第二部 都立立山高校同時多発殺人事件

第一章 小伝馬町会談

 二〇〇七年六月十八日月曜日の夕刻。豊島区の保険会社殺人事件が解決してから約二ヶ月。深町瑞穂は品川にいた。

 学校の帰りにそのまま来たので、服装は制服のままである。とはいえ、六月に入って衣替えが行われたので、上は半袖のブラウスを着用していた。目的地は、一ヶ月前に自分の目の前で殺人事件を解決してしまった男……私立探偵の榊原恵一の事務所である。

「うーん、気が進まないなぁ」

 瑞穂はそうぼやきながら、品川駅から出て事務所のあるビル街へ向かって歩いていった。

 あの後、事件が解決してしまったため野川と榊原の推理対決も白紙撤回。ミス研のメンバーが事務所を再訪する事もなく、すべてが榊原の思惑通りに事が進んでいた。

 結局、瑞穂はこの事件を実質的に解決したのが榊原であるという事実をミス研のメンバーには告げていなかった。もちろんそれは榊原の頼みという側面もあったのだが、本能的にそうした方が事件関係者にとってはいいのかもしれないと感じたからという事もあった。榊原が帰りのタクシーの中で言っていた事が、今でも瑞穂の頭の中を回っていた。

 しかし、どうやら野川は榊原と推理勝負する事を諦めていないようであった。

「今度の文化祭、榊原探偵も招待しようと思う」

 ついさっき、野川は突然部室で宣言をしたのだった。

「突然なんですかぁ、部長」

 英美が相変わらずのんびりした口調で尋ねる。

「次の文化祭の我が部の展示発表を見てもらおうと考えている」

「ええっと、確か来場者参加型で、推理ゲームをやる予定でしたよね」

 瑞穂が慌てて確認する。この高校では六月下旬に文化祭が実施される事になっており、授業もそれにあわせて短縮授業になっている事が多かった。ミステリー研究会では、その文化祭で教室を一つ借り切って、推理ゲームを実施する事になっていたのである。

 内容としては、まず参加者には架空の殺人事件についての記述が小説風に書かれた問題編の冊子を読み込んでもらう。教室には殺人現場を再現し、冊子の巻末には鑑識記録などの基本データを付随し、矛盾を見つけてもらう。そして、最後に十個ほどの設問に答えてもらい、どれだけ真相に近づけたかを競ってもらうという内容だった。

「本物の殺人事件について語るのが駄目というなら、最初から作り物の殺人事件について推理してもらうのなら問題はあるまい」

「まぁ、確かに理屈はそうでしょうけど……」

 中栗が戸惑ったように言う。とはいえ、瑞穂は心の中で、いくら架空でもあの探偵はこの誘いに応じないのではないかと思っていた。

「でも、一般来場者向けの事件ッスから、それほど難解な事件にはなっていないはずでは? いくらなんでも、すぐ解かれそうな気がするッスけど」

 村林が不満そうに言う。確かに難しくしすぎると誰も解けないという事で、題材にする事件については多少なりとも手加減した作りこみがなされている。ちなみに、具体的には教室で架空のミス研の部長が撲殺されたという事件であり、登場人物は部員が実名で登場している。被害者役は言い出しっぺでもある部長の野川自身が引き受け、そのほかの役回りは非常にいい加減な事にあみだくじで決定した。ちなみに犯人役は三年の横川で、瑞穂自身は容疑者その一である。

「でも、僕としては、ぜひ我が部の発表を見てもらいたい。それに、本職の探偵に見てもらえれば、これほど名誉な事もないし、部の宣伝にもなるだろう」

 野川はそう言い、他の部員は互いに顔を見合わせる。

「部長がそこまで言うなら反対はしませんけど、でもどうやって招待するんですか? あの様子じゃ電話で知らせても名乗った瞬間に切られそうだし、郵送にしたところであの事務所の住所や郵便番号なんて知りませんよ」

「直接持っていけばいい。反応も見られて一石二鳥だと思う」

 野川は即答する。

「でも誰が?」

「まぁ、こういうのは一年生がやるもんだよなぁ」

 横川の言葉に、全員の目が瑞穂に向いた。

「え、私ですか?」

「頼めるかな?」

 野川が尋ねる。そこまで言われると、新人の瑞穂に断れるはずもなかった。

「はぁ、まぁいいですけど」

「ありがとう。じゃ、さっそく招待状を書くから、届けてくれるかな? なに、渡して返事をもらってくるだけでいいから」

「それって、何気に大変な事だと思うんですけど」

 そう言いつつも、瑞穂は野川から渡された手紙を受け取った。

「じゃあ、今日は早退させてもらいます。今日は予定もないし、このまま品川に行って渡してきます」

「ああ、頼むよ」

 そういうわけで、瑞穂は他の部員よりも一足先に学校を後にし、こうして品川に降り立っていた。

「とは言ってもなぁ」

 瑞穂はため息をついた。先日間近で拝聴する事になったあの推理力を目の当たりにした今となっては、たかが高校生が考えたゲーム用の事件などあの探偵にとってはたいしたものではないだろうと思っていた。だからこそ、そんな事のためにわざわざ招待状を届けに行かなければいけないと言う事に、いささか後ろめたい気持ちもあった。

 時刻は夕暮れに近く、真っ赤な夕日がビルのガラスに反射してかなりまぶしい。六月ともなれば、日が昇っている時間も長くなってきている。そんなビル街の谷間を、帰宅するサラリーマンやOLたちが何百人と歩いている。ちょうど帰宅ラッシュと重なっているようだ。

「ええっと、確かあのビルの隣から裏路地に入るんだったよね」

 瑞穂は一ヶ月前に訪れた時の記憶を思い出しながら、そちらに向かっていたのであるが、不意にその足が止まった。

「あれ?」

 その裏路地から、今しがた一人の男がひょっこりと表通りに出てきたのである。グレーのスーツにネクタイ。一見するとくたびれたサラリーマンのような容姿。今まさに行こうとしていた事務所の主……榊原恵一であった。

 あれから一ヶ月もたち、気温も上昇傾向にあるにもかかわらず、その服装は前回会った時とまったく変わらないものだった。手には黒のアタッシュケース。その姿はどこからどう見ても、帰宅途中の中年サラリーマンそのものである。

 彼がここにいるという事は、当然事務所は閉まっていると考えるのが筋だろう。ならば、ここで直接手渡すのが一番いいのだろうが、あまりに突然の事ゆえ、瑞穂は思わずその場に硬直してしまった。が、人通りの多さからか榊原は瑞穂に気がついた様子もなく、そのまま瑞穂のすぐ近くを素通りして品川駅の方向へ行ってしまった。

「あ、えっと……」

 あわてて振り返ると、すでに榊原の姿は人ごみの向こうへ消えようとしている。どちらにせよ、このまま事務所を訪れたところで招待状を渡す人間はいないという事になる。記憶では事務所の階段の脇に郵便受けがあったのでそこに放り込んでおけば役目は充分果たしたといえるのだろうが、瑞穂は何かすっきりしなかった。

「……」

 判断は一瞬であった。後から思えばどうしてそんな事をしようと思ったのかわからなかったのだが、瑞穂はきびすを返すと、榊原に気付かれないように一定の距離をとって後をつけ始めた。榊原がこんな時間にどこに行こうとしているのか気になったというのが最大の理由であるが、同時に何となくこの尾行という行為そのものをどこか楽しんでいる節があった。

「探偵を尾行するっていうのも、何だか変な話よね」

 そう呟きながらも、瑞穂は榊原を尾行する。榊原はそのまま品川駅に入っていった。

「また電車かなぁ」

 瑞穂は呟く。どうもこの探偵は自動車などという高級なものは持っていないようだ。まぁ、あんな裏町に自動車を置くスペースがあるとも思えないし、都会に住む以上、自動車が不要な人が多いのも間違いない話なのだが。

 そうこうしているうちに、榊原は切符売り場で切符を買って、そのままさっさと改札に入ってしまった。瑞穂も慌てて切符売り場に駆け寄るが、そこで動きが止まる。

「行き先、どこよ」

 さすがにどこまでの切符を買ったのか確認していない。焦っている間にも、榊原はどんどん先に行ってしまう。

「ええっと、確か刑事とかってこういう時はどうしてたっけ」

 瑞穂は刑事ドラマでの尾行の様子などを考えてみるが、考えてみれば尾行中の刑事が切符を買っている描写なんか見た事がない。カットされているという事なのだろうか。いずれにせよ、何の参考にもなりはしない。

「ああ、もう! 仕方ないなぁ」

 瑞穂は悩んだ末、一番安い切符を買って改札から入った。とにかく見失う事は避けねばならない。運賃が足りなくても、降りた時に精算すればいいだけの話だ。いささか時間はかかったが、榊原を見失う事だけは避けられたようで、山手線の内回りのホームに並んでいるのを確認できた。帰宅ラッシュの時間帯なので油断したらすぐにでも見失いそうな構図ではあるが、逆に言えばこの人ごみが瑞穂の姿を隠しているのも事実だった。

 やがて電車が入線してきた。大量の人が車内から吐き出され、入れ替わりにこれまた大量の人が車内に入っていく。瑞穂は人ごみに押し込まれながら、何とか車内でも榊原を見失わずにいた。ここからだと瑞穂から見て数メートル先にいるのがわかる。

 やがてドアが閉まり、電車は東京方面に向けて動き始めた。瑞穂が必死に榊原を見失うまいとしている中、当の榊原は窓の近くに立って、吊革につかまりながら窓から外を眺めている。

「私、何やってんだろ」

 人の苦労も知らないで窓から外を眺めている榊原を見ていると、ふとそんな考えが瑞穂の頭に浮かんだが、慌てて頭を振って榊原の方に注意を向ける。

 と、何駅か過ぎたところで榊原が動き始めた。

「ここって……」

 次の駅は有楽町駅。前回同行したのと同じ駅である。という事は、行き先の候補として考えられるのはあの時と同じ警視庁である。もし本当に警視庁に行くとなったら、瑞穂の尾行はまったくの無駄になってしまう。さすがに、単身で警視庁に乗り込むような勇気は瑞穂にはなかった。

 そうこうしているうちに、電車は有楽町駅に入線し、榊原はさっさと降りてしまった。瑞穂も電車を降り、すばやく精算して改札から出る。このまま前回同様に有楽町線に行くとすれば、行き先は決まったも同然である。

 ところが、榊原の向かった先は有楽町線の改札ではなかった。向かった先は、有楽町駅と接続している、日比谷線の日比谷駅である。

「あれ、警視庁じゃないのかな?」

 もっとも、このまま警視庁に行かれても困ったのでその点では助かったのだが、榊原は切符売り場で再び切符を買うと、改札に入っていった。二回目ともなると瑞穂も手馴れたもので、一番安い切符を買うと、そのまま後に続く。

 ホームに下りた榊原が並んだのは、東武動物公園行き……すなわち北千住方面への電車が発着するホームであった。瑞穂も気付かれないように後ろに並ぶ。やがて電車が入線し、榊原と瑞穂はそれに乗車した。こちらも乗車率は高く、しかも今度は榊原が割と電車の中央にいたため、見失わないのが大変である。それでも何とか人にもまれながら尾行を続ける。

 今度は降りるまでにかなり長くかかった。銀座、東銀座、築地、八丁堀……次々と駅を過ぎていくが、榊原は動く気配を一切見せない。

 このまま終点まで行くのかと瑞穂が少し不安になった時だった。

「まもなく小伝馬町、小伝馬町」

 車内アナウンスが流れ、榊原が動いた。どうやら、目的地は小伝馬町らしい。確かこの駅は乗換えがなかったはずなので、ここが最終目的地と考えてもいいだろう。

 電車が入線し、榊原が下車する。瑞穂も後に続く。榊原は地上に出ると、そのままブラリと歩き始めた。すでに日は暮れ、空は薄暗くなっている。瑞穂は、気がつかれないように一定の距離をとって、尾行を続けた。

 やがて、長かった尾行も終わりとなった。榊原は小伝馬町のビル街の一角にある小さな路地に入ると、その路地にある小さな店に入っていった。どうやら、居酒屋か何かのようである。

「もしかして、ただ飲みに来ただけ?」

 目的地を知って、瑞穂は少しくたびれたように路地を少し入ったところのビルの壁にもたれかかった。考えてみれば、出かけるからといって仕事絡みとは限らない。榊原だって、何も考えずに飲みたい時だってあるだろう。いざ行き先がわかってしまうと、どうも拍子抜けしてしまった。

「あーあ。こんな事なら尾行なんかするんじゃなかったかな」

 というか、どうして尾行なんかしようと思ったのだろうと、瑞穂は改めて自問自答した。

「帰ろっかな」

 そう思って路地の入り口の方へと振り返った時だった。

「君、こんなところで何をしているのかね?」

 正面に誰かが立っていた。

「え?」

 見てみると、背広姿の男が三人、厳しい表情で瑞穂の方を見ていた。二人が初老の男で、もう一人が四十代だろうか。三人とも鋭い目つきで瑞穂を見ている。

「君、高校生だろう。こんな時間に、こんな場所で、何をしているのかね?」

「あ、えーと」

 改めて聞かれて己を振り返ってみれば、制服のままである。どこかの高校の制服を着た女子高生がこんな居酒屋の前にいたら、怪しまれて当然である。下手をすれば警察を呼ばれて補導されかねない状況だった。

「ええっと、ちょっと道に迷って……」

「目的地は? どこに行くつもりだね?」

 先頭にいる初老の男が問いかけ、瑞穂は詰まる。場所が思いつかない。

「学生証を出して」

「あの、あなた方は?」

 その雰囲気に嫌な予感がしながら、瑞穂は尋ねた。この雰囲気の人間に、瑞穂はつい先日会った事がある

「失礼。警察の者だ」

 案の定、初老の男はそう答え、警察手帳を懐から出した。万事休すである。よりによってこんなところに警察がいるとはついていない。瑞穂は観念して生徒手帳を出した。

「立山高校。本籍地は麻布か。学校からも自宅からも、この場所は遠いと思うのだがね」

「ええっと、それは……」

 まさか尾行していましたとは言えない。

「ちょっと話を聞かせてもらってもいいかね?」

 初老の男が詰め寄る。と、その時だった。

「あぁ、沖田さん、こっちです」

 不意に後ろから声がかけられた。振り返ると、さっきまで尾行していたはずの榊原が居酒屋の前に立っていた。

「榊原。もう来ていたのか」

「ええ、まぁ」

 そこで初めて、榊原は瑞穂の存在に気付いたようだった。

「ん? 君は……」

「ええっと、そのぉ」

 どう言い訳していいのかわからずに、しどろもどろになる。

「君の知り合いかね?」

 と、初老の男が榊原に尋ねた。どうも、この三人と榊原はここで待ち合わせをしていたようである。というより、そうでも考えないとこんな場所に都合よく警察が現れるはずがない。

「えぇ、まぁ。先日、色々ありまして」

 榊原はそう曖昧に言うと、瑞穂の方に歩み寄る。

「す、すみません。実は私……」

 瑞穂が謝ろうとした時だった。

「いや、悪かったね。場所がわかりにくかったか」

「え?」

 思わず榊原を見上げる。が、榊原はそんな瑞穂の様子に気付かぬ風に男たちにこんな説明を始めた。

「実は今日の話に関係があるので、彼女を呼んでおいたのです。どうもこういう所は初めてらしく、戸惑っていたようですけどね」

「君が呼んだのか」

 初老の男の表情が緩む。どうやら、庇ってくれてはいるようだが、いささか内容が不明瞭だ。

「信用できる人間かね?」

「保障します。それに今回の一件、彼女の助けが必要になるかもしれません」

 どうも、この様子ではただの飲み会というわけではないようだ。何やら榊原の仕事に関係する打ち合わせか何かのようである。

「……まぁいい。とにかく中に入ろうか。詳しい話はそこで」

「ええ」

 結局、瑞穂はわけのわからないままに、居酒屋に連れ込まれる事となった。


「さてと」

 榊原が発言する。そこは居酒屋の中でも奥まった場所で、まさに秘密の会合にうってつけという座敷であった。すでに料理は運ばれ、瑞穂に配慮しているのか全員ウーロン茶が配られている。問題の三人に、瑞穂と榊原が相対する形だ。

「まずは、この子の紹介を。深町瑞穂君。立山高校の一年生で、同校のミステリー研究会の部員です。つい先日の生命保険会社の事件で少し関係しまして、信用に足ると判断しました」

 榊原の紹介に、正面に座る三人は頷く。

「では、沖田さんたちも自己紹介をお願いします」

「そうだな」

 沖田と呼ばれた中央に座る初老の男が答える。

「私は沖田京三おきたきょうぞう。こっちが石川欽次郎いしかわきんじろうで、そっちの若いのが橋本隆一はしもとりゅういち。全員、榊原とは元同僚で、今も警視庁に在籍している」

 沖田が両隣の二人も紹介する。警察関係者という事だが、印象としては現場の人間というよりは官僚タイプであり、幹部クラスの人間、すなわち警察内部でかなり偉い人間ではないかと瑞穂は推測した。

「同僚、ですか?」

「ああ、警視庁刑事部捜査一課第十三係……通称・沖田班。ここにいるのは、かつてその捜査班に所属していたメンバーだ。榊原だけが辞職する事になってしまったが」

 そういえば、榊原がかつて警視庁で一番の検挙率を誇る捜査班に所属していて、そこでブレーンのような役割をしていたと、野川が事務所で言っていたのを瑞穂は思い出していた。

「最強の捜査班、だったとか?」

「知っているのかね。まぁ、九年前に解散してしまったがね。一九九〇年だったか九一年だったか、当時の警察庁刑事局長が増加する凶悪犯罪に対抗する形で、キャリア・ノンキャリアの区別を問わず捜査能力に優れた警察官を集めて一つの捜査班を作った。それが警視庁刑事部捜査一課第十三係。私が班長だったから『沖田班』呼ばれていたが、当時は確かに最強の捜査班と呼ばれていた」

「どうして解散を?」

「まぁ、色々あってね」

 榊原が重い口調で言う。どうも、榊原が警視庁を辞めた一件と絡んでいるようだ。野川の話だと、何か大失態を起こして辞めたとの事だが、瑞穂もこの場でそれ以上突っ込むのは野暮と考え、黙り込んでしまった。

「じゃあ、本題に入ろうか。今日、ここに呼び出したのはなぜだ?」

 沖田の隣に座っていた石川が銀縁の眼鏡をずり上げて質問する。

「神崎十三警部。覚えていますか?」

 唐突に榊原が発した言葉に、瑞穂は目を丸くする。一方、対する三人はしばらく何か考えていたが、不意に沖田が目を見開いた。

「九年前に捜査一課にいた刑事だったな」

「あの一件で沖田班が解散した時、連座的に何人もの刑事が処分されました。彼もその口で、富山県警に飛ばされていたんです」

 あの一件とは、九年前という点から見ても榊原が辞めた事件を指すらしい。何人も処分されたということは、かなりの大事件だったのだろう。

「準キャリア組か」

「ええ」

「その神崎警部がどうしたんだね?」

 沖田の問いに、榊原はこう答えた。

「実は、先日神崎警部……いや、すでに定年退職されていたので、元警部になりますが、とにかく彼が私の事務所を尋ねてきたのです」

 ほう、と相対する三人は興味深そうな表情をした。

「その内容は?」

「ある事件の調査でした。彼が最後に担当した、富山県下で発生したある事件です」

 その瞬間、瑞穂は以前見た、榊原の捜査ファイルを思い出していた。

「もしかして、それってあの黒部ダムの?」

「まぁ、そういう事になる」

 榊原は肯定した。沖田が眉をひそめる。

「いいのかね。守秘義務のある探偵が依頼人の名前を公表して」

「実はそれどころではない事態になっていましてね。その辺りの事も、追々説明しますが」

「……いいだろう。それで、その黒部ダムの事件とは?」

「表向きは事件ではありません。自殺、もしくは事故死として処理されている事件です」

 榊原は、改めて神崎が依頼に来た時の事を語り始めた。


「九年ぶりだな」

 二〇〇七年四月九日月曜日。品川の榊原探偵事務所に、先日富山県警を退職したばかりの神崎十三が訪れていた。ねずみ色のブレザーを着て、頭には古ぼけた帽子をかぶっている。二人は二つある来客用のソファにそれぞれ座り、テーブルを挟んで対峙していた。

「お元気そうで何よりです」

「お前もな。繁盛しているそうじゃないか。富山にもその名声は届いているよ」

 神崎は事務所を物珍しそうに見回しながら言った。

「退職されたんですね」

「定年でな。ついこの間の事だ」

「御家族は?」

「女房は先に逝ってしまって、娘は北海道に住んでいる。今は気楽な一人暮らしだ。時間だけはたっぷりある」

 神崎は寂しそうに笑った。

「それで、暇をもてあまして東京観光にでも来られたんですか?」

「笑えん冗談だ。元々本庁捜査一課にいたんだ。東京の事はよくわかっているつもりだ」

「それでは、一体どうして?」

 榊原の問いに、神崎はしばらく躊躇しているようだったが、

「実はな、一つ相談事がある」

「というと?」

「お前の探偵としての腕を買いたい。手を貸してくれないか?」

 そう言って、頭を下げた。

「よしてくださいよ。あなたに頭を下げられると調子が狂う」

「そうかい」

 そう言うと、神崎は懐から一冊のメモ帳を取り出し、榊原の前に置いた。

「これは?」

「俺が最後に担当した事件、いや、事故の記録だ。表向きはだがな。今から二週間ほど前、俺が退職する直前に黒部ダムで起きた変死事件の事が書いてある」

「拝見します」

 榊原はメモ帳を手に取ると、一ページずつめくって読み進めた。その間、事務所内を沈黙が支配する。

 十分ほどたって、榊原はメモ帳を閉じた。

「概要は理解できたか?」

「一応は。これを見る限り、自殺か事故死と県警は判断したようですね」

「ああ。遺書も動機もなかったからそれ以上は絞れなかったが、少なくとも人為的な要素はないと判断された。俺が辞めた時点ではどちらかと言えば事故説が有力視されていたがな」

 そう告げる神崎を、榊原は鋭い視線で見つめた。

「そういう言い方をする以上、神崎さん自身はそうは思っていないと?」

 榊原の鋭い問いに、神崎も鋭い視線で返す。

「ああ」

「根拠は?」

「何と言うべきか。強いて言えば、刑事の勘、だ。実のところ、そう言う他ないのだが」

 神崎はそう言った。

「と言いますと?」

「そこに書かれている通り、死んだ生田徹平という男子高校生は、東京の立山高校の人間だった。で、生田は同じ立山高校生のあるグループの一人として、そのグループが黒部山中のロッジで行っていた合宿に参加する形で富山入りしている。生田以外の面子は朝になって生田がいないのに気付き、探しているうちに黒部ダムの遺体発見騒ぎに遭遇して、変わり果てた生田を発見した。まぁ、こういう流れだ」

 それで、榊原もピンと来た様子だった。

「つまり、そのグループの方に何かあったと?」

「そういう事だ。やつらとは遺体確認の際に会っただけだが、その際のやつらの態度が……何と言うか、どこかしっくりこなかった」

「どういう事ですか?」

「何か隠している。直感だがそう感じた」

 刑事畑一筋で定年まで過ごした男の発言である。それだけに、信憑性は高い。

「誰か一人がという事ですか?」

「それがよくわからない。だが、少なくとも複数の人間が何かを隠しているように感じた。だが、逆に言えばそれだけだ。確証も何もあったもんじゃない。そこで、退職するまでのわずかな期間にちょっと問題のグループについて調べてみたんだが……」

 そう言うと、神崎は持ってきた鞄から別の書類の束を取り出した。

「そしたら、こんなのが出てきた」

 榊原はその書類を受け取り、一枚目に目を通した。

『新橋駅大学生轢死事件』

「これは……」

「去年の五月頃に東京の新橋駅で起きた事件だ。警視庁のデータベースにあったやつを俺なりにまとめたものだ」

 二枚目には、事件の概要が記されていた。

「事件そのものは単純だ。東京都内の大学に通う学生が、新橋駅の山手線ホームから転落し、そのまま入線してきた電車に轢かれて死んだというものだ。一見すると自殺、もしくは事故死で、自殺する動機がなかった事から、警視庁は事故死として処理している」

 榊原が読み進めるのと同時進行で、神崎も解説を加える。

「被害者は岩坂竜也いわさかたつや。早応大学法学部一年生。大学入学後わずか二ヶ月での悲劇だった」

「この事件のどこに引っかかったんですか」

「その死んだ岩坂って大学生、出身高校は立山高校だった。さらに、高校在学中に問題のグループに所属していて、驚いた事に部長職までやっていた」

「部長という事はそのグループは部活動かサークルの類なんですか」

「ああ。生田が死んだ時の面子は生田を含めて九人。富山のロッジにいた理由は部活の合宿で、その合宿には一人を除いて全員が出席していた」

 話を戻すぞ、と神崎は言って再び書類に目を向ける。

「それはともかく、岩坂の死因そのものに疑いはないが、問題は岩坂がなぜホームから落ちたのかだ。当時は帰宅ラッシュの時間帯でホームは超満員。しかも、目撃者の何人かは、まるで岩坂が誰かに突き落とされたような落ち方をしていたと証言し、警察としても放っておけなくて、一応捜査をしている。もっとも、捜査本部が立つようなものではなく、一部の所轄の刑事数名による補充捜査のような形だったらしいが」

「だからこそ、警視庁の記録に残っていたわけですか」

「事故直後、警察は一応という形ではあるが、当時ホームにいた人間の住所と名前を控えている。補充捜査を担当した刑事は、その中で岩坂と利害関係がある人間がいないかどうかを調べたんだが、その中に……」

 いったん言葉を切って告げる。

「黒部ダム事件の被害者、生田徹平の名前があった」

 榊原は特に表情を変える事なく、黙ったまま話を聞いている。

「驚かんか」

「まぁ、予想はできましたから。でないと、その事件と黒部ダムの事件が結びついた理由がわかりませんので」

「相変わらずの推理力だな」

 神崎はフッと笑う。

「しかし、どこで岩坂と生田がつながったんですか? この時の生田は高校一年生で、対する岩坂は大学一年生。生田は岩坂の卒業と入れ替わりで入学した事になり、同じ部だからといってつながりがあるとは思えません」

「ところが、だ。生田は中学校時代に文芸部に所属し、なおかつ部長をしていて、近隣の中学、高校の文芸部と合同で冊子を作っていた経験があった。立山高校の文芸部はこの当時部員不足から機能不全に陥っていて、代理でこの合同冊子作成に問題の部活が参加した。その際、生田はその打ち合わせのために立山高校に出入りし、部長だった岩坂とも面識があったようだ」

 榊原は黙ってそれを聞いていたが、やがて少し真剣な表情で尋ねた。

「神崎さん。生田が所属していたという、その問題の部活とは何なんですか?」

 根本的かつ核心をつくその質問に対し、神崎はしばらく考え込んだが、やがてその名を告げた。

「立山高校ミステリー研究会。それが問題の部活の名称だ」


「嘘……」

 話を聞き、瑞穂は絶句していた。

「やはり、何も聞かされていなかったようだね」

 榊原が気遣うように言う。前の事件で見たファイルの被害者が立山高校の生徒だったというだけでも相当ショックだった。しかし、それがよりにもよってミス研のメンバーだったとまでは思ってもいなかった。しかも、野川の先々代に当たる元ミス研部長も電車に突き落とされて殺されたかもしれないのだ。

「あの、探偵さん。そのダムの事件が起きたのって、確か今年の三月なんですよね」

「ああ」

「つまり、少なくとも私以外のメンバーは、全員この生田さんの事件の事を知っているはずという事なんですよね」

「そうなる」

 榊原の答えは簡単だった。だが、想像だにしていなかった話に、瑞穂は目の前が歪んだように感じた。

 興味本位で尾行しただけのはずだった。それが、まさか今自分が所属している部活にかかわる事件の話を聞く事になる事になろうとは、あまりに話が飛躍しすぎていた。日常からいきなり非日常に突き落とされた気分だった。

「大丈夫かね」

 榊原が少し心配そうに聞く。が、瑞穂は気を振り絞ると、蒼ざめた顔ながらも先を促した。

「……聞かせてください。あの部活に、何が隠されているんですか?」

 聞かなくてはならない。瑞穂は直感ではあるが、そう感じていた。

「……いいだろう。続きを話そう」

 そう言うと、榊原は再び神崎との会見の回想を語り始めた。


「データによれば、最終的に生田徹平は岩坂の死には無関係と判定されている。ただし、データに名前だけは残った。それが今回は幸いしたわけだが、お前さんの見立てはどうだ?」

 神崎はそう言って榊原に感想を求めた。

「同じ部活の関係者がわずか一年の間に相次いで事故死。確かに臭いますね」

「あぁ、ただし証拠はない。偶然と言われればそれまでだ。だが、何かあるのは間違いないと思う」

「なるほど。刑事の勘と言わざるを得ない状況ですね」

 榊原は唸った。

「とはいえ、すでに殺人の可能性は否定されている事件だ。俺としてもひっくり返すわけにもいかず、もうすぐ辞める身でもあって表立った捜査もできなかった。だから富山県警を退職してから、俺は引き続きこの事件を調べ続けた」

「具体的には?」

「ダム事件の被害者の生田徹平と、新橋事件で死んだ岩坂竜也についてだ。まぁ、年寄りのできる事なんぞ限られている。せいぜい身元調査が精一杯だったが」

 そう前置きして、神崎は語り始めた。

「生田徹平は割と裕福な家の生まれだ。黒部ダム事件でやつらが泊まっていた黒部ダム近くのロッジも生田の口添えで借りられたものらしい。というのも、生田の父親の兄、すなわち生田の伯父が富山県議会の議員をしていて、その伯父が黒部ダム建設の際に建設元の電力会社を支援した。で、工事の後に当時作業員のために作られた小屋を譲り受け、自分のロッジに改装したとの事だ。父親も富山に本社を置く企業の東京支社長。生田自身も成績も優秀で、少なくとも自殺に追い込まれるような環境にはなかった。このため、さっきも言ったように県警としては事故説が優勢になっている」

「しかし、立山高校といえば中堅の都立高校。成績も優秀という事なら、もっと上の高校を目指してもよかったのでは?」

 榊原は素朴な疑問をぶつけた。

「それだ。実は、そこに少し不可解な事がある」

「と言うと?」

「中学校時代の担任教師に電話で話を聞いてみたんだが、生田は当初桜森学園を第一志望にしていた」

 桜森学園と言えば桜森大学を母体とする東京有数の名門私立学校で、エスカレーター式に大学に入れる。卒業者には各界の著名人も多く、政治家や企業重役の身内を持つ生田が入学してもおかしくない学校だ。

「事実、入れるだけの学力はあったらしい。ところがだ、生田はなぜか試験直前になって志望校をいきなり立山高校に変更してしまっている」

「何ですって?」

 榊原は顔を上げた。

「当然、担任は元より家族など周囲の連中は大反対したらしいが、生田は結局立山高校に入った。まぁ、桜森学園の試験を受けても大丈夫と言われているやつが、公立の試験を受けたところで落ちる心配はなかったわけだが、それにしても奇妙な変更だ」

 神崎はそう言うと、少し言葉を切って岩坂の話に移った。

「次の岩坂竜也だが、いわゆる父子家庭の人間だ。幼少期に両親が離婚。二人いた子供のうち、兄の竜也が父親に引き取られ、もう一人いた妹は母親に引き取られている。父親は家裁の調査官をしていて、その影響を受けたのか岩坂自身も法律家を目指していたらしく、事実こちらも名門の早応大学法学部に入学している。立山高校に入ったのは学力的な問題らしく、入学後に成績が上がって早応大学に入れた口だ」

 さすがに元刑事だけあって、身元調査だけとは言え、その調査内容は非常に細かいものであった。

「問題のミス研の部長には二年の秋から就任している。生田と出会ったのは合同冊子の話が出た三年の春の事らしい。自宅は高円寺の辺りだ」

「高円寺ですか」

 それを聞いて、榊原の眉が動いた。

「気がついたか」

「ええ。確か岩坂が死んだのは新橋駅でしたよね」

「ああ。ちなみに、岩坂は自宅生だったそうだ」

「だとすると、方向が逆ですね」

 早応大学のキャンパスは巣鴨にある。巣鴨から高円寺に行くには、山手線内回りで新宿まで行って、そこで乗り換える事になるが、新橋駅は巣鴨駅から見ると山手線外回りになり、方向がまるで逆である。

「そもそも、岩坂があの時なぜ新橋にいたのか。補充捜査でも調べられていなかったようで、これに関してはまったくの謎だ」

 そう言うと、神崎は一息つくように小さなため息をついた。一瞬、事務所を沈黙が支配する。

「……本題に入りましょうか」

 不意に、榊原が言った。

「神崎さん、あなたは私に探偵としての腕を借りたいと言っていました。これだけ自分で詳細に調べておきながら、具体的に私に何を調べろと?」

「問題のミス研の面子。これについて詳しく調べてほしい」

 神崎は単刀直入に言った。

「実際に死んでいる岩坂や生田ならまだしも、さすがに富山の人間が表向きは事件に関係していないとされている東京の高校生を調べるのは無理がある。そこで、お前さんには立山高校のミス研のメンバーについて調べてほしい」

「それは、依頼という事ですか?」

「無論だ。規定の料金は支払う。どうだ?」

 神崎の言葉に、榊原はしばらく考え込んだ。

「そのミス研のメンバーの名前はわかっているんですか?」

「ああ。一応、生田の遺体が見つかった時に関係者という事で名簿を作っている。とはいえ、退官した身となっては名簿の持ち出しなどできない。したがって、それぞれの名前と全員が立山高校の学生であるという事しかわからない」

「人数は?」

「富山県警で作成した名簿の人数は生田を除いて七人。だが、当日合宿を休んでいた部員が一人いたらしく、それを含めると関係者は八人のはずだ」

「八人ですか」

「できるか?」

「できない事はありませんが、さすがに八人だと時間がかかります。しかも、その依頼内容だと本人や周囲の人間に気付かれるわけにはいきませんから、なおさら慎重に事を進める必要があります。それでもよろしいなら」

 神崎は少し考えたが、こう尋ねた。

「時間はどれくらいかかる?」

「一ヶ月あれば何とか」

「それで構わない。受けてもらえないか?」

 榊原は手元のメモ帳や書類をしばらく見つめていたが、やがてフウッと息を吐いた。

「いいでしょう。お引き受けします」

「かたじけない」

「いえ。私自身、この事件に少し興味があります。一度調べてみるのもいいでしょう」

「お前の琴線に触れたという事は、脈ありと見ていいか」

「そこまでは何とも。ただ、どこか不可解な感覚がしたのは間違いありません」

「それで充分だ。お前の勘は外れた事がない。刑事時代からそうだった」

「昔の話ですよ」

 そう言うと、榊原は具体的な話に移った。

「それでは、このメモ帳と書類はお借りしても?」

「構わない。書類はコピーがあるし、メモ帳の内容も別に控えてある」

「結構です。神崎さんはこの後どうなさるおつもりですか?」

「しばらくビジネスホテルを拠点に個人的にこの事件を調べてみるつもりだ。携帯の番号は教えておくから、何かわかったら連絡をしてほしい」

「わかりました」

 それを聞くと、神崎はソファから立ち上がった。

「こいつは俺の最後のけじめというやつでね。よろしく頼むよ」

 そう言うと、神崎は事務所から出て行った。榊原は閉まったドアをしばらく見ていたが、再び残されたデータに目を通し、今後の方針を立て始めた。


 ……榊原の回想が終わった。

「もしかして、入学式当日に校門の前にいたのって……」

「お察しの通り。依頼を受けたので、まずは問題の立山高校を見ておこうと思ってね。何事も現場百回が基本だ。調べるにあたって、学校の雰囲気を少し知りたいと思った。もっとも、単純にそれだけだったから、最初から外から少し見たらそのまま帰るつもりだったんだが」

「そこで私に声をかけたんですね」

「そういう事になる」

 一つの謎が氷解した気分だった。

「もっとも、いざ調べ始めてみたら、君が入部しているとわかって少し驚いたが」

「あんな事を言われて気になったんです。まさか裏にこんな大事があるとは思っていませんでしたし」

 瑞穂は少しふてくされたように言った。

「それで、調査の結果はどうなったんだね」

 正面に座る沖田が尋ねる。

「はい。現在ミス研に所属しているメンバー、および二つの事件そのものについてできる限り調べてみました」

「結論は?」

 榊原は、正面に座る三人をじっと見てこう言った。

「限りなく疑わしい状況かと」

 その言葉に、三人は唸る。

「つまり、殺人の疑いがある?」

「そう解釈していただいて結構です」

「根拠を聞こうか」

 橋本が初めて発言した。

「発端となっているのは新橋駅の岩坂の事件です。この事件の際、新橋駅構内には生田徹平がおり、取調べは受けましたが結局無関係という事で釈放されています。記録を見ても、生田が事件に関与している可能性は限りなく低い」

「そうなると、二つの事件は無関係となるが」

「いいえ。確かに生田は事件に関与していないかもしれません。しかし調べた結果、生田が岩坂の事件の事を調べていた形跡がありました」

「何?」

「中学生時代に生田が所属していた文芸部の同期生から話を聞きました。その結果、生田は合同冊子の打ち合わせで岩坂と接するうちに、彼に対して憧れのようなものを抱いていた事が判明しています。そして、あくまでその同期生の話を聞く限りですが、彼が桜森学園への受験をやめて立山高校への受験に切り替えたのはこの岩坂竜也の影響が強いと思われるのです」

「まさか」

 石川は信じられないと言わんばかりの表情をしたが、榊原はこう続けた。

「中学時代の友人の話ですが、生田は元々親によって決められた進路に沿っていく事に嫌気がさしていたようで、常日頃から愚痴をこぼしていたとか。当時の彼の作品を見てみても、暗に家族に対する批判を比喩していると思われる箇所がいくつか存在します。文芸部長だったとはいえ、これは部活に入っていた方が進学に有利だという親の判断で入ったに過ぎず、部長職もほとんど進路対策。実情はこの当時から勉強ばかりで、あまり部活に参加できていなかったようで、趣味に費やす時間もほとんどなかったようです。一方の岩坂は勉強と趣味をしっかり両立させ、自分の意思を持っていた。彼の同窓生に聞いてみましたが、岩坂は苦労人だからというべきか、自分の考えや意思を明確に示し、それを行動に移せる人物だったとの事です。自分の生活に嫌気が指していた生田が、部活で岩坂に接した事でその考え方に感化され、あえて親に反発する姿勢をとったのではないかと考えられています。事実、当時生田が岩坂に個人的に会って進路相談をしていたのを、複数の双方の友人が目撃しています」

「だが、生田が入学する頃には岩坂はすでに卒業してしまっている。それでも立山を目指すと言うのか?」

「生田にとって大切なのは、親によって決められた進路からの脱却です。逆にいえば、むしろ進学校では駄目なんです。尊敬する岩坂が在籍していた立山高校に憧れを抱いても不思議ではない。実際、家族と大喧嘩して入学した立山高校に行くようになってから、生田はどこか明るくなったと表現する同窓生も多かったといいます」

「ふむ」

 沖田は納得したような声を出した。さっきから誰も料理に手をつけていないが、気にする様子もない。瑞穂も、緊張しながら押し黙ってこの生々しい話を聞いていた。

「しかし、五月になって岩坂が突然死んでしまった。しかもよりによって生田自身がいた場所で」

 橋本がつぶやいた。

「その件ですが、どうも偶然ではなかったと思われます」

「どういう事だ?」

「実は、岩坂についても少々不可解な事がありまして。大学入学直後から何かを調べていたのではないかと思われる節があります」

「岩坂もか?」

 思わぬ話に、沖田たちは表情を険しくした。

「大学入学後、彼はどこのサークルにも所属せず、友人作りすらせずに、講義が終わるとさっさと帰るという事を繰り返していました。それどころか、講義のない時間帯でさえ、大学構内から出て、どこかをうろついているような状況です。そのくせ、遺族である父親に聞いたところ、帰宅は毎日午後九時を回っていたとか。明らかに何かをしていたのは間違いありません」

「バイトではないか?」

「父親もそう思っていたようで、事実彼自身はそう言い訳していたようですが、死後に発見された彼の銀行通帳には特定の収入源はなかったと父親は証言しています。また、本人もそれほど金回りがよかったとは言えず、バイトの可能性は非常に低いと言わざるを得ません」

 そして、と榊原は続けた。

「これが一番決定的なのですが、岩坂の小学生時代の同窓生の中に新橋駅近くの喫茶店でバイトをしている人間がいます。この男が勤務先の喫茶店に来店する岩坂の姿を何度も目撃しているのです。おまけに、頻度は少なかったとはいえ、岩坂が高校生くらいの男子と会話している姿も何度か」

「おい、もしかしてそいつは……」

「ええ。写真で確認したところ、相手は生田だったようです」

「つまり、岩坂と生田は岩坂の死の直前まで新橋駅近くの喫茶店で何度も接触していた可能性があるのか」

 橋本が言う。榊原は頷いた。

「その友人は一目見て彼が岩坂だとわかったようですが、小学生以来の事ですから岩坂の方は気が付いていなかったようです。その際、友人の証言によると二人は非常に深刻そうな表情をしていたようで、時々細かい字が書かれたノートやメモ帳が机の上に広げられている事もあったと。彼らが何らかの調べ物をしていて、それを互いにつき合わせて打ち合わせしていたのは間違いなさそうです」

「彼らが新橋駅にいたのは偶然ではなかった」

「立山高校は大崎。早応大学は巣鴨。打ち合わせの場所としては最適でしょう。そもそも、新橋で何かを調べていた可能性もあります」

「つまり、彼らは喫茶店で何かの打ち合わせを終えて帰るところだった。そしてその際、岩坂は新橋駅で何者かに突き落とされた、という事か」

 沖田たちも「突き落とされた」と言う表現を使った。

「その直後から、生田にも何かを調べるような行動が目立つようになります。典型的なのが夏休みで、部活のない日も積極的に外出していたのを家族が確認しています」

「肝となるのは、何を調べていたかだが」

「岩坂が何を調べていたのかは現状では不明です。ただ、生田については岩坂の死の真相を追い続けていたと見るのが妥当でしょう」

「そして黒部ダムに浮いた、か。なるほど、この話だと何もなかったと考える方に無理がある」

 橋本はそう言った。

「岩坂が死んだのは、岩坂が調べていた事に関係ありか」

「そう考えざるを得ません。気になるのはその内容ですが、それを知ると思われる岩坂と生田が死んでしまっている現状では、どうにも調べにくいですね」

 ただ、と榊原は続けた。

「生田についてですが、どうも同じミス研のメンバーについて探りを入れていた節があります」

「というと?」

「ミス研のメンバーの事に関して、それぞれの友人たちから評判などをさりげなく聞いていた事があったそうです。それに岩坂が生きていた頃も、彼が部内の内偵のような事をやっていた疑いがあります」

「つまり、岩坂が部内の誰かの事について調べていて、生田は事実上岩坂のスパイのような関係だったと」

「当時、生田が特に行動を起こしていなかったにもかかわらず岩坂と打ち合わせしていた事からの推測です。彼はあくまで部内の情報を岩坂に伝える役目で、それ以外の調査を岩坂がやっていた、とすれば」

「辻褄は合う、か」

 その場に重い空気が支配した。

「問題は、部内の誰を調べていたかだな」

「ええ。おそらくそいつが岩坂と生田の死に関与している可能性は高い」

 沖田の言葉に、榊原は頷きながら応じた。

「ミス研のメンバーの詳細は?」

「確認できているのは、死んだ生田と今年入部した深町君を除けば、野川有宏、恩田朝子、横川卓治、溝岸幸、佐脇倫明、村林慎也、朝桐英美、中栗隆道の八名です。最初の三人が現三年生で、残り五人が現二年生」

 榊原の口から聞き慣れた名前が事件関係者の名前として容赦なく告げられるのを聞き、瑞穂は何とも居心地の悪い、どこか悪夢のような感覚を感じていた。それ以前に、この探偵が、自分たちが事務所を訪れる以前からミス研メンバー全員の名前を知り、なおかつ知らぬ間に徹底的に調べていたという事について、何か薄気味悪く感じる部分もあった。

「……って待ってください!」

 と、ふと思うところがあったので瑞穂は思わず待ったをかけた。

「何かね?」

「この前の事件の時、有楽町線の中で確か私の名前を聞いていましたよね」

「聞いていたな」

「でも、その様子じゃミス研の事をかなり詳しく調べていたようですし、本当は事前に名前を知っていた上で、知らないふりをして名前を聞いていたんじゃないんですか?」

 その問いに関して、榊原は首を振った。

「私が調べたのは神崎さんが教えてくれた人間だけで、今年入った君は本来対象外だった。まぁ、さすがに君たちが事務所に乗り込んで来た頃には、そろそろ真剣に調べなくてはならないかと考えていたんだがね」

「つまり、あの時ついて行くって言わなかったら、調べられていた?」

「そうなるね」

「……かなり失礼な答えに聞こえるんですけど」

 瑞穂は少し怒ったような声で言ったが、榊原は涼しい表情で応じる。

「まぁ、あの一件で君は信用に値すると判断した。従ってあれ以来君の事は特に調べていない」

「それ、喜んでいいんですか?」

「それを言うなら、君が私を尾行していた理由を聞きたいくらいなんだがね」

 榊原は前の三人に聞こえないように小声で言った。瑞穂はギクッとする。

「何で知っているんですか?」

「私はこれでも一応プロだ。素人の尾行に気付かないほど落ちぶれてはいない」

「……もしかして、わざと知らないふりを?」

「君とはこの一件について一度話をしておきたかったし、ちょうどいいと思った。大体、気付いていなかったら沖田さんに対してあんな言い訳をとっさに思いつけないだろう」

「何か、少し複雑です」

 瑞穂はふてくされたように言った。

「あー、いいかね?」

 前から沖田が呼びかけた。

「大丈夫です。それで、今までの話について何か質問はありますか?」

「一つ聞きたいんだがね。確か、問題の合宿を休んでいた人間がいたと言っていたはずだが、誰の事だね?」

「佐脇です」

 榊原の簡単な答えに、瑞穂はエッという表情をした。

「佐脇先輩、その黒部ダムの合宿を休んでいたんですか?」

「表向きの欠席理由は当時行われていた学習塾の春期講習に出席するため、となっていた。これは富山県警が合宿参加者に尋ねた際の答えだ」

 いかにも真面目一筋の佐脇らしい欠席理由である。

「じゃあ、佐脇先輩は富山の殺人には関与できない?」

「ところがそうはいかない。神崎さんの依頼で改めて調べてみたところ、問題の期間中に佐脇は塾の講習に参加していない。これは学習塾に尋ねて判明した事実なんだがね。おまけに欠席連絡もなされておらず、塾側も佐脇がなぜ休んだのか把握し切れていない」

「え、参加しなかったんですか?」

 その話を聞いて、瑞穂はどうにも信じられない思いだった。あの佐脇が、連絡もなく塾を休むなどとても信じられなかったのだ。

「私も気になってもう少し掘り下げてみた。そしたら、問題の日付に佐脇の一家が東京にいなかった事がわかった。近所への聞き込みで、家族総出でどこかに出かけた事がわかってね。しかも、その際に佐脇は学生服姿。両親にいたっては喪服を着ていた」

 その言葉に沖田が反応した。

「忌引きか」

「おそらく。そこでさらに調べた結果、佐脇の両親の実家がよりにもよって富山県高岡市である事と、亡くなったのがそこに住んでいる佐脇の祖母である事ががわかりました」

 その話に、瑞穂は驚いた。

「待ってください。じゃあ、佐脇先輩、事件当日富山にいたんですか?」

「ああ。ただし、高岡市は富山県の西側で石川県に近い場所。対して、黒部ダムのある辺りは富山県東部で新潟県寄り。同じ県内とはいえ位置がかなり離れている」

「とはいえ、事件当日に近くにいたというのは気になる」

 石川が唸った。

「祖母の死亡自体は癌によるもので細工の余地はなし。富山に来た事自体はあくまで偶然でしょうね。ただ、石川さんのおっしゃる通り、気になるのは事実です」

 榊原はそう言い添えた。

「しかし、岩坂にしろ生田にしろ、調べていたのがミス研部員となると、ミス研に関する何かについて調べていたと判断してもいいのではないかね。生田については岩坂の死を調べていたとしても、調べる対象がミス研部員であった以上は犯人をミス研部員と疑っていたという事だ。つまり、根本となっている岩坂の死もミス研に関与する事で、必然的に岩坂が調べていたのもミス研に関する何かという事になる」

 橋本が意見を述べた。

「となると、岩坂の死の以前にミス研に起こった出来事が焦点となるが、何かなかったのか?」

 沖田が尋ねる。

「一つありました」

「何だ?」

「時に深町君、君はミス研の先代の部長の事を知っているかね?」

 突然話を振られて瑞穂は慌てた。

「え、先代部長ですか?」

「今の部長は野川有宏。岩坂は先々代の部長になる。その間にもう一人部長がいるとは思わないかね」

「あ、そうか」

 とはいえ、先代の部長は順調に行けば現在大学一年生。瑞穂が知るわけもない。そもそも、そんな話を部員の誰からも聞いた事もなかった。

肥田涼一ひだりょういち。それが先代の部長の名前だ。ただし、部長在籍はわずか数ヶ月だけ。岩坂が退任した二〇〇五年九月から二〇〇六年二月までで、それ以降は当時一年生だった野川が部長に就任し、現在まで二年間部長職を務めている」

「そんな中途半端な時期に部長退任って、何かあったんですか?」

「簡単に言えば、野川の仕業だ」

 榊原は本当に簡潔に言った。

「部長の?」

「ただし、野川が何かしたというわけではない。この当時……正確には一ヶ月前の二〇〇六年一月に、野川有宏は世田谷で起こった主婦殺しを解決して、高校生探偵と評判になっている。この話は知っているかね?」

 瑞穂は頷く。その話なら部員から嫌というほど聞かされている。

「話はここからで、それ以来野川は校内で起こるちょっとした相談事を解決するというような事をやっていたらしい。そんな中、二月に学校の裏サイトで問題が起きた」

「裏サイト?」

 思わぬ単語に瑞穂は驚いた。

「さすがに知っているのではないかね。一時期、社会問題になった話でもあるし」

「はい。でも、立山高校にもあったんですか?」

「あぁ。とはいえ、裏サイトと言いつつもすでに教師側には発見されていて、生徒間の交換掲示板のような形態に縮小していたようだが、そのサイトにある日見過ごせない書き込みがなされた」

「見過ごせない書き込みというと?」

「端的に言えば、殺人予告だ」

 瑞穂は絶句した。

「詳しい内容は省略するが、簡単に言えば学校に乱入して生徒を殺し回るというような内容だった。何しろ当時は奈良女児誘拐殺人事件、広島小学生誘拐殺人事件、栃木小学生誘拐殺人事件、宇治学習塾殺人事件、滋賀長浜幼稚園児誘拐殺人事件と子供の安全にかかわる事件が立て続けに起きて、全国の教育機関がピリピリしていた時期だからね。二〇〇一年の池田小殺傷事件以降、学校の閉鎖化が進んでいる中での相次ぐ事件だっただけに、学校側も過剰ともいえる対処をした」

 次々と飛び出してくる聞いた事もないような難解な事件名の羅列に、瑞穂は混乱した。

「あのー、すみません。奈良とか広島とか……何ですかその事件は?」

「まぁ、要するに全国各地でそういう事件があって教育機関がこの手の殺人予告にも過剰反応していた時期だったという事だけ押さえてくれれば問題ない」

「はぁ」

「とにかく予告当日、学校側は全教員による全面的な警戒態勢を敷き、警察にも通報した。まぁ、最終的に当日は何事もなかったわけだが、当然のように教師側はこの書き込みの犯人探しに躍起になった。ところが、警察がログを調べると問題の書き込みが発信されたのは学校近くのネットカフェだと判明し、捜査は暗礁に乗り上げた。裏サイトの情報やアドレスを知っていたのは学校関係者だけ。したがって犯人もその中にいると思われたが、高校生が相手だけに警察も表立った捜査ができない。そんな中、生徒の一人が野川にこの犯人探しを依頼したのが事の発端だった」

 瑞穂は息を呑んだ。

「部長は調べたんですか?」

「依頼した生徒は問題の書き込みを印刷していた。さすがに主婦殺しを解決しただけあって、野川はその書き込みの内容から犯人の情報を絞り込んだ。そして、一週間くらいの捜査活動の末、ある人物に行き着いたわけだが……」

 その時点で瑞穂は気がついた。

「まさかそれが……」

「ああ、よりにもよって自分の所属する部の部長、肥田涼一だったというわけだ。野川の追求の末、肥田も自分のやった事を認めた」

 なんと言う皮肉な結末だろう。

「そもそもの話、ログの確認を恐れてネットカフェから書き込みをしている時点で、犯人がある程度警察の捜査方針を把握しているというのは自明だった。つまり、それだけの知識がある人間となると、おのずと数は限られてしまう。そこに書き込み本文からわかる情報を加味していった結果、浮かび上がったのがミス研部長で警察捜査に対する知識がある肥田だったというわけだ」

「その肥田さんはどうしてそんな事を?」

「警察の取調べでは、冗談のつもりだった、と答えているらしい。まぁ、確かに内容的には冗談ととってもおかしくない文面だったが、いかんせんさっきも言ったように時期が悪かった」

「どうなったんですか?」

「警察に通報されていたから、補導処分になったうえに退学処置。ミス研に所属していた二年生は肥田一人だったから、当時一年生だった野川がそのまま部長に就任して今に至っている。さすがに自分の部の部長を追い詰めたという後味の悪さからか、それ以降、野川は校内の生徒からの依頼を受けないようにしているらしく、事件そのものも封印に近い形になった。君がこの事件の事を知らないのも無理はないし、おそらくこの事を知っているのは当時の部員……つまり今の三年生だけだろう」

 瑞穂は、野川が周りから「名探偵」と呼ばれている割にはほとんど相談事などをされていない事を常日頃から訝しげに思っていたのだが、その理由が今わかった。まさかこんな理由だとは思いもしていなかったけれども。

「でも、随分詳しいところまで調べたんですね」

「言った通り、これは警察沙汰になった事件だ。立山高校を管轄している品川署で立山高校絡みの事件がないかを調べてもらった際に見つけたものでね。ちなみに、品川署は私が捜査一課に行く前、警察になって始めて配属された所轄でもある。だから、品川署絡みの事件の際はよく資料を調べてもらっている」

 瑞穂が改めて正面を見ると、沖田たちは思案顔であった。

「現状、問題になりそうな事案はその裏サイトの事件だけか」

「ええ」

「だが、こいつも一応は解決している事件だ。改めて調べる必要性は……」

「ところが、この件を担当した品川署の職員に聞いたところ、この事件にまったく不可解な事がないとも限らないんです」

「というと?」

「もしかしたら、肥田は誰かの罪をかぶったのではないか、という疑惑です」

 榊原の言葉に、沖田たちはやっぱりというような表情をした。

「おおよそ、その辺りではないかと思っていたが」

「この事件、本人が自白しているとはいえいくつかの疑惑が残ったらしいのです。まず、肥田は教員からの評判もよい真面目な生徒で、裏サイトに投稿していた事自体が驚かれました。当時の友人が、肥田はああいった冗談を書き込むような人間ではないはずだという旨の証言が調書にも残っていました。さらに、比較的素直に罪を認めた事もあって、誰かをかばっているのではないかという噂は当時からあったらしいのです」

「だとすると、野川の推理ミスか?」

「いえ、記録を見る限り野川の推理は妥当性があります。肥田がこの書き込みに一枚噛んでいるのは間違いないでしょう。可能性があるとすれば、この書き込みは肥田ともう一人、すなわち第三者の介入があったのではないかと言うものです」

 その言葉に、瑞穂は戸惑った表情をした。

「え、どういう事ですか? 共犯だったって事ですか。書き込みで共犯って、どういう状況なんですか?」

「つまりだね、結果的に何もなく、肥田本人も冗談と認めたこの書き込みが、本当に冗談だったのかと言う事だ」

 榊原がさらりと恐ろしい事を言った。

「ま、待ってください。それって……」

「そもそも、冗談目的ならわざわざネットカフェのパソコンを使ってログを隠すような事までして書き込むかね。これは明らかに冗談目的でない事を自分で自覚している者の対応だ」

 その言葉に、瑞穂はゾッとする。

「……本当にやるつもりだった、という事ですか?」

「もし、この裏サイト事件に裏があるなら、そういう事になる。だが、そうなると一人でやるのは非常に難しい。可能性は半々だが、複数名での襲撃を考えていた可能性もないとは言い切れまい」

 あまりに突拍子もない話に、瑞穂はついていけなかった。

「そ、そんな、どうして! 何で学校を襲撃する必要が……」

「あくまでただの推測だ。本当にこんな事実があったという証拠はない。ただ、彼が誰かをかばうと言う可能性を考慮するなら、この際の共犯者をかばったと言うのが一番しっくり来る」

「つまり、予告は出したが何らかの要因でできなくなり、肥田が共犯者の罪までかぶった、と」

「先程も言った通り、あくまで推測ですが」

「とはいえ、岩坂が調べると思われる事件がこれしかない以上は、その可能性を消すわけにはいかない、か」

 橋本はそう深刻そうに言った。

「なるほど、今までの話を聞く限り、黒部事件および新橋事件が殺人かもしれないという推測はあながち一笑にできるものではない」

 沖田はそう言った。

「あのー、いいですか?」

 瑞穂がおずおずと手を上げた。

「何かね?」

「何か、色々出てきて頭がごっちゃになってるんですけど、一度整理してもらえませんか?」

 榊原たちは一度顔を見合わせたが、

「それもそうだな。一度年代別に整理してみるか」

 と、瑞穂の要請を了承した。

「まず、今の部長である野川たちの学年が入学したのが二年前、つまり二〇〇五年の四月。当時のミス研の部長だった岩坂竜也は九月に引退し、後任に肥田涼一という二年生が部長になった。ところが、翌二〇〇六年二月に裏サイト問題が起こり、その一ヶ月前に世田谷の主婦殺しを解決していた野川がこの事件の解決に尽力。結果、肥田が犯人である事が判明し、肥田は退学、野川が部長になった。一方、生田徹平はこの頃にいきなり志望校を変更して家族ともめている。四月、生田の学年……つまり現在の二年生の学年の生徒が入学し、生田たちがミス研に入部。そして、この当時早応大学に合格したばかりの岩坂は、入部した生田と組んで何かを調べていた。そんな折、五月になってその岩坂が新橋駅で死亡する。生田はその後岩坂の死について調べていたと思われるが、今年、すなわち二〇〇七年三月に黒部で行われた合宿で生田自身もダム湖に浮かんで死亡した。四月、深町君らが入学し、同時期に生田の死に不審を覚えた神崎さんが私に調査を依頼。しばらくしてミス研メンバーが私の事務所にやってきて、私は成り行きからあの生命保険会社の事件を解決。そして、今に至る、となる」

 榊原は複雑に入り組んでいた情報を、いとも簡単に整理してしまった。

「こうしてみると、確かに異常ですよね。一つの部活をめぐってこんなに事件が重なるなんて」

「普通ならありえない。だからこそ、もっと本格的に調べる必要性がある」

 榊原は断言した。

「……それで、今日我々をここに呼び出したのは?」

 不意に、沖田が尋ねた。榊原が答える。

「新橋事件と黒部事件についてもう一度警察で調べてもらえないでしょうか? 現状では私だけで調べられる範囲に限界があります。無論、極秘と言う形になるでしょうが」

「処理した事件をもう一度ほじくり返せと?」

 沖田がジロリと榊原を睨む。

「それが難しい事は君にもわかっているはずだが」

「だからこそあなた方をお呼びしたんですよ。警視総監、副総監、捜査一課長。この面子が指示すれば、たいていの無理は通るはずです」

 その言葉に、瑞穂は思わず飛び上がりそうになった。

「ちょ、ちょっと! ちょっと、待ってください!」

「何だね?」

 聞き捨てならない言葉を発した張本人は、訝しげな表情で瑞穂を見ていた。

「今、何て言いました? 警視総監に副総監に捜査一課長?」

「ああ」

「誰が?」

 榊原は黙って正面の三人を示した。橋本は苦笑している。

「榊原、彼女が恐縮するかと思ってせっかく身分を隠していたのに台無しじゃないか」

「彼女をここまで引きずり込んでしまった以上、こちらも隠し事はなしだ。その方が、事の重大さを実感できるだろうし」

 どういうわけか、榊原は橋本に対して急に敬語を崩した。その間に、沖田は咳払いして瑞穂に自己紹介をする。

「では改めて。警視庁警視総監の沖田京三です」

「警視庁副総監、石川欽次郎」

「警視庁刑事部捜査一課課長の橋本隆一という」

 その言葉に、瑞穂の頭の中が真っ白になった。

「けーしそうかん……」

 いくら瑞穂でも、警視総監や副総監が警察の中でトップクラスに偉い人間である事は知っていた。それに捜査一課長といえば、猛者ぞろいの警視庁捜査一課を束ねる役職だったと刑事ドラマで言っていた記憶がある。

「な、何でそんな人たちと、探偵さんが知り合いなんですか!」

「最初に言った通り、私たちは元同僚だ」

 榊原はそのように言った。

「け、警視総監と同僚だったんですか!」

「当時は警視総監じゃない。全員刑事部所属の刑事だった。まぁ、刑事部から警視総監になった人間というのも珍しいが」

「言ってくれるな」

 パニック状態の瑞穂に対し沖田は苦笑する。

「とはいえ、我々にもできない事はある。それにだ」

 そこで沖田は榊原をジッと見た。

「君は私たちの力を借りる事を拒否していたはずではないかね。権力を傘に着ているようで嫌だ、一介の私立探偵に過ぎない自分が気軽にこういったつながりを使うべきではない、と言って」

「ええ。本音を言えば不本意ですし、私の主義にも反するのですが、実はそうも言っていられない事態が持ち上がりまして。一刻も早く警察に動いてもらう必要性が生じたんです」

「というと?」

「さっき言った、神崎元警部の事です」

 榊原はそう言って、一枚の記事を取り出した。

「あれ、これって」

 先程のサプライズからようやく落ち着いた瑞穂だったが、それを見て思わず声を上げた。今朝読んだ新聞に載っていた社会面の記事だ。

「これって、代々木公園のホームレス狩りの事件ですよね」

 代々木公園でホームレスが相次いで襲撃されているという事件だ。昨日、ついに死者が出たと記事には載っていた。

「死んだホームレスの身元は不明。警察では捜査を進めている、でしたよね」

「ああ。これが何か?」

 刑事たちの長である橋本の問いに、榊原はこんな事を言った。

「おそらくではありますが……この死体、ホームレスではありません」

「何? じゃあ一体……」

「多分、神崎元警部です」

 その瞬間、橋本の顔色が変わった。

「何だって?」

「実は、昨日神崎さんから連絡をもらいまして」

 榊原や悔しそうな表情で告げる。

「黒部事件解決の糸口になるかもしれない情報をつかんだ。調べてみる、と」

「ずっと調べていたのか?」

「はい。代々木の辺りのビジネスホテルを根城に、彼なりに捜査をしていました。ところが、今朝から一切連絡がつかず、念のため朝になって代々木の辺りを探してみたんですが……」

「そこでホームレス殺しの捜査があった」

「後で公開された被害者の似顔絵を見ました。間違いなく神崎さんでした」

 橋本は沖田たちと顔を見合わせた。

「その話、本当か?」

「多分、間違いないかと」

「神崎がホームレス狩りに襲われた、とは考えていないのだろう」

「あの人も元刑事ですから、ホームレス狩りくらいでは動じないでしょう。おそらく、神崎さんが新橋事件や黒部事件を調べている事に対して危機感を持った何者かが、代々木で頻発していたホームレス狩りに便乗して神崎さんを殺害した。そう考えるのが妥当かと思います」

「それが本当だとすると、この一件、とんでもない事になる」

 石川が厳しい表情で言った。

「警察の知らないところで完全犯罪に近い殺人事件が起こっている、という事になるな」

「正直なところ、今回の一件、個人で調査できる範囲に限界があります。下手をすれば、更なる殺人が起こる可能性も捨て切れません」

「起こると思うかね?」

「ばれていない事をいい事に、さらにエスカレートさせる可能性があります。おまけにこの犯人は自分を脅かす人間を容赦なく消し続けている。個人での捜査は、これ以上は危険ですし、被害が拡大する恐れも高い。今までの事件を総括すると、この犯人は極めて計算高く、なおかつ容赦ないと考えられます。とはいえ、この程度の推測では、証拠もない以上まともに警察に持ち込んでもまず動く事ができないでしょう」

「だから警察を動かせる立場にいる私たちに頼むか」

「どうでしょうか?」

 沖田はしばらく思案していたが、隣の橋本に尋ねた。

「橋本、君はどう思う?」

「榊原の言う通り、この程度の推測ではさすがに表立って動く事はできません。ですが、これだけ不自然な事が続いているとなるとさすがに一課としても見過ごせませんから、非公式の特別捜査チームを作る事は可能でしょう。さらに、代々木の事件は捜査本部が立っていますから、そちらの方では堂々と調べられます」

「いや、おそらくホームレス狩り本人はすぐに捕まるだろう。死者が出ていなかったならともかく、死者が出た以上、捜査一課が徹底的に洗い出しを行うからな。だが、榊原の推理が正しければ、見つかるホームレス狩りの犯人は神崎を殺した犯人ではない。神崎殺しはホームレス狩りを模倣した事件に過ぎないからだ。しかし、表向き同一事件とされている以上、捜査を続ける事はできず、そこで捜査終了だ。この事件を模倣したのにも、その辺りに理由があるように思うが」

 沖田は自分の考えを述べる。

「つまり、代々木の捜査本部からこの一連の不審死を調べるのは不可能に近いと?」

「だが、君の言うように特別捜査チームの設立なら私としても否定する理由はない。現状、それが最善の方法だろう。私としても、犯罪が見過ごされているなら、それを放置するつもりはない」

 沖田は結論付けた。

「現状ではこれが精一杯だが、どうだ?」

「助かります」

 沖田の言葉に、榊原は頭を下げた。


「では、ここで別れましょう」

 その後、まったく手をつけていなかった料理に箸をつけ、一通り食べた後五人は居酒屋を出た。

「私はこのまま代々木署に出頭し、遺体が神崎さんのものだと証言してきます」

「それが最善だな」

「ちなみに、捜査本部の指揮は誰が?」

「国友警部だ。それに、聞いた話だと圷警部も関係しているとかいないとか」

「国友さんに圷さんですか」

 榊原の表情が少し懐かしそうなものになる。

「あの二人が担当なら、あの事件がホームレス狩りではない事に気付いているかもしれませんね」

「だとするなら、なおさら遺体の情報は必要だな」

 と、ここまで言って沖田は瑞穂の方を見ながら思案した。

「ところで、この子を一人で帰すわけにもいかないな」

 時刻はすでに午後九時近くになっている。女子高生を一人で帰すには少し遅すぎる時間だ。

「橋本、この子を自宅まで送ってくれないか?」

「えっ」

 沖田の言葉に、瑞穂は思わず声を出した。捜査一課長に家に送ってもらうなど前代未聞である。が、橋本は至極あっさりと頷いた。

「わかりました。タクシーでも拾って送りますよ」

「では、我々は先に本庁に帰る。後は頼むぞ」

 沖田はそう言うと、石川と共に雑踏に消えていった。

「では、私もこれで。君もこれに懲りて、慣れない尾行なんかするんじゃないよ」

 榊原はそういって背を向けたが、その言葉に、瑞穂は自分が何をしに来たのかを改めて思い出した。

「あ、あの」

「ん?」

 榊原が振り返る。瑞穂は手紙を取り出すと、榊原に差し出した。

「ミス研の野川部長から、文化祭の展示発表への招待状です」

「ほう」

 榊原はしばらくその手紙を見ていた。

「今日はこれを届けに?」

「はい」

「しかし、またどうして私なんかに?」

「さぁ、文化祭の展示発表で推理ゲームをするので、プロの探偵から見て解けるかどうか見てみたいとの事でした」

「そうか……」

 榊原はしばらく何か考えていたが、不意に、

「考慮させてもらおう。では」

 と言って、今度こそ去っていった。正直断られるかもしれないと考えていた瑞穂は、そのあっさりとした対応に逆に拍子抜けしてしまった。と、同時にミス研にいくつもの疑いを抱いている榊原が、この招待状に対してどのような考えを持っているのか、あっさりしているだけに逆にその考えが読めず、どこか気味悪い部分も感じていた。

「さて、送ろうか。住所はどこかね?」

 残った橋本が瑞穂に話しかける。瑞穂は慌てて自宅の住所を告げ、橋本はそれを聞くと手近なタクシーを止めた。

「乗りたまえ」

 橋本の言葉に瑞穂は素直に乗り込み、橋本も乗り込んでタクシーは発進した。改めて隣に座る橋本を見てみると、見た感じ榊原とほぼ同じ年齢のような気がした。

「あの、ちょっといいですか?」

「何かね?」

 発進してしばらくして、瑞穂は橋本に話しかけた。

「あの探偵さんとは元同僚なんですよね」

「ああ。正真正銘の元同僚だ。沖田さんや石川さんは上司だったが、私と榊原は階級と年齢も一緒でね。よく一緒にコンビを組んで捜査に出かけたものだ」

「しばらく見てきたんですけど、あの探偵さん、私から見てもかなりの実力の持ち主だと思います。あんな曖昧な神崎さんの依頼を元にあそこまで詳細な調査を行っていますし、その情報を的確に組み立てている。生命保険会社の事件でも、犯人に対し毅然とした態度で対峙して、的確に相手を追い詰めていました」

「ああ、あの事件は君も見ていたのか。それにしても、君もよく榊原の事を見ている」

「だから信じられないんです。あの人が大失態をして警視庁を辞めたって事が」

 橋本は黙り込んだ。

「一体何があったんですか? 正直、あれだけの実力を持っている人が大失態をやったなんてちょっと信じられません。どうして、あの人はあんな事務所で私立探偵をやっているんですか」

「……話せば長くなるが」

 橋本はそう前置きして話し始めた。

「あいつの実力は本物だ。あいつがあのまま警視庁に在籍していたら、捜査一課長の椅子にいたのは私ではなく間違いなくあいつだった。私はそう断言できる自信がある。警視庁捜査一課最強の捜査班のブレーンというポジションは伊達じゃない。あいつが警察在籍中に関与した事件で解決できなかったのは、最後に関与して捜査ミスで辞職した事件を除けば、諸事情で途中降板させられた数件だけ。後は全面解決に持ち込んでいる」

 ある程度は予想していたとはいえ、やはり榊原の実力は瑞穂の想像以上のものであった。

「そもそも、あいつが沖田班に在籍する事になったのも、警察学校卒業直後に配属された交番巡査の身で、捜査一課が音を上げた大事件を単独解決したというほとんど伝説に近い出来事があったからこそだ。所轄での情報処理能力を買われて資料整理室から沖田班入りした私なんかとは、頭の構造が違う。結果的に沖田班選抜を逃した鑑識の圷警部や、当時から捜査一課に在籍していた国友警部も、あいつの事は評価していた。ちなみに、さっき話していた。代々木のホームレス殺し……いや、神崎殺しを担当しているのがこの国友と圷の二人だよ」

 橋本は榊原の事をあいつ呼ばわりした。その事が、二人が相当親しい仲だという事を瑞穂に連想させた。

「じゃあ、一体どうして?」

「大失態、というよりも捜査ミスをした、という事は事実だ。否定はしない」

 ただし、と橋本は続けた。

「正確には、捜査ミスの責任をすべてかぶった、というのが正しいか」

「どういう意味ですか?」

「一九九八年……あいつが三十二歳の時だった。都内で、政治家が立て続けに殺害される事件が起きた。最終的にかなりの数の人間が殺されている」

 橋本はおもむろに語り始めた。

「事件関係者には有力代議士や都議会議員、さらには時の内閣総理大臣や警視総監まで含まれていて、文字通り国の命運を左右する大事件だった。しかも当時の警視総監が時の首相と懇意の関係でね。自分や首相への追求を避けようと捜査を捻じ曲げようとする警視総監に対し、警察庁のいう事を聞かない総監をこれ幸いと引き摺り下ろそうとする警察庁長官の厳島蔵ノいつくしまくらのすけが対抗して真っ向から対立し、この結果、一介の殺人事件が警察と政治業界を巻き込んだ大規模な政争の場へと変遷してしまった。君も厳島蔵ノ介の名前は知っているんじゃないかな?」

 瑞穂は頷いた。確か、今の法務大臣だったはずだ。

「警察界の怪物とまでいわれた人でね。実のところ、沖田班を設立したのもこの人だったりする」

「そうなんですか」

「彼が警察庁刑事局長だった頃の話だ。その後、警察内部の出世抗争を勝ち抜いて警察庁長官にまで上り詰め、今の内閣発足と同時に法務大臣になった警察業界の傑物だよ」

 よくわからないが、すごい人だという事は実感できた。

「まぁ、この厳島さんと言うのが沖田班の設立者だけあって、沖田班を自由に使える立場でね。結果、我々はこの政争に巻き込まれ、事件を担当する事になった」

 橋本は目を細めてフゥと息を吐いた。

「十二月頃だったか。七月から始まった事件は一向に収束を見せず、犠牲者は増えるばかり。そんな中、一人の重要参考人が浮かんだ。ある代議士の長男で、当時大学生の男だったんだがね。そいつは例の警視総監や首相とは一切関係のない人物で、自分たちに関係ない状態での事件の早期収束を望んだ総監は、この男の逮捕を強行するように捜査本部に圧力をかけてきた。だが、榊原は反対した。あいつは、その男を犯人と見ていなかった。だが、刑事である以上、警視総監の命令には逆らえない。苦渋の決断の末、榊原が全責任をかぶる形で男を逮捕した」

「もしかして、それが誤認逮捕だったんですか?」

「鋭いね」

 橋本は遠い目をする。

「最初の自己紹介の時、沖田班は五人いたと言っていたね」

「ああ、それ私もおかしいと思っていました。もう一人はどうしたんだろうって」

「河野耕平(かわのこうへい)という刑事だった。階級は私や榊原と同じ警部補。刑事ドラマにいがちな頑固なベテラン刑事で、この判定に納得していなかった。彼は権力に負けて犯人とも思っていなかった問題の男を逮捕せざるを得なかった沖田班に幻滅し、捜査本部を無視して単独捜査を行った」

 その瞬間、橋本は唇を噛んだ。

「そして、三日後。河野警部補は都内の路上で、この事件の真犯人によって殺害された」

「え……」

 瑞穂は絶句した。

「一連の犯行には拳銃が使われていてね。河野警部補の体内の拳銃の弾と今までの事件の拳銃の弾の線状痕が一致した。さらに、現場にはワープロ打ちのメモが残されていて、そこには『無能な警察は無実の人間を逮捕し、刑事を犯人に殺された』と書かれていた。皮肉な事に、我々は犯人自身から警察の逮捕が間違いだと指摘されてしまったわけだ。しかも手紙はマスコミ各社にも送られ、警察は大バッシングを受けた。多分、そうなる事自体が犯人の狙いだったと今なら思えるがね」

 橋本は辛そうに目をつぶる。

「話はこれで終わらなかった。冤罪だとわかり、榊原はすぐに問題の男を釈放しようとした。ところが、その男は留置所内で首を吊って自殺してしまった後だった」

「そ、そんな……」

「無実の人間を逮捕して、その間に真犯人に仲間の刑事を殺され、あまつさえ冤罪で捕まえた人物に留置所内で自殺される。想定される中で最悪の事態で、警察史上最大級のスキャンダルだ。こうなるともう捜査どころじゃない。そして、指示を出した例の警視総監は、責任の全てを捜査本部に押し付けて保身を図った。いや……もしかしたら、自分でさえ容赦なく追求してくる忌々しい捜査本部をつぶそうとしていたのかもしれないな」

 瑞穂はもう何も言えない。

「崩壊寸前の捜査本部だったが、ここで捜査を終わるわけにはいかなかった。だが、総監はこの混乱に乗じて捜査本部をつぶそうとしていた。そこで、榊原がある決断をした」

「それって……」

「すべての指示を出したのは自分の独断であり、ゆえにこの捜査失敗の責任はすべて自分にある。自分一人が辞め、非難を受ける。あいつは自分が全責任をかぶる事で、捜査本部の他のメンバーが処分される事を回避しようとした。もはやそれしか事態収拾の方法がない所まで我々は追い詰められていたというわけだ」

 橋本はため息をついた。

「とはいえ、ノーダメージというわけにはいかなかった。榊原は陣頭指揮を執っていた当時の刑事部長と一緒に辞職……というより懲戒解雇の形に近いな。警察の面子の意味もあって自分からの辞職という形になってはいたがね。沖田班は解散し、沖田さんや石川さんは一時的に地方の都道府県警に飛ばされ、私も一課に残れはしたが、しばらくはまともな仕事にならなかった。それに、捜査本部の中心にいた主だったベテラン刑事も大半が左遷処分を喰らい、五十名以上の処分者を出す大規模スキャンダルとなっている。今回問題となっている神崎元警部もその時の左遷組の一人だ。圷警部や国友警部、それに当時は榊原の後輩だった斎藤警部辺りは、当時発生していた別件の殺人事件にかかりっきりだったからこの大処分を免れているがね」

 想像以上に悲惨な事件だった。瑞穂は思わず息を呑んだ。

「捜査本部そのものは何とか継続したが、この状況下で捜査できる力など残っておらず、犯人もこれ以降犯行を行わなかった事から、この事件は警察が犯人に完全敗北を喫するという、あまりにもひどい結末になってしまった。この犯人は今も捕まっていない。今でも一課の片隅に捜査本部はあるが、事件に関する何の知識もない若手刑事が二人ほどいるだけの形だけの本部に落ちぶれている」

「上層部は?」

「問題の警視総監は一切お咎めなし。後になって天下りしてどこかの法人の理事長になったと聞いている。厳島さんは表立って処分はなかったが、沖田班の壊滅などもあって警視庁への介入をしばらく控える事になり、かなり歯がゆい思いをしたようだ。辞職した刑事部長も厳島さんの派閥の人間で、陣営的には大ダメージを受けている」

 橋本は息をついた。

「これが、榊原が警察を辞めた理由。あいつがあんな場所で事務所を開いている理由だ」

 瑞穂は何も言う事ができなかった。

「あの後、榊原に生かされた形になった私たち三人は決意した。榊原の分まで警察を変える。そのために、ひたすら出世する。結果、沖田さんや石川さんは激しい抗争の末に今の地位まで上り詰め、私も一課長になった。何だかんだ言って、元沖田班のメンバーという肩書きは警察内部では一目おかれている。榊原も最初こそ苦労したが、事件を解決していくにつれて何とか生活できるようになった。今でも、警察関係者の間では榊原恵一の名前は有名だよ。みんな彼が辞めた経緯を知っているし、落ちぶれたとはいえ元沖田班のブレーンだ。だから、非公式であっても彼に協力する警察官や刑事は多いし、我々上層部もほとんど黙認している。これが、彼が一介の私立探偵でありながら警察に協力し、殺人事件に関与できる秘密だ」

 橋本の話が終わった。

「あいつは、事件の解決に自分のすべてを賭けている。それこそ人生を犠牲にしてもだ。おそらく、君たちの事をお遊びだとかいったんじゃないかね」

「はい」

「あいつにとって犯罪捜査は遊びじゃない。人生そのものだ。だから、そういうやつが許せないんだろう」

 瑞穂は反論できない。

「『真の探偵』」

「はい?」

「あいつの異名だ。探偵の本分たる推理力と論理力にひたすら特化し、小細工なしに真正面から徹底的に犯人を追い詰める姿勢。一度関与した事件は何年経とうが、例え表向きの解決がなされていようが喰らいつき続ける。その姿から、犯罪者たちから畏敬の念をこめて呼ばれ始めた異名が『真の探偵』だ。目をつけられたら絶対に逃げられない、って事でな」

「『真の探偵』ですか」

「やつにかかわった刑務所内の犯罪者たちや出所した連中は大体そう呼んでいる。あいつの事務所、大量の事件ファイルがあるだろう。あれは別に自慢するためのものじゃない。常日頃からあのファイルを何度も読み返し、今まで自分の解決してきた事件の解決に間違いがないかを常に確認しているんだ。そして、間違いがあるとわかったらすぐに捜査を始める。例え関係者がいなくなっていたとしてもだ。やつは、一度関与した事件は何年たとうと必ず真実を暴き出す。さっき言ったのはそういう意味だよ」

 その執念に、瑞穂はもはやゾッとするものさえ感じた。

 と、タクシーは瑞穂のマンションの前に止まった。

「この先、あの探偵にかかわり続けると言うなら忠告しておこう」

 タクシーを降りる瑞穂に、橋本は言った。

「あいつは正真正銘の犯罪捜査のプロだ。半端な覚悟では、あの『真の探偵』は振り向きもしない。真剣に犯罪に向き合う覚悟がなければね」

 瑞穂は黙って頭を下げると、マンションの中に入っていった。


 瑞穂は自分の部屋に帰ると、ベッドの上に寝転んだ。ちなみに今日も両親はいない。何でも父の会社の社員旅行で奥さんもぜひどうぞという話が来て、せっかくだからと二人で行っているのである。だからこそ、こんなに遅くまで帰らなくても叱られずにすんでいるのだった。

「はぁ」

 思わずため息をつく。ちょっとした冒険のつもりが、とんでもない話を聞かされてしまった。

「どうしよ……明日からどんな顔をして部長たちに会えばいいのよ」

 瑞穂は思わず呟いた。

「そりゃ、『普通の高校生活は嫌』とか『他の人にはとても真似できないような事をしたい』とか言ったけど、ここまで極端なのはどうなのよ。犯罪って……しかも警視総監と一緒に食事して、挙句に殺人事件って。大盤振る舞いにも程がありすぎでしょ」

 合格発表の時に由衣に宣言した言葉に対し、まさか自分で突っ込む事になろうとは思わなかった。おまけに、今まさに自分はその渦中に突っ込もうとしているのだ。

「ほんと、どうしよう」

 瑞穂は、居酒屋で最後に榊原と交わした会話を思い出していた。

 あの時、居酒屋で料理を食べている最中、榊原から瑞穂にこのような話がなされたのだ。

「ミス研の部員の情報を私に教えてもらいたいのだがね」

 その言葉に、瑞穂は緊張した。

「それって、私にスパイになれって事ですよね」

「そうだ。実の話、この話をするためにここに呼んだようなものでね」

 正確には尾行を無視したわけだが、と小声で言い添えて、榊原は続けた。

「ただし、何か行動を起こす必要性は一切ない。ただ、他の部員がどのような行動をしているのか、事件に関係ありそうな事があったら家に帰ってから私に伝えてくれるだけでいい。さっきも言った通り、相手は自分を調べていた岩坂、生田、神崎を殺している可能性がある。下手に刺激すると君の命も危ない。とはいえ、我々では高校生の内部情報を知るのは不可能だ」

「そんな事をしてもいいんですか?」

「警視総監や副総監を前にこの話をしているんだ。少なくとも、警視庁は問題視しない」

 沖田たちは黙って聞いているだけで、反対する様子はない。警察としても、不透明な現状では内部情報がほしいのは同じなのだろう。

「……断ったら?」

「それでも構わない。無理な頼みだという事は承知している。それに、それならそれで君が狙われる可能性はなくなるはずだ」

 そう言いつつ、榊原は懐から名刺を取り出した。

「気が向いたらそのメールアドレスに情報を送信してくれ。私の携帯に届く。長くなりそうなら電話でも構わない。ただし、連絡は必ず家の自室でやってくれ。他の部員に下手な場面を見せたくない。その番号やアドレスも携帯に登録せず、記録はすぐに消すように。誰かが携帯を盗み見る可能性も否定しきれない」

 あくまで榊原は慎重だった。が、同じ部活の先輩にそのような事をしなければならないという事に、瑞穂は嫌悪感に似たものを感じていた。

「正直、私としてもこんな方法は採りたくないが、事は一刻を争う。次の犠牲が出る前に悲劇を食い止めたい」

「また何か起こると言いたいんですか?」

 瑞穂は反発する気持ちをこめて榊原に尋ねた。が、榊原は厳しい表情で答えた。

「可能性が高いとしか言えない。はっきり言って、情報不足が否めない。それに、何もないならそれに越した事はない」

 瑞穂はその場は黙って態度を保留した。榊原も、そんな瑞穂に何も言わなかった。

 そして今、瑞穂はベッドに寝転びながら榊原からもらった名刺を手でもクルクル回していた。

「今日、どれだけ驚かされたかなぁ」

 思えば、色々と驚く事があった。そもそも、所属している部活で二人も人が死んでいる事自体初耳である。しかも一人は、瑞穂入学のわずか一ヶ月前の出来事なのだ。

「噂になりそうなものだけど……」

 入学して数ヶ月たつが、生田の死すら噂に上った事はない。これについて、榊原は次のような話をした。

「生田徹平の伯父は富山県議会議員で、父親は有名企業の重役。おそらく、この二人の要請で事実がもみ消されたのだと思う。殺人でないなら事故死か自殺判断だから、自殺の可能性がある以上、二人にはダメージになりかねない。生徒に不安を与えたくない学校側と利害が一致して、学期初めだった事もあって、学校と遺族が結託して表向きは転校したという事になったんじゃないだろうか」

 多分、榊原の言った通りなのだろう。そうでも考えないと噂好きの高校生の間で噂にならないなど思えない。だが、実際に事件に関与していたミス研のメンバーはこの事件を知らないはずがない。つまり、ミス研メンバーが自分に隠している事があるのは間違いないのだ。

「ところで生田といえば、問題の黒部の合宿を主導したのは生田だったという話だ。生田が合宿を主導し、立山高校入学の際に仲違いしていたはずの父親や伯父にわざわざ頭を下げてまでして問題のロッジを借りている。岩坂の死を追っていた生田の事だ。この合宿自体に何か思惑があったのかもしれない」

 榊原の言葉が蘇る。どちらかといえば瑞穂に聞かせるというよりは独り言に近い言葉だったが、瑞穂の頭になぜか残っていた。

「はぁ。なんか世の中の暗い部分を見せつけられた気分」

 瑞穂はそう言ってため息をついた。正直、瑞穂にとってこういう話は推理小説の中だけの出来事だと思っていた節があった。だから、いざ目の前に実現されてもどこか別世界の出来事のように感じてしまうのだ。ましてその容疑者は全員瑞穂の知る人物。その中に凶悪殺人犯がいると言われても、どうも実感がわかないのだ。

「ひょっとして、今までの出来事全部が夢……なんて事はないよね」

 呟いておきながら、改めて自分で否定する。

「どうなるのかな、これから……」

 瑞穂はそう言って、ぼんやり天井を眺めた。


 同時刻。榊原は品川の街を歩いていた。代々木署で神崎の遺体を確認した帰りである。

 榊原の予想通り、国友警部や圷警部はすでに神崎殺しがホームレス狩りの仕業でない事を見抜いていた。そんなところへの榊原の情報提供である。榊原は、先程沖田たちに話した事とほぼ同じ事を、その場にいた所轄の戸上という警部を含めた三人の刑事に話した。

「そうですか。どこかで見た顔だと思ったら、神崎さんでしたか」

 国友や圷は納得したと言わんばかりの表情をしている。二人とも、神崎が警視庁に在籍していた際に顔を知っているはずである。

「なるほど、元同僚なら、顔を知っているような感覚があっても当然だな」

「何しろ十一年前に神崎さんが富山県警に左遷されて以降会っていませんからね。覚えていなくても仕方がないと言えば仕方ありませんが……」

「しかし、元刑事が殺されたとなると、色々問題になるぞ」

 一方、戸上警部はまったく違う反応を示した。

「まさか、あの野川君の所属しているミス研がそんな事になっていたとは……」

 聞けば、戸上警部は以前世田谷署に所属し、その際に野川の関与した主婦殺しの捜査に加わっていたという。

「まぁ、高校生に解かれたという事で、我々にとってはどうも後味が悪かったのを覚えてはいますが……」

 戸上はそうコメントした。

「いずれにせよ、予想以上に大事になりそうですね」

 国友はそう言い、榊原に対する協力を了承したのであった。

 そんな事を思い出しながら、榊原はビルの間から裏路地に入り、自身の事務所に戻ってきた。ビルは三階建て。住居は三階だが、実質ほとんど二階の事務所で寝泊りしている事が多い。すっかり暗くなった事務所の電気をつけ、そのまま来客用のソファに身を沈める。そして、もっていたアタッシュケースの中から、ミス研メンバーに関する調べた事が記された書類をテーブルの上にぶちまけた。

「さてと……」

 榊原の視線は鋭い。まだ寝る気はなさそうである。

 おりしも、事務所の時計は午前零時に差し掛かろうとしていた。

「もうこんな時間か」

 榊原は一瞬時計を見てつぶやいたが、すぐに資料の方に顔を戻し、そのまま推理に没頭し始めていた。


 そして日付が変わる。

 後に犯罪史にその名を記した大事件、立山高校同時多発殺人事件が発生した、二〇〇七年六月十九日火曜日が始まろうとしていた。

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