プロローグ4 「世界を書き変える」

 マンションから出る時は一人で出ろって、彼、兼継かねつぐは言いました。


 理由は深く聞きませんでした。

 ただ、次に彼と会うのは最寄りの駅だってこと。そこまではいつも事務所に向かう時と同じようにするってこと。その言いつけだけを守ればいいって。

 家の外に出るの、もっと言えば外に出るための服装に着替えることさえ、とても久しぶりでした。

 だからでしょうね、靴を履いてから気が付いたんです。


 ──扉が、とても重かった。


 やっぱり私は臆病です。

 今もまだ、すがっています。

 事務所のオーナーが言ったあの一言を、誰かがネットに流した時点でもう、あの事務所にいられないことくらい、本当はわかっていたんです。

 それでも、一度、偶然、たまたま転がり込めた今の世界から振り落とされないように、必死にしがみついていたんです。

 オーナーに言われるまま、極力自宅から出ないように過ごして、いつかほとぼりがさめる、その時を黙って待とうと。

 私がずっと自室ここにいたからといって、状況がよくならないことは、わかっていたはずなのに。

 でもそれだけで踏み出せるほど、私は強くなかったんです。


 今は。今は背中を押してくれた人がいる。

 私を待っていてくれる人がいる。

 もうここから出ないといけません。

 ドアノブを握りしめる。

 大丈夫、重たくなんかない、押せば開く。

 重たかったのは心です。それもさっき、軽くしました。

 大きく息を吸い込んで、ぐっと扉を押し込みます。

 ほらね、扉は簡単に開く。

 枷なんてどこにも、ありません。


「──行ってきます」


 誰もいなくなった部屋から、静かに照明が落ちる。

 迷いはもう、無くなっていました。




 久しぶりに外に出て、もう少し顔とか隠してきた方が良かったかもって心配したけど、思いのほか人がいませんでした。少し俯いて歩けば、すれ違ってもそう気が付かれないみたいです。

 何事もなく駅まで辿り着きました。


「よっ、早かったな」


 地下へと降る階段の入り口に、兼継かねつぐがいました。


「これから私、どうなるの?」

「どう生きていくかはお前次第だが、少なくとも今日、二階堂にかいどうことはには死んでもらう」

「そうですか」


 世界は言葉でできています。

 でも、言葉が本質に至ることはありません。

 ほとんどの言葉は、本質に貼り付けたラベルであって、そのものではないのです。

 だから兼継かねつぐの言ってる意味、私はそれをちゃんと理解しました。


「思ってたより覚悟、決まってるんだな」

「うん、本当はわかってたから。どうにかしなきゃだめだって」

「そうか、なら行くぞ、ここからは俺が送る」


 それから兼継かねつぐに両手で抱えられながら、夜の街中を駆けました。

 屋上から屋上を飛び回る私たちはさながら、映画のワンシーン。

 男の人に抱えられたり、触れられたりするのは、これまで何度かこなしてきました。どの時も名前は違ったけれど、中身は全部私であることは違いません。

 それでも、二階堂にかいどうことはは初めてでした。ドキドキして、ワクワクして、でも心の底は心地よさで一杯でした。


「ねぇ、兼継かねつぐ! どこに向かってるのか訊いていい?」

「お前の事務所だ、今しがた仲間から連絡が来たから、正確には俺が所有してるビルだけどな」

「え! あのビル兼継かねつぐのものなの?」

「ああ、ほんの数分前からだけど」


 マンションの6階から入ってくるし、私の事情も知ってて、ビルまで買ってるし、兼継かねつぐって何者なんだろう。今更、そんなことを思いました。


兼継かねつぐって何者なの?」

「何者って言われてもな、強いて言うなら暇人だ」

「なにそれ」


 可笑しくなって笑ってしまいました。

 ですがよく考えてみると、ビルを買ったり仲間の人達と役割を分担したり、きっとすごく手間がかかってるはず。

 でもそこまでして私を助けたって、兼継かねつぐに何か得ってあったのでしょうか。

 あったとしても、きっと手間の方がかかってるはずです。

 そんなことができる人なら、お金にも時間にも余裕がある人。そうなると、暇人なのでしょうか。


「俺からも一つ聞いていいか?」

「うん」

「今更だが、不安はないか?」

「そうですね、ないって言えば嘘になっちゃうけど、二階堂にかいどうことはは納得してるみたい」

「そうか、そろそろだな」


 最寄駅から事務所までは二駅ほど。さらに駅から歩いて2分で事務所に着きます。

 兼継かねつぐの足だと5分くらいで着くみたいです。

 事務所の少し手前で歩道に降りて、兼継かねつぐは言いました。


「この辺りの監視カメラは全部潰してあるが、新聞社の人間がここら辺で張り込んでる。お前一人でビルに入れ、中に俺の仲間が待機してるし俺も別ルートから入る。3階の広間で合流しよう」

「うん」


 私を下ろすと、兼継かねつぐはすぐにまたビルの屋上まで飛び上がりました。

 ここで何をするのかはわかりません。

 でも、二階堂にかいどうことはは女優です。何が起こるか知らなくても、与えられた役割をこなさなければなりません。

 なんてことはないです。いつもみたいに、変哲のない一日の1ページみたいに、ビルに入って三階へと向かうだけですから。


「あっ、そうだ」


 下からビルを見上げて、ちょっとしたことを思い付いたのでした。




   ✳︎   ✳︎   ✳︎




 明かりの一つも灯っていない事務所に二つの気配があった。

 一日も残すところ3時間。無論退勤時間などとうに過ぎている。その中で懸命に仕事をしているというのなら、目を見張るものだが、それは明らかに違っていた。


「オーナー、全部抑えました! データの方も問題ありません」

「よし、さっさとずらかるぞ! 俺はこんなところで終わるわけにはいかねぇんだ」


 オーナーと呼ばれながらも、口からこぼれるのは立場と見合わないものばかり。あるいはその狡猾こうかつさも成り上がるために必要だというのだろうか。

 決して視界が良好とは言えない中でも、二人の動きに迷いはない。慣れた様子で廊下へと続くドアへと足を進めていた。


「待て」


 そこに近づいてくる足音。階段を登っている音だ。


「警備会社の巡回でしょうか?」

「違うな、これは女の足音だ」


 この時間にこの場所に来る女。事務所の人間であることは間違いないが、所属している人間も十数名いる。流石に足音だけでの特定は不可能だ。


「どうします? 見られると厄介なことになりますよ」

「いや、むしろ逆だ。電気を付けろ、事務所のオーナーが遅くまで事務所にいて怪しまれることはない。仕事をしていた風を装う」

「流石です! オーナー!」


 早速、連れが小走りで電気を付けに行く間に、オーナーは過去の資料がファイリングされている棚の前に立つ。無論、そこに重要な資料などもはや一枚もない


「あれ……誰かいる?」


 やがて足音が扉の前まで辿り着くと、声は灯っている蛍光灯に疑問符を浮かべた。


「この声……二階堂にかいどうことは! なぜあいつが!」


 その瞬間、彼の脳内に一つの策が思い浮かぶ。

 今回の騒動に至った張本人が、人気のない事務所にわざわざ足を運んで来た。理由はわからないが、それはもう二度とないであろうチャンスでもあったのだから。


「し、失礼します」


 事務所のドアが開く。

 二人の視線が入り口向かい、言葉にし難い雰囲気が漂う。


「お、お疲れ様です。オーナー、柏木かしわぎさんも」

「おっ、ことはか。どうした? こんな時間に」

「ひ、久しぶりに事務所に来たくなったので。お二人は——」

「今は事務所が危ういからな、二人で今後の方針について話し合いながら、色々と整理をしてたんだ」

「……そうだったんですね」


 少女は多少驚いた様子だ。まるで二人の言葉を信じたかのように思える。


「なら、出直しますね。私がいるとお邪魔でしょうから」

「いや、待て。同じ事務所の人間として、一つ聞いておきたい。今、過去の資料を見ていたんだが、これについてどう思う?」


 そう言って男は一枚の紙をことはに向ける。当然その距離からでは見えないことはは、疑いもなく事務所の奥へと足を踏み入れる。

 紙を受け取れる、その位置まで。

 その時だった。

 事務所の入り口側から音が聞こえた。

 振り返り、悟ることは。柏木かしわぎと呼ばれていた男が、内側から事務所の鍵をかけた音だった。


柏木かしわきさん?」


 瞬間、背後から両手首を圧迫する感覚。

 そのまま無理やり背中に腕を回され、拘束された形となる。


「なっ、オーナー! なにするんですか!?」

柏木かしわぎ! ことはも連れて行く! なんでもいい! 殴るなりして気絶させろ!」

「いや! ちょっと! 離して!」


 必死に抵抗することはだが、腕力で敵う相手ではない。

 抵抗虚しく、ことはの前に佇んだ柏木かしわぎの手には金の盾がたずさえられている。

 事務所が立ち上げた公式動画投稿アカウントの、登録者が100万人を超えた記念に贈呈されたそれ。

 無論ことは自身も動画を作っていた一人だ。


「悪く思うなよ」


 掲げられる盾。

 酷な話だ。自身の活躍の賜物として今ここにある黄金の盾が、自身の新たなる未来を閉ざそうというのだから。

 振り下ろされる瞬間、反射的に首が背いて目をぎゅっと閉じた。


「なっ! 何が起こった!?」


 鈍い音がして、眼を開ける。

 ばたんとその場に倒れ込んだのは、ことはではない。オーナーの方だった。カーペットに滲む鮮血。

 その状況に盾を振り下ろした柏木かしわぎ本人が、一番驚いた様子だった。


「言葉っていうのは口に出した途端に言葉になると思う? 答えは違う。何かを考えている時には既に、対象に言葉というレッテルを貼って扱っている。言葉で世界を塗り変えるってことは、何かを思考しているその時には既に、塗り変えられる影響下にあるってこと」


 柏木かしわぎの疑問に答えたのは、閉まっているはずの扉を開けて入ってきた、一人の少女だった。


「———要するに貴方は、二階堂にかいどうことはの世界によって、そこで倒れているその人を二階堂にかいどうことはだと誤認させられた、ってところかな」

「なっ、なんだ!? 誰だお前!?」

「初めまして、二階堂にかいどうことはさん。私の名前は、一色香織いっしきかおり。迎えに来たけど、大丈夫そうだね」

香織かおり、お前って意外と頭いいのか?」

「褒めるなら素直に褒めて」


 香織かおりの後ろから、金髪の少年が現れる。


兼継かねつぐ!」


 さらに後ろを見れば、他に4人、どうやら全員揃っているようだ。


「なんかやばそうな感じがしたが、この分なら助けはいらないか?」

「助けてよ! 私自身は戦えないって! ちょうど今からピンチなところなの!!」

「な、なんなんだよ……なんなんだよ! お前ら!! ここはプロジェクトアクトの事務所だぞ!? 無断で——」

「あー悪い、事務所のオーナーにはまだ言ってなかったが、ついさっき、このビルのオーナーが俺に変わったんだ。つっても、お前らからすればずっと前の話だろうがな」

「は? お前何を言って……」

「理解しなくていいよ。だかまぁ、こんな時間で悪いが新しいオーナーが挨拶に来たってわけだ」


 なおも柏木かしわぎの理解は及ばない。その反応は当然だろう。そもそも、実際に会って契約した人でもない限り、こんな高校生の少年がビルのオーナーだとは思うまい。


けい

「はいこれ、このビルの所有権が誰にあるのか載ってる登記簿謄本とうきぼとうほんってやつ」

「そんなのあるんだ。って、いつの間そんなの用意してたのさ?」

「二日前」

 「ちょっと待って。所有権貰ったのついさっきなんだよ? 意味ないじゃん」

「世界は塗り変えることができる、お前がさっき言ったんだ、けいの世界でビルの所有者は既に俺に変わってる。それはつまり、所有権の移動に伴って関連する諸々全てが塗り変わってんだよ、この紙の表記に間違はねぇーし、偽装でもない。それが世界を塗り変えるつーことだ」

「お前ら……覚醒者、なのか」


 柏木かしわぎも世界に関しての知識はあった。だが、実際に目の当たりにするのは今日が初めてだった。

 閉めたはずの鍵が不自然に開いたのも、二階堂にかいどうことはを誤認したのも、世界を塗り変えられたからだというのか。


「どうしてこんなことに……」


 柏木かしわぎは膝をつく。

 そんな特殊な人間を前に、最後の足掻きを見せる気にもなれなかった。


「これ以上は不毛だな、けい香織かおり、悪いがこいつを頼む」

「はいよー」

「さて予定外なこともあったが、そろそろ仕上げといくか。胡桃くるみ西鶴さいかく頼んだ」

「ちょっと待って、兼継かねつぐ

「あん? なんだ?」

「最後のお願い、聞いてもらっていい?」

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