夏の章
第3話 学内の嫌われ者
「こんにちはー!」
ノックせずに元気よく挨拶して研究室に入ってきたのは猪俣先輩だ。今日は真っ白のブラウスに紺のロングスカートを合わせていて、夏らしく涼しげだ。寝ぐせも立っていない。もし麦わら帽子でもかぶって、海岸にでも立ってもらえば、映画のワンシーンか絵画にでもなる。全てを台無しにする、汚い白衣さえ羽織っていなければ!
「こんにちは、先輩」
僕は女神のようなその姿に見惚れているのを気付かれぬように、平静を装いつつ挨拶を返した。先輩の持つ魅力――透明感や清楚でみずみずしい感じは、汚れた白衣のマイナス分を遥かに凌駕する。注:個人的見解。
「渡辺くん、さすがだよ。このあと講義とか大丈夫?」
「今日はもう終わったので、何時まででも大丈夫です」
「素晴らしい!」
先輩が満面の笑みを浮かべる。それだけで僕は幸せになれる。
今日は木曜日。虫の輪の活動はないはずの日だ。それなのに僕が須藤教授の研究室にいるのは、わけがある。
昨日の夜、虫の輪のLINEグループに、先輩からメッセージがあったのだ。
『スズメバチを退治しよう!』
なんのことやら不明だったが、次々と先輩から追加のメッセージが入った。要約すると、最近大学構内で学生がスズメバチに刺される被害が、数件あった。そこで僕らがスズメバチ捕獲装置――スズメバチトラップを作って設置し、被害防止に貢献しつつ、食材を手に入れようというのだ。すでに大学から許可も取ったらしい。
善は急げということで、さっそくメンバーに集合がかかった。それで僕は指定された時間、ちょうど暇だったので研究室に来たのである。
「ほかに誰か来るって言ってたっけ?」
「斎藤さんも石橋さんも来れないらしいですけど」
「斎藤くんは修論で忙しいからねー。石橋くんは講義かな?」
「たぶんそうだと思います」
先輩には申し訳ないのだけど……実は二人とも来ようと思えば来られるのだが、あえて来ないのだ。僕と先輩を二人っきりにするために。あとでご飯をおごろうと誓う。
「先生は講義中だよね?」
凜ちゃんは高校生なので当然、平日の昼間に来られるはずがない。つまり二人きり――完璧すぎるシチュエーションだ。
「じゃあ私と渡辺くんだけだね。まあ二人でも問題ないでしょ」
先輩は明るい笑みを僕に向けてくれる。
「はい、がんばります」
僕は先輩の期待に応えられるように、語気に力をこめた。
「スズメバチトラップの材料はうちに用意してあるから、あとは簡単な工作と料理をするだけ。一時間もかからないと思う。というわけで、うちに来てもらってもいい?」
それはつまり、先輩のアパートにお邪魔するという意味だろうか!? 他にどんな解釈もできない。先輩の家で先輩と二人きりだなんて、想像しただけで変な汗が出てくる。
「い、いいんですか? 僕みたいなのが行っても……」
「いいに決まってるじゃん。それとも歩くのやだ?」
「嫌じゃないです! 行きます! 迷惑でなければ!」
「迷惑なわけないじゃない。じゃ、行こうか」
僕は速くなる鼓動を抑えつつ、先輩のあとについて研究室を出た。斎藤さんと石橋さんにはご飯を二回ずつおごろうと誓った。
「このへん適当に座ってね」
僕は言われるままマットレスに尻をおろした。
先輩の部屋は僕の想像するメルヘンチックでファンシーな空間とはかなり違っていたし、ましてやジャングルでもなかった。掃除や整理整頓が行き届いているのに加えて、物件自体が比較的新しいらしく、清潔でさっぱりとした印象だ。カーテンや寝具などはオレンジ色で統一され、ちょっと子供じみた花のイラストが入っており、若い女性らしさを感じる。一方でぬいぐるみの一つもなく、立派な本棚には哲学やら偉人やらの本、生物や植物に関する専門書、海外の古い小説などが並ぶ。さすが理系女子……!
先輩が「どこだっけな」とか独り言を言いながら動きまわり、材料と道具を集めていく。1リットルの空きペットボトル、ビニールのひも、カッター、布テープ、油性マジックペン。一式が四角いテーブルの上にそろうと、先輩が隣に腰をおろした。
へ? 隣!?
「オーケー。まず私が一個作るからね」
僕の緊張は早くも頂点に達し、心臓は怒り狂うハチのように暴れた。先輩はさらさらと流れる髪――寝ぐせ無し――をかきあげて耳にかける。その指先と、すらりとした腕の白さ。先輩の香り……。全てが近い。作業を見ることに集中できない!
先輩がカッターを持ち、ペットボトルの上のほうにHの形に切り込みを入れる。迷いなく大胆な手つきだ。切りこみを入れた部分を外に向かって開くと、両開きのドアを縦にして開け放ったような状態になった。
「ここがスズメバチの入り口ね。んで、ボトルの底にたまるわけ」
続いて先輩は布テープを千切って先ほどのペットボトルの下半分の位置に貼った。
「ここに注意書きを書くんだけど、どうしようか」
僕に尋ねたわけではなく、独り言だ。先輩はさほど長く考えることもなく、『スズメバチ捕獲中』『さわらないで』と書いた。それからもう一枚テープを貼って、『責任者 いのまた 080-XXXX-XXXX』と書き加え、最後にビニールひもを適当な長さに切ってボトルの首に結びつけた。
「はい完成」
「これでスズメバチが捕まるんですか」
簡単すぎやしないかというのが、僕の正直な感想だ。
「わんさか捕まるよ。あと中にスズメバチ用ジュースを入れるんだけど、そっちは私が今から作るから、渡辺くんは捕獲器の量産をお願いします」
「分かりました」
「気をつけてね。指切るくらいならテーブルに傷がついてもいいから」
先輩からカッターを受け取るとき、ほんの少しだけ手が触れ合う。だが何事もなかったかのように先輩はキッチンに立つ。ちょっと残念でもあり、ちょっとほっとした。さて、真面目に仕事をするとしよう。僕は一つ目のペットボトルに刃を刺し込んだ。意外と力がいるな……。
僕は手を止めて、チラッと先輩のほうを見やった。料理? をする先輩と、仕事? をしながら待つ僕。まるで新婚夫婦だ。身体がふわふわしてくる。ニヤけてしまいそうになり、必死で顔の筋肉に力を込めた。
「渡辺くんは器用なほう?」
しゃがみこんでコンロの下のスペースで何かを探しながら、先輩が尋ねてきた。
「器用ではないと、思います」
「そうなんだ。こういうこと好き?」
工作のことだろうか。
「すごく好きというわけではないですけど、いいかなって思います。頼まれれば、全然イヤじゃないです」
「へー。斎藤くんが、渡辺くんはしっかりしてて頼りになるって言ってたけど、ホントみたいだね」
「そ、そんなこと、ないと思いますけど」
斎藤さんはたぶん、僕の株をあげるために口添えしてくれたんだろう。ありがたすぎる。先輩をがっかりさせないためにも、デキる男にならなければ!
ようやく一つ目のHを切ることができた。指で折り曲げて小窓を作る。
「本棚、すごいですね。難しそうな本がいっぱいで」
「難しくて私もよく分かってないけど、おもしろいよ。本は絶対に読んだほうがいい」
先輩はキッチンから離れ、本棚の前へ移動した。
「この偉人のシリーズ、すっごくオススメ。入門だから分かりやすいの。あっ、あとこれ!」
先輩の手が理系専門書のゾーンに伸びる。声のトーンが変わった。
「これ超オススメ! 粘菌(ねんきん)って聞いたことある? 粘菌はマジやばいよ、かわいいよ。これ、ちょっと見て」
先輩がいつの間にか僕の隣に移動してきて、大判の本を開いた。タイトル『粘菌』。赤、青、黄色などのカラフルで奇怪な形をしたものが、ずらりと表紙を埋め尽くす。キノコのようなアメーバのような虫の卵のようなもの。生き物なのかどうかさえ、僕には判然としない。まるで宇宙人と宇宙船の写真集みたいだ。
「これって生き物なんですか?」
「粘菌ちゃんはれっきとした地球の生物だよ。カビみたいなもの」
粘菌『ちゃん』? カビみたいなもの? 先輩の瞳が「しゃべりたくてたまらない」というふうに輝いている。ページをめくる手にもどこか力が入っているようだ。先輩の肩が僕の肩に接触している。
「ほら見て! 私のお気に入り! これ! あとこれ! これも! 待って! これも見て!」
いったいお気に入りいくつあんねん! とつっこみたくなったが、その本に収録されている写真はどれも不思議で神秘的で、思わず魅入ってしまった。
「キュートじゃない? やばくない? 渡辺くん、分かる? 私のこの興奮が伝わる?」
近い近い近い……!
「な、なんとなく分かります。なんか、わくわくしますね。地球にこんなのがいるなんて」
「でしょー? 私もわくわくするよ!」
「あと、妙に癒されるというか。気持ち悪さと紙一重なんですけど……」
「だよね! 粘菌は癒しなんだよ! よかった渡辺くんが分かる人で。君はホントに逸材だよ、ありがとう!」
わけが分からぬまま先輩に両手を握られている僕。どうしてこの人、泣きそうな顔してるのだろう?
その後、僕は先輩の粘菌に対する愛をとうとうと聞かされることになったが、ふとした瞬間に先輩が本来の目的を思い出したため、話は終わった。斎藤さんや石橋さんが先輩を「美人だがあえて選びたくはない」と評する理由は理解できる。だけどこうやって、僕の知らない世界――先輩の世界を少しずつ知っていくことは、素敵なことだと思う。きっと粘菌はまだ氷山の一角にすぎない。
僕らは無駄話をしすぎた分、真面目に作業に取り組んだ。先輩のほうは――スズメバチ用のジュース作りはあまり時間がかからずに終わったため、やっぱり二人で並んで座って――向かいが空いてるんだけど――工作をした。
先輩の趣味やその話についていくのは難しい。理解することも恐らく簡単ではないだろう。すでに暦は七月であり、僕は通算五、六回は虫を食べた。だが未だに嫌悪感はきれいさっぱりなくなったわけではないし、あえて虫を食べたいと思っているわけでもない。
それでも先輩のそばにいるのは楽しい。もっと長くいたい。
僕が最後のボトルにひもを結び終わると、先輩が拍手をした。作ったのはたったの六本だったけれど、結局一時間以上かかってしまった。
「さて出かけよう。これを設置したら任務完了」
僕らは先輩のアパートを出た。大学の正門を抜け、歩き慣れた坂をのぼり、グラウンドを右手に見ながら丘の上の体育館へと向かう。スズメバチ被害が報告されているのは、この体育館周辺らしい。
「この藪(やぶ)のそばって聞いたんだよね」
僕らは体育館の入り口を素通りして、建物を囲むように茂っている林に沿って歩いた。樹木の幹に『ハチ、ヘビに注意』と書かれた看板がくくり付けられている。周りを見まわしてみたけれど、ハチもヘビも見当たらない。
「まあいいよね、ここらへんで」
「そんな適当でいいんですか」
「いいのいいの。まずはやってみないと分かんないから」
被害拡大を防ぐという正義感と使命感はどこへ行ったのだろうか。
体育館から椅子を借りてきて僕が上に乗り、木々の高い位置にスズメバチトラップを仕掛けていった。高い場所に設置した理由は、トラップにいたずらされるのを防ぐためと、トラップに入ったけれど死ななかったハチが人に危険をおよぼさないようにするためだ。もちろんボトルはカラではなく、先輩が調合したスズメバチ用ジュースを入れてある。透明で甘い香りをただよわせるそれは、酒やら砂糖やらでできているらしい。
「スズメバチ砂糖漬け自動作成器とも言う」
「やっぱり食べるんですよね?」
「聞くまでもないことだね」
先輩は不敵に笑っている。ハチはまだ未体験だから不安だ。だいたいスズメバチには毒があるのではないか。
「今日の任務はこれにてすべて完了。渡辺くん、おつかれさま。来週の集まりのとき、みんなで回収しに来よう」
「楽しみですね」
「次回のメニューを今から考えておくよ」
先輩は張り切っている。そのはにかんだ笑みが僕の胸をわしづかみにする。
「私は自分の研究室に戻るけど、渡辺くんは帰るよね?」
「はい、そうします」
「じゃ、そこまで」
僕らは来た道を引き返す。坂をくだり、十字路のところで、先輩は左へ。僕の帰り道は真っ直ぐ。
「じゃ、ここで。今日はありがとね」
「はい、僕のほうこそ、ありがとうございました。って、あれ? 先輩、理学部棟はあっちですけど」
「私は農学部だからね」
「あ、なるほど」いつも理学部周辺で会うから理学部かと錯覚していたけど、先輩は農学部。僕の理学部とは数百メートル離れた建物である。
「先輩」
言おうか言うまいか迷ったけれど。農学部棟のほうへ歩き出した先輩を、呼んでみた。
青いスカートがふわりと空気をはらんで、先輩が振り向く。
「今日、先輩といられて、すごく楽しかったです」
「私もー!」先輩は笑顔で手を振った。
トントントントン、とリズム良い音が聞こえる。
僕は眠たい目を開けて体を起こし、辺りを見回した。オレンジ色のカーテンや寝具。
え? ここは先輩の部屋!? しかも僕が寝ているのは先輩のベッドだ。
「あ、渡辺くん、起きた?」
エプロン姿で台所に立っている先輩が、僕のほうを見た。寝ぐせのない長い髪をポニーテールにしている。控えめに言って天使だ。
台所では鍋がグツグツ鳴る音。いい香りもしている。
いや、これ、どういう状況だ!?
「せ、せ、せんぱいですよね!? すみません、僕、勝手にベッドで……!?」
「うん、構わないよ。それより、もう少しで朝ご飯できるから、いい子にして待っててね♡」
いい子にして!? 語尾にハートマークが見えた気がしたのは僕の妄想だとして、三つ年上の先輩から見たら、僕なんて小さな子供なのかもしれない。
先輩は間の抜けた鼻歌を歌いながら、料理の味見などしている。僕はその幸せそうな姿に見惚れて、ぼーっと眺めていることしかできなかった。
まるで新婚夫婦の朝のような光景。家庭的な先輩、尊すぎる……!
やがて先輩がエプロンをほどぎ、お盆に料理を乗せて持ってきた。
テーブルに並んだ料理は思ったよりも普通のものだった。ご飯、みそ汁、目玉焼き。僕らは向かい合うではなく、隣り合って座った。先輩の甘い香りが鼻孔をくすぐる。
「あ、虫料理じゃないんですね」
「だね。はい、あーんして」
「へ!?」
「はい、あーん♡」
「い、いや、朝からそれはさすがに……!」
「遠慮しなくていいよ」
先輩が体をこちらに傾けてくるので、僕はのけ反って逃げようとするけど、そのまま先輩に押し倒されてしまった。
やばい。先輩の大きな瞳が、至近距離で僕を見つめている。垂れ下がった髪の毛先と、Tシャツからのぞく緩い胸元。心臓がバクバクと鳴っている。
「好き……だよ」
「え?」
僕は思わず聞き返した。すると先輩は頬を赤らめてもう一度、唇を動かす。
「好き」
「あ、あ、あの……僕も……」
「マダゴキ、好き」
「へ?」
「マダゴキちゃん……もっと触っていたい。好き。大好き」
「いや、あの……」
「私に会いに来てくれたんだよね? おいで」
先輩はもう僕を見ていなかった。先輩が伸ばした手を追って、僕は顔を右に向けてみた。すると床の上をマダガスカルゴキブリが歩いているではないか! しかも一匹ではなく、たくさん! 床を埋め尽くすくらい大量に! なんで!?
ゾゾッと嫌な感触がして、自分の体を見ると、床に突いた僕の手をマダゴキが登ろうとしていた。
「うわああああああッ!!!」
僕は叫び、反対のほうへ転がって逃げた。だがそっちにも無数のマダゴキが這いまわっていて、床は真っ黒。部屋がマダゴキに飲み込まれている!? いつの間にか先輩の姿も見えない。ブラックアウト。
「先輩、どこですか!? 無事ですか!?」
ダメだ、何も見えない。息も苦しいし、体が動かない……!
誰か助けてくれ……。
ハッとして目を開けると、そこは自分の部屋だった。寝汗をたっぷりとかいていて、ゾッとするような感触が手に残っている。
僕はブルッと震えて、「夢か」と呟いた。
回収したスズメバチトラップには、ちゃんと獲物がかかっていた。スズメバチはもちろん、蛾やハエのような虫もいたが、今回はスズメバチのみいただくことにした。ちなみにスズメバチ被害はその後報告されていないため、とりあえず様子見ということになっている。
本日の夕食はスズメバチと雑草のかき揚げ丼だ。
スズメバチはあらかじめ熱湯で絞め、数分煮て中まで火を通す。毒針はそのままでも問題ないらしい。きちんと加熱すれば毒が分解されるのだそうだ。気になる人は取るが、このサークルの人々は気にならない人たちである。
雑草は、ドクダミ、オオバコ、シロツメクサ、時期外れのヨモギなど様々だ。どれも河川敷や原っぱや公園で収穫した無料の食材である。こういう雑草が食べられるとは知らなかった。すべてよく水洗いしておく。
食材の下準備ができたら、天ぷらの衣を作る。小麦粉と片栗粉を水に溶いて混ぜ合わせ、ほどよくドロドロになったらオーケー。ここに先ほどのスズメバチと雑草をぶちこんで混ぜ、油でカラッと揚げる。
炊き立てのご飯の上に乗せて、めんつゆをかけたら完成。緑が美しく、食欲そそる一品である。
「いただきます!」と唱和して、夕食にありついた。
僕はすぐには手をつけず、隣の凜ちゃんが味見もとい毒見をするのを待つ。バリバリと音がするのはちょうどスズメバチを噛んでいるからだろう。
「毒針あった?」
尋ねると、凜ちゃんは首を横に振った。それに合わせてツインテールが波打つ。
「あっても死なないです」
「でも、さすがにスズメバチは怖くない?」
僕が一人だけいつまでも雑草部分のみをかじっていると、凜ちゃんが自分の箸で揚げスズメバチをつかみ、それを僕の顔の前に持ってきた。
「渡辺さん。くち」
いつまでも踏ん切りのつかない僕に「あーん」させて食べさせようということらしい。いつもの冷たい目と無表情で迫ってくる。
「り、凜ちゃん、さすがにそれは」
今朝の夢のことを思い出して寒気がした。
「間接キスは……気にしません」
じゃあなぜ目をそらした!?
「それもあるんだけど、それだけじゃなくて!」
いつの間にか全員が僕ら二人に注目している。変な汗が出てきた。須藤教授は穏やかじゃない顔をしているし……。
「口を開けて閉じるだけの簡単なお仕事なのですが」
「簡単じゃないよ!」
凜ちゃんがますますかき揚げを近づけてくるので、僕は椅子の上でのけぞって逃げる。凜ちゃんのツインテールの髪が、僕の手の甲をさらさらと撫でていく感覚。分かっていても今朝の夢のせいで変な鳥肌が立ってしまう。
「渡辺さん、いい加減、手が疲れました」
「だったらいいよ! 自分で食べるから」
「渡辺さんが自分で食べたら、私があげた腕はどうしたら……」
「普通に下げようか?」
ようやく凜ちゃんが箸を引っこめ、僕は解放された。凜ちゃんが落胆したような顔で僕を見ている。怖いよ!? そんな顔をされても困る。
「せっかくおいしいところだったのに。もったいないっすね」
「そうだよ渡辺くん。こんなに可愛い女子高生が『あーん』してくれたのに」
石橋さんと先輩が口々に言った。女子高生に慣れていない僕が人前で『あーん』なんてできるはずがない。恥ずかしさで悶絶することになる。須藤教授はいつもの穏やかな表情に戻っていた。
凜ちゃんの視線が痛いし、いつまでも食べないでいるとまた同じことをやられかねないので、僕は意を決してハチを口に放り込んだ。エビの尻尾のようにバリバリした歯ごたえで、かむたびにジューシーな中身があふれてくる。それが雑草の初夏の香りと合わさって……うまい。ほのかな甘味を感じるのは……スズメバチジュースだな。毒針も気にならない! あの凶悪なスズメバチがこんなにうまいなんて……!
「おいしいです。エビの尻尾みたいで」
凜ちゃんは頷き、こぶしの親指を立てた。僕も同じように親指を立ててみた。……よく分からん。
「渡辺くんって、凜ちゃんと兄妹みたいだよねー」
先輩がふと、そんなことを言った。
「歳が近いせいかなー?」
「いいえ。私と渡辺さんは普通の人、他は全員変人ですから、当然です」
「凜ちゃんの中でそんな分類になってたなんて、私は驚きだよ!?」
「俺の中では、凜ちゃんと猪俣先輩が脳ミソはみ出しチーム。他が脳ミソはみ出してないチームっていう感覚っすけど」
「それは石橋くんの女性に対する偏見だよッ!」「石橋先輩は人を見る目がチリほどもないですね」
わめく先輩と、ゴミクズを見るような目でさらっとひどいことを言う凜ちゃん。
「猪俣が宇宙人。他が地球人だろ」と斎藤さんの見解。
「私こそ立派な地球人だよ!? みんな分かってないようだけど、私からすれば、私と渡辺くん以外みんな変人だよ!」
「一番分かってないのは猪俣先輩っすね。あなたは全会一致で変人サイドっすよ?」
全員が先輩を見て、同じタイミングで頷いた。
「何それひどっ!!」
「渡辺さんは誰が普通サイドだと思いますか」
凜ちゃんに聞かれて、僕に注目が集まる。
「え? 僕……?」
「どうなの渡辺くん!? 一番普通っぽい君が教えて! 誰が君の本当の仲間なのかを!」
「渡辺さん、答えてください」
「そ、そんなこと言われましても……」
どうやっても角が立つではないか。身を乗り出してにじり寄ってくる先輩のプレッシャーもすごいが、おしとやかに腰かけたまま氷点下の視線を投げつけてくる凜ちゃんからのプレッシャーも尋常ではない。
「ええと、じゃあ……須藤教授です」
「ダメ! 教授以外で!」
なぜか先輩に却下された。
「いや、そんなこと言われても。僕としては、みんな個性的で、うらやましいなと思いますし……」
「渡辺くん、誰の名前を言っても角が立つと思ってるんじゃないっすか?」
石橋さんにズバリ胸中を言い当てられ、僕はうろたえた。
「す、すみません、その通りです」
「もったいないっす! 惜しいっす! こういう場ではそういう曖昧な返答が一番白けるんすよ!」
「そ、そうなんですか……?」
全員が頷いている。
「そうっす! いいですか? 誰の名前を出しても角が立つってことは、誰の名前を出しても絶対ウケる状況だった、ということっすよ? つまり確実に笑いがとれる、滅茶苦茶おいしい場面だったわけですよ! そこで尻込みしてたらもったいないっす。コミュニケーションとおにぎりにはノリが大事っすよ」
「言われてみれば、そうですね。分かったような気がします。勉強になります」
石橋さんがスッと寄ってきて、耳元に顔を近づけ、僕だけに聞こえる声で囁く。
「今の場面で、例えば猪俣先輩以外の全員を普通サイドにしちゃえば、猪俣先輩をいじれたんです。正解とか事実とかなんて、誰も気にしてないんすよ」
確かにもし僕がそういう機転をきかせていたら、場がどうなっていたか、なんとなく想像できる。本当に僕は惜しいことをしたのだと理解した。
「え? 石橋くん、何を耳打ちしたの? なんで今、私のほうチラ見したの!?」
「俺の口からはとても言えないんで、知りたきゃ渡辺くんに聞いてください」
「何それ!? 渡辺くん、どういうこと!?」
先輩が僕にからんでくる。石橋さんが狙ってそう仕向けたのは明白なので、僕はその技に感服して――いる暇もなく、迫りくる先輩からどう言い逃れるかで困ってしまった。こういうときにうまく切り返せない自分が情けない。困り果てていた僕に、助け舟を出したのは凜ちゃんだった。
「渡辺さん、私と平凡な会話をしましょう」
すでに一言目から平凡ではないような気がするのだけど、僕は先輩を放置してそちらに乗っかっていく。
「い、いいね! 平凡な会話!」
「渡辺さんは兄弟いますか」
よし、本当に平凡な話題だ!
「うん、弟が一人」
「さぞ平凡なのでしょうね」
凜ちゃんにそう言われた場合、怒ったり悲しんだりすべきではなく喜ぶべきなのだろう。素直には喜べないけれど。凜ちゃんに悪意はないと信じたい。
「私なんて一人っ子だからなー。弟とは仲いいの?」
先輩も僕に追求するのをやめて、同じ船に飛び乗ってくれた。
「仲はその……」僕は何と答えるべきか逡巡した。だが結局、本当のことを言うことにした。「あまり、よくはないと思います」
「意外だね。渡辺くんって人当たり良さそうなのに」
「俺も姉貴とはほとんど絡まないし、兄弟なんてそんなもんっすよね」
「ふーん。そんなもんか」
兄弟の話題は、意外とあっさり他の話題に取って替わられた。弟についてあれこれ聞かれなくてよかった、と僕は内心で安堵していた。
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