第76話 ブランさんと文字の勉強
ブランさんにホットショコラを頂いた後は、朝までぐっすりと眠ることができた。翌朝起きてリビングへ行くと、ガルさんはもう起きていた。朝の挨拶をして、ナザリーさんの元へと向かう。野菜を切るのを手伝いながら、昨日収穫をした家庭菜園の話をした。私は森の家でも菜園をしていたことを話し、滞在中は朝の水やりを任せてもらえることとなったのだった。ナザリーさんは最後まで気を遣わなくて良いと言っていたが、晴れて自分の仕事ができたことが嬉しくて、明日から頑張ろうと気持ちを新たにした。
全員分の朝食ができたところで、ブランさんがリビングに現れた。きっちりと服装を整えている。おはようございます、と挨拶をすると、ブランさんがにやりと笑みを浮かべた。
「昨夜は楽しかったね」
「へぁっ⁉︎」
誤解を招くような言い方に、つい慌ててしまう。気が動転しながらついガルさんを見ると、ガルさんは何かを堪えるように震えた声で「昨夜……?」と聞き返した。目が据わっている。
「ちちち違うんです! 私が眠れなくてそれで……!」
「弁明になってないよ」
ブランさんがくすくす笑いながら、ガルさんに、昨夜眠れなくて起きてきた私にホットショコラを作り、話をしたことを説明した。ガルさんは納得したようなしていないような表情で、そうか……と呟く。
私は考え込んでしまったガルさんに見えないようにこそこそと、ブランさんに耳打ちをした。
「ブランさん、なんてことを!」
「スパイス、必要でしょ?」
「要りません!」
ブランさんは終始私を揶揄っているようだった。クールな弟さんだと思っていたのに、なんてことだ……。一方で、クールなだけでなく悪戯な一面を見せてくれたことが、少しだけ仲を深められたような気がして嬉しくもあった。
「お兄は、俺ら兄弟の中では一番『狩り向き』の性格してるから」
「狩り向きって……?」
「慎重で冷静。けど狙った獲物への執着は、兄弟の中じゃ一番強い」
慎重で冷静、というところには概ね同意するけれど、執着というのはピンとこなかった。ガルさんが何かに強く執着している姿なんて、これまでそう見かけなかった気がする。
てんやわんやしているうちに、ベルデさんが欠伸をしながら階下へと降りてきて、私達は皆で朝食を摂ることにしたのだった。
「昨日話したと思うが、今日は工房へ行ってこようと思う。午後には帰る予定だが……」
朝食を終えて、お皿の片付けをしているときに、ガルさんが私に向けて言った。はい、と返事をして、今日は何をしようかと頭の中で考えを巡らせる。そこらへんをぷらぷらと散歩しようか。菜園の雑草でも抜こうか。
そう考えていると、ブランさんがやってきて話しかけてきた。
「俺今日は仕事ないから、ホナミさんに村の案内でもしようか?」
ガルさんは一瞬じとっとした目をブランさんに向けたが、そこは可愛い弟のこと、今朝の言い分に嘘はないと信じて「そうだな、ホナミがよければ」と返す。私も、一人で何かやりたいことがあった訳ではないため、「お願いします」と返して、今日の午前中はブランさんとお出かけすることになったのだった。
「あー面白かった。お兄があんな顔するなんて」
ブランさんと外に出て早々、ブランさんが清々しい顔で言った。この人面白がっていただけだな……。
「もう、やめてくださいよ。あんな誤解を招くようなこと……」
「ホナミさんは、お兄に誤解されたら困るって訳ね」
「そりゃそうですよ」
はぁやれやれと首を振りながら答えて、はたとブランさんを振り返る。ブランさんはこちらの視線に気がつくと、悪戯っぽく目を弓なりに細めた。最初の方のクールな印象はどこへやら、年下ということもあり、もう悪戯っ子にしか見えない。精々振り回されないようにするしかないなと思いながら、私はブランさんの隣を歩いたのだった。
「案内といっても、お兄がもうしたかな。どこか行きたいところある?」
「う〜ん……。そういえば、ブランさんのお仕事って何ですか?」
「仕事?」
ブランさんは、今日は仕事が休みだと言っていた。何の仕事をしているのか聞いたことがなかったということに気がついて、尋ねてみる。ブランさんはどう説明したものか考えるように唸ると、村の一点を指差した。
「少し歩いた先に、資料館……本とか、村の史料やら美術品なんかをまとめている施設があってね。そこで蔵書の管理とかをしてる」
図書館のようなものだろうか? 美術品とも行っていたから、美術館も融合したようなものなのかもしれない。郷土史とかが保管されているのかな。私はこの世界の字が読めないけれど、どのような施設なのか、是非とも見学してみたいものだ。
「そこ、行ってみたいです! 見学できるんですか?」
「うん、誰でも入れる。休みの日に職場に行くのは気乗りしないけどね」
言われてみれば、それもそうか。一人の時か、午後か明日にガルさんと一緒に来た方が良いだろうか。いや、そうすると働いているブランさんと遭遇するわけで、やっぱり余り嬉しいものではないだろう。諦めようとしたとき、ブランさんがさっさと資料館に向かって歩き出したのが見えた。
「え、ブランさん?」
「行くんでしょ? 早く来なよ」
駆け足で、ブランさんの背中を追いかける。何だかんだと言っても結局希望を叶えてくれるところは、ガルさんと少し似ているような気がするな、と思うと、何だか微笑ましい気持ちになってしまった。私の顔を見たブランさんは「何一人で笑ってんの」と気味悪がっていた。
資料館はそこそこ大きく、村の史料だけでなく、一般の蔵書もあるようだった。絵本や小説のようなものもあり、聞くと、村の子供達に貸し出しをしているらしい。私でも読めそうな本があるかと思い、絵本を手に取る。
「何か借りてく? 暇潰しにはなるかも……って、絵本?」
小説のような本をいくつかピックアップしていたブランさんが、戻ってきて私が手にしている本を覗き込んだ。そういえば、この世界の文字は勉強中であることは、ブランさん達に話していなかったっけ。
「ちびっ子向けじゃん。好きなの? 絵本」
好きかどうかと聞かれれば勿論好きだが、私が絵本を手にしている理由はただ好きだからではない。どう説明したものかと悩んだが、正直に言ったところで何か不利益が生じるものでもないのだから、ありのままを説明するしかないだろう。そう思いながらも、視線はブランさんの顔ではなく絵本に落ちてしまった。
「私、文字が読めないんです。あ、この世界の文字が、です。ガルさんに教えて頂きながら勉強しているところで」
「ふぅん。それで絵本って訳?」
「はい。簡単なものなら、読めるようになってきたので」
旅の最中も時間を見つけては少しずつ勉強したお陰か、簡単な絵本くらいであれば問題なく読めるようになってきた。幼児向けの絵本であれば、今の私なら読むことが出来るだろう。この世界の絵本はどんなものなのかということには興味があるし、これから文字を勉強していけば、もっと読める本が増えていくことは楽しみだ。
目の前にいるブランさんは、若干の驚きを湛えた顔で私を見ている。
「言葉が通じるから、分かんなかった」
「言葉は魔法具で……」
「じゃ、文字も何とかならなかったわけ?」
「なるはずだったんですけど、その魔法具を壊してしまって」
「災難というか、鈍臭いというか……」
どんな文字でも読めるようになる魔法具を見つけて買ってしまった方が早いと言われればそれはもちろんその通りではあるのだが、自分の力で勉強することにも喜びを見出してきているのが実情だ。それに、再度魔法具が壊れたり失くなってしまったら、また同じことになるだけである。……それで言えば、リーディングだけではなくてスピーキングももっと練習するべきではあると思うけれど。良いんだ、出来ることから少しずつやるしかない。
「待ってて」
ブランさんはそう言って、私を資料館のテーブルに着かせて去っていった。素直に座って、絵本を広げてブランさんが戻ってくるのを待つ。
少しして戻ってきたブランさんの手には、紙とペン、インクのようなものが握られていた。
「分かんないところあったら言って」
ブランさんは、本棚から小説を一冊抜くと、私の隣の席に着く。言動からして、恐らく分からない言葉等があれば教えてくれるつもりなのだろう。であれば、もう少し絵本の対象年齢を上げてみても良いかもしれない。
私は手に取った絵本を一通り読み切ったあと、次の絵本を探しに席を立った。目に付いた絵本を手に取り、ぱらぱらとめくる。手に取った絵本は先程よりも文字が多く、少し対象年齢があがったような感触を感じて、私は本を持ってブランさんの隣へと戻った。
数ページ読んだところで、文法の意味が分からずに詰まってしまった。絵から、なんとなくの内容を察することは出来るが、どうも直訳では意味合いが違っていそうだ。分からない単語も混じっている。
私はブランさんをちらりと見て、小声で話しかけた。資料館には私達以外の人は居ないようだが、なんとなく、こういう場では声を潜めるように習慣付いてしまっている。
「すみません、ここが分からなくて」
「どれ? あ〜、これね」
ブランさんは紙とペンを手に取ると、すらすらと文章を書き写していく。
「慣用句みたいなもんだよ。直訳だと……」
私はこの世界の文字の上手い下手はほとんど判別が付かないが、ブランさんの文字が、相手に読みやすいように丁寧に書かれたものであることは分かった。ガルさんも文字を読みやすいように書いてくれるが、ブランさんはそれ以上だ。ガルさんは、自分用のメモなんかはもっと崩した文字を書いているのを見たことがある。恐らく、自然に書けば、もう少し崩した形になるのだろう。それを、兄弟揃って、初学者の私に向けて読み取りやすいように書いてくれているというのが、何だか微笑ましかった。幼いブランさんも、そうしてガルさんから文字を教わったことがあったのだろうか。
「……ってこと。これは丸暗記した方が早いと思う」
ブランさんが説明を終えて、こちらを向いた。私はひとつ頷いて、頭に叩き込むように何度か一連の文を読む。なんとか今は覚えられたと感じたところで、ブランさんの手元を見た。くるくると手慰みにペンを回している。
「ブランさんは、教えるのがお上手ですね」
「そう? 自分じゃ分かんないな。たまに資料館で子供達に教えることもあるから、慣れてるだけだと思うけど」
この資料館は、そのような役割も担っているのか。ご謙遜を、と思いながらブランさんの表情を伺ったが、澄ました顔からは何の感情も読み取れなかった。もしかすると、本人からすれば、本気で「慣れているだけ」だと思っているのかもしれない。
いくつかの単語と文法をブランさんから習い、お昼時になった。私達は昼食を摂るために資料館を後にして、帰路に着いたのだった。
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