第8話 この世界の文字と言葉を教えてください

 食事を終え、私は食器の後片付けを引き受けた。ガルヴェイルさんの料理は、シンプルで素朴な味付けだ。使っている調味料や調理法を見た限りでは、どうやら味覚はこちらの世界とそう大差ないようなので安心した。

 ガルヴェイルさんは私が食器を洗っている間にお風呂を用意してくれていたようで、準備が整ったと呼びに来てくれた。


「ありがとうございます、何から何まで……」


 ガルヴェイルさんは親切な人だ。本人は、あいつにはこき使われていたからな……と遠い目をしていた。フランセスカさんは、家事全般をガルヴェイルさんに任せていたのだろう。任せていたというか、やらせていたというか。

 お風呂は、ガルヴェイルさんに先に入ってくれるよう促したが、固辞されてしまった。何故なのか理由を聞くと、自分が入った後では毛が落ちるからだと言っていたが、それなら人間だって抜け毛は落ちる。確かに量は獣人の方が多いかもしれないが、似たようなものだ。そう主張するも、聞き入れてはもらえなかった。

 私はフランセスカさんの部屋のクローゼットから、なるべく露出が少なく地味なネグリジェを拝借し、浴室へと向かった。


 浴室は思ったよりも広く、中央に木組みの浴槽が置かれている。大きな窓からは外がよく見えて気持ちが良いが、少し落ち着かない気分だ。こんな森の中では、誰かが見ている訳もないのだが。

 浴槽の近くに金属製の釜のようなものが置いてあり、中ではお湯が沸いてふつふつと音を立てている。どうやら薪を燃やしてお湯を沸かしているらしい。その隣にも金属製の箱があるが、入っているのは水だった。このお湯と水を使い、自分のちょうど良い温度に調整して入るのだろう。既に張られている湯船に手を入れてみると、元の世界で普段入っているお風呂よりも少しぬるかった。のんびりと入るのには心地良い。

 身体を流してから、ゆっくりと湯船に浸かる。息を細く吐き出し、今日一日を振り返った。

 足を滑らせて川に落ちたと思ったら、火炙りにされていて。獣人に助けられ、従属の契約というものを解消する手助けをすることになった。元の世界に帰る方法は無いではないが、下手をすると数十ヶ年計画だ。その上成功するかどうかも分からないだろう。希望はほとんど無いに等しい。

 まずは……文字と言葉を覚えようか。毎日少しずつ、ガルヴェイルさんに教えてもらうことはできるだろうか。これ以上お世話になるのは心苦しいが、他に頼れる人もいない。頼んでみよう。


 お風呂から上がり、ネグリジェに着替える。元の世界では適当なパジャマで寝ていたため、こんな可愛らしい格好で寝るのはなんだか慣れない気恥ずかしさがある。

 浴室から出たところには、鏡が備え付けられていた。そういえば、今の姿……というよりフランセスカさんの容姿を確認していなかった。あまりにも自分とかけ離れているため、鏡に映ってもそれが自分であるという認識が出来ない。鏡に近寄りまじまじと見る。アッシュブロンドの髪に、宝石のようなエメラルドの瞳。ガルヴェイルさんの琥珀の瞳も美しいと思ったが、こちらも神秘的な輝きを放っている。

 何だか得をした気分だ。フランセスカさんは、黒髪黒目の容姿になって、地味になったと思うだろうか。それとも、この世界の人にとっては、それは神秘的に思えるものなのだろうか。分からないが、私にとってフランセスカさんの瞳は非常に魅力的なものだった。


「お風呂頂きました。ありがとうございます」


 リビングへと戻り、本を読んでいたガルヴェイルさんに声を掛ける。入れ替わりでお風呂に入ろうとしたガルヴェイルさんが、はたと私の格好を認めて、「中身が変わると随分と違うもんだな」と言った。


「どういうことですか?」

「あいつは派手で肌の出る服ばかり着てたからな。不用心だと言うと機嫌が悪くなるから何も言わなかったが」

「不用心……そ、そうですね」

「この辺りには虫も獣も多い」

「ああ、そういう……?」


 てっきり、いくらガルヴェイルさんが誠実な人だからといって、男女が一つ屋根の下にいるのに……という話かと思ったが、全くそうでは無かった。獣人と人間は種族が違うから、お互いそういった目では見ないものなのだろうか。そう考えると、意味を取り違えた自分が少し恥ずかしくなる。


「俺は今の格好の方が良いと思うぞ」


 素直に喜んで良いのか分からない褒め言葉だったが、一応、ありがとうございますと返す。ガルヴェイルさんはそのやり取りに満足して、浴室へ向かった。




 ガルヴェイルさんが去ってしまってから、改めて、昼間にガルヴェイルさんが見ていた膨大な量の本棚を見渡す。これを全て読む訳ではないだろうが、それにしても、この量では目的の本を探すことすら大変な作業だ。

 一冊の本を手に取って、パラパラと眺める。イラストが描いてある部分で手を止めて、イラストに添えてある文字を見た。その部分を開いたまま、他の本を開く。またイラストを探して、そこに添えられている文字を見る。どちらもよく似た動物のイラストだ。可愛らしい小動物が、くりっとした愛らしい瞳をこちらへ向けている。よくよく読んでみると、二つのイラストの説明文に、共通する記号の並びを発見した。これがこの動物の名前かもしれない。


「でも、読み方が分からないな……」


 そもそも文字は何種類あるのだろう。二、三冊読んで全ての記号を重複なく書き出せば、ある程度分かるだろうか。机にあった紙とペンを手繰り寄せて、小動物の名前らしき記号を書き出す。その上に動物のイラストを簡単に描いてみるが、あまり似せられなかった。


「愛嬌のある絵だな」


 いつの間にかお風呂から上がっていたガルヴェイルさんが、私の絵を後ろから覗き込んで言った。私は突然のことにビクリと肩を震わせ、急いでイラストを隠す。見られた。しかも、やんわりと上手くないと言われた。


「い、いつの間に……」

「お前がその絵を描き終えたあたりだな」


 それならつい先程のことだ。物音に全く気が付かなかった。

 お風呂上がりのガルヴェイルさんは、全身の毛が少しばかり湿り気を帯びていて、上半身は何も身につけていなかった。巨躯に引き締まった身体が嫌でも目に入り、つい顔を背けてしまう。いやいや、あちらはこちらのことなんて気にもしていないのだから、こんな、やましい気持ちを抱く必要は無いはずだ。


「何か調べていたのか?」

「はい、この国の文字を。ここの文字列が共通していたので、これが名前かなと」

「合ってる」


 ガルヴェイルさんが感心したように言う。正解できたことに、私は安堵した。


「ガルヴェイルさん、私にこの国の文字と言葉を教えて頂けませんか?」


 思い切って頼んでみる。ガルヴェイルさんには何の得もない、ただの面倒ごとだ。教えてもらう代わりに差し出せるのは、私の労働力くらいなものである。


「えっと、その代わり……掃除とかします。他に何かやって欲しい家事とかがあれば、私に出来ることならなんでもしますから!」

「別に……まぁ、何かあったら頼む。字と言葉を教えるのは構わない」


 ガルヴェイルさんは私の手からペンを取ると、さらさらと記号を書いた。ぱっと見たところ、30個に少し足りないくらいだろうか。

 ガルヴェイルさんはさらにペンを滑らせ、記号群の下にいくつか文章らしきものを書いた。


「これがこの世界の文字だ。まずはこれを覚えれば良い。下は簡単な挨拶だ。こんにちは、ありがとう、さようなら」


 文章の文字を追いながら、ゆっくりと言う。私は慌ててピアスを外して、ガルヴェイルさんの発音する言葉を真似て話してみた。数回繰り返して、なんとなく言えるような気になったところで、今日の授業はお終いだ。自室での書き物用に、ガルヴェイルさんから白紙を何枚か貰った。自室に寝に行く前に、ガルヴェイルさんに挨拶をする。


「ありがとうございました。おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」


 ガルヴェイルさんは、俺も寝るか、と言って、一緒に部屋へ向かって歩き出した。お休みの時は自分の小屋へ帰るものだとすっかり思い込んでいたため、驚いてガルヴェイルさんを見上げる。


「こちらで寝るんですか?」

「ん? ああ、居るとこき使われるのが嫌で小屋で寝泊まりしていたが、どうやらお前はそうはしなさそうだからな。あっちは狭いし快適さで言えばこっちの方が良い」


 なるほど。それが第一の理由だろうけれど、親切なガルヴェイルさんのことだから、もしかしたら、私が一人きりになってしまうことを懸念してくれたのかもしれない。……というのは、楽観的に考えすぎだろうか。


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