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2023年4月1日 08:20
王生さんに出会ってから、私はとても楽しくなっています。妻にも誤解のないように「最近交流してる男子高校生がいるんだよね」と話して「(人に興味を示さないあなたが)珍しいね」と言われるほどです。興味を引く人間がおらんのじゃいバカタレ。失礼ながら本音で書くと「こいつと中学、高校と過ごせたら親友になっていたに違いない」とニヤニヤしている自分がいます。人生のなか、必ずといっていいほど自分と似た感性の人間と出会うもので、しかしそう言われると「俺とお前は違う、お前は俺の何を知っているのか」とも思われ、いやまあ確かにそうやけども。とフラれた気分になって笑ってしまう自分もいます。隙あらば自分語りになってしまいますが、学生時代は私も同じような感覚でした。何せ周りと話が合わない。が、自分は周りと合わせる人間だったので「櫻井ってアホの子」と思われているままだと思います。昨日「40歳で同窓会をしたら自分はどう振る舞うべきだろうか?」と考えていました。『ありのままの姿見せるのよ』というのはディズニーのおとぎ話であって、表面上でしか付き合ってない連中と対話をしたもんなら完封してしまうのが目に見えている…うむ、どうしたもんか。そもそも何のために行くのか、つまらん行かんでいいな。よし、そうしよう。と結論に至りました。脱線してしまいましたが、クラスや学校というのは単位的な括りであって、この先の日本社会や世界というのは天文学的数値の出会いや可能性があります。しかし、私はよく『神の視点』という俯瞰方法を取りますが、自分の変化も他人の変化も宇宙視点からすれば、取るに足らないミクロなものです。人間が素粒子のことを気にかけないのと同じですね。結論としては「気にしない」ことかなと思います。自分より気付きの少ない他者にいくら想いを馳せたところで、穿った思想も得られず、僅かばかりの哀れみくらいしか浮かばないからです。前述に「親友になっていたに違いない」とオジサンは書きましたが、似た感性や思想の持ち主は時として毒となります。大きな違いとして、その人が「精神的成長を望んでいるか」若しくは「ある壁を越えたか」「その得た知識を他者へ分け与えることができるか」ということです。いくら感性が高くても、それに溺れる者は腐っていくので注意が必要かなと思います。長々と失礼しました。
作者からの返信
コメントありがとうございます。私の書く文章を通じて楽しいと思って頂くだけで私には十分すぎます。元々誰にも見せず書き続けた日記でしたが、カクヨムに投稿してみたのも意味があったのかもしれません。猫を被るという表現が正しいかは分かりませんが、本心にいくつも膜をはって、会話をすることは多々ありますね。全員が出来ることではないですが、多分半数以上の人は、人を気遣いしている行為です。その膜の多さが櫻井さんだと多いのかと存じます。これはあくまで私の経験からくる意見ですが、気を使った結果、アホの子というレッテルを貼られることが、気を使っている自分からしたら望んでいたことのようで、でも本心だとそうでなくて。よく分からない気持ちになります。本心で語り、誰かを完封することは簡単です。ただ相手と違う思想を、つまり持論を展開すればそれで終わりですから。ただそれでは本心を傷つけられているようで私は膜を貼ります。私は私の自己評価が日本人の平均値あたりと定めています。故に自分より気づきが少ない人には哀れみを感じざるをえません。そう思う自分は嫌いですが、嫌いな部分も確かに自分なので上手く付き合います。それと同様に哀れみを抱く相手とも櫻井さんが仰った、気にしない、など上手く折り合いを付けて付き合えたら良いとも思います。櫻井さんとは親友になれるかと聞かれたら、年の差など関係ないかと思います。実際に文章だけでは推測の域は出ませんが、その上での結論が年の差など関係ない。です。似た思想が毒となることも分かります。私は自分を毒として感じることの方が多いですから、同じ思想でもそうなのです。常に新しい何かに触れ合って感性をこれからも作り上げていきたいと思います。人間は不安定な状態が最も美しいですから。もしかしたらサクラダファミリアに言語化不能だった美を感じたのも似た理由ですかね。
王生さんに出会ってから、私はとても楽しくなっています。
妻にも誤解のないように「最近交流してる男子高校生がいるんだよね」と話して「(人に興味を示さないあなたが)珍しいね」と言われるほどです。興味を引く人間がおらんのじゃいバカタレ。
失礼ながら本音で書くと「こいつと中学、高校と過ごせたら親友になっていたに違いない」とニヤニヤしている自分がいます。
人生のなか、必ずといっていいほど自分と似た感性の人間と出会うもので、しかしそう言われると「俺とお前は違う、お前は俺の何を知っているのか」とも思われ、いやまあ確かにそうやけども。とフラれた気分になって笑ってしまう自分もいます。
隙あらば自分語りになってしまいますが、学生時代は私も同じような感覚でした。
何せ周りと話が合わない。が、自分は周りと合わせる人間だったので「櫻井ってアホの子」と思われているままだと思います。
昨日「40歳で同窓会をしたら自分はどう振る舞うべきだろうか?」と考えていました。
『ありのままの姿見せるのよ』というのはディズニーのおとぎ話であって、表面上でしか付き合ってない連中と対話をしたもんなら完封してしまうのが目に見えている…うむ、どうしたもんか。
そもそも何のために行くのか、つまらん行かんでいいな。よし、そうしよう。と結論に至りました。
脱線してしまいましたが、クラスや学校というのは単位的な括りであって、この先の日本社会や世界というのは天文学的数値の出会いや可能性があります。
しかし、私はよく『神の視点』という俯瞰方法を取りますが、自分の変化も他人の変化も宇宙視点からすれば、取るに足らないミクロなものです。人間が素粒子のことを気にかけないのと同じですね。
結論としては「気にしない」ことかなと思います。自分より気付きの少ない他者にいくら想いを馳せたところで、穿った思想も得られず、僅かばかりの哀れみくらいしか浮かばないからです。
前述に「親友になっていたに違いない」とオジサンは書きましたが、似た感性や思想の持ち主は時として毒となります。
大きな違いとして、その人が「精神的成長を望んでいるか」若しくは「ある壁を越えたか」「その得た知識を他者へ分け与えることができるか」ということです。
いくら感性が高くても、それに溺れる者は腐っていくので注意が必要かなと思います。長々と失礼しました。
作者からの返信
コメントありがとうございます。私の書く文章を通じて楽しいと思って頂くだけで私には十分すぎます。元々誰にも見せず書き続けた日記でしたが、カクヨムに投稿してみたのも意味があったのかもしれません。猫を被るという表現が正しいかは分かりませんが、本心にいくつも膜をはって、会話をすることは多々ありますね。全員が出来ることではないですが、多分半数以上の人は、人を気遣いしている行為です。その膜の多さが櫻井さんだと多いのかと存じます。これはあくまで私の経験からくる意見ですが、気を使った結果、アホの子というレッテルを貼られることが、気を使っている自分からしたら望んでいたことのようで、でも本心だとそうでなくて。よく分からない気持ちになります。本心で語り、誰かを完封することは簡単です。ただ相手と違う思想を、つまり持論を展開すればそれで終わりですから。ただそれでは本心を傷つけられているようで私は膜を貼ります。私は私の自己評価が日本人の平均値あたりと定めています。故に自分より気づきが少ない人には哀れみを感じざるをえません。そう思う自分は嫌いですが、嫌いな部分も確かに自分なので上手く付き合います。それと同様に哀れみを抱く相手とも櫻井さんが仰った、気にしない、など上手く折り合いを付けて付き合えたら良いとも思います。櫻井さんとは親友になれるかと聞かれたら、年の差など関係ないかと思います。実際に文章だけでは推測の域は出ませんが、その上での結論が年の差など関係ない。です。似た思想が毒となることも分かります。私は自分を毒として感じることの方が多いですから、同じ思想でもそうなのです。常に新しい何かに触れ合って感性をこれからも作り上げていきたいと思います。人間は不安定な状態が最も美しいですから。もしかしたらサクラダファミリアに言語化不能だった美を感じたのも似た理由ですかね。