第二章 同時多発殺人

 二〇〇七年六月十九日火曜日朝。心地よい快晴の空の下、深町瑞穂は重苦しい気分で立山高校に登校した。昨日の一件に対して未だに答えが出ておらず、何とも中途半端な気分である。

「おっはよー」

 と、いつも通り元気な声でさつきが教室に入ってくると、座っていた瑞穂の肩をポンと叩いた。

「あぁ、おはよう、さつき」

「何? なんか元気ないじゃん。どうしたの?」

 さつきはすぐに瑞穂の様子に気付いたようだ。とはいえ、まさか昨日警視総監と会食して、探偵からスパイになってくれないかと頼まれた事など言えるはずがない。

「色々あって、ちょっと寝不足で……」

「あれ? なんか、前も同じような事言ってなかったっけ?」

 さつきは首をひねる。

「そう言うさつきは元気そうね」

「いやぁ、この間の大会で関東大会出場が決まったからね。部員全員が活気づいていてさ」

 運動部は六月初めに春の大会があって、それで好成績を残せると関東大会や全国大会への出場ができる。さつきの所属する女子バスケ部は、見事に関東大会出場を決めていた。

 と、そんな事を話しているうちにチャイムが鳴り、教室のドアが開いて担任の山田教諭が入ってきた。

「えー、ではHRを始めましょう」

 山田はそう言うとすぐにHR委員長にその場を譲り、自分は窓の方に椅子を持ってくるとそれに座ってしまった。男子のHR委員長と女子の副委員長が前に出てきて話を始める。

「では、これから文化祭のミーティングを行いますが……」

 実のところ、六月末に行われる文化祭まで残り一週間。ゆえに授業も短縮授業となっており、午後からは完全にフリーとなる。午前中にしても、LHR(ロングホームルーム)のある時間はほとんど文化祭関連の話し合いや出し物の準備に割かれていた。

 ちなみに、文化祭が終了したら即期末テスト週間に入り、夏休みを経て九月初めに体育祭があるというのがこの学校の流れだった。

「作業については予定通りで、あとはこの役割分担ですが……」

 このHR委員長はどうやら中学校時代に生徒会長をやっていた経験があるらしい。従ってクラスの取りまとめも堂に入ったものがあり、クラス全員が彼の事を信用していた。

 これに対し、副委員長は見るからに内気そうな女子生徒だった。友達もあまりいないようで、普段から自分の席で本を読んでいるような子であり、典型的な文学少女といった感じである。副委員長になったのも他のクラスメイトが全員部活に入っていて忙しく、一人どこにも所属していなかった彼女に白羽の矢が立っただけである。

 もっとも、副委員長と言いつつ主な仕事は委員長がやってしまうので、彼女は名ばかりの副委員長といった感じだった。現に今も黒板の書記係をしていて、会話にはほとんど参加していない。

「……じゃ、こんな感じで昼から頑張りましょう。みんな、部活の準備や練習も大変だろうけど、こっちも忘れないように」

 委員長がそう言ってHRは終わる。この後は、短縮授業とはいえ昼休みまでは授業である。

「瑞穂ぉ、次の数学の宿題見せてくれない? どうしてもわからなくって」

 五分の休み時間を見計らってさつきがそう言いながら瑞穂の席にやってくる。が、瑞穂は申し訳なさそうな表情になった。

「実は私も昨日は予習できてなくて……」

 あんな事があった帰りである。宿題などやる気力がわかなかったのだ。

「そ、そんな。今日、私が当たる番なのに」

 さつきはがっくりと肩を落とす。

「あー、もう。二次関数だか何だか知らないけどさ、理系ならともかく文系の人間に必要なの、この知識」

「多分全国の高校生が思っている事だと思うけど、それを言ったら終わりって事で」

 もっとも、瑞穂は中学生の時にずばり聞いたことがあったが。

「どっちにしろ、私にはこの問題さっぱりなのよ」

 さつきが切羽詰った表情で頭を抱えていた時だった。

「そのxに3を代入したらいいと思います」

「へ?」

 唐突に声をかけられて、さつきと瑞穂は声のした方を見た。ちょうど、瑞穂の席の横を通り過ぎようとしていた副委員長が、ポツリとほとんど独り言のように言ったようだった。彼女は二人がこちらを見ているのに気が付くとハッとしたような表情になり、

「ご、ごめんなさい。つい気になって……」

 と言い訳するようにゴニョゴニョ言いながら、顔を赤くしてそのまま自分の席に戻っていった。

「……xに3を代入?」

 一瞬呆気にとられていたさつきだったが、我に返ったように自分の割り当てである宿題の問題を見て、言われたようにやってみた。

「あ、本当だ。すらすら解けちゃった」

 その瞬間、チャイムが鳴って数学教師が入ってきた。さつきが慌てて席に戻る。

「えー、ではさっそく宿題を答えてもらおうか。磯川」

「は、はい」

 結局、さつきは無事に宿題を答える事ができたのであった。


 一方同じ頃。東京拘置所の面会室で、二人の人間が対峙していた。

「今さら私に何の用かしら」

 面会室のガラスの向こうに座るのは、四月に榊原が壮絶な推理合戦の末に陥落させた、豊島区生命保険会社殺人事件被疑者・湯船鞠美だった。顔は少しやつれているが、その目はギラギラ光っている。

 そして、それにガラス越しに相対しているのはスーツにアタッシュケースの男……鞠美をここに閉じ込めた張本人であるはずの榊原恵一だった。

「裁判が終わったら面会できなくなる。だから、今しかないと思ってね」

「自分で捕まえといてよく言うわ」

 鞠美はそう吐き捨てる。

「だったらどうして面会に応じた?」

「ここ、退屈なのよ。面白い余興になるかなって思っただけよ」

 鞠美は笑みを浮かべながら肩にかかった髪をかき上げた。

「裁判はどうだ?」

「さぁね。どうせ死刑でしょ。確か、四人以上殺したら無条件で死刑だっけ? 永山基準って言うのよね」

「よく知っているな」

 鞠美の言う『永山基準」とは、かつて発生した永山則夫連続射殺事件という事件の裁判で最高裁により示された死刑判決の基準についての判例である。この基準に従えば、十八歳以上の場合四人以上殺せば確実に死刑になり、鞠美は確実にこれに当てはまるはずだった。

「あの事件を計画するに当たって過去の事件を色々調べたの。その時にね」

 そう言って、鞠美は榊原をジッと睨んだ。

「で、わざわざ自分の捕まえた人間に会いに来た探偵さん。何のつもり?」

 挑発的な言葉に、榊原は微動だにする事なく告げた。

「お前に聞きたい事がある」

 その表情は、なぜかひどく真剣なものであった。


「ねぇ、西ノ森さん」

 それから数時間後。昼休みになって、瑞穂とさつきは件の副委員長……西ノ森美穂にしのもりみほに話しかけていた。

 短縮授業は午前中で終わり、午後からは文化祭準備として完全フリーとなる。クラスと部活の準備に全校生徒が躍起になる時間帯だ。その前に、二人はさっきの礼を美穂に言いに来たのだった。

「さっきの数学の宿題、アドバイスありがとう!」

 挨拶も抜きに、さつきは美穂に気さくに話しかけた。一方の美穂は、急に話しかけられて目を白黒させている。

「ええっと……」

「ねぇ、一緒に食べない?」

 美穂はどう答えていいのかわからず、完全に思考停止状態である。彼女の席は窓側の一番後ろ。弁当も一人で食べていた。

「あの、えっと……」

「お邪魔しまーす」

 答えが返ってくる前に、さつきは近くの椅子を引っ張ってさっさと美穂の机に弁当を広げてしまった。多少強引でありながら悪く取られるようなものではない。そういうところは自分と最初に話した時と変わっていないと苦笑しながらも、瑞穂も手近な椅子に座って弁当を広げる。

「あ、西ノ森さんとはあまりしゃべった事なかったよね。私、女子バスケ部の磯川さつき。こっちのがミス研の深町瑞穂。よろしく!」

「は、はぁ」

 美穂は小さく頭を下げて、

「西ノ森美穂です」

 と、小さな声で挨拶した。

「ねぇねぇ、さっきの問題よくわかったよね。やっぱ、あれってさぁ……」

 さつきが一方的にしゃべり、美穂は戸惑いながらもそれに相槌を打っている。瑞穂はそれを見ながら苦笑していたが、ふと周りを見回してみると、クラスメイトたちが珍しいものでも見るようにこちらを見ている。

「私、普段誰とも話しませんから」

 瑞穂が周りを見ている事に気がついたのか、美穂がそう言った。

「本ばかり読んでいるせいでしょうか。何だか避けられるようになって……近寄りがたいって思われているのかもしれません」

「本、好きなんだ」

 さつきが興味深そうに言った。

「どんな本読んでるの?」

「ええっと、坂口安吾の『堕落論』とか、島崎藤村の『破戒』とか……」

 さつきはポカンとした表情をしている。

「あの、やっぱり変ですよね。高校生がこんな本読むなんて……」

「えっと、いや、別にそんな事はないと思うけど」

 瑞穂は慌てて言った。事実、ミス研には「なんじゃこりゃ」と思うような見た事もない本を読んでいる人間がいる。恩田朝子など最初に会った時に読んでいたのは『虚無への供物』で、その次が『恐ろしき四月馬鹿』というわけのわからない本だった。瑞穂は、何となく彼女と朝子と気が合いそうなのではないかと思ったりした。

「ふーん、って言うかさ、そんなに本が好きなら文芸部とかに入らなかったの?」

 さつきが当然の質問をする。

「入ろうとは思ったんですけど、探しても文芸部のブースがなくて……。この学校、文芸部がないみたいなんです。だからって、自分で設立するのはちょっと……」

「そっか。残念ねぇ」

 さつきが心底残念そうな声を出す。が、ここで瑞穂は引っかかった。

「ちょっと待って。文芸部がなかった?」

「はい」

 瑞穂は記憶を探る。確か、ミス研副部長の恩田朝子は、文芸部の部長も兼任していたはずではなかったか。

「えっと、本当になかったの?」

「はい。入学式の後ブースをあちこち探したんですけど」

 瑞穂の頭にもう一つの記憶が浮かぶ。朝子のセリフだ。

『ここはほとんど開店休業中。私だって、あっちがうるさくて静かに本を読みたい時だけ利用しているだけだし、ほとんど部長会議に顔出しするだけが仕事ね。だから新歓活動もやっていないわ』

「恩田先輩……」

 瑞穂はガクッと思わずうなだれてしまった。

「み、瑞穂? どうしたの?」

 突然うなだれた瑞穂をさつきが心配する。

「恩田先輩、やっぱ新歓活動はしなきゃだめですよ。ちゃんと入りたい子だっているんですから」

「あのー、瑞穂?」

 うなだれたばかりかブツブツ言い始めた瑞穂に、さつきは恐る恐る呼びかける。

「ええっと、ごめん。西ノ森さん」

「は、はい?」

「今も文芸部があったら入りたい?」

「ええ、入れるなら……」

「この後、時間ある?」

 突然わけのわからない事を言われて、美穂は戸惑うばかりだった。


「……で?」

「入部希望者です」

 三十分後。瑞穂とさつきは美穂を連れて文芸部室のある一号館二階の一番奥の部屋に来ていた。部屋にはすでに朝子がいて何か小難しい本を読んでおり、突然やってきた瑞穂たちに訝しげな視線を向けている。

「えっと、それはミス研の?」

「いいえ、文芸部のです」

 瑞穂はきっぱり言った。

「へぇ、こんなところに文芸部ってあったんだ」

 さつきは物珍しそうに部屋をキョロキョロ見ている。

「あの、これは……」

「西ノ森さん、紹介します。文芸部部長兼ミス研副部長の恩田朝子先輩です。立山高校文芸部唯一の部員であり、そして四月に文芸部の新歓活動をボイコットして文芸部の存在を抹消しようとしていたお方です」

「深町さん、それは少し言いすぎじゃないかしら?」

「事実だからいいんです」

 朝子の反論を瑞穂はピシャリとはねつける。

「とにかく、恩田先輩が新歓活動を真面目にやらなかったからこんな事になっているんです」

「でも、まさかこんな部員のいない部活に入りたいなんていう人がいるとは思わないじゃない」

「事実いるじゃないですか」

「部員が増えると仕事が増えて面倒なのよ」

 一部活の部長にあるまじき発言である。

「どっちにしろ、私は気が進まないわ。私はミス研の活動の方が主になっているし」

 何とも取り付く島がない。朝子はそのまま読書を再開した。

「タイミングが悪かったかな。あの人、読書を邪魔されるのが嫌いだから」

 瑞穂はそう呟いた。

「じゃあ、出直す?」

「そうね。西ノ森さん、悪いけど……」

 瑞穂とさつきが相談していた時だった。不意に、美穂は部室に入り、朝子の読んでいる本の背表紙をジッと眺めた。

「……何かしら?」

 朝子は本から目を離さずに尋ねる。

「坂口安吾の『不連続殺人事件』ですか」

 美穂が興味深そうに呟く。その言葉に、朝子が反応した。

「……知っているの?」

「はい。一度読んだ事があります。坂口安吾は好きですので」

「『選挙殺人事件』は?」

「えっと、一応は……」

「じゃあ、『復員殺人事件』についてどう思う? 高木彬光のあの結末に納得している?」

「ええっと、文学的にはあれもありなんじゃないかと……」

 なぜか問答が始まってしまった。

「えっと、あの二人は何をわけのわからない事を言っているの?」

 さつきは冷や汗を流しながら瑞穂に尋ねる。

「さぁ。ただ、恩田先輩は一度語りだすと止まらないから。普通は誰もついていけないんだけど」

「でも、西ノ森さん、ついていってるよ」

 二人が呆然としている間に、朝子と美穂は本格的に熱く語り始めた。話題も坂口安吾から日本の古典推理小説に及ぼうとしている。

「小栗虫太郎は日本の小説界に多大な影響を及ぼしたと思うのだけれども、あなたはどう評価する?」

「『黒死館殺人事件』とか『完全犯罪』の人ですよね。でも、あれって文学としてはどうなんでしょうか。正直読みにくくって……」

「あれがいいんじゃない。あの良さがわからないなんてなんてもったいない!」

「同じ年代なら、大阪圭吉の『灯台鬼』とか好きですね」

「あの傑作を読んだ事があるの?」

「はい、一度だけ」

「大阪圭吉について語れる日がくるなんて!」

 なぜか朝子は感動している。一方の瑞穂たちにとっては、もはや「大阪圭吉って誰?」の状態である。

「じゃ、じゃあ、天城一の『圷家殺人事件』とかは?」

「あれも確か古かったですよね。何かの短編集で読んだ記憶があります。あれ、話自体は中編だったかな」

「どう思った?」

「私はトリックとかはあまり興味なくて、文学的にどうか考えるタイプなので……」

「そっか、そういう見方もあるのね」

 そのまま時間が流れていく。

「入部を許可します。ぜひ文芸部に入ってください。というより、お願いだから入部して」

 最終的な結論は非常に端的だった。最後は懇願口調である。

「私でよければ構いませんけど……」

「大歓迎よ。いつでも来て好きなだけ本を読んでいって構わないわ」

 最初とあまりにも態度が違いすぎる。当の美穂自身も話の急展開に驚いているくらいだ。

「西ノ森さん、すごい……」

 瑞穂は思わず感心していた。

「あの恩田先輩がここまで言うなんて」

「まぁ、結果オーライって事で」

 顔を見合わせて苦笑するしかない。

「ああ、深町さん」

 と、朝子が瑞穂に呼びかけた。

「私、今日は部室に行かないから、野川部長にそう言っておいてくれるかしら?」

「構いませんけど」

「ありがとう」

 どうやら、まだ美穂と問答を続けるつもりらしい。一方の美穂も、どこか教室で見るより生き生きした表情をしている。美穂は一応副委員長だが、主な仕事は委員長がやっているはずなので抜けても問題ないだろう。

「じゃ、私たちはこれで」

 そう言って、ドアを閉めた。

 普段は文化部系の部活の生徒たちでにぎわっている一号館であるが、文化祭の準備期間であるため、音楽系の部活は練習に、それ以外の部活も発表教室に準備に出かけていて、不気味な静けさだった。というより、文化祭の準備で忙しいはずのこの時期に、部室にこもっているひねくれた部活など文芸部しかないのではないだろうか。実際、部員の少なさを理由に文芸部は文化祭発表をしないと瑞穂は朝子から聞いていた。

「じゃあ、瑞穂。私も部活行くね」

「うん。ごめんね、付き合わせて」

「いいよ。じゃ」

 そう言って、さつきは走っていった。確か廊下を走るのは駄目だったような、と思いつつ、まぁいっかと瑞穂も歩きながら後に続いた。

 この時点で午後一時十五分。完全下校時刻は午後七時なので、まだ六時間弱もあった。


 瑞穂は一号館を出ると、部室のある三号館に向かった。途中二号館の前を通るが、相変わらず体育系の部室棟は人気ひとけがない。この時間帯は全員クラスの出し物の準備か、練習に出ているのだろう。

 そのまま三号館に入り、二階に上がってミス研部室を目指す。こちらも人通りはほとんどない。基本的に三号館は一般的な部活とは少し違う変則的な部活や同好会を中心とする棟であり、元々ここに出入りする人間も少ない。ただでさえ敷地の隅で日当たりが悪く、加えて文化祭期間中で準備のため出ている部活が多いようだ。

 ところで、瑞穂の頭の隅で今朝から頭痛の種になっている榊原の要請に対し、瑞穂はまだ明確な答えを出せていない。というより、あの時話された事実が現実に起こったものとは信じ切れていないのである。ひょっとしたら、時期はずれのエープリルフールなのではという考えさえあるくらいだ。

 とはいえ、このまま悩んでいるわけにもいかないし、かえって不審がられてしまいかねないので、とりあえず今の段階では保留という形にした。何かあるまでは特別行動には移さない。最終的にそうする事にしたのである。

 そんな思いを胸に、瑞穂は部室に入った。

「あれ?」

 普段なら、中にはすでにミス研のメンバーが集まっているのだが、この時中にいたのは溝岸幸だけであった。

「溝岸先輩だけですか?」

「あ、瑞穂ちゃん、ちょうどいいところに来た」

 幸はそう発言する。よく見ると、部屋は飾り付けられ、塗料でも使ったのか何だかシンナー臭い香りもしている。そのせいか、窓は開けっ放しになっていた。

「どうしたんですか? これ」

「サプライズパーティー、だってさ」

 幸は投げやりに言う。

「サプライズ?」

「何でも、明日、部長の誕生日なんだって。だから、こっそりお祝いの準備をして、明日部長を驚かせようって、そういう話」

 ため息をつきながら幸が説明する。

「まったく、こんな事するなら文化祭の準備した方がいいのに。中栗も面倒な事言い出すよね」

「中栗先輩の発案なんですか?」

「ええ。村林と英美が大乗りでさ。佐脇は基本イエスマンだし、多勢に無勢」

「他の方は?」

「村林と佐脇が、部長が部室に来ないように止めに行ったわ。本当なら副部長と横川さんの役割なんだけど、二人ともいなくって」

「あ、恩田先輩なら多分来ませんよ。文芸部に話の合う新入部員が入って、さっきから問答していましたから」

 幸は天を仰ぐ。

「あの状態の副部長に何言っても無駄か。まぁ、そんなわけで、あとの面子でここの準備しているんだけど、中栗は飾り付け品が足りなくなったからって買い出し行っちゃうし、英美はいつの間にか消えてるし、アッという間に私一人だけ。何なのよ、このいじめは!」

 というわけで、と幸は続けた。

「瑞穂ちゃん、もちろん手伝ってくれるよね?」

「は、はぁ」

 結局、そのまま瑞穂はこの場を手伝う事になった。とはいえ、無言のまま飾り付けするというのも気まずいもので、いつしか愚痴のようなものを互いに語り合っていた。

「私さ、最初からこの部活にいたわけじゃないのよね」

 不意に幸はそんな事を言い始めた。

「そうなんですか」

「実は、私って去年の九月に親の都合で急にこの学校に転入してきたばっかりでさ。まだ入部して半年過ぎしか経っていないのよ。そういう意味では、あまりあなたと変わらないの」

「どうしてこの部に?」

「いや、転入する前の学校で文芸部にいたんだけど、ここの文芸部は何というか、あんな感じじゃん」

「あー」

 瑞穂は朝子の顔を思い浮かべながら納得する。

「だったら、ミス研に入部しても大差ないかなって。そもそも、元々いた文芸部でも推理小説をよく読んでいたから、あまり違和感はなかったし。まさかここまで変人の集まりだとは思いもしていなかったけど」

 幸はそう言って苦笑する。

「文芸部にいたって事は、小説とか書くんですか?」

「ううん、私は読み専だから」

 読み専とは「読む方専門」、つまり作品は書かないが他人が書いた作品を批評するのは得意というタイプである。

「さてと、こんな感じかな」

 一通りの飾り付けをした後、幸はそう言って椅子に座った。

「あとは、中栗が買出しから帰ってくるのを待つだけね」

「はー、疲れました」

 瑞穂も手近な椅子に座る。窓の外からは運動部の掛け声が聞こえてくる。

「ああ、そうそう瑞穂ちゃん。一つ聞きたい事があったんだけど」

「何ですか」

「うーん、どう言えばいいのかな」

 幸は思わせぶりにそう言った後、何気ない調子でこう告げた。

「岩坂竜也って知ってる?」

 思わず瑞穂は固まってしまった。あまりにも自然に聞かれて、頭がついていかなかったのだ。

「え、えっと……」

 まさか昨日その名前を聞きましたとは言えない。が、反応が顕著すぎたと後悔した時には、すでに手遅れだった。

「その様子だと、何か知ってるのね」

 今までの蓮っ葉な感じが消え、急に幸の表情が厳しくなる。それは、今まで見知った幸の表情とはまったく違う類のものだった。しかし、あまりに急な展開の変化に、瑞穂自身追いつく事ができないでいた。

「み、溝岸先輩」

「岩坂竜也を知っているのね?」

 瑞穂の言葉など無視して、幸は怖い表情で瑞穂に聞いてくる。気がつくと、幸は立ち上がって瑞穂の近くに詰め寄っていた。部屋の空気が一気に冷え込んだように瑞穂は感じた。

「どうなの」

 短く、しかし厳しい言葉で幸は詰め寄る。瑞穂は肝を冷やした。

「な、何なんですか、急に。誰なんですか、その人は?」

「ごまかさないで。今の反応、明らかに彼を知っているわね」

 幸は淡々とした声で尋ねる。それはもはや会話ではなく、一方的な尋問であった。

「知っているも何も、私、今年入ってきたばかりなんですよ。そんな人……」

「その言い方だと、岩坂竜也がこの学校の人間だったという事は知っているみたいね」

 言われて、しまったと瑞穂は感じた。

「正直に言って。岩坂竜也を知っているの? ここに入部した目的は、まさか岩坂竜也に絡んでの事なの?」

 それは、探偵に追い詰められた犯人の気分であった。ついさっき、この件に関しては様子を見ようと決意したばかりだというのに、瑞穂が何かするまでもなくこんな状況に陥ってしまった。

「答えなさい」

 激しい威圧感が幸から発せられている。だが、瑞穂はそこでグッとこらえた。榊原の言葉が頭に浮かぶ。ここですべてを話せば、榊原が追っているといういくつもの殺人事件に影響が及ぶ。さらには、自分の命に危険が及ぶかもしれない。

 瑞穂は顔を引き締めてこう切り替えした。

「……知っていたらどうなるんですか?」

 幸はその態度に少し驚いたようだったが、続いてこう言った。

「話を聞きたいだけ。あなたが関与した事。あなたが岩坂の死にどう絡んでいるのかをありのままにね」

 それは、明らかに瑞穂が岩坂の死に関与している事を前提とした発言だった。同時に、幸が岩坂竜也の死の事を知っている決定的な発言でもあった。

「……何を勘違いしているのかは知りませんけど。私は岩坂という人の死には無関係です」

 瑞穂は慎重に言葉を選んでそう言った。発言の仕方を間違えたら、冗談でもなんでもなくどうにかされてしまいそうだ。

「嘘つかないで。無関係ならどうして岩坂を知っているの?」

 幸は感情を押し殺したような声で言った。だが、先程からの会話で、瑞穂は一つ疑問に思っていた。

「逆に聞きますけど、溝岸先輩は岩坂って人に何か関係しているんですか?」

「……どういう事?」

「去年の五月、元ミス研部長の岩坂竜也は新橋駅ホームから転落して謎の死を遂げた。私が知っているのはその程度です」

 その言葉に、幸は怒りの形相を浮かべた。

「あなた、やっぱりあの事件に……」

「でも誤解しないでください。私がこの事実を知ったのは昨日です」

「いい加減な事を言わないで!」

 幸はいらだったように小さく叫んだ。だが、その態度を見て瑞穂は確信した。

「溝岸先輩、その岩坂竜也という人とどういう関係なんですか?」

「……何それ?」

「さっきから聞いていたら、溝岸先輩、岩坂って人が死んだ事件を調べているみたいだったから」

 幸が目を見開いた。

「ちょっと、何を言って……」

「一つ確認させてください」

 瑞穂は逆に告げた。すでに会話の主導権は瑞穂に移っていた。

「溝岸先輩、岩坂って人が死んだ事件を知っているんですよね?」

「……ええ」

 幸は少し逡巡した後告げた。

「でも、さっきの話だと先輩がここに入ってきたのは昨年九月。むしろ、どうして先輩が岩坂って人の死を知っているんですか」

「……あなたが知る必要はないわ」

 幸はそう言うと、逆に問い返す。

「それを言うならあなたも一緒でしょ。当時いなかったはずのあなたがどうしてこの事件を知っているの。まさか、最初からこの事件に関係していて、だからこそこの部活に……」

「違います」

 瑞穂は間髪入れずに答えた。

「私はある人から聞いただけです」

「聞いた? 誰に?」

「私がこの一件を知ったのは昨日です。そこまで言えば、わかりませんか?」

 その言葉に、幸は少し考え込み、そして答えに行き着いた。

「まさか……」

「そのまさかです。あの人はこの一件を調べていました」

 あえて特定の名前は口に出さない。だが、幸はそれで充分わかったようだ。

「……そういう事」

 幸は厳しい声ながらもそう言った。だが、先程に比べて声は落ち着いている。

「あなた、その人と随分親しいのね」

「そういうわけじゃないですけど」

「……ごめんなさい。急に変な事聞いて」

「……溝岸先輩、どうしてこの事件を調べているんですか?」

 瑞穂は尋ねた。

「さっきの様子だと、先輩は事件の当事者と言うより、その岩坂という人のために事件を調べているように聞こえました。もしかして、急に九月になって転校してきたのも……」

「……おしゃべりはここまでね」

 不意に幸は言った。これ以上の質問は許さない。そう言っているようだった。

「ただし、一つだけ忠告しておくわ」

「何ですか」

「早めにこの部から抜けなさい。それと、今言った事は忘れて」

 そして、こう付け加える。

「それが、あなたのためになる」

 瑞穂が思わず言い返そうとした時だった。

「ただいまぁ」

 ドアが開いて、中栗が入ってきた。

「遅い!」

 幸が言う。その表情は今までのシリアスなものから一転し、普段通りの幸そのものだった。

「いや、悪いね。店が混んでてさ。おまけに何でかしらないけどクラッカーが品切れであっちこっち回って」

「愚痴はいいから、さっさと手伝ってよ」

 そう言って、瑞穂の方を振り返る。

「瑞穂ちゃん、悪いけど引き続き手伝ってくれない?」

 だが、瑞穂としてはそれどころではなかった。

「ごめんなさい。この後、クラスの準備があって」

 もちろん、そんなものは口実である。一刻も早く、この部屋から出たかった。

「そう。じゃ、仕方ないか」

 意外にも、あっさりと幸はそれを認めた。

「じゃ、さっさと残り仕上げるか。中栗、手伝いなさいよ」

「勘弁してよ。少しくらい休ませてくれたって……」

「駄目」

 二人が言い合っているうちに、瑞穂は慌てて荷物を持つと部室を後にした。

「何か急いでたね?」

「さぁ、時間に遅れそうだったんじゃない?」

 幸はそう言った。

「ふーん」

 中栗はそう言いながらも、意味ありげな視線でドアのほうを眺めていた。そんな中栗の様子を、幸はしっかりと見つめていたのだった。


 部室を飛び出した瑞穂は、そのまま階段を降り、一階の階段横にある女子トイレの個室に駆け込んだ。

「まさか、溝岸先輩が……」

 あのいきなりの豹変ぶりは、瑞穂にとって相当ショックだった。同時に、榊原の言っていた事が事実であるという事が、今さらながら実感がわいてきた。

「ちょっと、待ってよ」

 瑞穂は頭を抱えた。まだ、あの何とも言えない緊張感とも取れる感覚が抜け切っていない。気がつくと、足がガタガタ震えている。

 この前の豊島区の事件は、残忍ではあったが、言ってしまえばどこか他人事だった。だが、今回は違う。文字通り、見知った顔の中での駆け引きである。

 いずれにせよ、これ以上榊原とのつながりがばれる事は避けなければならない。つながっているとわかった瞬間、どんな事が起こるか予測できないからだ。

 幸については質問の仕方などから、事件に直接関係しているのではなく、事件を調べている、つまり実際に事件を起こした人間と対極にある存在と判断し、やむなく暗に榊原がかかわっているという事を示したが、あの判断が正しかったのかどうかもわからない。いずれにせよ、幸が新橋駅で死んだというミス研の先々代部長・岩坂竜也となんらかの関係があるらしい事はこれではっきりした。

 とにかく、不審がられてはいけない。他人の前では普段通りに振舞う必要がある。こうなると、榊原の頼み事も、ある程度真剣に考えねばなるまい。榊原のためというよりも、自分の身のためにである。

「とにかく、いったん落ち着かないと」

 瑞穂は深呼吸する。いずれにしても、このままでは外に出られない。瑞穂は息を整え、気持ちを落ち着かせる事にした。腕時計を見ると、時刻はすでに午後二時にさしかかろうとしていた。


 同時刻、校舎の教室の一つ。その生徒は、携帯電話が鳴っているのに気付き、そのまま黙って教室を出た。

「はい」

『溝岸です』

 その言葉に、その生徒はゆっくり廊下を歩きながら耳を傾ける。

『あの、今大丈夫ですか?』

「ちょうど、クラスの出し物の準備中。時間はある」

 生徒は端的に答える。

「そっちこそ、大丈夫?」

『今、部室棟二階のトイレにいます。大丈夫、他に人はいません』

 その生徒はそれを聞くと、いよいよ本題に入った。

「用件は?」

『瑞穂ちゃんに接触しました』

「どうだった?」

『先輩の予想通り、あの探偵が後ろについているみたいです』

 その生徒は小さく笑った。

「やっぱりね」

『でも、どうしてわかったんですか。私自身、確認するまでは半信半疑だったんですけど』

「まぁ、何となく……かな」

 その生徒はそう言って窓にもたれかかりながら続けた。

「感触は?」

『多分、あの子は関係ないですね。イレギュラーな存在じゃないかと』

「でも、後ろにあの探偵がついているとなると、うかつな行動はできないか」

 その生徒は考え込む。

「……一つ聞いても?」

『何ですか?』

「いつまで続ける? 岩坂竜也、つまり……」

 その生徒は告げる。

「あなたのお兄さんの死の真相を調べる事を」

 電話の向こうが沈黙する。

『どういう意味ですか?』

「犯人が誰かはわからないけど、向こうもそろそろあなたの正体に気がついているはず。あなたの身にも危険が及ぶかもしれない」

『……最初からその覚悟の上でここに転入しましたから』

 でも、と幸は続けた。

『もし、私の身に危険が及んだら、後はお願いします』

「縁起でもない」

『私と先輩が通じている事は誰も気がついていないはずです。私と先輩が共同で兄と生田徹平の死を調べていた事も』

 その生徒は黙る。

『もしもの時には、必ず犯人を追い詰めてください』

「そんな力はないよ」

『瑞穂ちゃんの……あの探偵の力を借りれば、何とかなるかもしれません』

「……あなたが死ぬ事を前提にした話はしたくない」

 その生徒は小さく言った。

『すみません。こんな事、先輩くらいじゃないと言えないので』

「……とにかく、慎重に行動する事」

『はい。では』

 通話が切れる。その生徒は、窓から空を見上げた。

「どうしてこんな事になったのか……」

 そう呟くのを、誰も聞くものはいなかった。


 しばらくして、瑞穂は何とか気持ちを落ち着けると、一階のトイレから出て、そのまま部室棟三号館から外に出た。

 言い訳をしてしまった以上、このままここにはいられない。とりあえず、クラスの様子でも見に行く他はなかった。

「とにかく、何かあっても動揺しないようにしないと」

 瑞穂はそう肝に銘じて、グラウンドの方に歩き出す。と、その二号館の中から見知った人間が出てきた。

「あれ、あなたは……」

 朝子の友人である剣道部主将である。

「紙内さん、でしたよね」

「おお、確か君は恩田の後輩の……」

「深町瑞穂です。『竹刀』さん」

「ハハッ、そのあだ名はやめてくれ」

 紙内智彦はそう言って笑った。相変わらずの坊主頭に、道着袴に胴垂をつけている。明らかに練習中の格好だ。

「練習中ですか?」

「そう。桜森学園剣道部を招いての合同稽古中でよ。忙しいのなんのって」

 桜森学園と言えば、由衣が行っている学校である。

「強いんですか?」

「それが、今年桜森に入ってきた新入部員に鬼みたいに強いやつがいてさ。女子なんだけど、何でも中学校時代に全中を三連覇した化け物だとか」

 全中とは中体連の全国大会であり、つまり三年連続日本一になった女子生徒がいるという事なのだろう。

「さすがに、桜森学園は強いんですね」

「いや、それでも今年は別格なんだって。俺たち、さっきからその女子生徒に部員全員反撃する間もなく全滅しちゃって、顧問が鬼みたいに怒ってる」

 この学校の武道場は、部室棟の一号館から見て、グラウンドを挟んだ反対側にある。グラウンドを武道場と部室棟が挟んでいる形になり、したがって一号館からはグラウンドや武道場の様子がよく見える。

「で、紙内さんはどうしてここに?」

「ああ、それな。実は、ボコボコに負けたから顧問が『一から稽古をつけてやる!』て言い始めてさ。散々にしごかれていたんだが、そのうちに顧問の竹刀が割れちまってよ。予備の竹刀もちょうど整備前で使用できなくなってて、部室にあるはずの顧問の予備の竹刀を取りに来たんだけど」

 紙内は頭をかいた。

「何しろ大分前に使ったっきりだから、どこにしまったかわからなくなっててさ。休憩時間を利用してこうして探してるってわけ。部室か倉庫にあるはずなんだが」

 倉庫は、三つある部室棟のそれぞれ一、二階の一番階段に近い部屋があてがわれている。簡単に言えば、各部室棟に入っている部活共同の倉庫で、部室で保管しきれないものを合同で放り込んである場所である。一応倉庫内で各部の場所指定はしてあるものの、かなりゴタゴタに押し込められているため、あらゆる備品が交じり合い、中はかなりカオスな事になっているらしい。

「それ、かなり大変じゃないですか」

「ああ、多分休憩時間じゃ終わらない。この後再度試合練習をやって今日はおしまいだから、すぐに支障があるわけじゃないけど、さすがに見つけておかないと」

 そこで、と紙内は続けた。

「今回、助っ人を用意した」

「助っ人?」

「見るからに暇そうなやつをな」

 と、二号館の奥から誰かが顔を出した。

「紙内先輩、時間までは手伝ってくださいッス!」

 何と、村林である。

「村林先輩?」

「あ、瑞穂ちゃんッスか」

 と、さらに声がする。

「村林君。さぼっていないで、さっさと見つけてくれないか」

 そちらも見知った顔だった。

「さ、佐脇先輩も?」

「ん、瑞穂君か」

 ミス研の村林と佐脇であった。

「な、何で二人がこんなところに?」

「何でって……」

「あー、野川のやつに聞いたら、どうせうちの部は暇だからって、後輩二人を紹介してもらった」

 紙内が頭をかきながら言う。

「え、って事は紙内先輩と部長って」

「そっ、同じクラス。ついでに、横川も一緒だけどな。もっとも、野川は今クラスの準備に行ってるはずだけどな」

「だからって、野川先輩の代わりに何で俺たちがやる事になるッスか」

 村林が不服そうな顔をする。

「困っている時に、たまたま近くを野川が通りかかったのが運のつきだったな」

「……いきなり部長から電話が来た時はびっくりしましたよ」

 佐脇が不満そうに言う。

「ま、そんなわけで、後頼むわ。俺、稽古に戻らないといかんし。大丈夫、野川がクラスの用事終わったら手伝いに来るって言ってたし」

「はぁ、こっちも用事があるんッスけどねぇ」

 村林が肩を落とす。

「大体、横川先輩はどうしたんですか? あの人も部長と同じクラスだし、自分たちと違って年中暇じゃないですか」

「だからだよ。野川の話じゃ、いつも通りクラスの準備をさぼってどっかに行ったらしくってな。連絡もつかないそうだ」

「あの人はまったく……」

 佐脇はぶつぶつ言う。

「紙内先輩、その竹刀ってサブキュウなんッスよね」

「ああ。だからすぐわかるはずなんだが」

「サブキュウ?」

 聞きなれない単語に瑞穂は戸惑った。

「ああ、竹刀の長さの事で、三尺九寸。大体一二〇センチ。竹刀は使う年齢で長さが違って、大人は大体この長さの竹刀を使うんだ。ちなみに、高校生が使うのはサンパチ、つまり三尺八寸で、こっちは大体一一七センチ。重さは男子用なら四八〇グラム以上ってところか」

「へぇ」

 思わぬところで知識が増えた。

「ところで、瑞穂ちゃんは暇ッスか?」

 村林が尋ねる。

「いえ、これからクラスの準備です」

「あー、やっぱそううまくはいかないッスか。いや、暇なら手伝ってもらおうかと……」

「横着しないでください。行きますよ」

 佐脇が村林を引っ張っていく。

「わかったッス、やるッスよ。だからその手を離して……」

 村林の叫びがだんだん小さくなっていく。

「ま、いつもの光景だな。じゃ、俺もこの辺で」

 そう言うと、紙内も武道場の方へ去っていった。瑞穂はしばらく呆気に取られていたが、いつまでもそうしているわけにもいかなかったので、そのままクラスに向かった。


 同時刻、所変わって『代々木公園老人殺人事件』の捜査本部が立ち上がっている代々木署の会議室。並み居る刑事たちの前で、国友純一郎警部が報告をしていた。

「被害者の氏名が判明したので報告します。神崎十三、六十歳。本籍地は富山県富山市。元富山県警刑事部警部で、いわゆる準キャリア組だった人間です。十一年前までは、警視庁捜査一課に勤務していた事もわかっています」

 被害者が元刑事だと判明するに至り、捜査本部は大きなざわめきに包まれた。

「富山県警に照会した結果、神崎警部は今年の四月を持って定年退職。家族はおらず、一人暮らしだった模様。上京後の行動についてはまだはっきりしない部分もありますが、都内のある私立探偵事務所に依頼をしていた事が判明しています。身元確認はその私立探偵からの情報によるものです。依頼内容については追って報告しますが、被害者はそれ以降も東京にとどまって何かを調べていたとの事です。犯行当日、被害者はその探偵に対して連絡を入れ、それを最後に音信不通。翌日、遺体で見つかっています」

「その依頼が事件に関与している可能性は?」

 捜査本部長の代々木署署長が尋ねる。

「現状、五分五分です。無論、今まで起こったホームレス狩りについての捜査も続行すべきですが、彼が個人的に殺された可能性も否定しきれないかと」

「そのホームレス狩りについてですが」

 と、不意に戸上警部が立ち上がった。

「その後調べた結果、あの公園を根城にしていたホームレスの一人から、今回の殺人の一回前、すなわち四件目の事件において主犯格らしき少年の顔を見たという目撃証言を入手しました」

 その言葉に、再びざわめきが起こる。

「本当かね?」

「はい。ホームレスを一人一人当たった結果、今朝になってようやく突き止める事ができました」

「それで?」

「彼は四件目の事件の際、たまたま複数の少年が四番目の被害者をリンチしている場面に出くわし、茂みに隠れながらそれを見ていたそうです。犯人の人数は二人から三人。暗い場所でやっていたので表情などは見えなかったが、中でも特に被害者に対して荒っぽい動作をしていた主犯格の男がたまたま街灯の下に立って、その際にその表情をはっきりと見たそうです」

「似顔絵は?」

「そのホームレスの方に協力いただいて、すでに仕上がっております」

 戸上は前に出ると、その似顔絵をホワイトボードに張り出す。そこには、顔の表情や制服までしっかり描かれた一人の男が書かれていた。

「服装は一般的な学生服。残念ながら、学校を特定する根拠となりうるものははっきりと見えなかったようで、どこの生徒なのかは不明です」

「学生服となると、中学生と高校生のいずれも考えられるか」

「いずれにせよ、四件目の事件にこの少年が絡んでいるのは間違いありません。ただし、それが五件目の殺しに直接関係あるかどうかは、現状では国友警部が言われるように五分五分なのですが」

「何にせよ、その少年を探す必要があるな」

 署長はそう言って似顔絵を睨んだ。

「捜査員のうち何人かを、この似顔絵の主の捜索に割り当てよう。後の人間は、殺された神崎氏の周辺調査を頼む」

「了解」

 全員が動き出す。

「ところで国友君、問題の依頼内容は?」

 署長がふと気が付いたというように尋ねる。

「それについては、少々込み入った事になっていまして、後ほど報告します」

 国友はそう告げる。

「……そうか」

 署長はそう言っただけだった。

「では、私も……」

「ああ、少し待ってくれないかね」

 不意に、署長はそう言って国友を止めた。

「それと戸上君、君もだ」

「は、はあ」

「悪いんだが、隣の小会議室に行ってくれないか。用件は私にも知らされていないが、君たち二人に会いたいという方がおられる」

 二人は顔を見合わせると、部屋を出て隣の小会議室に移動し、ドアをノックした。

「入りたまえ」

 中から声がして、二人は中に入る。

「失礼します」

 中にはすでに何人もの人間がいた。その正面に座る人物を見て、戸上は思わず背筋を伸ばした。

「あ、あなたは……」

 それは、戸上にとって意外すぎる人物だった。一方、国友は落ち着いた様子で、

「これはこれは。いったいどういう事でですか?」

 と言っただけだった。

「君が戸上警部か。はじめまして、となるかな」

 そこには警視庁捜査一課の主、警視庁捜査一課長の橋本隆一警視正が立っていたのである。

「一体、どうして……」

「いや、君がこの一件にかかわっている上に、野上有宏を通じて立山高校ミステリー研究会の事にも詳しいと聞いて、今回来てもらったのだがね」

 橋本はそう言った。戸上はますます困惑する。

「あの、一体これは?」

「君と国友君にはこれから非公式の特別捜査チームに入ってもらう」

 橋本は告げた。

「と、特別捜査チーム?」

「昨日、榊原君から聞いていないかね。立山高校ミステリー研究会を中心に、事件が頻発しているという事実を」

「え、ええ」

「警視庁も、この事実は見過ごせないと言う結論に達した。とはいえ、すでに表向きには解決している事件だ。従ってこの捜査チームは非公式の特別捜査チームとなる。他の面子は君も知っているね」

 他に部屋にいたのは三人。昨日、遺体の矛盾を暴いた本庁刑事部鑑識課の圷警部。それに、もう二人、こちらも戸上にとっては雲の上の存在だった。

「確か、斎藤警部でしたか」

「警視庁捜査一課第三係の斎藤です。こちらは部下の新庄警部補」

「主任の新庄勉です」

 もう一人も自己紹介した。

「一課の捜査班を二つも動員するとは、どういう事でしょうか」

 国友が静かに尋ねる。

「君たちも知っているように、立山高校ミステリー研究会に絡んで、三人の死者が出ている状態だ。いずれも何らかの形で同研究会に関与し、全員が不自然な状況で亡くなっている」

 橋本は背後のホワイトボードを示した。すでに三人の写真が張られている。

「一人目は岩坂竜也。早応大学法学部一年生で問題のミス研の先々代部長。昨年五月に新橋駅にてホームから転落し、入線してきた電車に轢かれて死亡。二人目、生田徹平。立山高校一年生でミス研の部員。今年の三月に富山県の黒部ダムにて溺死体で発見。三人目が今回の被害者である神崎十三。富山県警の元警部で、問題の生田徹平溺死事件を担当。二日前の深夜、代々木公園にて撲殺。三件目ははっきりした殺人事件だが、残りに件は殺人とは認定されていない。三人とも、立山高校ミステリー研究会に関する何かを調べていた節があり、それに行き着くまでに全員死を遂げている」

 橋本は全員を見渡した。

「神崎殺しについては現在捜査本部が立っている段階だが、表向きこの一件はホームレス狩りの一部とされている。おそらく、本物のホームレス狩りに罪を着せようとうする模倣的な部分もあるのだろう。したがって、この事件を担当している国友君の班と、この事件を客観的に見るための斎藤君の班。二つの捜査班を導入したという事だ」

「つまり、立山高校ミステリー研究会について、警察も本気で調べを入れるって事でいいのか?」

 圷が発言する。

「相手は高校生で、なおかつこの三つの事件は表向き関係ないとされている。捜査は慎重かつ極秘に行う必要がある。また、可能性は低いとはいえただの偶然の可能性も捨てきれない。したがって、私を含めたこの六人による少数精鋭の捜査チームで、問題のミス研について徹底的な調査を行うつもりだ」

 そう言うと、橋本は別のホワイトボードを出した。

「この九人が、現在問題のミス研に所属しているメンバーだ。写真については一年生の深町瑞穂及び二年生の佐脇倫明以外は、生田事件の事情聴取の際に撮影したものを富山県警から譲ってもらった。あとの二人は現時点では似顔絵だ」

 そこに、橋本はもう一枚写真を張る。

「もう一人、この男も注意してほしい。肥田涼一。ミス研先代部長で、去年の三月に学校の裏サイトに脅迫コメントを書いて、それが原因で退学している。写真は警察出頭時のものだが、結局不起訴処分になって、現在の動向は不明だ。いずれにせよ、まずはこの十人の顔と名前を叩き込んでほしい」

 刑事たちが一斉にボードを見る。その時だった。

「え?」

 突然戸上が声を上げた。

「どうした」

「こいつ……」

 戸上の視線は十人のうちある人物に向けられている。

「こいつがどうかしたか?」

「……これを」

 戸上は不意に懐から一枚の紙を取り出した。

「問題のホームレス狩り、四件目の事件の際に目撃された主犯格の少年の似顔絵です」

 それを見た瞬間、他の刑事たちの表情が変わった。

「これは、一体どういう事だ?」

「つまり、問題の五件目の神崎殺しはともかく、本家のホームレス狩りの主犯格もこのミス研の中にいたという事になりますね」

 国友が発言する。彼も、ボードを見た瞬間に気がついていたようだ。

「どうやら、この模倣されたホームレス狩りもしっかり調べる必要がありそうです」

 斎藤は似顔絵にそっくりな問題の少年……ミス研三年の横川卓治の写真を見ながら呟いた。


 同時刻。東京都内、港区にある病院。その病院の一室で、二人の人間が対峙していた。

 一人は朝に東京拘置所で殺人鬼と対面していた男……榊原恵一である。その表情は真剣そのもので、対峙している人間をジッと見据えている。

 対する人物は白衣を着込んだ初老の男だった。場所から推察するに、どうやらこの病院の医師のようである。

「断っておくが、患者の個人情報は教えられない。当然、知っているとは思うがね」

 医師が緊張した表情ながらも、強気に告げる。

「無論、そんな事は百も承知です」

 対して、榊原はきわめて冷静かつ静かに答えた。

「では、話はここまでだね。私に話す事は何もない」

 医師はそう言って精一杯の虚勢を張った。だが、榊原はまったく動じない。

「患者の名前を教えてもらうつもりはありません。実は、あなたに聞きたい人の名前はすでにわかっています」

 医師は顔をしかめた。

「どういう事かね?」

「……この人物なんですがね」

 榊原は懐から一枚の写真を取り出した。その写真に写っている人物を見て、医師の表情が変わる。

「こ、これは……」

「心当たりがあるようですね」

 榊原はその反応に確信する。

「この人物は、すでに亡くなっています。表向きは殺人ではないとされていますが、私はある事件に巻き込まれて殺害されたと考えています」

 榊原の視線が医師を捕らえ、医師は思わず視線をそらした。

「そ、それが何か……」

「この人物が、生前この病院に通っていたという事は、すでに調べがついています。手術までしているそうですね。今回、その件についての話を聞くために、私はこうしてこの場にいるのです」

「……調べたのかね」

「ええ、朝から必死になって調べて、やっと見つけたヒントです。そう簡単には帰りませんよ」

 榊原はそう宣言した。

「この人物がこの病院に通っていた事。お認めになりますね?」

「……ああ、そうだ。通っていたとも」

 医師はしぶしぶ答えた。

「病名は?」

「虫垂炎、いわゆる盲腸だ。手術して取り除いた。ただそれだけに過ぎない」

「手術は誰が?」

「私がやった」

「盲腸の完治以降、この人物を見た記憶は?」

「そんなもの、あるわけがない」

「嘘をつかないでください」

 ばっさり切り捨てられ、医師の表情が青くなる。

「警察の記録を読みました。あなた、この人物が死んだ際、警察からの依頼で解剖を行っていますよね。知らないとは言わせませんよ」

「そ、それは……」

「そして、これが私の一番聞きたい疑問なんですが」

 榊原は医師の言葉を遮って告げた。

「あなた、どうしてその事実を隠そうとしたんですか?」

「なっ……何の事だか……」

「何もないなら隠す必要はないはずです。単に盲腸を治療し、そのあとたまたま同じ人間の解剖を担当した。それだけですから。ですが、あなたはこの事実を隠そうとした。そこには必ず理由がある。そう、あなたが絶対に人に知られたくない理由が……」

「やめろ、やめてくれ……」

 医師が頭を抱える。

「先生、事はある重大事件に直結している事なんです。一つでも多くの情報がほしい。あなたが隠している事は何なんですか」

 医師は答えない。

「……いいでしょう。なら、推測してみましょう。当たっているならそう言ってください」

「何を言って……」

 弱々しく抵抗する医師に対し、榊原はズバリと告げた。

「医療ミス。違いますか」

 その瞬間、医師の顔色が真っ白になった。榊原は、自身の推理が当たっている事を確信した。

「医師が死んでいる人間の事に対してそこまでして隠す事など、そのくらいしか思いつきません。あなたはこの人物に対して、盲腸手術の際に何らかのミスをした。実際、あなたは盲腸完治後も何度か診察を行っている。おそらく、医療ミスを調べるためのものだった」

「し、知らん」

「問題の人物が殺害まで生きていた以上、即座に死に直結するようなミスではなかったはず。となると、おのずと限られます。あなたが犯したのは……」

「やめろ!」

 医師が叫んだ。榊原と視線が合う。二人は視線を外す事なく、しばらくの間互いを見据えたまま動かなかった。激しい意志のぶつかり合いである。

 しかし、先に音を上げたのは、医師の方だった。

「やめてくれ……」

 医師はうなだれると、弱々しくそう言った。

「話してもらえますか?」

 榊原の言葉に対し、医師はうなだれたまま、ポツポツと話し始めた。

「わざとじゃなかったんだ。本当に私らしくないミスだった」

「……どんなミスだったんですか?」

「君もわかっているのだろう? メスだよ。手術道具を、患者の体内一本置き忘れてしまったんだ」

 医師は振り絞るように告白した。

「気付いた時には、患者は退院した後だった。検査と称して何度かレントゲンを撮ったが、メスははっきり体内に写っていた。だが、再手術するわけにもいかない。私はどうする事もできないまま、指をくわえて見ている事しかできなかった」

「ところが、幸か不幸か、問題の患者が死亡し、解剖の依頼がやってきた」

「チャンスだと思った。だから、私は解剖しながら、こっそり遺体の体内にあったメスを取り出した。それだけだ。私のやったのはそれだけなんだ」

 医師はそう言って疲れたような表情をした。

「これからどうするつもりかね?」

「……今の話、警察に証言してもらえませんか?」

 榊原は真剣な表情で言った。

「ひょっとしたら、この人物の死が殺人であるという事を、明確に指し示す重要な証拠になるかもしれないんです」

 その剣幕に、医師は何も言えないまま、その場に固まってしまった。


 午後二時半。瑞穂は手持ち無沙汰な様子で校舎を歩いていた。一応クラスに顔は出してみたが、現状瑞穂が手伝うような仕事はなく、かえって邪魔になりかねないのでそのまま出てきた次第である。途中で委員長から美穂の居場所を知らないかと聞かれたが、今頃本人たちにとっては楽しい会話をしているであろう事が予想できたので、あえて知らないと答えておいた。

 暇つぶしに他の教室を見て回るが、各教室、趣向を凝らした出し物が予定されているようで、かなりの活気がある。先生の姿もたまに見かけるが、ほとんど単なる見回りという感じで特に助言するわけでもなく、完全に生徒主体になっている事がうかがい知れた。

「あー、瑞穂ちゃん、何してるのぉ」

 と、玄関の辺りに着いた時、聞き覚えのある声が聞こえた。

「あ、朝桐先輩」

 朝桐英美が相変わらずのんびりとした雰囲気でこっちにやってきた。

「溝岸先輩が怒ってましたよ。いつの間にかいなくなったって」

「あぁ、あれぇ。いやぁ、何だか面倒な事になりそうな気がしたからぁ、さっさと逃げてきたのよぉ。だって、私基本的に面倒くさがりだしぃ、ああいうの性に合っていないのよねぇ」

 マイペースな口調で英美は言い訳する。

「今までどこにいたんですか?」

「どこって言う事もないけど、当てもなくあっちこっちをブラブラとねぇ。日向ぼっこするのも気持ち良いしぃ。何でみんな生き急ぐのかなぁ」

 何だかおばあちゃんみたいな事を言い始めた。

「相変わらずですね、先輩は」

「そぉ? 私だって色々考えてるのよぉ」

 のんびり口調でそう主張するが、まったく説得力がない。

「本当ですか?」

「本当よぉ。そろそろ幸も堪忍袋の緒が切れそうかなぁって思って、今しがた戻ろうかなぁって思っていたところなのよぉ」

 英美はそう言う。

「何だったら、一緒に行くぅ?」

「いえ、私も用事がありますので」

 本当はないのだが、今部室に顔を出すのは気まずい。

「そぉ、じゃぁ、私行くわねぇ」

 そう言うと、英美はフラフラと外に出て行った。

「あの人見てると、こっちが悩んでるのが馬鹿らしくなってくるのよね」

 瑞穂は思わずそう呟いた。実際、今の一件で少し気が晴れた感じだ。

「さてと、どうしようかな」

 何にしても、ミス研の部室に顔を出すつもりはない。だからといって、このままうろついているのもどうかと言う話だ。

 少し迷っていると、瑞穂の目に部室棟とグラウンドを挟んだ反対側にある武道場が目に入った。

「ちょっと、見に行ってみようかな」

 瑞穂はさっきの紙内の話……すなわち、中体連で三年連続全国一位になったという桜森学園の女子剣道部員の事を思い出していた。友人の笠原由衣と同じ学校の一年生という事で、何となく興味を覚えたのである。

 外に出て武道場に近づいてみると、剣道部員の掛け声が外まで響いてくる。その掛け声に混じって、何とも言えない怒号が混じっている。おそらく紙内が嘆いていた通り、ふがいない試合に対して顧問が激怒しているのだろう。ちなみに、この剣道部の顧問は体育の主任教師であり、非常に厳しい事で校内では有名だった。

 グラウンド側の側面のドアが開いていたので、ソッと覗いてみると、中では防具をつけた部員たちが、素人にはどう表現したらよいのかわからないが、とにかく激しい打ち合いをしていた。顧問は面をつけておらず、備え付けられている太鼓の前で仁王立ちして、部員たちを睨んでいる。

 紙内の話では後は試合稽古だけだという事だったのだが、あまりにもふがいなかったのか稽古が追加されたらしい。見てみると、垂ネームの校名に「桜森学園」の文字が混じっているのが見える。

 それからしばらくすると、顧問が太鼓を鳴らし、それと同時に部員たちはきびきびと一列に整列し、正座して面を外した。どうやら、これで練習は終わったらしい。

「礼!」

 紙内の号令で、全員が一礼し、顧問がしばらく何かを話した後、武道場から出て行った。場にホッとした空気が流れる。稽古終了である。

「あれ、どうしてここに? クラスの用事は大丈夫なの?」

 と、紙内が瑞穂に気が付いたようで、こっちに寄って来た。

「いえ、時間が余ったんで、ちょっと見学に。さっき話してた強い子って誰なのかなって思って」

「やっぱ、気になった?」

「ええ、まぁ」

「あの子だよ」

 紙内は一人の少女を指差した。髪は首筋にそろえられた瑞穂とよく似たショートヘアで、どちらかと言えばおかっぱといっていいかもしれない。目つきは鋭く、凛とした表情が特徴的だ。垂ネームには桜森学園と書かれた下に「国松」と名前が書いてある。

国松香くにまつかおるさんといってな。恐ろしく強い。何でも、実家も剣道場を経営しているらしくって、真剣の居合をやった事があるとか何とか」

「すごい人がいるんですね」

「試合練習をやったが、全員、一分以内で瞬殺された」

「……それはちょっと情けないですね」

「面目次第もない」

 紙内が冗談めかして言う。と、その国松香が紙内の近くに近づいてきた。

「紙内部長、本日は稽古に参加させて頂き、ありがとうございます」

 香はそう言って丁寧に一礼した。その姿や言動は、冗談抜きで武士そのものといった感じで、その凛とした外見と完全にマッチしていた。

「いえ、こちらこそふがいなくてすみませんね」

「そんな滅相もない。また共に稽古できたらいいと思っています」

 と、そんな香の視線が瑞穂に向いた。

「そちらは?」

 瑞穂は慌てて頭を下げた。

「ええっと、少し見学していただけの者です。剣道部とは関係ありませんので……」

「いえ、そんな謙遜なされずとも……」

 と、その視線が、瑞穂の持っていた鞄のネームにいった。

「深町さん、ですか?」

「は、はい」

「もしかして、深町瑞穂さんですか?」

 その言葉に、瑞穂は驚いた。

「ど、どうして私の名前を?」

「やはり、そうでしたか」

 香は頭を下げた。

「改めまして、桜森学園高等部一年の国松香といいます。笠原由衣さんとは同級生でして、よくあなたの話を聞いています」

「由衣の同級生?」

 思わぬ話に、瑞穂は戸惑った。

「はい。あなたに会ったらよろしく言っておいてくれと言われていました」

「由衣ったら……」

 瑞穂は気恥ずかしさのあまり顔を赤くする。

「何だい、知り合いかい?」

 紙内が尋ねる。

「間接的にですけど」

「ふーん。ま、積もる話があるみたいだし。俺は君の先輩方が竹刀を見つけたかどうか確認しに行ってくる」

 そう言って、紙内は武道場から出て行った。

「あの、そっちでは由衣はどんな感じですか?」

「クラスでもムードメーカーとして通っています。水泳部でも頭角を現しているとか」

「そっか、うまくやってるんだ」

 言われてみれば、最近ゴタゴタが多くて由衣とはほとんど連絡を取っていなかった。

「ええっと、中体連で三年連続優勝されたとか」

「私はただ己の精進に励んでいるだけです。まだまだ精進せねばと思っています」

 香は短く答える。考え方まで本物の武士のようだ。その物腰は、どこか人知れない修羅場を潜り抜けてきたような、何とも言えない風格すら漂っている。只者ではない。同じ年齢であるはずの少女に対し、瑞穂はそう直感していた。

「ところで、せっかく由衣さんを通じてこうして知り合えたんです。時間があるなら、少しお話しませんか」

 不意に香が提案する。瑞穂としても異論はなかった。

「よろこんで」

 二人はドアの近くに並んで腰を下ろし、グラウンドを見ながらおしゃべりを始めた。


 同時刻、部室棟二号館前にて。

「で、どうだ?」

 紙内は正面に出てきた佐脇に尋ねた。

「出てきませんね。さっきから散々探しているのですが」

「もう一人はどうしたよ。村林とかいったか」

「村林君なら、さっき部長がクラスの仕事を終えてやってきたので、交代してどこかに行きましたよ」

「そう言えば、用事があるって言ってたか」

 紙内は思い出しながら呟く。

「って事は、今、野川のやつも調べてるのか?」

「村林君と交代で、二階を調べています。部長にしては珍しく、ブツブツ言っていましたけど」

「はぁ、名探偵殿にまでご足労願って、これで見つからなかったらいよいよ深刻だな」

 紙内はため息をつく。と、階段の踊り場から野川が顔を見せた。

「おう、どうだ?」

「芳しくないね。本当にあるのかい?」

 野川は少々疲れたような表情で聞いた。

「あるのは間違いないんだ」

「それならいいんだが。まぁ、こっちも暇だし、やれるところまではやるけどね」

「手伝うか?」

「いらないよ。君がいるとかえって混乱する」

 そう言って、野川は二階に引っ込んでしまった。

「ま、二階はあいつに任せておけば大丈夫か」

「では、こっちを手伝ってください」

 佐脇が眼鏡をずり上げながら言う。

「さっきから続けていて、こっちもいい加減に疲労困憊です。少し交代してください」

「はいはい、わかったよ」

 紙内はそう言うと、一階の倉庫に入っていった。それと入れ替わりに、佐脇は二号館の入り口に座り込む。

「まったく、どうしてこんな事になったのか」

 そうブツブツ言って、どことなくボーっとしていた。


 同時刻、三号館のミス研部室。

「ちょっと、何でビデオカメラがないの!」

 幸が中栗に怒っていた。明日の誕生会の様子を撮影しようと計画したのだが、肝心の部備え付けのビデオカメラが見当たらないのである。

「あー、そう言えば、一週間ほど前に隣のゲーム研究会に貸したんだったっけ。持ってたカメラが壊れたから、買い換えるまで少し貸してくれって」

 中栗は頭をかきながら答える。ゲーム研究会はミス研の部室の南隣にあり、人数こそ小規模ながら自作ゲームを作るなど、かなりクオリティの高い活動をしていた。

「何であっさり貸すのよ」

「だって、うちで使う事ってほとんどないじゃん。だったら、有益に使ってもらった方が……」

「すぐに返してもらってきなさい! 今すぐに!」

 幸は問答無用といった感じで告げた。

「今すぐって、隣、誰かいるかな。発表用のゲームは完成したからって、最近ほとんど来ていなかったような気が……」

「文句を言わない! すぐに行く!」

「はいはい」

 中栗は幸の小言から逃れるように部屋を飛び出した。

「ねぇ、せっかく来たけど、私に用事ってないのぉ」

 いつの間にか舞い戻っていた英美が尋ねる。

「あんたは消えたり現れたり神出鬼没ね。忍者か何かなの?」

「幸の冗談って面白いよねぇ」

「冗談言ってるように見える?」

「まぁまぁ。邪魔ならまた消えるけど、どうするぅ?」

 幸は、辺りを見渡した。何だかんだ言って、英美が戻ってきた時にはほとんど準備は終わってしまっていた。

「いいわよ。こっちもあらかた終わったし」

「そぉ? じゃ、お言葉に甘えてぇ」

 そう言うと、英美は部屋から出て行った。

「はぁ、なんか疲れたな」

 幸は、窓際にもたれかかってため息をついた。

「兄さん……」

 そう呟くのを、聞いた人間はいなかった。


 同時刻、一号館の一階に部室を構える新聞部では、文化祭に向けた号外の発行に向けて作業が行われていた。とは言え、ほとんどの部員は取材に出ていて、部屋にいるのは一人であったが。

 その部員、新聞部二年の矢島亜樹やじまあきは、備え付けのパソコンを使って、編集作業を行っていた。亜樹のポジションは編集担当で、取材で持ち込まれた記事をまとめ、編集するのが主な役割だった。

 パソコンを打つ手を少し止め、正面の時計を見る。時刻は午後三時に差しかかろうかという具合だ。昼休みが終わってから二時間以上、こうしてパソコンの前で作業をしているが、いい加減疲れてきた頃合である。

「休憩しよっかな」

 亜樹はそう呟くと、椅子から立ち上がり小さく伸びをした。と、不意に部室の窓がノックされる。

「はいはーい」

 亜樹は特に気にする様子もなく、窓を開けた。そこには見知った顔が立っていた。

「オッス」

 特徴的な坊主頭の少年……ミス研二年の村林慎也だった。

「まったく。あんたはどうしていつも窓から顔を出すの?」

 亜樹が呆れたようにコメントする。

「いやぁ、何というッスか、私用なのにドアから声をかけるのは何とも恐れ多いっていうか……」

 村林は頭をかきながら答える。

 この二人、実は昔からの幼馴染である。幼稚園時代からの付き合いで、昔からよく話す仲であった。もっとも、あまりに親しすぎる仲であるためか恋愛感情といったものは一切起こらないらしく、ただの話し友達といった側面が強い。無論、それぞれの友人たちからは「本当は付き合ってるんじゃないのか」とよく言われるが、本人たちとしては本当に友達としてしか見られないのだから仕方がない。どうも幼馴染という関係に対して世間一般には過剰な期待が寄せられているようだ、と、亜樹は一度記事にしたら面白いかもしれないとまで思っている。

「ま、そんな前置きは程々にして、本題に入るッスか」

「そうね」

 そう言って、二人は声を潜めた。

「で、どうなの? あの話の信憑性は?」

 亜樹の意味ありげな問いに、村林はこう答えた。

「ばっちりッスよ。特ダネ間違いなしッス」

「あんたは大丈夫なの? こんな事して、ミス研から睨まれない?」

「いやぁ、この話が本当なら、あんな部活はとっとと辞めたいッスからねぇ」

 そう言って、村林は笑う。しかし、その表情が少し真面目なものになっている事に、長年付き合ってきた亜樹は感づいていた。

「じゃ、話すッスか」

 村林は続ける。

「ミス研の裏の側面ってやつを」


 そして、いくつもの思惑を抱えながら、日常は、突如として非日常へと変貌し、善良なる者たちに牙を向く。


「へぇ、それじゃあ、国松さんの実家が剣道場って本当なんですね」

 時刻は午後三時頃。武道場側面のドアの前で、瑞穂と香はおしゃべりを続けていた。

「かなり古い道場です。国松家そのものも戦国時代にはもうあったようで、代々歴代当主が道場主をやっています。現在、私が十八代目の当主です」

「えっ、ご両親がやっておられるんじゃないんですか?」

 瑞穂は驚いた。

「父は婿養子なんです。それも、私とは血がつながっていません。私の本当の父は私が生まれてすぐに亡くなって、その一年後くらいに母が今の父と再婚しました。だから、当時の当主は私の母だったんです」

「お母さんは?」

「私が三歳の頃に亡くなってしまいました。その後数年は元当主だった祖母が当主代行をしていたんですけど、その祖母もすぐに亡くなって、唯一残った私が今の当主をやっています」

「そうだったんですか……」

 彼女のこの性格はこの辺りから形成されているのかもしれないと、瑞穂は考えたりした。

「それにしても、随分活気がありますね」

「今、文化祭の準備期間ですから」

 そう言いながら、瑞穂は何気なしに辺りを見回した。その時だった。

「あれ?」

 瑞穂はグラウンドの向こう側にある部室棟一号館を見ながら、思わずそう呟いていた。見知った顔が意外な場所にいたからである。

「どうしましたか?」

 隣にいた香が尋ねる。

「あ、ちょっと。顔見知りが意外な場所にいたので」

 一号館のほぼ中央の窓。その前に、坊主頭の男子生徒が立っていた。後姿だがわかる。村林だった。

「村林先輩、あんなところで何してるんだろ」

 見ると、窓からはお下げの女子生徒が顔を出していて、何かを話しているようだ。

「あそこって、確か新聞部だったよね」

 瑞穂は自問自答する。こう言っては何だが、村林が行きそうもない場所である。

「用事があるって言ってたけど、新聞部に何の用なのかな」

 瑞穂は首をひねった。と、その時だった。不意に香が不思議そうな表情をした。

「あの人」

「え?」

「深町さんが今見ている辺りの二階の窓です。何か様子がおかしいと思いませんか?」

 香の言葉に、瑞穂は村林がいる新聞部室の辺りを改めてよく見た。

「あれ? あの人って……」

 それは、一号館二階の新聞部室の真上に当たる窓だった。窓は全開になっており、そこにまたしても見覚えのある顔が見えたのだ。

「横川先輩?」

 窓から見えた顔は、ミス研三年の横川卓治である。さっき聞いた話ではどこにいるのかわからないという事だったが、その場所が意外だった。

 確か新聞部室の真上は美術部の部室だったはずである。新歓期間に美術部に見学に行ったので瑞穂は覚えていた。窓際に飾ってある大きな花瓶に見覚えがある。村林が新聞部の窓の前にいるのも意外だが、横川が美術部室にいる方がもっと意外である。しかもその表情は、距離があるのではっきりしないとは言え、なぜか無表情で、ジッと窓際にいるまま動かない。普段の横川とは明らかに様子が違った。

「何か、雰囲気がおかしいですね」

 香もそのように感じていたらしい。一方の瑞穂は、何とも言えない感じの悪さを感じていた。何か、これからとんでもない事が起こりそうな、そんな予感が……。

「あっ!」

 次の瞬間だった。香が思わず声を上げ、瑞穂も絶句した。

 美術部室の窓際に飾ってあった花瓶。かなり大きなものであるのだが、その花瓶がいきなり窓から落ちたのだ。傍には横川がいる。明らかに横川が花瓶を落としたとしか思えなかった。

 そして、その花瓶の真下には、新聞部の女子生徒と何かを話している村林が……。

「に、逃げて!」

 思わず瑞穂は叫んだ。が、届くものではない。直後、落下した花瓶は、重力の法則に従い、村林の頭を直撃し、真っ赤な血が地面をぬらした。

 絶叫がほとばしる。悪夢の始まりであった。


 その瞬間、亜樹は何が起こったのか瞬時に判断できなかった。目の前で話していた村林の頭に何か大きなものが上からぶつかると、赤い液体が村林から飛び散った。直後、物体は砕け散り、村林は糸の切れたマリオネットのようにその場に崩れ落ちた。

「え……」

 突然の出来事に、亜樹は絶句する。が、村林は地面に倒れたままピクリとも動かない、直後、倒れた村林の頭の辺りから、赤黒いと表現するしかない液体がじわじわと広がり始める。

 それが血である事と、その血が自分の制服にも飛び散っている事に気がついた瞬間、亜樹は絶叫した。

「い、嫌ぁぁぁ!」


 亜樹の発した絶叫は、グラウンドにいた生徒のすべての視線を一号館に集中させた。瑞穂は一瞬頭が真っ白になったが、我に返ると立ち上がり、迷わず村林が倒れた辺りに走り始めた。

「お、おい! 誰か先生に!」

 グラウンドにいた陸上部員が叫び、瑞穂の他にも陸上部や野球部の何人かが駆け寄る。そして、その視線が花瓶の落ちた先……すなわち美術部室に集中する。

「あいつ、何を考えてるんだ!」

 問題の瞬間を目撃したのだろう。陸上部員の一人が二階に向けて叫ぶ。が、不気味な事に横川は窓から外を見ながら、無表情に突っ立ったままだ。まるで、自分が何をしでかしたのかわかっていないように。

「横川先輩、何をしているんですか!」

 瑞穂は思わず叫んだ。かなり重量のある花瓶だったらしく、倒れた村林はピクリとも動かない。頭から大量に出血し、見る見るうちに顔色が悪くなっていく。

「お、おい! これ、まずいぞ!」

 野球部の一人が青ざめながら言った。

「あいつを捕まえろ!」

 誰かが叫ぶのが、瑞穂には聞こえた。

 だが、事態はさらに予想もつかない方向に突き進んでいく。捕まえろという叫びを聞いて、何人かが一号館に走ろうとした瞬間だった。

 突然、美術部室からドンと言う轟音が響いた。

「な、何だ!」

 直後、今まで横川が見えていた窓から、猛烈な炎が噴出し、大量の火の粉が下に集まっていた生徒たちに降り注いだ。

「ちょ、やべ!」

 生徒たちが四散する。もはや、尋常ではない事が起こっているのは明白だった。炎の勢いは強く、あっという間に部屋の様子は見えなくなる。窓から見えていた横川の姿も確認できない。ここに至って、一号館全体をパニックが襲った。

「に、逃げろ! 火事だ!」

 文化祭の準備で人が少なかった一号館ではあるが、それでも何人もの生徒が外に避難してくる。火災で発生した煙が一号館を覆っていく。教師たちも駆けつけてきた。

 と、その時だった。

「うわぁー!」

 今度は、一号館の向こう側……二号館の方から悲鳴が上がった。

「こ、今度は何だ!」

 誰が叫んだのかはわからないが、全員が恐慌をきたす。瑞穂は、その大パニックの中、意を決して二号館の入口のほうに走った。これだけの事がありながら、あの嫌な感じはまだ収まらない。

 二号館の入口の前に到達すると、佐脇が二号館と三号館の間の通路の前で腰を抜かしていた。二号館の入口には、この騒ぎに出てきた紙内と野川の姿もある。

「部長、どうしたんですか!」

「あ、ああ。深町君か」

 気のせいか、野川の表情が青い。そして、佐脇に至っては顔面蒼白だった。

「あ、あ、あ……」

 わけのわからない事を言いながら。佐脇は正面を指差す。瑞穂は佐脇の近くに行き、二号館と三号館の間の通路を見た。

「え?」

 そこには、セーラー服を着た女子生徒が倒れていた。ただ倒れているのならまだいい。その周囲に、ついさっき間近で見たものが広がっていた。

 一般的に血液と呼ばれるものが……。

「朝桐先輩!」

 倒れていたのはついさっき話していたばかりの朝桐英美だった。こちらに顔を向けており、その表情は驚愕に染まっている。そして、その胸の辺りから血が水道のようになとどめなく流れ出している。

「そ……そんな……」

 もはや、瑞穂にとって何が何だかわからなかった。あまりに短時間に立て続けに事件が起こっていて、精神がそれに追いついていない。村林の頭に花瓶が衝突してから、まだ五分も経っていないのだ。

「朝桐先輩……」

「駄目だ!」

 野川が鋭く叫んだ。

「近づいてはいけない! あれは明らかに尋常じゃない! 現場を荒らしちゃ駄目だ!」

 さすがに野川は冷静だった。緊迫した様子ながらも、瞬時に指示を出す。

「で、でも……」

「残念だが、あの様子じゃもう駄目だ……」

 野川は首を振る。瑞穂もそれはわかっていた。すでに英美の顔色は青白く、遠くから見ても生きているとは見えなかった。

「け、警察に連絡を……」

 紙内がうわ言のように言う。

「深町君、向こうでは何が?」

 野川が尋ねる。瑞穂は震えながらも答えようとした。

 だが、事件は終わっていなかった。

「ギャー!」

 まさに三度目となる悲鳴が、今度は三号館から響き渡ったのだ。

「な、何だ!」

 その場にいた四人がギョッとして三号館の方を見る。悲鳴は、開けっ放しになっていたミス研の部室の窓から響いていた。

「おいおい、冗談じゃないぞ!」

 野川はすぐに三号館に走る。腰を抜かしていた佐脇を残し、残る三人も続いた。二階に駆け上がり、ミス研部室に急ぐ。すると、ミス研部室の前で腰を抜かしている二人の男子生徒が眼に入った。一人は中栗、もう一人は隣のゲーム研の部員だろう。

「中栗君、どうした!」

「ぶ、部長!」

 中栗が今にも泣きそうな顔で部長を見上げた。

「さ、サッちゃんが……サッちゃんが!」

 その言葉に、全員が息を呑んだ。そして、間髪入れずにミス研の入り口に殺到する。

「こ、これは……」

 野川が絶句した。

 部室はすっかり飾りつけが完了し、明るい雰囲気をかもし出している。だが、窓の外からは一号館の火災の轟音と怒号、さらには英美の死体を見つけた生徒たちの悲鳴が響き渡る。

 そして、そんなミス研部室の窓の傍。机にもたれかかるような体勢で、その女子生徒は眠るように床に座り込んでいた。その床に血溜りを形成し、胸の辺りから滝のように血を流しながら……。

「溝岸先輩!」

 瑞穂は絶叫した。さっき、瑞穂を問い詰めていた溝岸幸は、静かに眠るような表情をしながら、無残な亡骸をさらしていた。

「い……」

 その直後、瑞穂の中で何かが切れた。

「イヤァァァァッ!」

 体の中から何もかもを吐き出すようなとてつもない絶叫の後、瑞穂の意識は遠のき、何が何だかわからなくなった。最後の瞬間、瑞穂の耳には、近づいてくる消防車とパトカーのサイレンの音だけが響いていた。

 事件発生から、わずか三分間の出来事であった。

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