第2話 G=肉球 × 新郎

 次の週の土曜日。午後三時五十五分。

 僕は理学部C棟503研究室の前に立ち、深呼吸をして自分を落ち着かせる。大丈夫だ、アパートを出る前にきちんと発声練習はしてきた。コンビニでレシートは不要かと聞かれたときは、うまく声が出せなかったが、あれは不意を突かれたからにすぎない。心の準備さえできていれば、気持ちの良い挨拶くらいはできる。……できるはずだ!

 ノックをすると須藤教授の声がした。スライド式ドアをあける。

「こんにちはぁっ!」

 僕は少々うわずった声で挨拶した。普段の僕の三倍はあろうかという声量である。会話をほとんどしない日々が続くと、うまく声を出せないどころか、自分の声の大小の判断もできなくなるのだ。

「おっ、主役の登場だ」

 須藤教授が柔和な笑みで僕を迎えてくれた。どうやら不自然に声が大きすぎたことを気にする人はいなかったようなので、僕はほっと胸をなでおろした。

 先輩は「もう来ないんじゃないかと思って、昨日から眠れなかったよ! 来てくれてホントにありがとう」と涙を浮かべている。……過去に何かあったのだろうか?

 須藤教授も先輩もラフな格好で、今日は白衣を身に着けていない。先輩はパーカー、教授はポロシャツ姿だ。土曜日は基本的に講義がないのだが、三年生以上は研究や論文執筆のために休みもなく大学へ来るのだという。

 部屋の中にはもう一人の人物がいた。――女子高生だった!

 淡い水色のワイシャツ。膝上のチェックのスカート。すらりと伸びる脚。学校の制服なのだろうか。しかしここは大学のはず。僕は男子校出身で、女子高生という生き物にはまったくと言っていいほど慣れていない。

 女子高生は猪俣先輩とはまったく対照的な雰囲気をまとっている。先輩が太陽ならこの少女は月。一言で言うとクール系美少女だ。左右で結んだツインテールの髪、さっと細筆でひいたような眉。冷たく鋭い目ををしているが、瞳には理知的な光が宿っている。感情が見えないので少々近づきがたい雰囲気。僕みたいなヤツはゴミを見るような目で「キモい。死ね」と言われそう……。

 怖い。先輩に「どなたでしょうか」と無言で尋ねる。

「凜ちゃんは先生の娘さん。現役女子高生だよ」

「須藤凜(りん)です。父がお世話になっております」

 月光のように澄んだ声。

 JKである凜ちゃんに丁寧なお辞儀をされて、慌てて僕も腰を折った。見た目の印象と違って、物腰が柔らかい。

「わ、渡辺悠一ですっ。こちらこそお世話になっております」

「渡辺さん、コーヒーいかがですか?」

「あ、あの、いえ、僕は……」

「遠慮しなくてもいいです」

「す、すみません、じゃあ、お願いします……」

「お砂糖とミルクはどうしますか?」

「どっちもお願いします」

 僕は凜ちゃんがコーヒーを淹れているところをじっと恐縮して見守る。落ち着いていて、丁寧な動作。なんてしっかりした娘さんだろう。さすが大学教授だけあって家庭での指導もしっかりしているんだろうな、などと考える。

「どうぞ」

「ありがとうございます。なんか、わざわざすみません」

「いいえ」

 先輩と二人並んでいるところを見ると、身長こそ先輩のほうが高いのだが、凜ちゃんのほうがしっかり者の姉に見えてしまうから不思議だ。もし「高校では生徒会長をやっています」と言われたら、すんなり納得できる。

「男性二名がまだ来てないから、くつろいで待っててね」と先輩も僕を気遣ってくれる。「コーヒーならいくらでもあるから! おかわりが欲しかったら言ってね、凜ちゃんに」

「は、はい」

 僕の豆腐メンタルでは、女子高生におかわりを要求して働かせるなんて、できそうにない。

 先輩と教授に会うのは今日でまだ二回目だ。ちょっと緊張するけど、温かいコーヒーを飲んでいると心が落ち着いてくる。僕はちびちびとコーヒーに口をつけた。

「渡辺さんは変人ですか?」

「ハッ!?」

 僕の聞き間違いだろうか。今、凜ちゃんから脈絡もなく変な質問をされたような気がする。僕がうろたえていると、凜ちゃんがもう一度、薄い唇をひらいた。

「こんなサークルに入るなんて、渡辺さんは変人ですか? 正気ですか?」

 気のせいではなかった!

「凜ちゃんひどい! まるでここのメンバーが変人みたいに!」と先輩がわめいたが、凜ちゃんは軽く無視した。先輩の扱い方を心得ている!?

「ええと、凜……ちゃん……も」僕は女の子の名前を呼ぶのがとても苦手なのだ。「『虫の輪』の……メンバーだったりするんですか?」なぜか僕は敬語で尋ねた。

「もちろんです」

 もちろんなんだ!? 感情の見えない冷たい目が僕を不安にさせる。

「まだよく分からないんだけど……ま、まあ、僕も変人なのかも。ははは……」

 曖昧な笑顔を返すことしかできなかった。そういうあなたも高校生なのにわざわざ大学のサークルに所属してるあたり、むしろ僕より変人ですよね? と言いたかったが、怖いので黙っていた。

「渡辺さん」

 凜ちゃんは真顔である。視線が鋭いのでドキリとしてしまう。

「な、なんでしょうか?」

「オタクですか?」

「えっ?」

 これまた唐突な質問に、僕は一瞬固まってしまう。凜ちゃんはなぜそう思ったのだろうか? 僕が挙動不審だから? コミュニケーションがぎこちないから? 服装がダサいから? 確かに高校時代に母親が『しまむら』で買ってきた服なんだけど。

「ゲームはけっこう好きだし、ゲームオタクと言えばオタクと言えるかもしれないですけど……」

 これが僕に言える精一杯であった。

「僕、オタクっぽいでしょうか?」

「少し」

 うぐっ……!! そうなのか、僕、オタクっぽいのか……。

 それにしても凜ちゃんの表情はさっきから一ミリも変わらない。何を考えているのか分からん。冷たい視線が僕の胸に突き刺さる。次の一言が「キモい。死ね」だったら、僕は生きていけない。

 会話はぶつりと途切れた。何をしゃべったらいいか分からない。だが横たわる沈黙をぶった切るように、クール系JKは唐突に口を開いた。

「ゴキブリ食べたいですか?」

 背筋が凍るとはこのことだ。

「へ……?」

「ゴキブリ。食べたいですか?」

「あ、あ、あの、あの、あの、本当に、無理です、食べるのは、本当に、ごめんなさい、すみません、許してください……」

 僕はマジでビビって泣きそうになった。これは死刑宣告なのだ。「ゴキブリ食べたいですか?」は相手がゴキブリを食べたいと思っているかどうか知りたくて発するセリフではないと思う。なぜならゴキブリが食べたい人などいないはずだからだ! つまりこのセリフは「文句言うとゴキブリ食わせるぞコノヤロー!」みたいな意味を柔らかくオブラートに包んで――包めていない気がするけど――発したセリフなのではないか。つまり凜ちゃんは内心ではキレているに違いない! しかしなぜ!? 僕が挙動不審だから? 会話が続かないから? それだけでキレちゃう?

「凜ちゃん、すごい質問するね……」驚くべきことに先輩も困惑していた。「私でも初対面でその質問はしないよ」

 須藤教授もこめかみのあたりを押さえている。……自分の娘にあきれている?

 いったい何が起きているのか? 僕には分からない。このツインテールの氷の人形のような女子高生のことがまったく分からない。凜ちゃんは止まらなかった。

「渡辺さん」

「は、は、はい……」

 僕はぶるぶる震えながら、次はいったいどんな恐ろしい言葉が飛び出すのかと神判の時を待った。

「す……」

 ……す?

「……素敵ですね」

「えっ?」

 今度こそ耳がおかしくなったのかと思った。出会って五分ほどの女子高生に「ゴキブリ食べたいですか?」と尋ねられてからの「素敵ですね」である。

 しかも「素敵ですね」を言うとき、ちょっと恥ずかしそうに顔をそむけたの、なんで? どうしてそこだけかすかに感情を見せたのか? 急に凜ちゃんのことが歳相応の女子高生に見えてきて、僕は生つばを飲み込んだ。果たしてこれは本当に現実なのだろうか? 何か大事な隠された真意を僕が見逃しているだけなのか? 皮肉なのか?

 僕が困惑と混乱の極みをさまよっていると、先輩が助け舟を出してくれた。

「虫オタじゃない普通の人が来てくれてよかったねー。凜ちゃん、それが嬉しいんだよね?」

「はい」凜ちゃんは一瞬だけ僕を見たかと思うと、すぐに視線をそらした。「うれしいです」

 それでようやく僕は理解した。なんのことはない、凜ちゃんにとって「素敵ですね」とは「平凡ですね」「普通ですね」という意味だったのだ。オタクかという質問も、「虫オタクなのか?」という意味だとか。それからゴキブリの件について。凜ちゃんは僕がゴキブリを食べたいと思っているかどうか、本気で確認したくて尋ねたらしい。なぜかといえば、恐ろしいことに、ここ『虫の輪』に集まる人たちは、その質問に対してYESと答えたり、YESかNOかを真面目に検討するらしいのだ。だから凜ちゃんは、あの質問に対して僕がどう答えるか、きちんと確かめたかったらしい。そんなありえない問答が意味をなす世界が存在するとは、カルチャーショックである。このサークルのメンバーは全員宇宙人なのか?

 三時を数分回った頃、男性二名が同時に部屋に入ってきた。

「うーっす。待たせたな」

 と気だるげに入ってきた小太りにメガネの男性は、恐らく僕よりかなり年上に見えた。無精ヒゲが目立つ。

「すみません遅れましたっす」

 いくらか申し訳なさそうなもう一人は長身痩躯で、シャープな顔立ちをしている。ホストでもやっていそうな雰囲気だが、年齢的には僕と一つか二つくらいしか違わないと見えた。

「はい二人とも遅刻。さっさと着席する」

 部屋の中央の机を囲み、全員が席に着いた。僕はめちゃくちゃ緊張して背筋を伸ばした。

 先輩が着席したまま指揮をとる。

「では本日も虫の輪、活動を始めます。本日の予定はLINEで連絡した通りです。まずは新規メンバーとの顔合わせ。終わり次第、斎藤くんの家におもむき、冬に採取しておいたカマキリ関連の処理。十八時から朱雀(すざく)で歓迎会。予約してあるので時間厳守。二十時解散予定。二次会は各自でお願いします。何か質問ある人っ?」

 誰も手をあげない。

「ではさっそく……。ついに! ついに待ち焦がれた新規メンバーがッ!! 我らが虫の輪にやって参りましたアッ!!!」

 それまでの事務的な口調が一転。先輩は一人椅子から立ち上がって選挙の立候補者のように訴えかけた。

「石橋(いしばし)くん以来だから、二年ぶりです! 私は感激を禁じえない! 私たちの心と共鳴する同士が現われたことに感動だよ! ありがとう渡辺くん! 君は本当に素晴らしい!」わけの分からない賞賛と皆の視線を浴びて、僕は身じろぎした。パイプ椅子がギコッと鳴った。「私たちはもう紹介が済んでいるので、遅れた二名、自己紹介をどうぞ」

 先に手をあげたのは長身痩躯のホストっぽい人だった。切れ長の目は、甘い笑みの形。黒のシャツとチノパンで、シンプルにキメている。オシャレには気を遣うタイプと見える。女性にモテそうだ。

「どうも、理学部数学科三年エースにしてダークホース、石の橋をたたかず渡る、石橋渡(いしばしわたる)です。趣味はゴム銃とFPS。よろしくっす!」

 鉄板ネタだったのか、颯爽と吹き抜ける風のように華麗にして鮮やかな自己紹介であった。続いてもう一人の小太り無精ヒゲ男。こちらはヤクザの事務所に出入りしていそうな雰囲気がある。

「化学科M2の斎藤だ。よろしく頼む」

 あっさりした自己紹介だった。ちなみにMというのは修士課程、2は二年生らしい。単純計算で僕より五歳上だ。

「ちなみに斎藤くんは同じ研究室の後輩からゲスと呼ばれているそうです!」

「余計なコメントせんでいい!」

 斎藤さんが先輩をたしなめた。

「では渡辺くんどうぞ」

「渡辺悠一です。地球科の一年です。趣味とか特技とかないですが、よろしくお願いします……」

 これでも頑張ったほうだ。家で練習したからな。言い終わったところで斎藤さんから質問を受けた。

「どうしてこんなサークルに入ろうと思った? 普通、入ろうと思わんぞ?」

 先輩以外がうんうんと頷いている。先輩は闇討ちにあった戦国武将みたいに驚愕していた。

「みんな反応おかしくない!?」

 誰一人先輩に返事をしなかった。斎藤さんが続けて僕に尋ねる。

「無類の虫好きか?」

「そういうわけでは……」

 僕は言い淀む。確かに僕もこんなサークルに所属することになるとは思ってもみなかった。虫が特別好きというわけでもないし、むしろ虫は気持ち悪いと思う。

 四年間ぼっちになりたくなくて、藁にも縋(すが)る思いで入ったわけで。そんなんじゃやっていけないぞ、帰れ、とか言われるかもしれない。言いそうな顔してるし。だが他に言えることもなかったので、おずおずと口を開く。

「僕がこのサークルに入ろうと思った理由は……そこの壁にある写真です」

 みなの視線が僕の視線の先に集まる。

「僕は何も取り柄がないですし、好きなこともやりたいこともないです。でも何かをして、何かになりたかったんです。そんなとき、猪俣先輩に出会って、正直よく分からないままここに来て、その写真を見ました。それでこのサークルの人たちに憧れました。理由はそれだけです、すみません」

 本当に申し訳なさが募る。たぶんこの人たちは先輩ほどでないにしろ、かなりの虫好きなのだ。明確な興味、探求心、知的欲求――そういったものに裏付けられた選択をした人たち。僕だけが違う。それこそ虫が良すぎると言われるかもしれない。

 僕は非難や失望の言葉を恐れて身構えた。

「謝ることねえよ」

 小太りに無精ヒゲの斎藤さんは、意外にも優しい声で言った。

「自分がそう思ってそうしたなら、悪いことなんかねえんだよ。自信持て」

「さすが斎藤くん、良いこと言う」

「おまえはいちいちいらんコメントをせんでいい」

 先輩から茶々を入れられ、ぶっきらぼうに返す斎藤さん。見た目は一歩間違えれば浮浪者かヤクザみたいで怖そうだけど、いい人なのかもしれない。

 ほかに質問する人はなく、会は次の段階へ進んだ。

「渡辺くんを迎えるにあたって、虫の輪の活動目的や基本理念を確認しておきたいと思います。この理念に賛同できない人は、残念ながら虫の輪のメンバーになることはできません。というか、なられても困ります」

 基本理念ってなんだろう? 会社や学校でいう創立者の思い、創業精神みたいなものだろうか? やはり大学という場所はすごいな、と僕は身を引き締める。

 先輩は空咳を打つと、神妙に語り始めた。

「虫の輪の活動内容は、ご存じの通り、虫を探し、捕まえ、絞(し)め、料理し、食べること。基本はこれ! しかし正確に言うなら、自分で虫を探し、自分で捕まえ、自分で絞め、自分で料理し、自分で食べる! 『自分で』っていうところが超大事だからね」

 と先輩はほとんど僕だけを見て念を押した。しかも机から身を乗り出して僕のほうに接近している。

「つまり現代社会における『食』は他人が捕まえ、他人が絞め、他人が料理し、私が食べる――こういうふうになりがち。例えば牛丼もお刺身も自分の代わりに誰かが生き物を育てたり、捕まえたりして、殺してくれてるっていう事実が実感しづらい! 牛丼やお刺身を見て牛やマグロが絞められてるところを想像する人なんていません! というか見たこともない! 誰も牛がぶち殺されるリアルなシーンを想像しながら牛丼食べたりしない! いたらよっぽど変人だ!」

 先輩が座っていたパイプ椅子が派手に倒れた。「だよね!? 農家か漁師でもない限りそうだよね!?」と先輩はさらに前かがみになって顔も接近してくる。というかいつの間にか先輩の両手は僕の上着をすごい力でつかんでいる。なんだこのプレッシャーは!? 緊張のあまり先輩の話も質問も聞いたそばから抜けていってしまうので、僕はわけも分からず首を縦に振る。

「だからこその昆虫食なんだよ! 自分が食べるものは自分で捕まえて、自分の手で命を奪うんだよ! 命を奪うことの苦しさを、痛みを、残酷さを知るんだよ! 感じるんだよ! そして奪った命に感謝していただく! さらに私という人間が生きているということに思いを馳せる! 生(せい)の実感だよ!」

 先輩の顔が近い。豊満な胸が自然と視界に入ってくるけど顔をそむけるのもどうかと思う。どうしたらいいんだ!? 斎藤さんパズドラやってるし! 凜ちゃんあくびしてるし! 石橋さんよだれ垂れてるし! 須藤教授電話してるし! 僕以外誰も聞いてねえ!?

「小さきもの、愛しきものの命をこの手で、他ならぬ私の手で奪う! 死をもって生を知る! ゴキブリだって、ハエだって、ウジムシだって生きているんだよ! 私も生きているんだよ! そして渡辺くん、君も! みんなも! 有限の命を、今この瞬間を、必死に生きてるんだよ! 巡り巡る命の繋がり――食物連鎖、食物網(しょくもつもう)の中に! どんな生き物も、単体で存在しているわけじゃないんだよ! 環境や他者との複雑な関係性の中に存在しているんだよ! 生きるために命を奪って! この場所に立っているんだよ! この宇宙に浮かぶ奇跡の星! 46億年の歴史を持つ! 宇宙船地球号の! 一員としてッ!!」

 先輩の腕力がすさまじい。首が絞まる。僕の有限の命が途絶えそうになる。まさしく虫の息。

「んで、一言で言うとなんなんだ?」

 斎藤さんが横やりを入れたおかげで、僕は一命を取りとめた。

「一言で言うと……?」

 先輩が平常通りの先輩に戻り、倒れた椅子を起こして座りなおした。

「小さな命の存在を感じながら、大切にいただきましょう! 虫を食べることは、世界と私たちの未来について考えることです!」

 最後はなんだか壮大すぎて、僕にはよく分からない。世界? 未来? どちらも虫とは関係なさそうだけど……。

「よくやった。最初からそうしろ」

 斎藤さんはまったく心のこもっていない賛辞を送った。パスドラしながら。そして勝手に「会議は以上」と宣言した。

「斎藤くんひどい! まだ私は言い足りないことがあるのに! 世界の食糧危機とか途上国の栄養の問題とかに昆虫食がどれほど寄与するかということも。生態系の保護、生物濃縮の問題、それから昆虫食の経済面における……」

「うるせえ! 飲み会で言え!」

「でもでも!」

「おまえは話が長い!」

 先輩は不服そうではあったが、すねたように「いいもん。ぜったい飲み会で話すから」と言って「会議は終わりです」と締めくくった。

 斎藤さん、うまく先輩をコントロールしてるというか、扱いに慣れているというか。そういえば斎藤さんはM2――修士二年だから教授の次に年長者だ。虫の輪の創設者の一人だと前回聞いた気もするし、先輩とは長い付き合いに違いない。二人はどんな関係なのだろう?

 その後、僕らは斎藤さんアパートに向かうことになった。『冬に採取しておいたカマキリ関連の処理』をするらしいが、ブツは斎藤さんちに保管されているとのことだ。階段を降りて坂をくだって一般道に出る。さらに歩くこと数分。細い道を入った奥まった場所に、その木造ボロアパートはあった。

「あいかわらずボロいねー」

 先輩が言った。メンバーたちは何度も来ているらしい。

 外階段を二階へ上がっていくと玄関になっていて、各部屋へ通じる廊下が伸びていた。靴を脱いで歩くと、フローリングがギシギシと悲鳴をあげる。

 斎藤さんは廊下の中ほどまで進んでドアのカギを開けた。

「鍋使って、湯、わかしてくれ。モノはこっちにあるから、一人か二人来てくれ」

「私そっち!」

 先輩が素早く名乗りを上げたので、僕も反射的に手をあげた。教授と凜ちゃんと石橋さんはお湯を沸かす係になった。斎藤さんはどこへ行くかと思いきや、隣の部屋のドアにカギを差しこむ。

 僕が不思議に思っていると、先輩が「両方とも斎藤くんの部屋なんだよ」と教えてくれた。

「一人で二部屋借りてるんですか」

「家賃一万五千だしな。二部屋借りてもその辺のより安いぞ」

 確かに僕は家賃四万円の部屋に住んでいるけど、自分のところはまあまあ安いと思っていた。

「でもどうして二部屋なんですか」

「まあ、中を見れば分かる」

 心なしか先輩が胸をときめかせているように見える。部屋の電気をつけると、妙な光景が広がっていた。水槽が整然と並んでいて、まるでペットショップみたいだ。無人の室内にはエアコンと空気清浄機のかすかな駆動音がしているだけで、動物の声や物音はしない。

「早く閉めてくれ。大家にばれるとマズい」

 言われて僕は慌てて身体を滑りこませた。斎藤さんは部屋の奥に進む。先輩は水槽を眺めて「ははー♡」とか「ほほー♡」とか感嘆の声を漏らしている。僕も水槽をのぞいてみた。

 黒と茶、ツートーンの小さな生物が何十匹も蠢(うごめ)いている。楕円形の胴体に、六本のガサガサと動く脚。辺りを探るように動く触覚。木くずや紙くずの隙間に潜りこみ、這い回り、ひしめくヤツら。

「これゴキブリですか!?」

 危うく叫び出しそうだった。

「こっちも! こっちも……!?」

 どの水槽も同じ。微妙に大きさや色や形が違うようだけど、ゴキブリと呼んで差しつかえないヤツらがうじゃうじゃいる。僕は吐きそうになるのをこらえた。ここはゴキブリの巣なのか? 正気だとは思えない。

「渡辺くん、こっち来て。これカワイイよ。私のイチオシ」

 先輩に手招きで呼ばれ、僕は一縷(いちる)の希望を抱いてよろよろと向かった。

「ほーら。マダガスカルゴキブリ!」

 どうせそうだと思ったよ!!

 ちなみに先輩が「カワイイ」と称賛するそいつは、他のどのゴキブリよりも巨大だった。寿司一個分くらいある。羽らしきものはなく、見た目は平べったくした巨大なダンゴムシだ。色は茶色っぽくて、脚は六本だけど。

「いいよね、マダゴキ。癒されるよね~。なんか一日中眺めてたくなるよね~」

 断じてならない。しかし先輩の目はとろんとしている。恋する乙女みたいな深いため息までついている!

 一般家庭に出没するGと比べれば、ずんぐりしていてやたらと動きが鈍く、あの本能的な恐怖心をかき立てられることはない。だからといって、いつまでも眺めていたいとも思わないが。

「ねえ斎藤くん、マダゴキ出していい? 触っていい?」

 僕は我が耳を疑った。出さないでくれ!

「今じゃなくていいだろ」

「今じゃないとダメ! ホントにダメ!」

 先輩はしつこい。何がどう「ダメ!」なのか全く不明であるが、その顔は切実そのものだ。斎藤さんはあきれたように許可を出した。

 先輩が飼育ケースのふたを開けて、マダゴキの群れに手を伸ばす。素手で! 木切れにへばりついている特大の一匹をすくいあげるようにして手のひらに移動させ、引き上げた。僕は三歩下がった。でも下がった先には別種のゴキブリがいるという四面楚歌である。

「渡辺くん、飛ばないし、のろいし、おとなしい性格だから大丈夫」

「大丈夫とか、そういう問題じゃないです!」

 先輩は少し残念そうだが、僕は近づきたくなかった。それにしてもこのマダゴキ、でかい。先輩の手のひらから零れ落ちんばかりだ。先輩はマダゴキをなでたりツンツンしたりする。ハムスター的な感覚なのか?

「んああぅ! もうっ! この背中のプニプニがぁん! いいっ……! 肉球みたいでぇ! いいっ! んはぁっ……! 癒されるぅ」

 じゃあ肉球でいいじゃないですか、と指摘したかったが、先輩が至高の幸福に包まれていたので邪魔するのはやめた。とろけそうな表情で、なんとも無防備だ。なぜか声もなまめかしくて、それが聞けたことだけはマダゴキに感謝である。

 先輩にプニプニされたマダゴキはキューキューと鳴いた。そう、こいつ鳴くのである。念のため言っておくが、鳴いても愛らしくはない。鳴けばいいと思うなよ。

「ほら、渡辺くんも触ってみない? 呼ばれてるよ」

「呼ばれてません!」

「何事も経験って言うじゃん? 私が見ててあげるから。デビューしちゃいなよ」

 なんのデビューだよ。と突っ込むけど、先輩に誘われると僕は弱い。本当に害はないようだし、何よりこうしていつまでもビビっているようでは印象も悪い。男として頼りがいのない、ダメなヤツと思われてしまいかねない。

 僕は「先輩とお近づきになるためだ」と自分に言い聞かせ、近寄った。先輩の手のひらの上でおとなしくしているマダゴキの背中に、そっと指で触れる。……滑らかで、柔らかい。けど癒されはしない! むしろゾゾッとして心拍数が上がる。

「よし。じゃあ、手、出して」

「い、いや、さすがにそれは」

「えー。人生損するよ? いいの? ねえちょっとだけ乗せとこ? ちょっとだけだから」

 マジで何がどう損するのか分からないし、絶対に何も損はしないと確信しているのだけど、先輩の手が僕の手にさりげなく触れた瞬間、「後は野となれ山となれ」と思ってしまった。僕は従順になったのだ。優しく包み込むように、僕を支えるきれいな白い手。先輩の体温が伝わってくる。距離も近くて、なんだか甘い香りも漂い、ドキドキする。体温が上昇していく。それを悟られてしまわないかとハラハラして、手が汗ばむ。

「ほーら、いくよ?」

 ついにマダゴキが僕の手のひらに降りてきた。探るように警戒しながら、ゆっくりと歩いてくる。身の毛もよだつ脚の感触。チクチクするような、かゆいような。

「やばいです……! やばい、やばい、やばい……! もう無理ですって! マジで無理です助けてくださいッ!!」

 僕はみっともなくわめいた。先輩がさっとマダゴキを回収した。もっと先輩の手に触れていたかったなどと思う余裕もなかった。精神を削り取られるようだ。

「ダメかー」

「ダメでした……」

「でもまあナイスチャレンジ」

 先輩が僕にウインクしたのが可愛くて全て許せた。ちなみに今日は寝ぐせが付いてない。寝ぐせが付いているのは研究のために徹夜したときだけらしい。

 僕は額に浮いた汗をぬぐい、先輩から離れた。早く手を洗いたい。しばらくマダゴキと戯れていた先輩は、斎藤さんに怒られて名残惜しそうに飼育ケースに戻した。「また会いに来るからね。きっと来るからね」と別れの言葉をかけているあたり、この人の愛情は相当だ。

「斎藤さんはどうしてこんなにゴキブリ飼ってるんですか」

「トカゲとか魚の生き餌として需要あるってのと、ペットとしてだな。欧米じゃカブトムシ並みに人気があるらしいぞ」

 ゴキブリにもそういう使い道があるとは知らなかった。世の中には変わった人もいるものだ。理解はできないけれど。

「渡辺、こいつを隣の部屋に持っていってくれ」

 斎藤さんからチャック付きのビニール袋を渡された。

「うわっ……これカマキリの赤ちゃんですね」

「去年の冬に河原で集めておいたんだ。今日の作業も含めて毎年の恒例行事みたいなもんだな」

 カマキリの卵が袋ごとに二つずつ入っていて、大半が孵化していた。指先ほどの大きさの、枯れ草色の子カマキリたちがわらわらと動いている。一つの袋に百匹くらいいるだろうか。ゴキブリと比べたらなんと微笑ましく可愛らしいことか。そんな袋が十個はある。

「猪俣もさっさと働け」

 斎藤さんの言葉に、僕は内心ドキリとした。今、確かに斎藤さんは猪俣先輩のことを呼び捨てで呼んだ。ごく自然に。

 別の水槽に見入っていた先輩は、呼び捨てにされたことはまったく気にする様子もなかった。斎藤さんのほうが年上だからおかしなことはない、といえばそうなのだが。先輩は元気な子カマキリたちを見て「おおー、今年も大量だね」と歓声をあげる。三人で袋を全て持ち、飼育部屋を後にした。

 このときの僕は猪俣先輩と斎藤さんの関係に気を取られていたせいで、重大な事実に思い至っていなかった。つまり虫の輪の活動において、食わないものは捕まえないし飼いもしないということである。なぜ隣の部屋で湯を用意しているかといえば、予想できたことだが、ちょっと可愛くも見え始めた子カマキリたちをゆでるためであった。

「木の枝とかゴミとか孵化してない卵嚢(らんのう)はこっちな。あと絶対逃がすなよ。注意しろよ」

「振りっすか?」

「振りじゃねえ! 石橋、特に気をつけろよ」

「ほどほど頑張りますよ」

 当然のごとく一同は作業を開始し、可愛らしい子カマキリたちを鍋の中に放り込んでいった。さっと湯通して、網目状になっているお玉ですくい上げ、水気を切って目の細かいザルの上へ。あの凜ちゃんまでも、生まれたばかりの小さな命を慣れた手つきで熱湯のうだる鍋にぶちこんでいく。僕はその光景を、多少の衝撃と、なんとも言えない複雑な心持ちで見守っていた。

「渡辺くんも、やれそうならやったほうがいいと思うけど、どうする?」

 僕もこのサークルのメンバーなのだから、当然手伝うべきだろう。だけど生まれたばかりの子カマキリたちはアシダカグモやゴキブリに比べたら、なんだか可哀そうな気がしてしまう。アシダカグモが意外にもおいしかったように、カマキリも実はおいしいのだろうか。わざわざ捕まえて食べるに値するものなのだろうか。分からないが……スーパーやコンビニにもおいしいものはいくらでもある。わざわざ赤ちゃんカマキリをこんなにたくさん殺す必要があるのだろうか。残酷というか、やるせないというか……。

 逡巡している僕を見て、先輩は優しく諭すように言った。

「無理はしなくていい。自分の手で命を奪うことに大事な意味があるけれど、それをどうしても嫌がる人も、いていいと思う。これを見て、渡辺くんが日々何かを食べるために手を汚した誰かがいるってことを、知ってもらえればそれだけで充分だよ。だから君の準備が整う日まで、見ているだけでもいいからね」

 結局、僕は部屋の隅で黙って見ているだけだった。千匹くらいはいたであろう子カマキリたちは全て湯通しされ、まるでシラスみたいな見た目になって小分けにされ、冷凍庫に安置された。一年かけて皆の胃袋におさまるのだという。そしてまた二月ごろ、次の一年分の卵嚢を採取する。それが繰り返されるサイクル。

 その後は雑談したり、斎藤さんの飼育室を見学したりして時間をつぶした。頃合いを見て僕らは歓迎会の会場である中華料理店『朱雀(すざく)』に向かった。



 飲み会の主役は確かに新入生の僕である。

 席順はこうだ。僕のいる側が、先輩、僕、凜ちゃんの順。向かい側が石橋さん、斎藤さん、須藤教授。つまり両手に花なのだ。

 最初は極度の緊張でなかなか料理がのどを通らなかったけど、時間が経つにつれて雰囲気に慣れてきた。お酒はまだ飲めないのでコーラだけど。

「はい、じゃあそろそろ偉い会長によるお話の続きをやります!」

 ビールの三杯目が来た頃、先輩が立ち上がった。

「やってていいぞ。その代わり酢豚はおまえ以外の全員で食っておくからな」

 斎藤さんが太い腕で酢豚の皿を引き寄せ、僕の皿にどかっと盛り付けてくれた。さらに斎藤さん自身の皿にも。

「えー! 斎藤くんひどっ! それ私が食べたくて頼んだのに!」

「遠慮なくいただくっす」石橋さんは箸でひょいひょいと取っていく。

「よし、いただこうか」「いただきます」須藤教授と凜ちゃんも次々と酢豚を取り始めたので、一気に酢豚が減っていく。

「みんなダメ! 偉い会長によるお話はあとでやります!」

 先輩も酢豚の取り合いに加わって、卓上は壮絶だ。どうやらみんな先輩の演説は遠慮したいらしい。

「ハイ、タコカラダヨ」中国人の店員さんがタコの唐揚げを持ってきた。

「私のだ! 斎藤くんにはあげません!」

「てめえ、それは俺が頼んだんだぞ!?」

 先輩と斎藤さんが争奪戦を始める。さっきからそんなことばかりである。この二人は特に酒が進んでいる。

「この二人、めっちゃ飲みますね」心配になって向かいのイケメン――石橋さんに声をかけた。

「毎回こんな感じっす」石橋さんはのんきに戦いを眺めながら、マイペースにちびちびとカシスオレンジをなめている。それだけで絵になる人だ。

 僕が骨付きチキンを食っていると、凜ちゃんが枝豆を差し出してきた。争奪戦の隙を突いてちょこちょこと食べ物を盗んできては、僕にくれるのである。

「どうぞ」

「あ、ありがとう」

「これもどうぞ」今度は春巻き。

「ああ、どうも……」

「渡辺さん」

「な、何?」

「その骨、ください」

「ほね……?」

 僕がしゃぶった後の、チキンの骨を指差す凜ちゃん。

「えっと、チキンならこっちに……」

「チキンではないです。この骨がいいです」

「な、な、なんでそれ!?」

「お願いします」

 なにこの女子高生!? 僕が食った後の骨をどうする気なのか? 怖い。怖すぎる……!

「か、考えさせてください……」

 僕は春巻きをモシャモシャとかじった。

「あー! 私が取っておいた春巻きがない!」

 先輩の悲鳴。僕は盛大にむせた。

「渡辺くんが食べてる!? なんで!? 枝豆も消えてるし!」

「いや、これは、その……」凜ちゃん、先輩の皿から取ったのかよ!?

「私が取りました。渡辺さんは悪くないです」悪びれる様子もなく手をあげる凜ちゃん。「猪俣先輩、どんくさかったので」

 さらっとすごいこと言ったし……。

「ど、どんくさい!? 渡辺くんは主役だから許すけど、凜ちゃんは許すまじ! くすぐりの刑に処す!」

「渡辺さんが盗んだのを見ました」そう言って僕を引っつかみ、後ろに隠れて盾にする凜ちゃん。

 秒で売りやがった!? 先輩がニヤニヤして襲い掛かってくる! 僕は女子高生と先輩に挟まれて、抱き着かれて、押し倒されて、もみくちゃにされた。

 僕の顔面に押し付けられている柔らかくて温かい何か……。ほのかな甘い香り……。息が苦しい……。



 朱雀の駐車場から見上げた月は冴え冴えとして鮮やかだった。僕は両腕を夜空に突きあげて大きく伸びをする。火照った体に風が心地良い。

「食った食った」

 ヒゲづらの斎藤さんが僕の隣に並んだ。

「どうだ? うまかったか?」

「はい、すごくおいしかったです」

 お酒で赤らんだ顔の斎藤さんに、素直な感想を返した。

「さすがにカイコのさなぎの唐揚げが出てきたときはビビりましたけど」

「その割に物おじせずに食ってたじゃねえか」

 斎藤さんがニッと口を歪めた。

「みなさんがおいしそうに食べるので、つい。一個食べたらイメージが変わりました」

「そうだぞ、食わず嫌いは損だ。見た目に騙されてはならん」

 カイコのさなぎはおいしかった。ちょっと『匂う』のだけど、パリパリッとした食感がいい。しかし他の料理はカイコの十倍おいしかった、とは言わないでおく。

「あのカイコも、誰かが命を奪ってくれたおかげで俺らが食えた。カイコだけじゃなく豚肉も鶏肉もおんなじだな。命を奪ってくれたヤツに対しても感謝するのが『虫の輪』流だ」

「はい、肝に銘じておきます」

 僕は大学生になってから初めての幸福感に包まれながら、朱雀での食事のことを回想した。カイコのさなぎの唐揚げも、酢豚も、油淋鶏(ユーリンチー)も、それがまだ生きていたとき誰かが殺してさばいて、今日の僕らのテーブルに並んだ。だが僕らはその残酷さを全く目の当たりにすることなく、素敵な食事だけをいただくことができる。カマキリの赤ちゃんたちも、いずれ僕らによって食べられる。先輩や斎藤さんが命を奪ってくれたから。アシダカグモの命は先輩が奪ってくれた。

「僕だけが何もしないでいるわけには、いかないですよね」

「あー、いや、すまん。おまえはそのままでもいいんだ。やりたければやる。やりたくないなら無理せんでいい」こういう話は猪俣の役割だな、と斎藤さんが自分の頬を叩く。「どうも酒が入ると余計な話をしたくなっていかん」

 ちなみに斎藤さんは凜ちゃんと先輩のじゃれ合いの後、先輩の普段からの常識はずれな行動についてさんざん説教をしていた。先輩は先輩で軽く流しているようだったけれど。たぶん何度となく繰り返されてきたことなのだろう。

 僕は斎藤さんが先輩に説教しているのを見て、モヤモヤした気持ちだった。斎藤さんが『猪俣』と先輩を呼び捨てにしたときもモヤモヤした。二人の関係が気になって仕方がないのだと、認めざるをえない。

 歓迎会は楽しかった。たくさん話ができたし、たくさん笑った。自分でも驚くくらいに。これこそ、まさに僕の思い描いていた理想だと言える。だけど僕は心の底から笑えたという自信がない。たぶんどこかで恐れているのだ。斎藤さんと先輩が、恋人か、あるいはそれに近い関係なんじゃないかということを……。

 残りのメンバーがぞろぞろと出てきた。全員が顔を見合わせると、先輩が場を取り仕切った。

「本日はありがとうございました。そして渡辺くんも……」ほんのりと赤い頬の先輩と目が合い、それだけで幸せな気持ちになった。先輩は一同を見回す。「みなさんも、また一年間よろしくお願いします! これにて解散!」

 先輩と一緒にいられる楽しい時間が終わってしまった。虫の輪の集まりは隔週だそうだから、先輩と会えるのは二週間後だ。僕はまだ先輩とプライベートで食事に行ったり遊んだりする仲ではない。虫の輪についての必要最小限の連絡をLINEでやりとりするだけだ。

 楽しい時間はやがて終わる。そんな当たり前のことが恨めしい。

「二次会行きたい人は?」

 言ったのは斎藤さんだった。僕はうつむきかけていた顔をあげた。もし先輩が二次会に来れば、まだ別れずに済む。

「僕らはこれで失礼するよ」と須藤教授。まだ高校生の凜ちゃんに配慮したのだろう。

「みなさん、さようなら」凜ちゃんは礼儀正しく挨拶をした。須藤家は別れを告げて去っていった。

 なぜか凜ちゃんは僕だけでなくみんなが食べた後のチキンの骨をビニール袋に入れて持ち帰った。あの女子高生、謎過ぎる……。

「俺、行きますよ」と石橋さん。「飲まなくていいならっすけど」

 石橋さんは意外にもお酒に弱いらしく、ちびちびとしか飲んでいなかったが、こういう賑やかな場は好きみたいだ。

 斎藤さんが僕と先輩を交互に見た。先輩が行くなら絶対に行きたい。だけど行かないならどうしようか。一度行かないと言ってしまえば、もし先輩が行くことになったとき「やっぱり僕も行きます」とは言いにくい。それでは先輩目当てだと言っているようなものだから。

「僕も行きます」

 とにかくチャンスを無駄にしてはならないという思いで、そう答えた。あと返事をしていないのは先輩だけ。恋愛の神様に祈るような気持ちで先輩を見る。

「私はやめとこうかなー。今日は楽しくて暴飲暴食しちゃったし」

 祈りは届かず、先輩の後ろ姿は闇に消えていった。

 斎藤さん、石橋さん、僕の三人が取り残された。

「さてどうするか。俺しか飲まないなら居酒屋よりカラオケのほうがいいか?」

「いいっすね、カラオケ。行っちゃいましょう」

「カ、カラオケって、行ったことないんですけど……」

「マジかよ。おまえ、変わってんなー」

 斎藤さんを筆頭とした虫の輪の人たちには言われたくない。

「まあ、今日は俺がおごってやる。行くぞ」

 ポンと肩をたたかれ、連行される。

「は、はい。お願いします!」

 とにかく度胸だ。度胸を付けなければ何もできない。

 猪俣先輩の歌声を聞いてみたかったな。どんな曲が好きなのだろう? 先輩が来ないのは残念だけど、下手な歌を披露することにならなくてよかったと思うべきか。

 僕ら三人はタクシーを拾ってカラオケ店に向かった。その車中で斎藤さんが前触れもなくこんなことを言った。

「渡辺、おまえ、猪俣のこと好きなのか?」

「い、いやいやいやいやいや! なんでですか!? なに言ってるんですか!?」

「その反応からして図星じゃねえか」

「渡辺くん、分かりやすいっすね。俺ももしかしたらって思ってたんすけど、まさかホントにそうだとは」

 先輩と会って話をしたのは、まだたったの二回目である。さらに言えばこの二人と出会ったのは今日なのである。こんなに早く秘密が露呈するなんて普通ありえない。末代までの恥だ。穴があったら入りたい。でもここはタクシーの車内であり、逃げも隠れもできない。

 僕は運転手のおっさんを含めた三人に、実は先輩のことが気になっていると白状した。実はもクソもないけれど。

「青春だねぇ」と運転手のおっさんが呟く。「青春だな」「青春っすね」と斎藤さん、石橋さんが続く。

「あいつのどこに惚れたんだ? あの虫女の。おっぱいか?」

「確かにでかいっすね」

「ち、違いますよ」

 そういうところしか見てないと思われるのは心外だ。見てないと言ったらウソだけど。

 白状しよう。僕は先輩を好きになってしまったのだ。

「何より、か、か、可愛いですし。明るくて……輝いていて……自分の道を進んでいるっていう感じがして」

「美人には違いねえ。そういやあいつ一昨年あたり、ミスコンに出てたよな?」

「出たっすね。忘れもしないっす」

「マ、マジですか」

 もしかしてググったら写真とか出てくるのだろうか? 欲しい……って、何を考えてるんだ僕は!

 それはさておき、あれほど整った素材を持っているのだから、ミスコン出場も納得できる。どうも先輩は化粧っ気が薄いみたいだが、もっとおしゃれをすれば、女優やらアイドルやらと見間違えるほどになるのではないか。いや、今でも充分きれいなのだけど。

「前評判はよかったっすよね。でも最終的には会場をドン引きさせて、半端な順位に終わってたっすよね」

「そうだそうだ。そんな感じだったな」

「……何をやらかしたんですか?」知りたくないけど知りたくてたまらない。

「あの女、純白のウェディングドレス着て、マダガスカルゴキブリを腕に乗っけて連れてきたわけだ。それだけでやべえが……そのマダゴキを新郎に見立てて、一人寸劇をやった」

「あれは狂気だったっす……」

 うわァ……。言葉が出ない……。

「あれは美人だが残念美人だ。明るくて輝いてる、というのもまあ分かる。しかも時々無防備で妙にエロい。だが自分の道を進んでるってのは、どうなんだ?」

「俺にはただのコースアウトに見えるっす」

「同感だな。あいつの先にも後にも道は見えねえぞ」

「それは、そうですね……」

 言われてみるとそのような気もしてくる。

 だけど先輩への気持ちを消すことはできない。見て見ぬふりをすることもできない。だから僕は少しの勇気を奮い立たせる。

「先輩って周りが見えてないこともあるし、なんて言いますか、すごく常識ハズレなこともありますけど、揺るがない自分を持っていると思うんです。何も恐れていないというか、遠慮しないでありのままの自分を貫けるというか。それは『自分』を何も持っていない僕とは真逆の資質で、まぶしくて、うらやましくて……遠い存在なんです。だから惹(ひ)かれるんだと思います」

 まだ二回しか会っていないくせに、先輩の何が分かるんだろう? だけど感じるのだ。先輩は僕にとって特別な人間だと。出会うべくして出会ったのだと。新しい世界への一歩は、先輩と出会ったあの瞬間に始まったのだと。

「渡辺、本気なのか? あの趣味だぞ? あの言動だぞ? とんでもない女だぞ? 寝ぐせも直さないで学内をほっつき歩いてるし、あんな汚ねえ白衣着てても何とも思わないんだぞ? あんな女は探しても他にいないぞ?」

「ほ、本気です。すみません」

 うつむきがちに答えた。なんかそこまで言われると、ちょっとへこむ……。

 斎藤さんがいきなり僕の肩をバシンとたたいた。

「謝るな。悪いことじゃねえんだ。やりたいようにやれ」

 タクシーがカラオケ店の前に停まった。斎藤さんが料金を払い、タクシーを降りた。

「猪俣に彼氏はいない。在学中は俺が知る限り、そういう人物はいない」

「俺も聞いたことないっす」

「今もフリーだろうな。下手したら一生フリーの女だ。渡辺にとっちゃ、チャンスと言えるわけだし、攻めていけよ」

 また肩をたたかれた。よく励まされる日だ。

「斎藤さんは、先輩と付き合ったりということは……」

「ねえよ。地球上にはいい女がいくらでもいるってのに、なんであんな特殊な女を選ぶんだ?」

「で、でも、すごく仲良さそうでしたし……」

「仲がいいというか単に付き合い長いだけだ。あいつの趣味を理解できる人間がそもそもほとんどいないから、俺みたいなヤツはあいつにとって貴重なんだろう。ちなみに石橋はあいつのことをどう思う?」

「俺としましては、顔とスタイルはアリですけど性格はナシっすね。完全に遊びとして割り切るならいいかもしれないっす」

「まあそんなもんだろう、普通は。あいつは控えめに言ってやべえ女だぞ。案外ライバルは少ないかもな?」

 なんだか複雑な気分だ。斎藤さんも石橋さんもライバルでないと判明したのは嬉しいけれど。

「とりあえず店、入るか」

 僕らは受付を済ませ、ドリンクを持って部屋に移動した。ソファーに腰かけ、開口一番に斎藤さんが言ったのは、次のようなことだった。

「猪俣の定番レパートリーを教えてやる。デュオができる曲もあるぞ。あいつはそういうノリは大歓迎だからな」

 ライバルなのではないかと心配していたはずの斎藤さんは、なんだかんだで味方になっていた。

「石橋はうまいぞ。コツを教えてもらえばいい」

「プロ並みっすよ」

「自分で言うな」

 自分で言うだけあって、石橋さんの歌唱力はすごかった。元バンドマンだそうで、ロックもバラードも歌いこなしている。

 僕は二人の頼もしい協力者を得て、先輩を振り向かせるための修行を開始したのだった。

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