閑話 相良悠の困惑

2022/5/25 8:50

 織絵個人探偵事務所。F県県庁所在地、その住宅街にほど近い場所に陣取った雑居ビル3階をまるまる借り受けたそこが、相良さがら はるかの勤務先だ。

 市としては狭くないが、経済レベルは並より下。商業中心市に大きく水を空けられたその地で興信所を構えようとする数寄者すきものはこの事務所の主くらいなものだろう、と悠は考える。彼女はこの地に移住して1年ちょっとの新参者で、だからこそ所長である人物含め、知らないことが多すぎた。

「おはようございます、所長。その調子だと今日も?」

「おはようございます、悠さん……ええ、今日も泊まり込みです……」

 扉を開けて正面奥、衝立の向こうから唸り声とともにタオルが落ちた音が聞こえてくる。それが所長である織絵おりえ 真琴まことが目元に当てた温湿布で、つまり彼が徹夜に近いペースで仕事をしていたことを意味する。悠はついで、コーヒーメーカー(やけに高い外国製だ)のタンクの水量と、タオルヒーター(探偵事務所より理髪店がふさわしい)のタオルの残量を見て、彼がいかに無理していたのかを理解した。寧ろ……なんでかな、床に点々と続くシミと腹部へ当てられたコルセット、そこはかとなく香る鉄さびの匂いが気になる。

「何件抱えてるんでしたっけ、調査依頼。あとは猫探しと、綺羅々さん家のミケさんですか? それ以前にその」

「張り込み自体は麗にも任せてますが、細かい報告は……私が直にしていますので……あと、ここのことを嗅ぎつけた不倫相手だった人間から闇討ち未遂がGWから今日まで5回ほど……その自衛と警察への突き出しついでの事情聴取……綺羅々ちゃんがきたときの、話題……」

「もしかして、事務所閉めて帰り道で襲われたりしました?」

「まあ……ソウデスネ……」

 地獄だ。

 彼が十数年のキャリアを持つ探偵であることは疑いようもないし、地理的条件から特定されやすく恨みも買いやすいのは分かるが、それにしても受理件数と襲撃件数の比率がおかしい。多分4割程度のヒット率なのではないか? 悠は喉まで出かかった諫言を理性で止めた。邦彦さんといる時そういう負担が入る前に本人がフォローをいれること、その素晴らしさと大切さを理解し改めて夫への愛が深まった。

「でも、確か織絵所長は……その、通常兵器とか武器類は効きが弱いって聞きましたけど、ナイフで傷つくんですね?」

「傷一つ付かない悪魔憑きもいるでしょうけど、異常に治りが早いとか、痛みを無視できるとか、血が出にくいとかですから。私は身体能力的に銃を向けられてから避けるとか、死角から刺されて急所を外すとか、致命的にならない程度に治りが早いとかその程度なんで、この体になってから結構無茶してまして……」

 それは効くとか効かないじゃなくてそれ以上の力技ではないだろうか? 悠は出来たばかりの上司が早晩死んでしまうことを最大の懸念にせねばならない、と聞かされて暗澹あんたんたる気持ちになった。

「あ、頼まれていた再計算とか書類整理は8割方終わっていますのでご安心ください。あと所長、カフェインは出血に相性最悪なんで飲まないほうが良かったのでは……」

「はざーっす……あ、悠さんおはようございます。早いですね」

「露骨に挨拶変えるのをやめろ麗。あと悠さんが早いんじゃなくても前がややルーズなだけだ」

「うわぁ、おじさんなの?」

 必要事項の申し送りをして今日の作業を確認するところで、麗さんが出社してきた。彼女は織絵所長の義理の姪なのだと悠は聞かされている。義理で、姪。真琴さんがご両親をはやくに亡くした折、引き取ってくれた親戚筋の長子の子というわけだ。10年来の付き合いだそうで、多分に所長が命からがら依頼を片付けたりしたのを幼いながら見たはずで、どんな情緒でもって生きていたのか心配になる。……というか最近、彼女がやたら所長に向ける視線がゴミを見るようなそれに感じられるが大丈夫なのだろうか、この親戚関係。

「止血したから大丈夫だよ」

「そうじゃなくて、スーツ。ジャケットはお釈迦なんじゃないの? 午後から報告あったよね?」

「予備くらいあるよ」

「ふうん。ならいいか」

 義理とはいえ叔父が刺されて流血沙汰になったのを「まあいいか」で済ませて外見を気にする姪と、こんなこともあろうかと、を地で行く叔父。これが親子同然の10年間の積み重ねか、いやそんなバカな。

「じゃあ麗はいつも通りに。今日は張り込みも撮影もないから撮った写真の整理と報告書書いたら外回り。どうせミケが逃げたり猫同士の諍いが起きてるから。あとはイエネコが歩き回ってたら適当に家のこと聞いといて」

「おじさんって今更だけどど畜生って言われない?」

「2005年までに150回まで数えてからバカバカしくなってやめたよ。あ、悠さんは引き継ぎ大体終わったのでしたらそのまま給与計算書の印刷と配布を」

「わかりました。その……いいんですか? あの額で」

「悠さんが危なくならないよう死力は尽くしますが、危険手当の前払いってことで」

 大丈夫かなあ、この事務所。入ってから10日前後で50回くらい考えた一言を飲み込んで、悠は仕事にとりかかった。

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