第12話 顔
2人は、横並びにソファーに座り、前のテーブルに紅茶2つを置いて、しばらく黙っていた
横にいるお互いを、まじまじと見ては、顔を背けたりしていた
目を見開いたり、薄めにして斜めから見たり、横にずらし横目で。上から下から
何かはっきりしない
まるでチンパンジーの顔が見分けられないような感じだな。それより、もっとひどい。形状がわからない
誰?
顔や表情、姿を認識することは人間という種族がもつ基本的能力であったが、記憶の交差点である 脳の中の" 海馬 " の一部が世界的に障害を受け、世界中の人が個を認識出来なくなっていた
個の認識だけの障害とは言い切れなかったが、発生後数時間の現時点における状況からは、そう限定されていた
南半球と北半球でも確認され、高緯度でも低緯度でも概ね確認された
なぜ世界中で起こるのか、科学者をもってしてもわからなかった
何が原因か
何がきっかけか?
これからどうなるのか
我々人類に課せられた重い問題だった。
猪瀬は相手を認識こそできなかったが、日々一緒にいる親しき男として、その直感だけで部屋に招き入れていた
「いつからこうなった?」相変わらず不躾な男
猪瀬が目をつぶり、上を見上げて、口を開いた
「昨日の夜11時ごろは多分、今まで通りだったと思うんだ
明日は休日ってことで、いつもはもっと遅くまで起きているのに、耐えきれずに寝てしまった
珍しいことだ
それで7時半ごろ起きて、スマホを目をやり、SNSを開いた
どうもなんか画像の調子が悪い
スマホの液晶が逝ってしまったかなと
そして二度寝した
あの時はもう、こんな状態だったんだな」
「お前、何かしたのか?」
「俺ごときが何かやってもどうなるものじゃない。それよりもお前が紅茶を入れてくれたのが十分おかしいぞ、渡辺」
" 他人の家の紅茶だが " と付け加えようとしたがやめた
「時系列がおかしいだろ。世界がおかしくなってから俺が紅茶を入れたんだ。紅茶を入れてから世界がおかしくなったんじゃない」
そりゃそうだろう
「紅茶を入れてくれるほど大人になったお前を、うまく認識できないのは残念だ」
「俺は結構お前を認識してるぞ。無駄に部屋の中が綺麗だ。そんな男だ、誰も来ないのに」
サッカーで間接視野を十分に使う有能なミッドフィルダーのように、お互いをチラ見していた
しっかり見てしまうと、異常な状況を今の正規と受け入れてしまうような気がして、しっかり見ることが出来なかった
2人は紅茶に口をつけた
渡辺が勝手に冷蔵庫を開けに行った。ケーキは無い
諦めて、またソファーのほうに戻ってくる
猪瀬は見上げる
「顔もそうだけど、なんかこの身体的特徴、スタイルとかも、頭に入ってこないんだな。お前そんな感じだったかな、渡辺?」
互いに、まじまじと見る
「猪瀬のことだって、そんな服着て、そんな体格だったかなって思うよ」
「そうか」
「そういった認識も、記憶と結びつけられてこそなんだんだな。俺は初めて気がついたよ」
また2人は紅茶に口をつけた。猪瀬の紅茶カップが震えている
息がだんだん荒くなってきた
「やめてくれよ。この後に及んで、エイリアンでも腹から出てくるのかよ。それなら外でやってくれ。ああ、ここはお前の家か」
「恐ろしい事実に気がついた」
猪瀬は顔面蒼白だった
「この一連の流れ以上に、恐ろしい事がまだあったのか」のけぞって猪瀬から距離を取った
「よーく聞け」声のトーンが下がって小声になった
「なんだよ。もったいつけやがって」
一拍おいた
「この状態は、今まで最大の評価ポイントであった "ルックス " が人の判断基準として機能しなくなるということなんだ」猪瀬の右手が大きく震えて止まらない
「そこか」
猪瀬はうつむいて、赤い顔になった
「今こそ、赤池葉菜子さんにアタックする時だ」
「悪いことは言わない。やめとけ」
「なんでそんなこと言うんだ。お前は元彼か?それとも彼女は渡辺の何なんだ? 最大のチャンスなんだぞ」本気で怒りだした
両手のひらを下にして、低く抑えろというジェスチャーで、猪瀬はなだめられた
「深い関係はないんだが、彼女の根底・奥底を見てしまったことがある」
痛い沈黙
「いやらしい・・・。盗撮か?」
猪瀬ができうる1番悪い顔をした。
「違うわ、そんなことしない」
「じゃあ、何?」
しようがないなぁという顔をして続ける
「彼女は人を助けたんだが、助け方が任侠。昔で言うと高倉健だな。知ってるか?」
「任侠で何が悪いんだ人を助けたんだろう。いいじゃないか。俺が惚れ込んだ女だけある」
「深入りするとやばいんじゃないかと感じられたよ。どうやばいかは説明できないけど、俺の勘だな。もっと普通の子のほうがいいんじゃないか」
猪瀬は引き下がらない
「あの子がいいんだよ」
呆れた顔をされた
「これは言いたくなかったことだが、言わねばならぬだろう」
「お前こそ、もったいぶるな」
暗い顔で口を開いた
「本当に、ブ男の天下が来るのか?」
「えっ・・・」猪瀬は虚を突かれた
「今までの不遇な状況から醸成されたねじ曲がった根性で、有利に戦っていけるものなのか?」
吊り下がったカーテンの下半分が切れて落ちるような沈黙が、二人の脳に沁みていた
「相変わらず、少しだけ鋭いな、渡辺」
猪瀬は寂しく笑った
「でもな、渡邉。俺の根性は曲がってはいるが、ねじれてはいないんだ」
「・・・そうか。ごめんな。だからだな、俺は2人分の紅茶を入れた。そんなお前だから入れてあげたんだ。お前はねじれてなんかいない。お前の言う通りってことだ」
うちの紅茶だけどなと、猪瀬は思った
------ピンポーン
その時、チャイムが鳴った
「普段、誰も来ないのに、世界がこんなになったときに誰なんだよ。最近は通販で何も買ってないぞ」
猪瀬が玄関の映像を確認しに行った。写ってはいるが誰だかよくわからない
ガサツなノックの音がうるさい
スピーカーから声がした「渡辺だ。ここを開けろ」
部屋に響いた
猪瀬は、部屋の中に座っているぼんやりとした顔の渡辺を見つめた
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