第5話 もう元の世界には戻れません……?

 割れたレンズの破片と眼鏡を片付けてテーブルに戻ると、ガルヴェイルさんが紅茶のお代わりを注いでくれていた。先程までの厳しかった目元は幾らか和らいで、ただの観察対象に向けるような視線に変わっている。私は紅茶に口を付け、そういえば自白剤を盛られていたのだということを思い出して慌ててカップから口を離した。揺れる水面を見るが、どんなに目を凝らしても、見ただけで入っているか入っていないかが私に分かる訳がない。その様子を見ていたガルヴェイルさんが、フッと笑って言った。


「今度は何も入れてない。アレだってお前の反応を見る為に入れただけで、それほど強い効果が期待出来るような代物じゃない。安心しろ」


 見様見真似の俺の調合だしな、とガルヴェイルさんが言い、自身の紅茶に口を付ける。私はその言葉にすっかり安心して、温かい紅茶の香りを心ゆくまで堪能した。


「さて、次は俺の番だ」


 カップを音を立ててソーサーに置いたガルヴェイルさんが、細く溜息を吐く。私は姿勢を正し、ガルヴェイルさんのお話を真剣に聞こうと少し身を乗り出した。彼は命の恩人でもある。その彼に何か恩返しできることがあれば、是非ともやらせてもらいたい。


「俺は、魔女との従属契約を解消したい。それには、お前の協力が不可欠だ」


 私は数回縦に首を振った。ガルヴェイルさんは右手の紋様を見つめながら話している。


「この契約の解消は、主人の側からしか出来ない。必要なのは、契約時に主人が決める『トリガ』だ。動作でも、言葉でも、何でも良い。魔女が何をトリガに定めたかさえ分かれば、お前にそれを実行してもらって、俺は晴れて自由の身というわけだ」


 ガルヴェイルさんの説明を頭の中で噛み砕きながら、ふんふん、と頷く。フランセスカさんの体である私が、フランセスカさんの定めた契約解除の条件を満たせば、ガルヴェイルさんは契約から解き放たれるということか。


「分かりました。で、そのトリガというのは、何をすれば良いのでしょうか?」

「それが分かればとっくにやらせてる」


 はあ、とガルヴェイルさんが一際大きな溜息を吐く。曰く、トリガに定められた動作なり呪文なり挙動は、主人である術者本人しか知らないのだそうだ。フランセスカさんの中身が私になってしまった今、迷宮入りも良いとこなのである。


「それなら、一緒に探しましょう。フランセスカさんが何かに書き残したりしているかも……」


 拳を振り上げて、自分のことを鼓舞するように明るい声を出してはみるものの、ガルヴェイルさんはしかめ面をしただけだった。


「字が読めないお前がどうやってそれを探すっていうんだ?」


 痛いところを突かれ、振り上げた拳をしおしおと下ろす。そうだった、私はこの世界の字が読めなくて、それを読むための道具もつい先程私自身が破壊したのだった。とはいえ、私の協力無くしてガルヴェイルさんが目的を達成することは困難なのだ。ここは二人で協力するのが得策だろう。私でも何か役に立てることがあるはずだ。


「……で、では、読み物はガルヴェイルさんにお任せして、私は様々な動作を試すとか」

「……ま、それしか無いだろうな」


 お前にできることはそれしか無いだろうな、という意味だろうか。心が痛い。せめて、その案でいくしか他に無いだろうな、という意味であって欲しい。後者であると信じよう。信じることは自由だ。

 私はこれから、元いた世界に帰れるまで、ガルヴェイルさんの従属契約の解除方法を探して過ごすのだ。やることがあるのは幸運なことだし、ガルヴェイルさんは少なくとも契約解除までは私と一緒に居てくれるのだろう。誰も知り合いのいない世界で、誰かが側に居てくれることの何と心強いことか。

 頑張ろうという気持ちを新たにしたところで、はて私は元の世界に帰れるのだろうかという疑念が過ぎった。理論上、フランセスカさんと同じことをすれば、私はフランセスカさんと再び入れ替わることが出来るはずだが、果たしてそれは可能なのだろうか。出来ることならば、住み慣れた世界に帰りたい。仕事が辛くて死んでしまった方が楽だと思うこともあれど、愛着のある世界だ。両親も、いきなり私が人が変わったようになれば心配もするだろう。


「ガルヴェイルさん、あの……フランセスカさんが私と、魂を入れ替えた? という魔法は、私も使うことが出来るのでしょうか?」


 なにやら思考に没頭しながらスコーンを味わっていたガルヴェイルさんは、急に話しかけてきた私に、何をいきなり、という顔をした。表情の和らいだガルヴェイルさんは、それなりに考えていることが顔に出る方のようだ。私が犬を飼っていたことが、ガルヴェイルさんの表情を読む一助になっているのかどうかは分からない。


「まあ、絶対に不可能とは言えない……が、恐らく無理だな」

「どっ、どうして」

「まずお前には魔法や呪術を使いこなす知識がない。身体的には素質はあるが、頭の中身が違いすぎる。力の使い方が分からないのでは話にならん」


 ガルヴェイルさんが、自分の頭を指でトントンと小突きながら言った。

 言われてみればその通りだ。フランセスカさんの体である以上、同じことが出来るのではないかと一抹の期待を抱いていたが、どうやらそう簡単な話ではないようだ。


「あいつ並みの知識を付け、あいつ並みに自分の体を使いこなせば出来る可能性はあるが……それは難しいだろうな」


 明日、急にスポーツ選手と入れ替わったとして、ルールも知らなければ体の使い方も分からないのでは、入れ替わり前と同じパフォーマンスを出すことは到底出来ないだろう。私も同じだ。魔法に関する知識もなければ使い方も知らないのでは、入れ替わりの魔法を再現することなど不可能だ。少なくとも、知識を付けて魔法の使い方を習得してからでなくてはならない。フランセスカさんが何年もかけて成し遂げたことを、常識も理も違う世界から来た平凡な人間が、一体何年かけたらできるというのだ。

 深く深く悲しみの溜息を吐く私を憐れんだのか、ガルヴェイルさんは「あいつが残した文献や資料があるかもしれん。見つけたら教えてやるよ」と言ってくれた。


 お母さん、お父さん、親不孝な娘でごめんなさい。あちらでは、中身がフランセスカさんの私はうまくやれているのだろうか。

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