第75話 夜の静寂とホットショコラ
お昼ご飯を食べた後、ガルさんは行きたいところがあると言った。一緒に行くか聞かれたので、明確な予定がある訳でもない私は「はい」と頷くより他なかったのであった。まだガルさんを伴わない外出をしたいという気持ちにもなれないし……。
ガルさんが向かったのは、村の端にある工房だった。奥に座る老人は、ガルさんの挨拶にこちらを一瞥すると、再び作業に没頭してしまった。私が戸惑っていると、ガルさんの挨拶を聞きつけたらしい若い獣人の男性が、工房の奥から顔を覗かせた。ガルさんより、少し年上だろうか? にこやかな表情の明るそうな青年だ。
「おぉ〜ガル! 帰ってきたって聞いてたよ!」
獣人の青年はパタパタとこちらへ駆け寄ってきた。藍色のエプロンが老人とお揃いであるのを見るに、この工房の制服のようなものなのだろう。
「そちらが例の嫁さん?」
「ち、違……っ」
青年が私を見て言う。私は「はじめまして……」と返しながら、あらぬ誤解が村中に広がっているらしいことを痛感した。ガルさんが村を訪れた時に、私のことを「大切な人」というような表現で紹介したからだろうか。流石に「従属契約の主です」なんて言ったら入れてもらえないであろうことは私にだって分かるが、他に言い様というものがあったような気もする。まあ、私は誤解でもちょっぴり嬉しいのだけれど……。
「その……作りたいものがあって。明日から少し、工房を借りたいんだが」
「作りたいもの? ……ははーん、なるほどな!」
青年は私とガルさんを交互に見てはにまにまと表情を緩めている。何がなんだかという私は、助けを求めるようにガルさんを見た。ガルさんは私と目が合うと耳を真っ赤にして、しどろもどろに視線を彷徨わせた。
ガルもやるじゃねえか! 大きくなったなあ! とバンバンとガルさんの背中を叩く青年を見るに、二人の間にしか分からないコミュニケーションが行われているのは明白だ。青年は奥の老人に向かって、「親父、いいよな」と叫ぶ。老人は相変わらず作業に集中したまま、静かにこっくりと頷いた。
「じゃ、ガル、明日な!」
何作るのかな〜ガルは、と言いながら背中を叩く青年は、相変わらず面白がるようにニコニコ笑っている。ガルさんが小さな声で「揶揄うなよ……」と呟いて、奥の老人に挨拶をしてから工房を後にした。
帰る道すがら、ガルさんが先程の工房のことを教えてくれた。
「あそこには前に世話になってたんだ」
聞くと、ガルさんはフランセスカさんと出会う前は、先程の工房で狩りの仕掛け作りや木製の狩り道具作りを学んでいたらしい。将来は職人になるかというところで、フランセスカさんによって従属契約を結ばせられて今に至る、という訳だそうだ。ガルさんは森の家に居た時もたまに狩りをしていたが、工房で学んだ技術を活かして仕掛けや道具を作っていたのだろう。奥にいた老人はガルさんの師匠にあたる人で、若者はその息子兼弟子だそうだ。
「ガルさんは、何を作るんですか?」
「んっ?」
久々に村に帰ってきて早々に作りたいものがあるなんて、気になる。旅の道中で、何か足りないものがあったか、あると便利なものでも思い付いたのだろうか?
私が聞くと、ガルさんは驚いたような顔で振り返った。それから耳をひくひくと動かして何かを考えるように黙り込んでいたが、やがて表情を緩めて、口元に指を当て「……秘密」と言った。悪戯っぽく細められた目元と、低くも穏やかな声音にどきりとする。その仕草に追求する気を無くしてしまった私は、「いつか教えてくれたら嬉しいです」と言うことしかできなかった。
「ホナミには教える。……というか、分かる」
「分かる?」
「あぁ。だから、待っていてくれ」
はい、待ってますね、と言うと、ガルさんはにこりと頷いて進行方向に向き直る。私はその背中を見ながら、やっぱり何かの便利道具だろうか、と考えた。旅仲間のよしみで、私にも使わせてくれるのかもしれない。ガルさんお手製の便利道具、楽しみにしておこう。
ガルさんのご実家に帰ると、ガルさんのお母さんであるナザリーさんが夕飯の買い物へ行こうとしていたところだった。私とガルさんで代わりに行ってこようかと提案したが、ナザリーさんは買い物ついでに店員の主婦仲間と話すのを楽しみにしているとのことで、私達は留守の間に、家の庭にある野菜の収穫を任されたのだった。
収穫用の籠を持ち、日除けにとナザリーさんが貸してくれた帽子を被ってガルさんと共に裏庭へ向かう。家庭菜園らしき小さな畑には、野菜が実っていた。この世界では、家庭菜園のある家が多いのだろうか。森の家を思い出す。鳥達は元気にしているだろうか?
「えーっと……これを二つ……この草はどれ位使いますかね?」
頼まれた野菜を頼まれた数だけ収穫しながら、ガルさんに話しかける。夕飯のメニューと人数から、ざっくりとした量をガルさんが予想してくれたので、私はそのアドバイスの通りに収穫を終えて、手に付いた土を払った。沈んでいく夕日を眺めながら、籠を抱える。どこか寂しい気持ちにさせられるような夕日の赤さは、元いた世界と同じだ。思えば、この世界に来て随分と月日が経ったものである。
「……ホナミ?」
ガルさんに名前を呼ばれて、はっと我に帰る。家の中へ戻ろうとしているガルさんを追いかけて、私も籠を持って走り出そうとしたその時、日除けの帽子が風に飛ばされてしまった。
まずい、と思うが、風に煽られた帽子は私の背の届く範囲を軽々と越えて飛んでいく。その帽子を、同じく籠を持ったガルさんが、片手を伸ばして掴んだ。
私に帽子を差し出したガルさんは、何か眩しいものを見るように目を細めていた。私が夕日を背負うようにして立っていたから、眩しかったのだろう。駆け寄って帽子を受け取ろうとした矢先、ガルさんがひょいとその帽子を、私の頭に被せたのだった。
「ひゃ」
私は突然のことに驚き、妙な悲鳴をあげてしまう。ガルさんはそんな私を笑いもせずに、ただ真顔で、帽子のひさしを掴んでいた。中々離して貰えずに、ひさしの向こうのガルさんを見やる。じっとこちらを見つめる眼差しは、何故か真剣だった。
「……ガル、さん……?」
どうしたんですか、という言葉は、喉の奥に押し込められてしまって出てくることが出来なかった。何故なら、ガルさんのトパーズの瞳の中に、夕日のせいだけではない熱が、込められているような気がしたから。
私も視線を返すが、ガルさんの視線が逸らされることは無かった。ひさしに掛けられていた手が、頬へと滑る。その手の熱さが移ったのか、私は自分の頬が紅潮していくのが分かった。ガルさんに触れられた頬が、熱い。射抜かれた瞳の奥が、きりきりと、甘美な痛みを伴って疼く。これから何が起きようとしているのか、分かるようで、分からない。確信は得ているのに、どこか頭の片隅で、期待するなと警鐘を鳴らす自分がいる。
ガルさんの瞳がゆっくりと近付いて、私は視線の熱に耐え難くなって、ぎゅっと目を瞑り…………
「ガル、ホナミさん、戻ったよぉ。収穫は終わったかい?」
明るいナザリーさんの声が聞こえて、私達は今までにない瞬発力で離れた。暫く心臓がばくばくと轟音を奏でていたのは、急に動いたせいだけではなさそうだった。
ブランさんとベルデさんが帰ってきて、皆での夕飯を終えた私達は、リビングで少しのお喋りを楽しみながら順番にお風呂へ入ったあと、各々が自由に部屋へと戻っていった。私は何となくガルさんの隣に居づらくて、お風呂を頂いた後は早々にお部屋へと戻らせてもらうことにした。ベッドに入り、寝てしまおうとぎゅっと目を瞑るが、考えないようにしようとすると余計に意識してしまう。
夕方のあれは、何だったんだろう……。ま、まさか、キス……? ……いやいや。いやでも、私だってもうそれなりの年なのだから分かるけれど、あの空気、十中八九そうだろう……けど、残った一、二の可能性も、なくはないし。ここ、異世界だし、文化違うし。私はガルさんのことが好きだけれど、まさか、ガルさんも?
手でぱたぱたと、熱くなった頬を扇ぐ。もしもそうであれば、嬉しいけれど……やはり、気になるのは契約のことだ。仮に、どんなに相互に想い合っているとしても、私達には抗えない上下関係が生じている。その歪さに目を瞑って、このままでという訳にもいかないだろう。
私は一つ溜息を吐いて、リビングにお水を貰いに行こうとベッドから降りた。
リビングに降りていくと、キッチンのあたりに仄かな光が宿っていた。誰かいるのか、ナザリーさんだろうか? と近付くと、キッチンにいた人物もこちらを見る。ブランさんだった。
「ホナミさん。どうしたの?」
水の入ったコップを持ちながら、ブランさんが言う。どうやら目的は同じらしい。
「目が冴えてしまって……お水でも頂こうかと……」
ブランさんは私に視線をやると、無言でキッチンの棚をごそごそとやり始めた。何事かと思いながら見守っていると、片手鍋と、何かの粉とスパイスのようなものを取り出して鍋を火にかける。粉と、水を入れ、しばらく水面を見つめていたかと思うと、急にこちらを振り返った。
「眠れないんでしょ?」
「えっ? あ……はい……」
それだけ話すと、ブランさんはまた鍋に集中してしまった。鍋からは、元の世界でも嗅いだことのあるような匂いがする。これは……。
ブランさんに近付き、肩越しに鍋を覗き込む。焦茶色の液体が、ふつふつと今にも沸騰せんとしていた。
「これは……?」
「ホットショコラ。飲むでしょ」
ホットショコラ! 元いた世界でいう、ホットチョコレートやココアなんかと同じだろうか? どんな味がするのだろう。甘いのかな?
ブランさんは、鍋にとろりとした液体と、何らかのスパイスらしきものを投入していった。思わず身を乗り出して見てしまう。液体は、蜜のような粘度でフローラルな匂いがして、スパイスの少しばかり刺激的な香りと混ざり合って、ずっと嗅いでいたいくらいだ。
「……ふ」
相変わらず料理に集中しているように見えたブランさんが、堪えるような笑い声を漏らしたのが聞こえた。何かしてしまっただろうかと、乗り出していた身を引っ込める。
「見過ぎ。そんなに珍しい?」
「初めて見ました……この世界のホットショコラ……」
「へぇ。じゃ、楽しみにして良いよ。俺のは家族のお墨付きだから」
コトコト音を立てる片手鍋を持ち、カップを二つ用意したブランさんは、熱々のホットショコラをそこに注いだ。とぽとぽ、と良い音と共に、チョコレートのような香りと、花と、スパイスの混ざったような香りが立ち込める。私は思わず、ほう、と息を吐く。こんなの、美味しいに決まってる……。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます!」
コップに息を吹きかけて冷ましながら一口頂くと、口内に上品な甘みと、スパイスの香りが広がった。想像した通り、美味しい。それに、ほっと肩の力が抜けていくような、リラックスできるような気がする。家族のお墨付きというのも分かる。ナザリーさんとベルデさんも、よくこれを飲むのだろうか。
「……ホナミさんてさ」
ホットショコラを飲みながらキッチンの縁に寄りかっているブランさんは、美味しいホットショコラに夢中になっている私に向かって、ぽつりと呟いた。私はホットショコラを見つめるのを中断し、ブランさんを見る。その表情は、いつもよりも柔らかだった。クールな表情ばかりを見てきたせいか、つい、こんな表情もするのだなぁとしみじみ感じ入ってしまう。
「なんか、お兄が放っておけなくなるの分かるかも。結構好奇心旺盛?」
「で、ですかね……? まあ、割と、そうかな……」
「で、抜けてるというか、ちょっと鈍臭い? 加えて、警戒心も無い訳だ」
「無い訳では……」
散々な言われようでは。それでは放っておけないと言われても、良い意味に捉えることは不可能だ。警戒心が無いはガルさんにも言われたが、流石に正面切って鈍臭いと言われたのは初めてで、内心ショックを受ける。私が落ち込みながらホットショコラに口をつけていると、ブランさんは相変わらず揶揄うような口調で続けた。
「あぁごめん、貶したい訳じゃなくてさ」
「思い切り貶してませんでした?」
「いやいや。鍋見てキラキラ目を輝かせちゃってさ、なんかこう……庇護欲唆る感じ?」
「庇護……」
「俺でそうなんだからお兄は尚更だろうな、と思っただけだよ」
くすくす笑いながら言うブランさん。この人、私とそう違わないガルさんの弟さんということで、恐らく私よりも年下だと思うのだけれど、まるでそれを感じさせない態度だ。年下だから年上だからどうこうと言う訳では勿論ないが、私にも最低限、年上の威厳というものがあるのだけれど……。
「ま、お兄はそれだけで惚れるような人でもないから、もっと何かあるんだろうけどね」
ずず、と音を立ててホットショコラを啜ったブランさんは、キッチンに飲み終えたコップを片して水に浸けた。ついでとばかりに片手鍋も水に浸ける。鍋に水の溜まる音だけが、夜の静寂の中で響いていた。
ホットショコラの入ったコップをぎゅっと握る。もう落ち着いてきた温度が、私の手のひらにじんわりと移っていく。それでも、今は私の頬の方が熱いような気がした。意を決して、口を開く。
「その、ガルさんは、わ、私のことが……好き、なんでしょうか」
「……。は?」
「すみません調子に乗りました」
呆れたような声音で返されて、紡いだ勇気がぽっきりと折れてしまう。いや、すぐに再生可能な程度の勇気ではあったのだけれど。それでも一旦引き下がって、体勢を整える必要はあるようだ。馬鹿なことを聞いたなぁと、数秒前の自分を殴りたい気持ちに駆られた。
ブランさんは呆れた顔で私を見ていたが、ひとつ溜息を吐いて、言い聞かせるような静かな口調で言葉を紡ぐ。
「……お兄の気持ちはお兄に聞かないと分からないよ。それにホナミさんだって、本人に言われなきゃ信じないでしょ?」
ええ、それはまあ、はい。と返事をして、本当に馬鹿な質問をしてしまったものだと思う。ブランさんの言う通りだ。本人の口から聞かなければ、私は心の底からは信じられないだろう。疑問に思うのであれば、本人にぶつけなくてはいけない。でも、私のことが好きなんですか? なんて、なんだか自意識過剰なようで、聞くのも憚られる。それにそれを暴こうと思うのであれば、私も自分の気持ちをガルさんに伝える必要があるだろう。その気持ちの整理は、まだついていない。
「ホットショコラ、どうだった?」
「はい、スパイスが効いてて美味しかったです」
うんうんと頭を抱える私に、ブランさんは「でしょ」とふんわり笑って、私の手から空になったカップを受け取った。私は「洗います」と言って流し台に立とうとしたが、ブランさんがそれを阻止した。
「眠れそう?」
「はい、お陰様で。体も温まりましたし、気持ちも落ち着きました」
「そう。じゃ、早く寝ちゃいなよ。慣れないとこ来て疲れてるんでしょ」
そう言ってくれたブランさんの気遣いに、ありがたくも甘えさせてもらうことにして、私はブランさんに就寝の挨拶をすると、歯を磨いて寝室へと続く階段を上ったのだった。
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