているのやら……」

 その会話に、瑞穂は何とも言えぬものを感じた。

「助っ人……ね」

 瑞穂はその「助っ人」に心当たりがあったのだが、あえてそれについて発言する事はなかった。どう言えばいいのか、ここでは発言しないほうがいいと判断したのだ。

「さ、どうぞ」

 案内されたのは、さっきまで瑞穂がいた武道場である。警察は、ここに前線本部を設置したようだ。瑞穂はもちろん、ミス研部員の表情が緊張に包まれた。


「では始めさせて頂きます。私は警視庁刑事部捜査一課第三係係長の斎藤孝二。こちらは同じく捜査一課第一係係長の国友純一郎で、もう一人は私の部下の新庄勉です」

「どうも」

 残り二人も頭を下げる。瑞穂も一通りの知識はあるつもりだが、本庁の捜査一課の警部が二人も投入されたという事態は滅多に聞いた事がない。そして、そんな事になってしまっている原因を瑞穂は昨日聞いてしまっているのである。嫌でもその事実が瑞穂を緊張させる。

 武道場にいるの刑事はそれだけだった。さっき聞いた「助っ人」らしき姿はない。さすがに、一般人は事情聴取に立ち合わせられないという事なのだろうかと瑞穂は感じた。

 一方、斎藤たちは目の前にいるミス研部員たちを改めて見定めていた。斎藤にとって瑞穂は顔見知りであるのだが、この場では初対面のように振舞うのが得策だと判断し、特にリアクションは起こしていない。これについては瑞穂も同感のようであり、特に何か反応している様子はない。

 なお、圷は鑑識や検視官に混じって引き続き現場の捜査をしている。鑑識の圷にとっての本職はあくまで鑑識活動で、事情聴取は管轄外である。

 もう一人、榊原はこの場にはいなかった。瑞穂の予想していた通り、一般人が事情聴取に参加するのはさすがにまずいという判断と、彼自身が少し調べたい事があると言ったためであった。

 武道場は稽古終わりの片づけが済んでいない段階で事件が起こったため、散らかった防具などが壁際に押しやられた状態だった。事情聴取は武道場の管理室で個別に行われる事になっており、道場そのものは控え室といった具合であった。

「早速ですが、一人一人個別に事情聴取を行っていきたいと考えています。名前を呼びますので、呼ばれた方は管理室に来てください。よろしくお願いします」

 そう言うと、斎藤は一瞬集まった生徒を見渡したが、やがてその視線がある一人で止まった。

「では、溝岸幸の遺体の第一発見者である中栗隆道君、君からお願いましょう。準備ができたら呼びますので、少し待っていてください」

「は、はい」

 中栗が返事すると、斎藤と国友は先に管理室に入っていった。新庄は道場に残っている。監視役という事なのだろう。

 ちなみに、道場にいるのはミス研の人間だけではなかった。あの時新聞部にいて村林と何か話していた女子生徒や中栗と一緒にいたゲーム研の部員、それに二号館にいた剣道部の紙内。そして、文芸部を紹介した西ノ森美穂もその場にいた。

「深町さん……」

 美穂が心配そうな表情で瑞穂を見る。

「西ノ森さん、よかった無事だったんだ」

 瑞穂はホッとした様子で言う。

「何とか逃げ出せました。急に火事になってびっくりしました」

 美穂は小さい声でそう言う。

「あの……本当なんですか? 殺人事件って……」

「……本当みたい」

 瑞穂はそう答えるにとどめておいた。

 そして、もう一人、見知った顔の人間がいる。事件直前まで瑞穂と話していた桜森学園の国松香である。なぜかいまだに道着袴のまま着替えておらず、他の人間が制服の中、異彩を放っていた。

「あの、国松さんはどうしてここに?」

「私は外部の人間ですので、とりあえずここに押し込められているだけです」

 見ると、確かに同じ桜森学園の剣道部員たちも緊張した表情で武道場にいる。

「それにしても、驚きました。こんな事件が起こるなんて」

 香はそうコメントした。

「そうですね。当事者の私自身も何が何だかわからないくらいですから」

「それが普通でしょう。殺人事件なんて、普通は遭遇するようなものではありませんから」

 驚いたと言っている割には、香はこの中の人間の中では一番といえるほど冷静だった。それは、あくまで自分はこの事件については第三者であるという認識があるという事もあるのだろうが、それ以前に元々そういう事では動じない性格なのかもしれないと瑞穂は思ったりした。

「事情聴取、か」

 瑞穂は呟く。殺人事件自体は二ヶ月前に一度経験しているが、本格的に自分が警察の事情聴取を受けるのは当然初めての経験である。

 しかし、瑞穂にとってはそれよりも気になっている事があった。さっき警察が言っていた「助っ人」……あのスーツ姿の私立探偵、榊原恵一の事である。

 瑞穂にとって、この場に姿を見せないあの私立探偵がどのような考えを持っているかの方が気にかかっていた。彼の推理力の高さ……というよりも凄まじさは、すでに二ヶ月前と昨日で経験済みである。それだけにこの場にいない事が逆に不気味である。

 何より瑞穂にミス研の内部スパイをするように頼んだのは榊原自身のはずである。そして彼は見事にミス研で事件が起こる事を言い当てた。ここまで来るとその推理力が末恐ろしくなってくる。

 あの探偵が何を考えているのか、瑞穂などがいくら考えてもわかるものではない。しかし、一つだけわかっている事があった。

 榊原は絶対にどんな事をしてもこの事件を解決しようとする。それこそすべてを賭けて。そして、この事件を起こした顔もわからぬ犯人も、全身全霊で罪を逃れようとする。

 また、二ヶ月前の対決の再現が行われようとしている。そして、その榊原の相手になるのは、ここにいる誰かなのかもしれない。

 その事実に、瑞穂はどこか薄ら寒いものすら感じていた。

「探偵さん……どうするつもりなんだろ……」

 瑞穂は思わず呟いていた。


 同時刻、武道場管理室。普段は体育教師の控え室のような場所になっている部屋であるが、現在、ここは特に事件に関係が深そうな生徒の取調室になっていた。

 部屋の中には長机が二脚並べるように置かれ、その両サイドにパイプ椅子が一脚ずつ。奥の椅子に斎藤が座り、国友は立ったまま。入口側の椅子に生徒が座る手はずだ。部屋の隅には書記係の刑事も控えている。

 斎藤は黙って手元のメモ帳を見た。そこには、これから事情聴取する人間が記されている。

「ミス研の生き残りになった野川有宏、恩田朝子、中栗隆道、佐脇倫明、深町瑞穂。殺された村林の幼馴染で新聞部員の矢島亜樹。剣道部主将の紙内智彦。ゲーム研究会部員の尾西翔也(おにししょうや)。炎上した美術部の主である美術部部長の島波春海(しまなみはるみ)。事件の瞬間、唯一一号館の二階にいた文芸部員の西ノ森美穂。合計十人。現状では、このくらいですね」

 斎藤はメモに書かれた人物の名前を読み上げる。

「ええ。他に話を聞きたい人間は個別で呼べばいいでしょう。差し当たって、この辺の人間からの聴取は必須ですね」

 国友は冷静に応じ、さらにこう続ける。

「ところで、斎藤警部。どうやらその中に知り合いがいたようですが」

 その言葉に、斎藤は目を丸くする。

「どうしてそれを?」

「いえ、態度で何となくそう思っただけです。無意識にその子に視線がいかないようにしていたので」

「参りましたね」

 斎藤は困ったように答えた。

「深町瑞穂。ミス研の一人ですね」

「……実は、彼女は二ヶ月前に、榊原さんにくっついてあの生命保険会社の事件の解決現場に居合わせたんです」

「ほう」

 国友は感心したような声を出した。

「あの榊原君が自分の推理の場に関係ない第三者を連れ込みましたか」

「私も驚いたんですが……」

「となると」

 国友はジッと考え込んだ。

「榊原君、もしかしたら彼女に対して何かを仕込んでいるかもしれませんね」

「仕込みというと?」

「内部スパイを依頼しているとか」

 斎藤は少し考え込み、やがて頷いた。

「ありえなくはありませんね」

「しかし、榊原君が自分の推理を見せたというのが気になりますね」

「あの人が事件関係者でもない人間を事件現場に連れ込むなんて、私も少し気になっています」

「とはいえ、榊原君は恋愛面に関しては相当疎かったと記憶しているのですが」

 国友は苦笑しながら言った。自分でもありえないとわかっているのだろう。

「ええ。いまだに恋愛感情を持った事がないとかどうとか。いくら親しくなっても、女性も男性も単なる友人としか見られないと聞いています」

「恋愛という感情が欠如しているとしか思えないとまで言われていましたからね。そのくせ、男女間のいざこざが絡んだ事件でも涼しい顔で解いてしまうのだからよくわからない。まぁ、そういう意味では色仕掛けで動く事が絶対にない優秀な刑事でしたが」

「では、一体?」

「榊原君の場合、こういう時は純粋に能力を認めているという事なんでしょう」

 国友はそのように表現した。

「能力?」

「簡単に言えば、彼の思考についてこられるだけの能力ですか」

 さて、と国友は表情を切り替えた。

「雑談はここまでにして、そろそろ始めましょうか」

「ええ」

 斎藤は携帯で新庄に連絡を取り、中栗を入れるように伝えた。


 中栗隆道はどこか青白い表情で部屋に入ってきた。斎藤が椅子を勧め、彼は少し緊張した様子でそこに座る。

「名前は?」

「中栗隆道です」

「学年と所属部を」

「二年生で、ミステリー研究会に入っています」

 簡単な人定質問をした後、斎藤はさっそく本題に入る事にした。

「さて、君の今日の行動を教えてほしいのですが」

「行動って言われても……」

「具体的には授業終了後、午後一時頃から事件発生までの行動です」

 そう言われて、中栗は必死に思い出す。

「ええっと、僕は授業が終わった後、すぐにミス研の部室に行きました。今日はクラスの準備の僕の担当はもう終わっていたので」

「それで?」

「部屋に行くと、もう何人か来ていました。ええっと、三年生と瑞穂ちゃん以外……つまり二年生全員ですね。最初は色々話し合っていたんですが、そのうち明日が野川先輩の誕生日だって事に気付きいて、急遽本人には秘密で誕生会をやろうじゃないかって話になったんです。ええ、発案したのは僕ですよ。去年もやったのを覚えていたので。で、僕とサッちゃん……溝岸さんと、あと英美ちゃんの三人で部屋の飾り付けをする事になりました。倫明と慎也は野川先輩が部室に来ないように、野川先輩の監視に出かけたんです」

 斎藤は情報をメモしていく。

「つまり、君は部室に残ったと」

「はい」

「その後はずっと部室に?」

「いえ、一度出ています」

 中栗は否定した。

「どこに?」

「実は、話が急に決まったでせいで足りないものが出てきて、急遽近所に買出しにいったんです」

「時刻はいつですか?」

「午後一時十五分くらいだったと思います」

「買い出し場所は?」

 中栗は近所のスーパーの名前を告げた。

「でも、なぜか知らないけど店が混んでいて買い物に手間取って、しかもクラッカーが品切れで急遽別のスーパーに買いに走りました。結局、帰ってきたのは午後二時頃です」

「その際、部室には誰が?」

「準備しているはずの英美ちゃんがいなくなっていて、代わりに瑞穂ちゃんがいました。でも、瑞穂ちゃんもすぐにクラスの準備があるとかで出て行ってしまって、その後は僕と溝岸さんの二人で」

「その後、事件発生直前まで二人きりだったわけですか?」

「いえ、午後二時半頃にふらりと英美ちゃんが戻ってきました。英美ちゃんは、どこかつかみどころのない性格で、こういう事はよくある事でしたけど」

「以降、三人で飾り付けをしていた」

「はい。それで事件の直前……つまり午後二時五十五分頃に溝岸さんがビデオカメラがないと言い始めて。普段使っていなかったから隣のゲーム研に貸していたんですけど、溝岸さんが怒って返してもらってこいって言ったんで、仕方なく僕が行きました。隣の部屋ですしね。ゲーム研をノックしたら、部員の尾西がいて、入口で話していたらミス研の部室から英美ちゃんがふらりと出て行きました。それについては尾西と一緒に見ています」

「その後は?」

「そのまま部屋に入ってビデオを返してもらったんですが、急に外が騒がしくなって、気になって急いでミス研の部室に帰りました。そしたら……」

「遺体を見つけたと」

「思わず悲鳴を上げちゃって、すぐに隣の部屋の尾西が駆けつけました」

「ゲーム研の部屋を出てから尾西君がやってくるまでの時間は?」

「それこそ十秒もないはずです。そのまま腰を抜かしていたら、野川先輩や瑞穂ちゃんたちがやってきたんです。後は、そのまま現場から締め出されて今に至っています」

「なるほどね」

 何しろ、殺された溝岸幸に位置的には一番近くにいた人間である。どうしても、質問は詳細を求めるものになる。

「被害者の溝岸幸に変わったところは?」

「えーっと……そう言えば、買出しから帰ってきた時に瑞穂ちゃんと何か話していたみたいですけど、その時どこか様子がおかしかったかなぁ」

「どちらの様子がですか?」

「両方ですよ。瑞穂ちゃんはそのまま出て行っちゃうし、溝岸さんも表面的にはいつも通りだったけど、どこか無理していた。あ、そうそう。その後すぐに、溝岸さんは一度トイレに行っています」

「一度部屋を出ていると?」

「でも、五分くらいで戻ってきました。大した事はできないはずですけど」

 中栗は控えめにそう言った。

「いいでしょう。では他の事について聞きます」

 そう告げて、斎藤は単刀直入に切り込んだ。

「今年の三月に死んだ生田徹平と言う生徒の事についてお聞きしたい」

 その言葉に、中栗の表情が変わった。

「ど、どうしてそれを……」

「ご存知ですね?」

 かぶせるように質問する。

「え、ええ」

「当然、彼の死についても」

「……現場にいましたから」

 中栗の口調が重くなった。

「その時の事を教えてください」

「教えるも何も、前日の夜まで元気そうだったのに、翌朝になったらいなくなっていて、探してみたらあの有様ですよ」

「生田徹平という生徒について何か知っていますか? どんなやつだったとか」

「その事件が今回の事件と関係あるんですか?」

「こう立て続けにミス研のメンバーが死んでいるんです。何かあると考えるのが自然でしょう」

 斎藤は容赦なく告げる。

「どんなやつって、去年の四月に僕たちと一緒に入ってきたやつで、まぁ、物静かなやつでしたよ。でも文才に関していえば、右に出る人はいなかった。あいつの書いた小説は本当に面白かったと今でも思っています」

「他には?」

「そういえば、家の事についてはあまり話したがらなかった。家だけじゃなくて、プライベートな事についても。だから、英美とは違った意味で何となくつかみどころのないやつでした」

「では、岩坂竜也、肥田涼一、神崎十三。この名前に心当たりは?」

 これに対し、中栗は戸惑ったような表情をした。

「ええっと、すみません。誰だかわからないんですが……」

「なら、結構です」

 中栗が入った時、岩坂はすでに卒業している。彼の死はミス研とは直接関係ない部分で起こっているので、知らなくても当然といえば当然だ。神崎にしても、捜査担当刑事の名前など覚えていないのが普通である。

「とりあえず、ここまでにしましょう。次は、佐脇倫明君を呼んでください」

 斎藤はそう言って中栗に対する質問を打ち切った。


「名前は?」

「佐脇倫明です」

「学年と所属は?」

「二年生。ミステリー研究会所属」

 佐脇は緊張した表情ながらも、比較的てきぱきと質問に答えていく。

「では、授業終了後から事件発生までの行動を教えて頂きましょう」

「自分は授業終了後、すぐに部室に顔を出しまして、そこでサプライズパーティーの企画の提案がありました。その後、村林君と一緒に部長が部室に来ないよう見張りにいったのです」

「部長は見つかりましたか?」

「いえ、残念ながら、見つける前に当の部長から電話がありました。何でも、剣道部の竹刀を探すのを手伝ってほしいと。部長はクラスに行ってしまい、自分たち二人はやむなく剣道部部長の紙内先輩の頼みで、二号館の二つの倉庫と剣道部室を捜索する羽目になったのです」

「いつからですか?」

「午後一時四十五分頃と記憶しています。午後二時頃に一度外に出ましたが、そこで深町君と会っています。その後は、午後二時半頃に村林君がクラスの用事が終わった野川先輩と交代し、自分も午後二時四十五分頃に再びやってきた紙内先輩と交代。その後は二号館の入口で休んでいました」

「つまり、君は事件当時二号館の入口にいたと?」

「その通りです」

「あそこからなら、すべての棟の出入りが見えますね?」

「はい」

 斎藤は目を光らせた。

「午後二時四十五分から事件発生までの間、三つの部室棟から出入りした人はいますか?」

「実は、さっき部長とも確認しあったのですが、殺された朝桐君が事件直前に三号館から出てきて発見された通路に入っていくのを見た以外は、誰も出入りしていないと断言できます」

 佐脇はきっぱり言った。

「それは本当ですか?」

「本当です」

 斎藤と国友は顔を見合わせる。

「……まぁ、いいでしょう。先に進みますが、事件発生後の行動は?」

「一号館で火事騒ぎがあったので、思わず三号館に避難しようと考え、そちらの入口に向かいました?」

「避難?」

 訝しげな表情の斎藤に対し、佐脇は少し青ざめた表情をしていた。

「実は、自分は火が苦手でして。小さい頃に花火で大火傷した事があって、それ以来トラウマなのです」

「ふむ」

「とにかくその途中で例の通路を見たら、朝桐君が血を流して倒れていたのです。自分は不覚にも悲鳴を上げてしまって、それを聞きつけてすぐに二号館にいた紙内先輩と野川先輩が駆けつけてくれました。後は、ご存知の通りです」

 続いて、斎藤は中栗と同じ質問をした。

「生田徹平について知っていますか?」

「ええ。同じ部の仲間でしたから」

 中栗と比べて、佐脇は比較的あっさりその事実を認めた。

「あなたは、生田の死には直接立ち会っていないと聞いていますが」

 これは橋本課長からの情報だ。

「はい。通っている学習塾の合宿があったものですから」

「ですが、その合宿には参加していないようですね」

 佐脇は眉をひそめる。

「どうしてそんな事までご存知なんですか?」

「質問しているのはこちらです」

「……祖母が亡くなって、忌引きしたんです」

「実家は富山県高岡市、でしたね」

「自分の事を以前から調べていたんですか?」

 佐脇の表情が険しくなった。

「富山県警からの情報です。生田徹平の死は今でも謎が多いので、向こうで調べていたようです。我々は、そこから情報をもらっただけですよ」

 斎藤はとりあえずそうごまかした。

「それならいいのですが、いずれにせよ、自分はあの一件とは無関係です」

 佐脇の答えはそっけなかった。

「生田徹平の印象は?」

「彼も成績はよかったので、その面でよく競い合っていましたよ。テストの点を見せ合ったりして。ただ、プライベートの面ではあまり付き合いはありませんでしたが」

 佐脇はそう言うにとどめた。

「岩坂竜也、肥田涼一、神崎十三。この三人の名前に聞き覚えは?」

「知りません。誰ですかそれは?」

「いえ、こっちの話です」

 中栗以上に取り付く島がない。

「いいでしょう。質問はここまでです。次は恩田朝子さんを呼んでください」


「名前は恩田朝子。三年生でミステリー研究会副部長兼文芸部部長をしています」

 斎藤が聞く前に、朝子は自分からそう自己紹介した。

「授業終了から事件までの行動を説明してください」

 斎藤が尋ねる。

「授業が終わった後、私はすぐに文芸部室に行って、読書をしていました」

「ミス研の部室ではなかったんですか?」

「やる事は終わっていましたから。やる事がない時は、私は文芸部室で本を読んでいる事が多いんです。あそこなら誰にも邪魔されませんから」

「文芸部員はいないんですか?」

「私一人です。さっきまでは」

「と言うと?」

「午後一時頃に深町さんが新入部員を連れてきたんです」

 斎藤はメモ帳を確認した。その新入部員について大体の想像はついたが、一応聞いておく。

「その子の名前は?」

「西ノ森美穂さんです。すっかり意気投合しまして、入部を認め、その後その子とずっと話していました。でも、午後二時からクラスの準備があったので、その頃に美穂さんを残して一号館を出たんです」

 そこで斎藤の表情が緊張した。

「待ってください。文芸部は一号館の二階の南端。当然、出る時には美術部室の前を通りますよね」

「ええ」

「その時、何か変わった事はありませんでしたか?」

 朝子はしばらく考えていたが、

「いいえ、誰もいなかったと思います」

 と、答えた。

「確かですか?」

「というよりも、ドアが開いていたんです」

 その言葉に、斎藤は驚いた。

「ドアが開いていた?」

「部室のドアは基本内開きですから開けっ放しでも問題ないんですけど、ただ、中から何か嫌な臭いがしてきたのを覚えています。それで見たんですけど、部屋の中には誰もいませんでした」

「他に何か?」

「いえ、窓も開けっ放しで、何か床にこぼして換気していたんじゃないかと思ったくらいですね」

 だとするなら、美術部室には誰でも入れた事になる。

「その後は?」

「クラスの準備に合流しました。でも、それも午後二時半には終わって、その後は校舎の中をブラブラ歩いていました。その時に事件が起きたんです」

「つまり、事件が起きた午後三時頃の明白なアリバイはない?」

「そうなります」

 朝子は至極あっさり認めた。

「現場には行っていないんですね?」

「ええ。基本的に騒ぎが嫌いなので。校舎の中にいたせいで、どっかの部活が何かやらかしたくらいにしか思っていなかったんです」

 曖昧ではあるが、一応筋は通っている。無条件に否定するというわけにもいかなかった。

「ところで、生田徹平という人物について何か知っていますか?」

 斎藤は急に話題を変えた。今までの対応から、朝子の尋問は一筋縄ではいかないと感じており、揺さぶる意味をこめての話題転換だった。だが、朝子は動じない。

「ええ。部内では禁句になっていたようですけど、忘れるわけにもいきませんし」

「あなたも生田が亡くなった事件に立ち会っていますね」

「確かに合宿にはいました。でも、それだけです」

「彼について何か知っていませんか?」

「さぁ。学年が違うのであまり話しませんでしたし」

「では、岩坂竜也、肥田涼一、神崎十三と言う名前に心当たりは?」

 朝子は眉をひそめた。

「最後の人は知りませんけど、岩坂先輩と肥田先輩ならミス研の歴代部長ですから、当然覚えはあります」

「岩坂竜也が死んだ事は?」

「人伝(ひとづて)には聞いています。でも、確かにショックでしたが、それがこの事件とどう関係を?」

「肥田涼一の起こした事件については?」

「野川部長が解決した事件ですから、当然知っています。当時、彼は非公式ながらも殺人事件を解決して、校内では有名人でしたし」

「その後の肥田涼一については?」

「さぁ、私にはわかりません」

 どうものらりくらりとかわされているような感覚を、斎藤は感じていた。

「あの、もうよろしいでしょうか?」

 結局、それ以上突っ込む事もできず、朝子への質問は終わった。


「野川有宏。三年生でミステリー研究会の部長です。事件までの行動を説明する、という事でよろしいでしょうか」

 次に呼ばれた野川も、朝子同様に自分から自己紹介し、なおかつ自ら進んで証言を始めた。

「よくわかっているね」

「一度警察の捜査を見た事がありますので」

 それは、昨年一月に解決したという事件での事なのだろう。頭の回転が速く、素人探偵のような事をしているというのは本当らしい。

「そうですね……午後一時以降はクラスの準備をしていました。といっても、あちこち荷物運びだなんだでウロウロしていたので明確なアリバイはありません。ただ、午後一時四十五分頃に紙内とばったり会って、竹刀探しを手伝ってくれないかと言われたので、どうせ暇にしていると思った村林君と佐脇君に電話をかけて呼び出しました。まさか、彼らが僕の誕生日のサプライズパーティーを企画しているなんて、さすがの僕も予想できませんでしたけど」

 彼の証言は端的で非常にわかりやすかった。どうやら、聞かれる事を想定してあらかじめポイントをまとめてあったらしい。

「午後二時半頃に手が空いたので、そこで二号館に行って、村林君と交代しました。二号館二階の剣道部室と二階倉庫にこもって、紙内から言われた竹刀を探していたんです。結局見つかりませんでしたけどね。後は事件まで二号館の二階から出ていません」

「証明できますか?」

「一階には常に佐脇君か紙内君がいましたから、僕が午後二時半以降に二号館を出ていないのは簡単に証明できるかと思います」

「事件時の行動は?」

「外が騒がしくなったんで、何だろうと思って剣道部室から外を見たら、隣の棟が燃えていました。で、びっくりして慌てて駆け下りたら佐脇君の悲鳴が聞こえて、一階の紙内君と合流して佐脇君の元に向かったんです」

「そして、朝桐英美の遺体を見つけた」

「はい。遠目ではありましたが、死んでいるのは一目見てわかりました。その、何と言うか以前見た事があるので……」

 野川は何とも言えない微妙な表情で言った。

「それ以前に、こちらに見えていた顔は明らかに青白くて、体の周囲は血の海になっていましたから、もう助からないと思ったんです。で、遺体には近づかずに、駆けつけてきた深町君に事情を聞こうとしました。そしたら、三号館から悲鳴が聞こえて……」

「駆けつけて、溝岸幸の遺体を発見した、と」

「ええ。直後に深町君は気絶して、とりあえず保健室に運びました。後はご存知の通りです」

 斎藤は続いて質問を重ねた。

「生田徹平という人物について知っていますか?」

「知っていますよ。というよりも、忘れられませんよ」

 その質問を受け、野川はどこか苦しそうな表情で言った。

「あの事件の真相が何なのかは残念ながら今の僕にはわかりません。でも、どうであれ僕はあの事件を防ぐ事ができなかった。一度でも探偵役を務めた人間として、それはとても悔しい事です。だから、一度たりとも忘れた事はありませんでした」

「というと?」

「実のところ、あの事件の後から一応それとなく調べてはいたんです。これでも一度は探偵役を名乗った人間ですからね。まぁ、情報が少ないのでそれほどたいした事はわかっていませんし、おかげで今もあの事件が殺人なのか自殺なのか事故死なのかすらわかりません。それが、高校生探偵の限界なんでしょうね」

 野川が自嘲気味に笑う。

「生田君について、どういう印象を持っていましたか?」

「こんな事があるなら、もっとちゃんと見ておくべきだったと思いますよ。僕の中では読書好きのおとなしい後輩というイメージしかないんです。元々学年が違うのでそれほど付き合いがあったわけでもないし、彼自身もプライベートの事は秘密にしていたようですし」

 どうも、先程から聞いていると、生田は他の部員に対し心を開く事はなかったようだ。

「岩坂竜也、肥田涼一、神崎十三。これらの名前に聞き覚えは?」

「岩坂先輩と肥田先輩は当然知っています。もっとも、肥田先輩についてはあまりいい思い出はありませんが」

 野川の表情が暗くなる。

「例の裏サイトの脅迫コメント事件ですか」

「ご存知だったんですか?」

「まぁ、一応は」

 曖昧にごまかす。

「あれは何とも後味の悪い事件でした。こう言っては何ですが、当時、僕は殺人事件を解決していささか有頂天になっていた。で、意気揚々と生徒から解決依頼を受けたはいいが、蓋を開けてみればその犯人は自分の部の部長だった、というオチでしたからね。正直、集まる情報を見ながら、嘘であってくれと何度も祈りました。ホームズの『ありえない事を排除していって、残ったものがどれだけ信じられない事でも、それが真実だ』という感じのセリフが浮かんできましたよ。おかげで、目が覚めたというか、自分の行動が恥ずかしくなって、それ以来、一度も他人からの事件解決の依頼は受けていません」

 野川はいささか真面目に言った。

「肥田さんのその後は?」

「わかりません。退学してしまって、その後僕が急遽部長になって、それで手一杯でしたから」

 野川は後悔するような口調で言った。

「岩坂竜也は?」

「先々代の部長ですね。一年生の時はとてもお世話になりました。でも、確か二年生の時に電車に轢かれて亡くなったと聞いています。身近な人間が亡くなって、かなりショックを受けたのは覚えています。人の死はどれだけ見ても慣れられませんね」

 と、野川はふと変な顔をした。

「でも、今どうしてそんな事を?」

「いえ、ただの確認です」

 野川が納得していないのは明らかだったが、そのまま話を進める。

「残る神崎十三は?」

「ええっと、どこかで聞いたような……あ、生田君が死んだ時に取調べをした刑事さんじゃないですか?」

 さすがに、リーダー格で直接警察と交渉した野川は覚えていたようだ。

「これも確認なんですが、生田君の事件について君たちのアリバイは?」

「全員ないでしょうね。彼が死んだのは深夜とされています。僕たち全員、別荘の個室でそれぞれ寝ていましたから」

 それで、斎藤は野川に対する質問をいったん打ち切った。


「さて、君には聴きたい事が山ほどある」

 斎藤の前には緊張した様子の瑞穂が座っていた。

「今さらだとは思うけど、名前と学年と所属を」

「深町瑞穂。一年生でミステリー研究会所属です」

 瑞穂は緊張しながらも、はっきりとした口調で答えた。

「二ヶ月前の湯船鞠美の事件以来となりますか。こんなところで再会するとは思っていませんでしたが」

 斎藤は首を振る。

「後ろの刑事は初めてでしたね。さっきも紹介したように警視庁捜査一課第一係係長……つまり私の同僚で、別の捜査係を率いている国友純一郎警部です」

「よろしくお願いします」

 国友は優しく挨拶した。

「では、さっそくだが……」

「その前に、一ついいですか?」

 と、突然斎藤を遮る形で瑞穂は尋ねた。

「何でしょうか?」

「探偵さん……榊原さんも来ているんですよね」

 二人は顔を見合わせた。

「確かに来ていますが、どうしてそう思うんですか?」

「さっき、刑事たちが『助っ人』と言っていたので、パッと頭に浮かびました。助っ人という事は警察関係者じゃないって事ですよね。で、警察が助けを求めそうな一般人は誰かなって思った時に、私の記憶ではあの探偵さんくらいしかいなかったんです」

「……なるほど、その直観力、榊原君が興味を持つわけですね」

 国友が何か納得したといわんばかりに言った。さらに、瑞穂はこう続ける。

「それに、昨日の様子じゃ、絶対に首を突っ込んでくると思ったんです」

「昨日?」

 斎藤は目を光らせた。

「昨日、何があったんですか?」

「えっ、知らないんですか? 聞いているとばかり」

 瑞穂の方が驚いている。

「新橋事件、黒部事件、代々木事件などについてはすでに一課長から詳しく聞いていますが、榊原さんが具体的にどのように動いているのかは我々も知らされていません。私たちは、橋本一課長の指示で動いているだけですので」

「橋本さんの?」

「ご存知ですか」

「昨日会ったんです」

 斎藤の表情が真剣さを増す。

「できれば、最初から聞かせてください。昨日、君と榊原さんの間で何があったのかを」

 瑞穂は、昨日の居酒屋での密談の一件について話した。

「なるほど、急に極秘チームが設立されたり、榊原君が昨日になって急に出頭してきたりした理由がわかりました。旧沖田班のメンバーでそんな会合をしていたんですね」

 国友が納得したように呟く。

「そして、君は榊原さんからミス研メンバーの内偵を依頼された」

「でも、心の整理がつかなくて、保留の形にする心積もりだったんです」

「でも事件が起きてしまったと」

 斎藤は唸った。

「あの、探偵さんは今どこに?」

「調べたい事があると、捜査に出ています。もちろん所轄の刑事が同行していますがね。あと、さすがに事情聴取には立ち会えないと遠慮していました」

 おおむねその辺りは瑞穂の予想通りだったのか、瑞穂は軽く頷いただけだった。

「まぁ、こちらはこちらのやるべき事をしましょうか。ひとまず、君にも事件までの動きを説明してほしいのですが」

「はい」

 瑞穂は小さく頷くと、話し始めた。

「授業の後、文芸部に入りたいという同級生がいたので、午後一時頃に友人を含めた三人で文芸部室を訪れました」

「その同級生とは西ノ森美穂さんですね?」

「はい」

「残りの一人は?」

「クラスメイトで、磯川さつきさんという子です」

「文芸部ではどうなりました?」

「恩田先輩と美穂さんが意気投合して、私たちは午後一時十五分に退散しました。さつきとはそこで別れて、私はそのままミス研の部室に向かったんです」

「部室には誰が?」

「溝岸先輩一人でした。その後、二人で愚痴りながら飾り付けをしていました」

 そこで斎藤が質問する。

「ところで、中栗君の証言だと、君と溝岸幸の間で何かあったようですが……」

 そこで、瑞穂の表情が少し変わった。

「実は、溝岸先輩が急に問い詰めてきたんです」

「問い詰めた?」

「はい。岩坂竜也の事を知っているか、と」

 その瞬間、刑事たちの表情が変わった。

「溝岸幸がそう言ったんですか?」

「はい。彼女は、岩坂竜也を知っているようでした。私の感想になってしまいますけど、彼女は岩坂竜也の死を調べていたんだと思います」

 ここへ来てとんでもない証言が飛び出してきたと、刑事たちは色めく。

「その話、本当ですか?」

「溝岸先輩が岩坂竜也を知っていたのは間違いありません」

「思わないところでつながった……」

 斎藤は感慨深げに呟いた。

「それで、どうなったんですか?」

「最初、私が岩坂の死に関係しているんじゃないかってすごい剣幕で疑われて、榊原さんに聞いたって事を匂わせたら誤解は解けたようです。でも、その後すぐに『早めにこの部から抜けろ』って忠告されて、わけがわからなくなっていたら中栗先輩が帰ってきたんです。そしたら、溝岸先輩は表向きはいつも通りに戻りました」

「その後は?」

「私は心の整理がつかなくて、クラスの準備を理由に部屋から飛び出して、三号館一階のトイレでしばらく気持ちを落ち着けていました。それから三号館を出て、二号館の前で紙内先輩や、竹刀捜索中の村林先輩、佐脇先輩と会ったんです」

 瑞穂はしっかりと証言した。

「その後は、一度クラスに戻ったんですけど、やる事がなくなってしばらく校舎をウロウロしていました。そう言えば、途中で朝桐先輩に会っています」

「何時頃ですか?」

「確か、午後二時半くらいの事だったかと。この後部室に戻るつもりだと言って、そのまま行っちゃいました。それが、私が朝桐先輩の生きている姿を見た最後です」

 瑞穂は顔を青くしながらも気丈に答える。

「その後、紙内先輩が言っていた『中体連三連覇した桜森学園の剣道部員』の話が気になって、何となく剣道部の道場に行きました。さっきの事があったので、ミス研の部室に戻るわけにはいかなかったんです」

「それで?」

「その剣道部員……国松香さんと言うんですが、彼女が実は私の幼馴染と桜森学園で同級生だとわかって、その後しばらく武道場側面のドアの辺りでおしゃべりしていました。そこからはグラウンドを挟んで一号館がよく見えます。そこで事件を目撃したんです」

「ほう、香君と話していたと」

 不意に国友がそのように言った。その口調に、瑞穂は違和感を覚えたが、とりあえず先に進む。

「つまり、君は事件を目撃したという事ですね?」

「はい。あの時、新聞部の窓の前に村林先輩がいるのを見て、おかしいなぁとは思ったんです。こう言っては何ですけど、村林先輩には不釣合いな場所だったので。そしたら、国松さんがその真上の部屋にいた横川先輩に気がついたんです」

「上の部屋という事は、美術部室ですか?」

「はい」

「その時の横川の様子は?」

「何と言うか、変に無表情で何か薄気味悪い感じがその時点からしていたんです。そしたら、横川先輩が急に窓際にあった花瓶を落として、その花瓶が村林先輩の頭に……」

 後は何も言えないようだった。

「その後は?」

「すぐに村林先輩の元に駆けつけたけど、一目見て素人目にも駄目かもしれないって直感しました。新聞部室にいた人が悲鳴を上げていたのを覚えています。でも、二階にいた横川先輩は無表情のままで、何人かが二階に行こうとしたら突然火の手が上がったんです」

「その後、君は残る二人の遺体も見つけていますね?」

「悲鳴が聞こえたんで、行ってみたら佐脇先輩が腰を抜かしていて、見てみると朝桐先輩があんな事になっていました。その後、そこにいた野川先輩に一号館の事を話そうとしたら、また悲鳴が聞こえて、ミス研部室に行ったら溝岸先輩が死んでいました。それで……私、気を失っちゃったみたいです」

「それで今に至ると」

「はい」

 斎藤はうなった。

「生田や岩坂の事については、榊原さんから聞いているという事でしたね」

「はい」

「それ以前に、その事は知らなかった?」

「まったく知りませんでした。部員の人も、誰一人話題に出した事がないです」

 こうなると、斎藤からしてみれば、それ以上聞く事はなかった。

「あの、話ついでにもう一ついいですか?」

 と、不意に瑞穂が尋ねた。

「何ですか?」

「国友警部、でしたよね。さっき国松さんの事を『香君』って言っていましたけど、国松さんをご存知なんですか?」

 国友は一瞬虚を突かれたような表情をしたが、

「……よく気がつきましたね。ええ、よく知っていますよ」

 と、あっさり認めた。

「一体、どのような関係なんですか?」

「関係といわれても……彼女は、私のかつての部下の娘さんでしてね。その方面で面識があるだけですよ」

 唐突に思わぬ事が判明した。瑞穂は少し驚いた表情をする。

「という事は、国松さんのお母さんって、刑事さんだったんですか」

「そうなりますね」

 と、そこで斎藤が何か呟いた。

「国松……そうか、国松警部補の娘さんですか」

 斎藤も何か思い当たる節があるようだ。

「もう二十年くらい前の話ですけどね。彼女の母親……国松勝子警部補は私の部下だったんです。彼女も剣道が強かった。実家が剣道場だったとかで、刑事の何人かも門下生になっていたようです。私とコンビを組んだので、『国コンビ』などと呼ばれていましたよ」

 国友は懐かしそうに言う。

「確か、国松さんのお母さんって、亡くなっているとか……」

「ええ」

 国友は短く言った。

「ある事件で、犯人に撃たれましてね。他の人をかばって、自ら銃弾の前に飛び出したんですよ。さすがの剣道の達人も、銃弾の前にはどうする事もできませんでした。香君は……当時三歳でしたか。その歳で、実家の当主と道場主の立場を継ぐ事になったわけです」

 国友は息をつく。

「しばらくは元当主だった勝子君の母親、つまり香君の祖母が道場主代理をしていましたが、すぐに亡くなられましてね。勝子君の再婚相手が剣道をできなかった事もあって、その後は彼女の門下生だった刑事たちが何とか支えていました。そんな中にいたからでしょうかね。あの子は小学校に上がってしばらくした頃にはすっかり大人びてしまって、剣道もそこそこうまくなっていた。もっとも、それが悪かったというわけではなく、同級生からは頼りがいのある人間という事で、かなり友達も多かったみたいですが。中学になって以降、その実力はあっという間に上達し、今では日本有数の女流剣士。最近では、時々警視庁の道場にも顔を見せています」

 そこで、国友はふと思い出したようにこう言い添えた。

「そう言えば、榊原君とも色々ありましたね」

「え?」

 なぜここでいきなり榊原の名前が出てくるのかわからなかった。

「榊原君が沖田班に配属される事になったきっかけをご存知ですか?」

「ええっと……」

 確か、昨日橋本が何か言っていたのを、瑞穂は思い出していた。

「確か、交番巡査の身で捜査一課が音をあげた難事件を単身で解決したからって」

「その音をあげた捜査一課の刑事が、私と勝子君……いや、私はほとんど捜査本部でバックアップをしていたので、実質的に指揮をしていた勝子君、という事になりますか」

 国友は遠い目をする。

「斎藤警部は知らないですか?」

「いえ、当時私はまだ大学生でしたから。ただ、事件の概要くらいなら何とか」

「品川区内のコンビニで万引きしていた女子高生三人が、止めに入ったアルバイト店員に脅す目的でナイフを突きつけたところ運悪く刺さって、アルバイト店員が死亡したという痛ましい事件でした。犯人三人は逃亡。事案が事案だけに即座に緊急配備が敷かれました。この場合、万引きの果ての殺人ですから、強盗殺人になるんです。強盗殺人は量刑から見れば通常殺人を超える重罪。その犯人が逃走したという事で、警視庁も躍起になりました」

 国友はそう言って瑞穂を見た。

「勝子君は大規模な捜査体制を敷いて逃亡した女子高生三人組を追いかけました。ですが、彼女たちは見つからなかった。捜査本部が苛立つ中、何の前触れもなく唐突に事件収束の報告が来ました。交番勤務の一巡査が、逃走中の三人を発見、確保したというものです」

「その巡査が、探偵さん」

 瑞穂は息を呑んだ。

「ええ。当時は警察学校を出たばかりで、品川駅南交番に勤務する制服警官でした。現場に近かった事もあって、事件直後、現場に一番早く駆けつけた警官でもあります。彼は捜査本部の方針とは違う独自の心理分析に基づいて独断行動し、見事に自分の推論で三人を確保しました。もっとも、彼の行動は組織を無視した単独行動です。下手をすれば処罰さえ待っているかもしれない行動だったにもかかわらず、榊原君は躊躇なく行動したんです。結局、この功績が買われて沖田班への抜擢が決まったのですけどね」

 改めて聞いてみると、当時から榊原の行動や推察力が並外れていた事がうかがい知れた。

「それ以降、つまり榊原君が捜査一課に移って以降になりますが、なぜか勝子君と榊原君は盟友のような関係になっています。勝子君はそれから二年ほどで殉職してしまいますが、それ以降、榊原君は自分が警視庁を辞めるまで例の道場の支援を行っています」

 と、ここへ来て瑞穂はある事に気がついた。

「待ってください、という事は……」

「さすがに察しが早いですね」

 国友はこう言った。

「榊原君と香君は昔からの顔見知りですよ。もっとも、今どんな関係なのかは知りませんが」


 同じ頃、国松香は武道場の外で捜査を続ける警察関係者たちの姿を見ていた。彼女自身は今回の事情聴取の面子には入っていないので、比較的自由に行動ができた。とはいえ、せいぜい一息入れに武道場の外に出る程度ではあったが。

「やぁ」

 と、そんな香に声をかける人間がいた。香が黙って振り返ると、そこにはスーツ姿にアタッシュケースの男がいた。

「お久しぶりですね、榊原さん」

 香は特に驚く様子もなく答えた。

「その冷静な性格は相変わらずだね。それにしても、君までここにいるとは……」

 榊原は苦々しい表情をした。

「単なる偶然です。たまたま合同稽古に来ていただけですよ」

「そうか」

「私としては、あなたがここにいる方が驚きなのですが」

 香はそう言って目を細め、榊原を睨む。

「事件の捜査だ。気にしなくていい」

「あなたのその姿勢、いつまで経っても変わりませんね」

 香はとても高校一年生には見えない、どこか達観した口調で告げた。

「あの子の事、ご存知なんですか?」

「あの子というと?」

「深町瑞穂さん、と言いましたか」

「……あぁ、一応ね。どうしてそう思う?」

「深町さんが、『探偵さん』と言うのをさっき聞きました。私の知る『探偵さん』はあなたぐらいしかいませんし、現にあなたはここにいましたから。この場にいる探偵など、あなたぐらいでしょう」

「なるほど」

 榊原は苦笑して香の脇をすり抜け、そのままどこかに行こうとした。

「言っておきますが」

 背中を向けたまま香は告げる。

「あの子をひどい目にあわせたら私が許しませんよ」

「なぜだね?」

 榊原も立ち止まり、背を向けたまま問う。道着姿の少女とスーツ姿の探偵。互いに目つきの鋭い二人が、背を向けたまま対峙している。

「あの子は私の学友の親友です。私は学友からあの子の事を頼むといわれていますので」

「ほう」

「私の学友は、最近あの子からの連絡がめっきりなくなっている事を心配していました。だから、私がここに来るとわかった時、彼女の様子を見てきてほしい、そして何か大変な事になっているなら力になってほしいと頼まれています」

 香の脳裏に、クラスのムードメーカーながら、最近瑞穂からの連絡がないため少し落ち込んでいる事が多かった少女……笠原由衣の顔が浮かぶ。

「まさか殺人事件に遭遇する事になるとは思っていませんでしたが、あなたがあの子を事件に巻き込んだというなら……」

「巻き込んだつもりはない」

 榊原はそう言った。

「むしろ、向こうから勝手に飛び込んできたくらいでね。正直、私自身戸惑っている」

「……」

 香が何も言わないのを確認して、榊原は歩き出す。

「心配しなくていい。私は絶対にこの事件を解決する。それで、これ以上あの子が苦しむ事もない。それだけだ」

 そう言うと、顔を合わせないまま榊原は離れていった。

「私もとんだお人よしですね」

 香はそう呟いて、武道場に戻っていった。


 武道場の管理室には次の生徒が入室していた。

「名前は?」

「紙内智彦です」

「学年と所属は?」

「三年で、剣道部の部長をやっています」

 紙内は剣道部だけあってきびきびとした口調で応答していた。

「今までに聞いた話を総合すると、君は竹刀の捜索を野川君たちに頼んだという事ですね」

「はい」

「詳しい事情を聞かせてください」

「授業が終わった後、昼から桜森学園の剣道部を招いた合同稽古会が開かれたんです。でも、その試合練習で俺たちボコボコに負けてしまって、顧問がカンカンになって……」

「負けたというのは?」

「あのショートカットの国松って子ですよ。中体連三連覇の」

 斎藤と国友は顔を見合わせた。

「まぁ、そんなわけで急遽顧問を元立ちにした稽古になったんですけど、その最中に顧問の竹刀が折れてしまって、部室にあるはずの代わりの竹刀を取りに行ったんです。それが午後一時四十五分くらいの事です」

「でも、なかったと」

「だいぶ長い間出していませんでしたから。部室か二つの倉庫のどこかにはあるはずだったんです。でも、俺はすぐに戻らないといけなかったし、困っていたら近くを野川が通りかかったんで、頼んでみたら部員二人を呼んでくれたんです。その後、午後二時くらいまで一緒に探して、俺は稽古があるんで道場に戻りました」

「戻った後は?」

「もう一試合したんですけど、まったく歯が立たなくて、でも顧問の竹刀がないものだから今度は部員同士のかかり稽古になりました。午後二時四十五分くらいに稽古は終わって、その後俺は竹刀捜索の手伝いをしに二号館に行きました。で、佐脇ってやつと交代して一階の倉庫を探していたら、あの騒ぎですよ」

「一号館の火事ですね?」

「ええ。何だろうと思って外に出ようとしたら、今度は佐脇の悲鳴です。で、二階から降りてきた野川と合流して行ってみたら……」

「朝桐英美の遺体を発見したと」

「はい」

 紙内は頷いた。

「その後、君は三号館からの悲鳴も聞いて、溝岸幸の遺体も見つけていますね」

「その通りです。まさか自分の通っている高校でこんな事が起こるなんて、思ってもいませんでしたけど」

 ここで斎藤は一度話題を変えた。

「話は変わりますが、君と野川君、それに横川君は同じクラスだとか」

「ええ。一年の頃から、ずっと一緒です」

「では、今日の横川君の行動について何か知っていませんか?」

 紙内は考え込んだ。

「うーん、授業が終わるまでいたのは間違いないんですけど、その後はどうだったかな。ここ数日、あいつはクラスの準備に一切出ずに、授業が終わって午後になったらどこぞに消えていましたから。ミス研の部室にいた事もあるし、学校の外にいっていた事もあったし。今日もそんな感じだったと思いますけど」

 要するに、よくわからないという事になるのだろう。

「では、岩坂竜也、肥田涼一、生田徹平という名前に覚えは?」

「えーっと、肥田涼一は知っていますけど、あとの二人はちょっと……」

 さすがに違う部活の卒業生である岩坂や、表向き転校した事になっている生田の死については紙坂も知らないようだ。とはいえ、さすがに裏サイト事件を起こして退学になった肥田涼一の名前は知っていたようだ。

「肥田涼一を知っているのは、例の裏サイト事件の一件からですか?」

「ええ。あれは、校内でもかなり騒ぎになりましたし、何より、野川のやつが解決した事件ですから。俺にとっても忘れがたい事件です。ただ、逆に言えば、知っているのはその程度なんですけど」

 つまり、一般に知られている事程度しか知らないという事だ。

「……わかりました。では、この辺で終わりましょう」

 斎藤はこれ以上の質問は意味がないと判断し、そのまま質問を打ち切った。


「島波春海。三年で、美術部の部長をやっています」

 次に尋問をする事になったのは、炎上した美術部部室の主である美術部部長であった。割合小柄な女子生徒であるが、自分の部室が事件に巻き込まれた挙句に、美術部室に保管してあった今まで作成してきた作品が全部お釈迦になった事もあり、かなり不機嫌そうな様子である。

「さっそくですが、あの美術部室についていくつか聞きたい事があります」

 斎藤の発言に対し、春海は深いため息をついた。

「まったく、何でこんな事になるんですか。文化祭用に作成した作品は展示用の教室にあったから難を逃れましたけど、他の作品は全滅です。コンクールで賞をとった作品だってあったんですよ。どうしてくれるんですかぁ」

 ほとんど愚痴に近い発言である。斎藤は軽く咳払いした。

「えっと、今は質問に答えてもらえませんか?」

「……わかっていますよ」

 春海はふてくされたように答えた。

「まず、あの部屋に出入りする事は簡単でしょうか?」

「簡単に出入りできると思います。だって、ドアの鍵が壊れていましたから」

 その言葉に、斎藤は眉をひそめた。

「鍵が壊れていた?」

「はい。一ヶ月くらい前だったかな、何でか知らないけど急に鍵が閉まらなくなってしまって、結局まだ修理できていなかったんです。まぁ、金目のものはなかったんで、特に注意はしていなかったんですけど」

 つまり、あの部屋には誰でも勝手に立ち入る事ができたと言うわけだ。

「午後二時頃、あの部屋の前を通り過ぎた人が、ドアや窓が開きっぱなしになっていて、変な臭いがしていたと証言していますが、これに心当たりは?」

「心当たりも何も、それは私たちがやったんです」

 春海は特に考える事なく告げた。

「どういう事ですか?」

「実は、何の拍子か知りませんけど、立体作品なんかに使う揮発性の接着剤が床にこぼれてしまいまして、敷いてあったカーペットなんかに染み込んでしまったんです。で、乾くまではあの部屋に入るのは危ないって事になって、換気のために窓とドアを開けっ放しにした上で、部員全員が文化祭展示のために借りている校舎の教室に移動していました」

 斎藤は表情を険しくした。

「その接着剤は、誰かがこぼしたんですか?」

「それが、授業が終わって最初に来た部員がこぼれているのを見つけたんです。多分、前日に出た後に、接着剤が入っていたビンの置き場所が悪かったか何かで床に落ちたんだとは思いますけど」

 春海は疑問に思っていないようだが、斎藤や国友からしてみれば、あまりに作為めいた出来事だった。

「では、あの火事の要因について何かわかる事はありますか?」

「さぁ、何しろ、あの部屋は可燃物で一杯ですから。そもそも作品の大半が油絵ですし、その油絵を描くために使う油絵の具は乾性油。油絵の具を溶かすための溶液に至っては、工業用のガソリンです。さっき言っていた揮発性の接着剤だって火をつけようと思えばつけられますし、それ以前にただでさえ紙とか木材とかも多い。要するに火事が起これば、何もしなかった場合一瞬で火事になるような部屋なんです」

 確かにそう聞くと、美術系の部屋ほど火事に適した部屋はないと思われる。

「でも、だからこそちゃんと対策はしていました。普通は廊下においてある消火器が美術部室には特別に設置されていましたし、天井のスプリンクラーや火災報知機の数も他の部屋より多かったはずです」

「スプリンクラーと火災報知機?」

 確かに、こうのような公共施設には設置されていてしかるべきものだ。だが、あの火の勢いでは、とてもスプリンクラーが作動していたとは思えない。それに、室内には消火器らしきものも見当たらなかった。いくらなんでも消火器が全焼してしまったという事はないはずだ。

「参考までに、あなたの事件までの行動を聞かせてください」

「ずっと校舎の展示教室で作業していました。他はともかく、うちはかなり切羽詰っているんです。部員全員が証人ですよ」

 春海はそう言った。


「尾西翔也。二年生。ゲーム研所属」

 ゲーム研究会の尾西翔也は、ボソボソと聞き取りにくい声で発言した。淵が太くて度の強い眼鏡に小太りの体。典型的なオタクといった風貌である。

「君は事件のあったゲーム研究会の部室にいた。間違いありませんね?」

「はい。文化祭用のゲームの制作は終わっていて他の連中は来ていなかったんですけど、僕はもう少しプログラムをいじりたい部分があって部室に来ていました」

「何時頃から?」

「授業が終わってからすぐです。そのままずっとあの部屋にいました」

 尾西はそう言ってキョロキョロ辺りを見渡した。かなり緊張しているようである。

「では、事件の事について聞きます。ミステリー研究会の中栗君が君の部室を訪れましたね?」

「はい」

「時間はわかりますか?」

「時計は見ていませんけど、死体を見つける少し前、多分五分くらい前だったかと思います」

 尾西はそう答えた。

「用件は?」

「先日ミス研から借りたビデオカメラを返却してほしいとの事でした。ちょうどいつ返しに行こうかって話が出ていたところだったので、ホッとしたのを覚えています」

 尾西はそう表現する。

「そのまま中に入ったんですか?」

 斎藤はあえてそう尋ねた。中栗の証言と一致するか確認するためである。

「いいえ、しばらく部室の入口で話していました」

「その間に、何かありませんでしたか?」

「何かって……ああ、隣の部屋から何かのんきそうな顔をした女子が出てきて、そのまま階段の方へ歩いていきましたけど」

 中栗の証言とも一致している。おそらく、それは朝桐だろう。

「その後は?」

「中栗君には中に入ってもらって、すぐにビデオカメラを渡しました。そのまま少し話していたんですけど、急に外が騒がしくなって……」

 おそらく、それが事件の起きた瞬間だろう。

「それからどうしました?」

「中栗君はすぐに部室に戻りました。僕も窓を開けて外を見ようとしたんですけど、そしたら隣から悲鳴が聞こえて……」

「慌てて飛び出したと」

「はい。ミス研の入口で中栗君が腰を抜かしていて、中を見たら、その、血を流した死体が……」

 そしてその後、野川たちが駆けつけたという事なのだろう。

「何か不審な事はありませんでしたか?」

「不審な事?」

「何でもいいのですが」

 尾西は少し考えていたが、

「いえ、別に何も。隣といっても、壁が厚いから話し声なんかも聞こえてきませんし」

「そうですか……」

 結局、彼から得られた証言はこれだけだった。


「西ノ森美穂。一年生で……一応、文芸部員です」

 次に尋問を受けた美穂は、蚊の鳴くようなか細い声で身元を述べた。

「緊張しなくても大丈夫です。少し聞きたい事と確認したい事ありますので、可能な限り答えてください」

「は、はい」

 美穂はまだ緊張した様子ながらも、小さく頷いた。

「では、今『一応、文芸部員』という表現を使いましたが、どういう意味でしょうか?」

「あの、入部したのが今日だったんです。それまで、私、文芸部の存在を知らなくって……」

 美穂は相変わらず小さな声でそう答えた。

「入部のきっかけは?」

「深町さんと磯川さんが紹介してくれたんです。深町さんと文芸部部長の恩田先輩が顔見知りだったとかで」

 そういえば、恩田は文芸部の部長も兼任していたなと、斎藤は改めて確認した。

「文芸部を訪れたのは?」

「午後一時頃だったと思います。その後、恩田先輩と意気投合して、入部を認めてもらいました。十五分くらいして深町さんと磯川さんは出て行きましたけど、その後も二人で色々話していたんです」

「クラスの準備とかは?」

「……私、クラスにはあまり友達がいませんし、副委員長ですけど、あまり必要にされていませんから……」

 美穂は恥ずかしそうに言った。

「でも、午後二時になって恩田先輩がクラスの準備に出かけたので、その後は私が一人であの部屋で本を読んでいました」

「事件が起こるまでずっとあの部屋に?」

「はい」

 斎藤は少し考えた後、学校側からもらったあの部室棟の見取り図を広げた。

「あの部室棟は南北に伸びていて、北側が入口になっています。部屋は一階につき九部屋で、うち一番階段側、つまり最も北側の部屋はすべて倉庫になっています。美術部室は一号館二階の北側、つまり階段側から数えて五部屋目。文芸部室は二階の一番南端、つまり九部屋目です。美術部室が炎上していた場合、脱出できないのでは?」

 美穂は頷いた。

「この見取り図にはないんですけど、南端に一応非常階段はあるんです」

 斎藤は納得した。確かに建築基準法的に非常口がないのはおかしい。ましてここは学校の施設だ。

「でも、この非常階段、最近になって閉鎖されたんです」

「閉鎖?」

「この非常口は建物ができた後から金属製の階段を設置したものなんですけど、老朽化が進んであちこちにがたがきていて、錆とかで今にも底が抜けそうな状態だったんです。実際最近になって、遊び半分でこの階段を上った生徒が、錆びていた部分に足をかけた瞬間にそこが破損して、そのまま転落して怪我をしたという事故があったらしくて。なので、一ヶ月前くらいからこの非常階段は危険という事で緊急閉鎖されていて、もうすぐ取り替え作業が行われる事になっていました。ホームルームの時に文書で通達されていたので覚えています」

「今、この非常階段は?」

「非常階段に出るドアが南端の壁にあるんですけど、そのドアノブに何重にも鎖が巻きつけられて、南京錠がつけられています」

 つまり、この非常階段は外からはおろか、内側からも開閉不可能という事になってしまう。

「では、あなたはどうやって脱出を?」

「火が出ているのがわかって、私、パニックになったんです。北の階段には火のせいで行く事ができなくって、だからすぐに非常階段に向かったんですけど、さっきも言ったように南京錠がかかっていて……」

「どうしたんですか?」

「悪いとは思いましたけど、文芸部室の隣が演劇部の部室で、そこに置いてあった金槌で南京錠を壊して非常階段に出ました。今考えたら階段が壊れる危険があったけど、そんな事考える余裕もなかったです」

「演劇部室は鍵が開いていた?」

「はい」

 斎藤は別の質問をした。

「あなたは、午後一時から午後三時、つまり事件発生までの間にあの一号館の二階にいた唯一の証人となっています。事件発生までの間に、何か変わった事はありませんでしたか?」

 美穂はしばらく考えていたが、

「そういえば……」

 と、ふと何かを思い出したような声を上げた。

「何かあったんですか?」

「いえ、そういえば、恩田先輩が出て行った後に、何か物音が聞こえたような気がするんです。確かな事は言えませんけど」

「何時頃ですか?」

「恩田先輩が出て行った直後だったので、午後二時十五分くらいだったと思いますが……」

「物音だったんですね?」

「はっきりしません。話し声だったのかもしれないし。でも、何か音がしたのは間違いないです」

 午後二時十五分と言う事は事件の四十五分前である。その頃に、何かあったのだろうか。斎藤の疑問がまた一つ増えた格好になった。


 最後の証人となったのは、目の前で幼馴染を殺された新聞部員だった。

「矢島亜樹。新聞部の二年です……」

 亜樹は疲れたような表情で座っていた。目には涙の跡が残り、完全に放心している。事実、事件直後、目の前で知り合いが頭をかち割られて死んだという事実が彼女を半狂乱にし、すぐ上が火事になっているのかかわらず呆然として逃げようとせず、避難中の隣室の生徒たちが強引に引っ張り出したと聞いている。

「落ち着きましたか?」

「はい……申し訳ありません……」

 まだどこか浮ついた感じではあったが、何とか質問はできるまでに回復はしているようだ。

「では、手短にいきましょう。今日の授業直後から事件発生までの流れを」

「私は編集担当なので、新聞部の部室で記事の編集をずっとしていました」

「一度も部屋を出た事はない?」

「いえ、午後一時半頃に一度だけ一号館一階の倉庫に。報告されていたA4用紙の束の数が帳簿と合わなくて、倉庫に在庫数を確認しに行ったんです。多分、部員の誰かが勝手に使ったんだと思います」

「それ以外は、ずっと部屋にいた」

「はい」

 斎藤は本題に入った。

「ところで、あなたは被害者の村林慎也とどんな話をしていたんですか?」

 亜樹は口をつぐんだ。

「……話さなくてはいけませんか?」

「話して頂きたいのですが」

 だが、亜樹は話すのを渋る。

「……では、一つ予想を立てましょう。もしかして、その内容というのはミス研に関するものだったのでは?」

 その言葉に、亜樹は肩を震わせた。当たりのようだ。

「どうしてそれを……」

「実のところ、ミス研については警察も少しマークをしている段階でしたので」

 斎藤はある程度ぼかして答えた。

「そうだったんですか。警察も……」

 亜樹は少し顔を俯けていたが、急に涙ぐんでこう発言した。

「だから、あれだけ気をつけてって言ったのに」

「何かあったんですね」

 斎藤は尋ねると、亜樹は頷いた。

「……一週間くらい前の事でした。慎也が、急に私を訪ねてきたんです」

「新聞部室にですか?」

「元々、慎也は幼馴染のよしみで、普段からよくネタを提供してくれていました。ただ、部室に入るわけには行かないって事で、普段からあの窓越しに会話をしていたんです」

 つまり、彼が窓の外に来る事はある程度予測が立てられたというわけだ。

「でも、あの日は何か様子がおかしかったんです。何か思いつめた様子でやって来たかと思うと、『少しやばい話になるけど、聞く気はあるか』みたいな事を言い始めたんです」

 斎藤は黙って先を促した。

「普段と違って真剣だったので、私も少し戸惑ったんですけど、彼は『確証をつかんでから話したい。一週間後に、ちゃんと話す』って。あんな慎也の表情、初めて見ました」

「ミス研の話だという事は?」

「その時に聞きました。『ずっと黙っていたけど、もう黙っているのが疲れた』って、慎也らしからぬ事を言っていたのが印象的で……」

 どうやら、村林はミス研が抱えている裏の何かを知っていたようである。それを新聞部に話そうとしていたところを殺された。

「口封じか」

 斎藤は秋に聞こえないようにポツリと言った。彼が殺されるとすれば、それ以外に動機はない。

「事件直前、つまり死の直前に、彼は何か話していませんでしたか?」

「慎也はあの段階になってもまだ迷っているようでした。ただ『ミス研は表向き仲良し同好会だけど、裏では警察も真っ青になるほどひどい状態になっているかもしれない』って言っていました」

「具体的には?」

「何か犯罪めいた事をやっている人、その人を探っている人、いろんな思惑が入り組んで、いつ爆発してもおかしくないって」

 そこで、亜樹はまた涙ぐんだ。

「でも、その具体的な事を聞こうとした時に、突然慎也の頭に何かが落ちてきて、それで……」

 その時点で、亜樹は再び泣き出してしまい、質問を打ち切らざるを得なくなった。


「どう思いますか?」

 すべての尋問が終了し、斎藤は国友に尋ねた。

「少なくとも、溝岸は岩坂に対する何かを調べていて、村林はミス研の裏を新聞部に告発しようとしていました。横川に至ってはホームレス狩りの主犯格と見られています」

「三者三様に事件に巻き込まれる動機があります。ですが……」

「朝桐に関しては何も出ませんでしたね」

 国友が不思議そうな表情で言う。

「単に表に出ていないだけなのか、それとも本当に何も関係がないのか」

「はてさて、どうなっているのか」

 と、ドアがノックされ、誰かが入ってきた。見ると、圷が鑑識用具を抱えて立っている。

「一応、一号館について調べるところは調べた」

 圷はそう報告した。

「ご苦労様です」

「結論から言うが、かなり厄介な事になりそうだ」

 圷はそう言うと、今まで生徒たちを座らせていた椅子に座った。

「まず、美術部室から見つかった焼死体だがな、パッと見た限り鼻の中や喉の奥に煤が入っている事から見て、死因が焼死である事に疑いはない。つまり、火にまかれて死んだって事だ。だからこそ、呼吸で鼻や喉に煤が入った。解剖すれば、肺なんかにも入っているはずだ」

 もちろん、肺が残っていればの話だが、と圷は言った。

「つまり、火がつくまであの遺体の主が生きていたのは間違いないと?」

「ところがだ」

 圷はニヤリと笑った。

「パッと見ると見落としかねないものではあったが、後頭部に挫傷らしきものを見つけた」

「挫傷?」

「つまり、あの遺体、後頭部に何らかの衝撃を受けている。それも、おそらく生前だ。何しろ、あの現場には火が消える前まで誰も立ち入らず、最初に入ったのは警察と消防。死後に傷をつける余地はない」

「火災の最中に倒れた拍子についたという事は?」

「あの傷は転んだ程度のものじゃない。それこそ、何かで力いっぱい殴られた時のものだ」

 斎藤と国友の表情が険しくなる。

「つまり……」

「あの仏の直接の死因は焼死。これは覆らない。だが、その前にあいつは殴られている。という事は、あの遺体は頭を殴られて気絶していた公算が強い」

「気絶?」

「ああ。少なくとも、あの傷ではまともに動く事はできないだろうな。意識を取り戻しても、かなりフラフラの状態だったはずだ」

「では、花瓶を落とす事は……」

「五分五分ではないが、俺はできない方向に賭けるね」

 それは事件の構図を大きく変える事実に他ならなかった。

「あの火事を目撃した連中の話をざっと聞いてみたが、全員花瓶が落ちるところは見ていても、横川が直接投げたのを見たわけじゃない。花瓶が落ちるのを見て、その前にいた横川が落としたと判断したに過ぎなかった。という事はだ、あの時連中が見た横川は実は気絶していて、第三者が見えないように花瓶を村林の上に落とした可能性もあるって事だ」

 衝撃の事実である。斎藤たちの顔に緊張が浮かんだ。

「つまり、村林を殺したのは横川ではなく、肝心の横川自身も何者かに殺害されたと?」

「その可能性が出てきたって事だ」

 圷は至極あっさり言った。

「確かに、それなら目撃者たちの『横川は無表情だった』『花瓶を落とした後も表情を変えなかった』という証言にも一致しますが……」

「気絶していたら表情も何もあったものじゃない。その後、すぐに火をつけて逃亡すれば、後に残るのは横川の遺体だけ、となる」

 その時、斎藤は恐ろしい事に気がついた。

「では、あの横川らしき遺体は……」

「俺の想像が正しいなら、おそらく生きながら焼き殺された、って事になるんだろうな」

 あまりの話に、その場を沈黙が支配した。と、新庄が部屋に入ってきた。

「警部、品川署から連絡です」

「何だ?」

「問題の焼死体の歯形と、横川の通っていた歯科医に残されていた歯形の痕跡が一致したそうです」

 その場の空気が重くなる。

「これで、あの遺体がミス研三年の横川卓治である事が確定したわけです。同時に、横川が実は村林殺しの犯人と見せかけて殺害されていたのかもしれないという事も」

 被害者の数が四人に増えた瞬間だった。

「……他に何かありますか?」

 斎藤が圷に尋ねる。

「出火地点だが、入口のドア近くが怪しい。あの辺りが一番燃えていた。それと、床一面に灯油の痕跡があった。おそらく、出火と同時に灯油に引火して一気に燃え広がったって所だろう」

「出火原因は?」

「わからん。何しろすべて燃えてしまっている」

「スプリンクラーなどは作動していなかったのですか?」

「それなんだがな、天井を調べた結果、スプリンクラーや火災報知機がすべて叩き壊されていた」

「何ですって?」

 全員が顔を見合わせる。

「あれは火災による破損じゃない。明らかに人為的に壊されたものだ」

「では、誰かが人為的にスプリンクラーや火災報知機を壊したと」

「火災が鎮火されないようにするための事前工作だろうな。そうそう、美術部室に備え付けられていたはずの消火器は、階段の近くの廊下の隅に置かれていたよ。パッと見たらわからないが、ひっくり返したら『美術部室』って大きく書いてあった」

 全員が押し黙る。

「……村林を殺したのが横川ではなく、横川も殺されたとなると、事件の構図が一気に覆ります」

 国友はそう言った。

「ええ。文字通り、別々の場所にいる四人の人間をほぼ同時に殺害する必要に迫られます。はっきり言って、人間業とは思えません」

 斎藤が断言した。

「すべての事件が起こったのは午後三時前後のわずか数分です。この数分の間に、一号館の外にいた村林の頭に花瓶を落として一号館二階の美術部室に火をつけ、なおかつ三号館と二号館の間にいた朝桐を刺し殺し、三号館二階のミス研にいた溝岸を刺殺する」

「無茶苦茶もいいところだ。普通にやったって十分はかかる。まして、誰にも目撃される事なくこれを成し遂げ、おまけに関係者全員にアリバイありとなると、完全にお手上げだ」

 圷が眉をひそめながら答える。

「ですが、すべての状況を考えるとそうなってしまいます。溝岸幸は朝桐英美が退出してから中栗が戻るまでのわずか数分で殺害。朝桐英美も二つの棟の間の通路に入ってから佐脇に見つかるまでの数分が犯行時刻。横川殺しと村林殺しに関しては、犯行の瞬間の目撃者が大量にいて、犯行時刻をずらせません」

「それ以前に、やつはどうやって火をつけたんだ。現場からは、自動発火装置のようなものは見つかっていない。つまり、犯人が直接現場で火をつけるしかない。だが、佐脇の証言で事件直前から直後にかけて一号館に出入りした事件関係者はいないはずだ」

 圷が疑問を呈する。

「そうなんです。佐脇の証言から、事件の直前及び直後に現場となった一号館及び三号館に出入りした人間は存在しません。南の非常口は南京錠で使用不可能。犯人はどうやって現場に出入りしたんでしょうか?」

 その場に重苦しい沈黙が支配する。

「四人同時の早業殺人に事実上の密室殺人、って事か。これは本格的にあの探偵の出番だな」

 圷の言葉に、誰も反論できなかった。

「それとな、さっき一課長から連絡があった」

「橋本課長から?」

 斎藤が顔を上げる。

「ああ。例の横川がやっていたと思しきホームレス狩りだがな、横川以外の面子の一人の身元が割れたらしい」

「本当ですか」

「これがまた意外なやつでな」

 圷はその名を告げた。

「何と、行方知れずの肥田涼一らしいって事だ」

 思わぬ情報に、その場にいた全員が固まってしまった。

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