第6話
まだ自分で歩けていた頃の綾香に黎人が初めて出会ったのも、この桜の樹の下だった。暇つぶしに超能力で桜の花びらを舞わせて遊んでいたら、たまたまその日に検査に来ていた彼女と鉢合わせた。黎人は、その時の綾香の顔が今でも忘れられずにいる。
綾香と黎人は同じ高校のクラスメイトだった。しかし、黎人は超能力のことを周囲に隠していたので、綾香だけでなく他のクラスメイトの女子からも特に意識されていた訳ではない。黎人は研究のために度々学校を休むことがあり、その理由も秘密だったので、クラスメイトからは病弱でやたらと学校を休む陰キャ男子くらいにしか見られていなかった。
黎人自身も学校にはあまり関心がなく、クラスメイト全員の顔と名前を覚えたことがなかった。当然のように綾香のことも知らなかったのだ。だから研究施設の庭園で綾香から話し掛けられて、その子から学校のクラスメイトだと聞かされた時は、黎人の超能力を見た綾香以上に黎人の方が驚いた顔をしていた。
数日後、学校の教室で顔を合わせても、綾香は黎人の超能力の事は勿論、彼が研究施設に通っている事さえも口にしなかった。周囲の女友達たちにも言わなかった。黎人も彼女のことを周りの男子生徒に言わなかった。
黎人と綾香は、お互いがお互いの気持ちを思い合った。だから、学校にいて互いの姿を視界に収めている時は、互いに意識しつつも、言いたいことをぐっと我慢した。だから、研究施設で会った時は喋り過ぎて口の中がカラカラになるまで、二人は話しをした。そして、お互いを理解し合っていった。
黎人が綾香から彼女の脳腫瘍のことを聞いたとき、黎人は自分の超能力を使って綾香の脳腫瘍を摘出することはできないかと真剣に考えた。それで、それまでよりも研究施設での訓練に真剣に取り組むようになり、超能力の扱い方を飛躍的に向上させていった。
綾香も、あきらめていた治療に前向きに取り組むようになり、検査にも積極的に協力するようになった。
二人にこのような変化が生じたのは当然のことだった。二人は疾うに愛し合っていたからだ。互いを求め必要としていた。それが黎人と綾香だった。
今、カフェテラスで石畳の上に横たわる遺体を見ながら、黎人はその頃のことを思い出していた。
後悔はしていない。黎人は愛する綾香のために精一杯のことをしたのだ。
これで綾香は自由になれる。黎人はそう思った。
彼は静かに微笑む。
冷たい風が彼の頬を叩いていた。
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