美人の先輩と虫を食う

吉田定理

春の章

第1話 陸のカニと呼ぶなかれ

 沸騰した鍋の前で、薄汚れた白衣を身にまとった美人女子大生――猪俣(いのまた)先輩が菜箸を構えている。先輩はコンビニのビニール袋にそれを差し込み、何かを器用に挟んで引き出した。菜箸の先で、しましまの長い脚をワシャワシャと動かしてもがいているのは、大きなアシダカグモ――さっき僕と先輩が廊下で捕獲した、不気味な生き物である。

 なぜ箸で生きたクモをつかむのか? その問いに対する回答が僕の頭の中で弾き出されるより早く、猪俣先輩は「では投入しまーす」と宣言した。

 続いて目の前で起こったことは、僕には衝撃的すぎた。茫然として、顔を背けることもできず、瞬きさえせず、一連の光景に見入ってしまった。

 クモが熱湯へと突っ込まれたのだ。熱湯の中でクモがもがいたように見えたのは、単に対流や気泡のせいかもしれない。先輩はほどなくして箸だけを引き上げた。鍋の中では物言わぬクモの体が浮かんだり沈んだりしながら回っている。相変わらずゴボゴボと沸騰する音だけがしていた。

「あ、あの、これは……なにを……」

 僕はあえぐように尋ねた。

「あ、ごめん、渡辺くん、もしかしてやりたかった!? また私、先走った!?」

 やりたいって何? この人は何を言っているのだろう? この会話、成立してる? ……理解できなかった。

 二人の間の微妙な空気を察してか、この研究室の主――須藤教授が口を挟んだ。

「猪俣さん、やっぱりきちんと説明しないで連れてきたでしょ?」

「え?」

 何のことでしょう? とでも言いたげな猪俣先輩。

「渡辺くん、この先輩になんて言われて付いてきたの?」

「ええと、確か……」

 そもそも大学に入学したばかりの僕が、恐れ多くもこの須藤教授の研究室にお邪魔し、クモをゆでるという儀式めいた行為を目撃するに至ったのは、わけがある。

 あと、ついでに言っておくと、今から僕が語るのは、恋の物語だ。



 静岡大学のメインストリートは、夢と希望にあふれる登山者たちで大変賑わっていた。登山者たちを待ち受けるように通りの左右に並んで立ち、部活やサークルの勧誘チラシを配るのは、みんな先輩たちだ。道行く者は少し照れたような困惑したような愛想笑いを浮かべる気力をとうに失くし、額から流れる汗をぬぐいながら、押し付けられるチラシなんぞろくに見もしないで坂を登っていく。

 登山者こと僕ら新入生たちは人間とチラシの山をかき分けて上を目指す。静岡大学は山の上に建っている。というか山である。どこへ行くにも坂と階段が付き物であり、平らな道は存在しない。創設者は『それが人生だ』とでも言いたかったのだろうか。

 食堂と生協の前の勧誘激戦区を抜け、ひたすらに階段と坂を登り、足がガクガクになった頃、ようやく開けた場所に出た。そこは駐車場になっていて、満開の桜が僕らを祝福しているようだった。

 ああ、素晴らしきキャンパスライフ。

 僕は持参したタオルで額の汗をぬぐう。登ってきた道を振り返ると、静岡の街並みと、茶畑の濃い緑と、悠然とした富士山が見えた。そっと目を閉じ、爽やかな春風を頬に受け、かすかに届く下界の喧騒に耳を澄ませ、思った。

 僕もこの世界の一員になりたい、と。

 いや、なってやる。必ず。

 ここには自由がある。教室に決められた席はない。アパートには何時に帰ってもよい。趣味を楽しんだり、友人とバカ騒ぎをする時間がいくらでもある。勉学や研究に没頭できる環境もある。恋にうつつを抜かしたい年頃の女性があちこち歩いている。法律や道徳に引っかからなければ、何をしてもよし。すべてよし!

 ただ一点、惜しむらくは、僕には大した趣味もないし、友人もいないし、やりたい学問も研究もないし、恋愛の作法をこれっぽっちも知らないということである。本当に惜しい。

 春風がどこか寒々しく感じられるのは、僕がこのキラキラと輝く世界に、まだ真の意味では爪先さえ踏み入れていないからである。世界を見渡せるこの場所に立っていながら、世界の一員になれていないのだ。

 とりあえず両手いっぱいのチラシを肩掛けのカバンにしまう。時間割管理アプリを開いて次の講義を確認。金曜の午後の抗議は……科目『地球科学入門Ⅰ』。場所『理学部B棟202』。ちょうどこの駐車場の向こうに見える建物の側面に、でかでかと『理学部B棟』と書かれている。時間はまだ三十分以上ある。……が、とりあえずいざ参ろう。

 自動ドアを通って建物に入り、二階に上がると目的の202という部屋は目と鼻の先だった。しかし僕は素通りして建物の奥に進む。平均以上の真面目さを持った僕は前のほうの席に座るつもりだけど、それだと一人ぼっちで昼食を食べている姿が目立つ。同じ学科の人たちから『友だちがいない寂しいヤツ』だと思われたら、僕のガラスのメンタルは耐えられそうにない。それに他の人たちにどう思われているか気にしながら食事をするのは消化に悪いだろう。

 僕は穴場を知っている。廊下には各階にちょっとした談話スペースがあり、そこなら一人ぼっちでいても、あまり哀れには見えない。むしろスタバで黙々とノートPCを叩くビジネスマンのように、望んで一人でいるように見えるから、環境というものは不思議だ。

 今日も僕は人がいない手ごろなスペースを見つけて陣取り、カモフラージュのために持ってきたノートPCを開き、何か知的で創造的な活動をしている雰囲気を演出した上で、生協で買ってきた110円のおにぎりに食らいついた。食事しながら、カバンを圧迫しているチラシの束に目を通していく。現在、僕を温かく迎え入れてくれる部活やサークルを絶賛募集中なのである。

 さて、何か向いているものはないだろうか。

 運動系は絶対にダメだ。いわゆる運動音痴だから。必然的に文化系となるが、音楽のセンスはない。イラストを描くのは好きだが、下手くそだし本気でやりたいわけでもない。囲碁将棋……ルールも知らない。文芸……高尚すぎ。英会話……恥ずかしいし外国人怖い! 演劇……悪い意味で笑い者になるだけ。聖書研究……なんか怪しい! みかんクラブ……意味不明! 考えてみれば取り柄がないし、長く継続しているものもない。中学ではパソコン部で、高校では帰宅部だった。

 どのチラシも僕以外の誰かのために作られたもののように思えた。『未経験者歓迎!』だと? 嘘だ! 経験者に囲まれて邪魔者扱いされるに決まっている。『気軽に体験してみませんか?』この世に気軽に叩けるドアなんぞあってたまるものか。

 ……ダメだ。どうしてこんなに多種多様な部活やサークルがあるのに、僕がやっていけそうなものは一つもないのか? 僕はまだ『運命』とやらに出会っていないだけなのか。

 ふと顔を上げて目に映ったのは、談話スペースの壁にかかっている大型モニターだ。

 『しずだいTV』というロゴと、しずっぴー――富士山をモチーフにした、大学のマスコットキャラのようだ――が映し出されている。それが消えて、学内ニュースの映像が流れ始めた。

 スーツ姿の凛々しい女性が表彰を受けている。

『農学部森林学科四年生の猪俣香織(いのまたかおり)さんが、日本森林学会の研究発表会で優秀賞を受賞されました』

 緊張と誇らしさでキラキラと輝く横顔。

 美人だし、頭もいいのだろうし、きっとみんなから好かれていて、熱意や独創性もあって、努力家で、素敵な恋人がいて、卒業したら立派な研究者になるか、一流企業に就職するのだろう。僕とはまるで違う。同じ大学に通う学生なのに、僕とこの人は、どうしてこんなにも違うのだろうか。遠い世界のことのようだ。

 講義の時間が近づいてきたので202の部屋に移動した。長机が黒板に向かって三列に並んでおり、八割がたは学生で埋まっている。まだ入学から二週間ほどしか経っていないというのに、すでに友だちコミュニティができあがりつつある。僕は最前列のあいている席に座った。最前列は不人気なのだ。

 こんなはずじゃなかったのに、と思いながら黙って授業の開始を待つ。「どうもこんにちは。僕の名前は渡辺。君は?」と脳内で百回以上シミュレーションしたのに、なぜ一度も言えないのか? 僕にも分からない。

 たった一人で孤独に四年間を過ごすのは、あまりに寂しい。それを避けるためにはやはり友だちが必要だ。友だちを作るには接点が必要だ。同じ学科なら多くの専門科目を一緒に受講できる。だけどもうこの学科内で僕が入り込めるような隙間はなくなってしまったようだ。ならば部活やサークルにかけるしかないが、困ったことにやりたいことがないし、やれることもない。だから時間だけが過ぎていく。

「もう部活入った?」「サークルの見学、一緒に行かない?」「新歓コンパいつ?」そんな会話が聞こえてくる。「それ、僕も一緒に行っていい? 実はちょっと興味があってさ」これは脳内シミュレーションだ、実際に口に出したことはない。悪くないセリフだな。だが会話に入るタイミングを間違えると変な空気になるかもしれない。みんなに迷惑がかかる。下手に声をかけないほうがいい。

 やはり何かきっかけが必要だ。自然に会話に入れるようなきっかけが。それさえあれば、僕はここぞとばかりに先ほどのセリフを放ち、うまくやれる気がする。

 そのとき一人の男子学生が僕の隣に座った。

「やあ、僕は渡辺! 君は?」実際はまだ言ってない。これもシミュレーションだ。まずは横目で様子をうかがう。彼はすぐに後ろを振り向いて、他の男子学生と話し始めた。現実はそんなものだ。迂闊に話しかけなくて良かったと思う。

 教授が入ってきて、おしゃべりは中断された。



 僕は大学の講義が好きだ。地球科学入門Ⅰで使用する教科書は英語で書かれていて、説明文の意味は半分しか分からないけど、ページをめくって図表を眺めるだけでも賢くなったような気分を味合わせてくれる。といっても勉学と研究に全てをささげる覚悟はない。僕はただ高校で地学の成績がよかったからという理由だけで、ここ理学部の地球科学科へ来てしまった。言ってしまえば情熱も志もない半端者である。志望理由からして不純で、部活もサークルも決められないし、まだ友だち一人いない。全てにおいて半端者であり、未熟者である。

 九十分間におよぶ講義が終わり、学生たちが退出する。僕は板書したルーズリーフを整頓する振りをしながら、誰かが話しかけてきてくれるのを待ってみる。

 今日は金曜日だ。つまり今日を逃すと、土日を六畳一間のアパートでたった一人、憂鬱な気分で過ごさなくてはならない。すでに大学に入学してから二度の週末を過ごしたけれど、どちらも誰とも会うことはなく、アパートの自室で過ごすしかなかった。

 タイムリミットは四月末からゴールデンウィーク頃に開催される新歓コンパだ。僕の調査――同じ学科の人たちの会話などからの分析――によれば、多くのサークルがもうすぐ新歓コンパを開催する予定で、これに参加することによって新人同士、ないし先輩たちとの仲を深めることができる。逆にこの機を逃すと、『なんか後から入ってきたよく知らん人』という扱いになってしまう恐れがある。そうなければ、僕の未来は厚い雲に閉ざされる。

 ……結局僕は最後に一人で講義室を出た。分かっているさ、向こうから声をかけてくれるなんて、そんな都合のいいことはないと。

 僕自身が動かなければ、何も変わらない。だけどやっぱり無理なのだ。このキラキラした世界には、僕はあまりに不釣り合いだ。いよいよ灰色のキャンパスライフが確定しようとしている。

 さっきのが今日の最後の講義だったので、このままアパートに帰るのが順当だが、そうすれば今週も成果なしで終わってしまう。かといってサークル棟に単騎で乗り込んでドアをたたく根性もない。僕は未練たらしく談話スペースに向かうが、二階には先客――仲良くおしゃべりしているグループがいたので、居たたまれなくなって三階へ上がった。

 三階は講義が行なわれないためか、しんとしていた。しかも薄暗くて陰気だ。やはりこの階にも申し訳程度の談話スペースがあって、テーブルと椅子が置かれている。さらに廊下の先には、武骨なスチール棚があって、岩石や樹木の標本が雑に押し込まれていたり、積まれていたりする。下手に触って壊したりしたら大変だし、新入生が安易にあちらへ行かないほうがよさそうだ。

 こんなところに来て、何の意味があるのか? 悪あがきにすらなっていないことは、理解しているけれど、少しでも長く大学にいることしか、僕にはできない。

「……ん?」

 僕は廊下の先、スチール棚のそば、床の上に奇妙なものを発見した。コーヒーのペットボトルが直立している。その隣にはコンビニののり弁。未開封。忘れ物か、落とし物か。何かの罠? 儀式? それにしてもなぜ廊下の真ん中にコーヒーとのり弁? 大学ではありふれたことなのか?

 ……まあいいか、放っておこう。それにしても、ここは僕にはお似合いの場所だな。来週から三階で昼食をとるようにしよう、なんて自虐的なことを考えながら談話スペースの椅子に腰をおろした。

「ちょっと誰か」

 不意に女性の声が聞こえた。

「誰か来て。こっち来てよ~! おーい、誰でもいいから~。ヘ~ルプ!」

 少々間の抜けた、だいぶ余裕のありそうな『ヘルプ』であった。

 声の主はそう遠くなかった。どうやらスチール棚と積まれた標本の陰にいるらしい。よく見れば白衣のすそだけがちょっとのぞいている。放置されたコーヒーの向こうだ。

「だ~れか~。いないのか~?」

 女性は助けを求める声を発し続けている。周りを見回しても僕しかいない。

 暴漢に襲われているわけではないし、崩れた標本の下敷きになっているわけでもないだろう。だけど無視するのもどうかと思ったので、微力ながら助けることにした。

「あの、大丈夫、ですか」

 とりあえずそばまで行ってみた。

「あんまり音立てないで静かに歩いて!」

 女性に注意されて、僕は立ち止まった。

「大丈夫じゃない。助けて。協力して」

 女性がかがんだまま体をのけぞらせて、姿を見せた。

 ヘンテコな人だった。上は淡い色のセーター、下はチェックのひだのないミニスカートで、その上から薄汚れた研究者っぽい白衣を羽織っている。この白衣、年季が入っていてかなり汚い。床にすそを思い切り引きずっているが気にしないらしい。白衣さえ脱いだら今どきの女子大生らしい格好である。髪は肩ぐらいの長さで丸みのあるシルエットなのだが、寝ぐせで無造作に跳ねていた。中学時代の僕よりひどい。そんな異様な有様で、しかも化粧っけがないのに、僕はこの女性に見惚れてしまった。たぶん僕でなくとも目が合えばドキッとして、もう彼女の存在を意識せずにはいられなくなるほどの美人だった。確実に年上の先輩なのだけど、どこか子供っぽく見えるのは、にじみ出る好奇心のせいだろう。

 この人の瞳もキラキラしている。なんだか見覚えがある……?

「ひょ、表彰されてた人……!?」

「確かに表彰されたけど、今はどうでもいい! 静かにこっち来て! 早く!」

 両手ですんごい手招きするので、仕方なくそっちへ寄っていく。やたらと大きな、幼稚園のお遊戯会みたいなジェスチャーだ。この人には『恥ずかしい』という感覚があまりないのか。

 女性はスチール棚の後ろを気にしている。僕はその人が指差す位置――スチール棚のすぐ横へ移動して、同じように膝を折った。何か落としたか、何かいるのか?

「ここでいいですか?」

 僕は女性のほうを見た。その距離1メートルもない。こんな不摂生そうな格好をしているのに、いい香りがするから不思議だ。セーターを押し上げる胸は立派で、視線を少し下げたら、ハリのある太ももと、短いスカートの中がちらっと見えてしまった。

「ええと、な、何をしたら、いいでしょうか!」

 僕は慌ててスチール棚の価値のなさそうな石ころに視線を瞬間移動させた。変態だと思われたかもしれない。呼吸が苦しい。こんなに間近で女子大生の下着や生足を見たことはないから、理性がやばい。

「これ持って。そっち行ってくれる?」

 女性は僕の視線に気づかなかったのか、何か渡してきた。そっちを見ずに受け取ったものは、セブンイレブンのビニール袋だった。

「この棚のそっち側で、それ広げて道を塞いで」

「へ? 道?」

「いいから早く。そーっとね」

 僕はようやくこのお姉さんが何かを捕まえようとしているのだと気づいた。

「ゴ、ゴ、ゴキブリじゃ……」

「違う違う、もっと可愛いヤツ」

 実験用のマウスでも逃げたのだろうか? ちょっとだけ安心して僕はビニール袋をスチール棚の足元に設置した。

「隙間開けないで。いい? こっちから追うから入ったらすぐ閉じて。おっけー?」

「オーケーです」

「行くよー」

 寝ぐせのお姉さんが反対側から棚の裏に手を差し入れ、『そいつ』を追い込む。音もなくかなりのスピードで僕の袋の中に飛び込んできた!

 心臓が止まるかと思い、鳥肌が立った。逃がすわけにはいかない。夢中で袋の口を閉じた。

「やったー! ナイスだよ君! ありがとう! ホントにありがとう!」

 女性が僕の手を握ってきたので、僕は驚いて変な声が出たが、袋はつかんだまま放さなかった。

 ゲットした生き物は、茶色っぽい体。しま模様の八本の長い脚。つまりクモである。しかも大きい。脚を広げると十センチくらいありそうだ。

 ガサガサという動きが伝わってくる袋を、一秒でも早く手放したくてお姉さんに渡した。

「いやー、これは大きい。最高っ! いい仕事した!」

 何が最高なのか分からないけど、捕まえたクモを見て喜んでいた。袋に鼻がくっつくくらい顔に近づけているので、よく平気だなと感心してしまう。

「これ大丈夫なんですか? もし毒とかあったら……」

「アシダカグモは毒がないから大丈夫。噛まれてもちょっと痛いだけ」

「アシダカ?」

「そうだよ。家の守り神みたいな子。ああもう……かわい~っ!」

 その笑顔は僕ではなくクモに向けられていたのだけど、一点の曇りもない春空のような『かわい~っ!』は僕の胸に深々と突き刺さった。白衣が汚いとか寝ぐせがすごいとかどうでもいい。可愛いは正義。

 猪俣香織(いのまたかおり)さん。農学部森林学科四年生。二十一歳。通称、先輩。

 小学生みたいに天真爛漫で、太陽みたいに明るくて、好奇心と己の欲望に忠実。綺麗な顔立ちをしているのに、いつもラフでズボラな格好で、言動にも少々難があったりする。

 そして何より虫を愛している。

 僕はそんな彼女に恋をした。



「そうだ、君、カニ好き?」

 クモを捕獲した後のことである。先輩は唐突にそんなことを聞いてきた。

「ええと、好きと言えば好きですけど」

「そうかそうか。じゃあうちの研究室においで。食べさせてあげるから」

「え? いや、そんな高価なものは、さすがに……」

 誘いが急すぎて当惑した。カニなんて一年に一度食べるかどうかの代物だ。高級食材だ。それを見ず知らずの、一緒にクモを捕獲しただけの相手からごちそうになるなんてあまりに厚かましい。

「いいんだってば。君が協力したおかげで、この子が手に入ったんだから。ほんのお礼だよ」

「は、はあ……」

 先輩はうっとりとクモを眺めた。そのアシダカグモとかいう生物は、そんなに貴重で価値のあるものなのだろうか。カニをごちそうするほど? 何か重要な研究か実験にでも使うのだろうか。

「遠慮なんかしなくていいから。君には充分に食べる権利がある。私の次にある!」

「そう、でしょうか……」

「そうですとも。遠慮はいらないよ」

 これは僕にとって願ってもなかった他人との接点だった。もちろんカニをごちそうしてもらえるなんて都合のいい話、あるとは思えない。嘘かもしれない。食事のあとで、寿命が延びる水を売りつけられるかも。それでももう僕にはチャンスがないのだ。どこに連れて行かれるか分からないが、このチャンスを逃したら次はないかもしれない。卒業までずっと一人ぼっちかもしれないのだ。だったら僕は、目の前にぶら下がった細い糸をつかみたい。もう、つかむしかない。

 直感的にだけど、僕はこの人がそんなに悪い人ではなさそうだと思った。他人を騙して陥(おとしい)れるようなことはしないんじゃないか。だって本気で僕を騙して奇跡の水を売りつけたいなら、もっと賢いやり方があっただろう。

「分かりました……お願い、します」

「よーし! 行こう!」

 先輩はご機嫌な様子でこぶしを高く突き上げた。やっぱり子供っぽいというか、いちいちアクションが大袈裟だ。「おっと忘れ物」とつぶやいて、あのコーヒーとのり弁を拾い上げる。「じゃあ行こう」

 僕は先輩の後に続いて廊下を歩いた。時刻は三時に近い。遅い昼ご飯なのか、晩ご飯なのか。謎の多い人だ。

 先輩の身長は女性の平均より高く、白衣を着ていてもスレンダーで、出るところはしっかり出て主張している。こんなモデルや女優みたいな人が僕を食事に誘っているなんて、夢か現実か分からなくなりそうだ。さらには歩くたびに寝ぐせがぴょこぴょこ動いているのと、間の抜けた鼻歌を歌っているせいで、もう僕の脳は混沌としている。

「君、何年生?」

 急に先輩が振り向いたので、僕はキョドった。この人、たいていの言動が唐突なので心臓に悪い。

「い、一年です」

「ピッカピカだねー。部活かサークルは決めた?」

「いいえ、まだ……」

「ほほう!」先輩の目がクワッと開かれて、強烈な輝きを放った。「うちなんかどう? 私が会長やってるの」

「何をしているんですか?」

「フィールドワークと料理、半々かなー」

 キャンプのようなことをしているのかな、と想像する。もちろん僕は火おこしも料理もやれる自信がない。

「さーて、着いた」

 理学部C棟。『503 須藤秀樹(すどうひでき)』と書かれたプレートがドアに貼られている。この研究室の教授なのだろう。先輩がノックしてドアを開ける。

「先生、いいもの持ってきましたよっ」

 入るなりそう言った。中にいた四十代とも五十代とも見える男性が、パソコンのキーボードを打つのを止めてこっちを見た。銀縁メガネの奥に柔和な笑みを浮かべている。左右に分けた髪には白髪が混じっていた。

「ノックするならせめて返事を待ってから開けてほしいんだけどなぁ」

「すみません、つい。えへっ」

 穏やかにたしなめられ、先輩は謝ったが、あまり反省しているようには見えない。この男性――おそらく須藤教授も、あまり改善を期待していなそうな雰囲気だった。

「それよりもこれ見てくださいよー。すごいの持ってきましたよ」

 先輩がクモ入りビニール袋を掲げた。

「ほう、アシダカグモか。こいつはでかいなぁ。滅多に見ないサイズだ」

「でしょでしょー? 先生もいりますよね? 『ゆで』でいいですか?」

「うん、ありがとう」

 何やら会話が進んでいくけれど、僕はいったいどうしたらいいのか。入り口のところに立ったまま二人の様子を見守っていると、教授が気付いてくれた。

「ああ、何か用事かな?」

「あ、いえ、その」

「彼と捕まえたんですよ、一緒に」

 先輩が代わりに答えた。

「せっかくだから御馳走しようかと思いまして」

「えっ? それで付いてきたの?」

「そうですよ?」

 当然でしょ? とでもいうような先輩。なぜか難しい顔をする教授。

「嫌な予感がするけど、まあ、君もそんなとこに立ってないでおいで」

 教授に招かれ、僕はおずおずと入室した。研究室に足を踏み入れるのは初めてなので緊張する。果たして一年生が突然お邪魔して失礼じゃないのか。図々しいことをしているんじゃないかと不安になってくる。大学教授といえば、本を書いたりテレビに出たりする人もいて、要するにめちゃくちゃ偉い人なのであって、僕みたいな人間が仕事を邪魔していいわけがない。

 僕は心配でたまらなかったが勧められるまま椅子に腰かけた。僕のアパートよりも少し広そうだが、かなり窮屈な印象を受ける部屋だ。中央に長机をつなげた島があり、周囲にはパソコンや、本がぎゅうぎゅうに詰まった棚やシンクがある。壁に貼られているのは研究紹介や地域の動植物の調査記録のポスター、野生動物の写真だ。慣れないので居心地は悪いけど、ちょっとわくわくもする。

「ここは生物系の研究室なのでしょうか」

 僕が思ったことを口に出してみると、「そうだよ」と教授が答えてくれた。

「君は理学部の学生かい?」

「そうです。でも地球科です」

「おー。地球科はまだいなかったっけ、猪俣(いのまた)さん」

「いないですよ。斎藤くんは化学科だし、石橋(いしばし)くんは数学科ですし」

 先輩がテーブルの上にカセットコンロを置いた。鍋を火にかける。

「そうか、じゃあ丁度いいじゃないか。いろんな意味で」教授が僕に向き直った。「地球科って巡検(じゅんけん)やるでしょ? うちに入れば楽しさ二倍になるよ」

「すみません、巡検というのは……」

「ああ、新入生か」銀縁のメガネを押しあげる。「巡検ってフィールドワークね。野外実習のこと。毎年五月に雷坂(かみなりざか)のところでぞろぞろやってるんだよねぇ」

「そう、ですか……」

 この教授は生物科なのだろうが、地球科の僕より地球科に詳しいようだ。何も知らない自分が恥ずかしい。

 僕は逃げるようにまた壁の掲示物に目をやる。すると一枚の写真が目に留まった。五人の男女が並んだ記念写真だ。

「あの、これは……」

「ああ、それ。去年の夏、みんなで遊びに行ったときのだねぇ」

 教授が懐かしそうに言った。教授と先輩、さらに二人の男性と一人の女性が笑顔でピースしている。ひと目でメンバーの仲の良さが伝わってくる、活き活きとした写真だ。背後には立派なログハウス、青々と茂る木々。夏真っ盛りで、蝉の声が聞こえてきそうだ。

「いろいろ事件もあった気がするけど、今年も行きたいねぇ」

「そうですね、社会人になっちゃったら、なかなかできないですよね、こういうこと」

「そうだよ、こういうことは学生のうちにやっておかなきゃね」

 まだ友だち一人さえ作れていない僕は、教授の言葉に焦った。何かしなければ、という思いで口を開いていた。

「どうやったら、こういうふうになれるでしょうか」

「こういうふうに?」

「この写真の皆さんのように、楽しそうで、活き活きしていて、仲間がいて……」

 うまく言語化できなくて声が小さくなっていき、最後は黙ってしまった。

 沈黙を破ったのは先輩だ。

「ここはね、非公認サークル『虫の輪(わ)』。設立者はこの私!」

「正確には猪俣さんと斎藤くんの二人だったよね?」

「九割は私です! 私のほうが偉いので!」

「意味が分からないよ」

「ねえ君、うちのサークルに入りなよ! たぶん合ってるから。合ってなかったら辞めればいいし」

 先輩が僕の前に手を差し出していた。

 サークルに誘われている。僕が今、最も望んでいたこと。充実したキャンパスライフの入り口。それなのに、いざ手を差し伸べられたら、体が動かなくなってしまった。

「僕は何も取り柄とか、特技とかないですし」

「いいよ別に」

「趣味とか好きなこととかもないですし」

「私は気にしないよ。寛大な会長だから。それに偉いので」

「人と話したりするのも苦手ですし……」

「オッケー分かった」

 本当にこの人は唐突な人なのだ。つまり先輩は差し伸べていた手で、僕の手を握っていた。

「握手をしよう。それが入会の意思表示だよ。言葉は要らない」

 僕は脳みそが沸騰しそうだった。今、先輩が僕の手を握っている。一方的につかんでいるだけだけど、確かに握っている。先輩が近い。先輩の瞳が僕を見ている。僕も見つめ返している。目をそらすことができない。先輩の瞳の中に星が見えた。手汗が吹き出す。やばい、やばい、やばい、やばい……。

「猪俣くん、さすがに強引すぎるんじゃないか? 困ってるよ」

 教授が呆れてため息を吐いている。

 おっしゃる通り、僕は困っていた。ドキドキしてまともに頭が働かないけど、必死に考える。今、どう行動するかが、四年間の大学生活を大きく左右するに違いない。そのことだけは分かっている。仮に、もしも、万が一にでも、こんな素敵な先輩と一緒にサークル活動することができたら……?

 いや、ダメだ、これっぽっちも自信がない。この二週間ほどで、いかに自分が人と関わるのが下手で、周りから隔絶された人間であるか、痛いほど理解した。僕は致命的にダメなヤツだ。社会不適合者だ。だけどここまでされて、喉から手が出るほど欲しかったチャンスを捨てることができるだろうか。

 勇気を出せ、僕! 最初で最後の勇気を。

「こ、この……」

 先輩の軽く結ばれた唇は、微笑みの形だ。

「サ、サ、サークルに……」

 頷く先輩の寝ぐせだらけの髪が揺れて。

「……入りたいです」

 僕は震える右手に力を込めた。

「ホントに!?」

 先輩が目を丸くした。そして僕の手を激しく乱暴に振りまくった。

「大歓迎! もう大歓迎どころじゃない。大、大、大歓迎だよ! ありがとう。本当にありがとう! 君は素晴らしい!」

 先輩の瞳から涙が零れ落ちた。泣くほど喜ぶようなことなのか!?

 一方僕も体内を龍が飛びまわっているかのように、大きな興奮の波が駆け抜けた。手足がビリビリ震える。僕はサークルに入会したのか? これは現実か……?

「私は代表の猪俣香織(いのまたかおり)! 農学部の四年! こちらは須藤(すどう)教授。生物科の先生」

「わ、渡辺悠一(わたなべゆういち)……です。地球科の一年……です。よろしく、お願いします」

「須藤です、よろしく」

「渡辺くん、よろしくっ! 本当によろしくっ!」

 僕は深々と頭を下げた。あっという間の出来事だった。つい十五分前までは、卒業まで一人ぼっちだと思って途方に暮れていたはずなのに。今はサークルに所属している!

 涙目の先輩と、柔らかな笑顔を浮かべる教授。

「正式な歓迎会は後日改めて行なうということで、今日はとりあえずこの子をいただこう!」

 猪俣先輩は指先で涙をぬぐった。

 忘れていたけれど、鍋が沸騰している。

 猪俣先輩は引き出しから菜箸を出して、あのビニール袋に差し込む。器用に挟んでいるのはカニではない。アシダカグモである。さっき僕らが廊下で捕獲した、不気味な生き物。

 それを先輩が沸騰したお湯の中にぶちこんだ、というわけだ――。



「渡辺くん、この先輩になんて言われて付いてきたの?」

 僕はここに来た経緯を思い出し、教授の質問に答える。

「ええと、確か……カニをご馳走してくれると思って」

 気まずい空気が流れた。須藤教授の柔和な笑みが、非難の色に変わる。猪俣先輩は困ったように苦笑いした。

「クモもカニも、同じようなものですよね? 脚は八本あるし……それに……空、飛ばないし」

 え? じゃあ先輩がご馳走してくれるものって、カニじゃなくて、僕らが捕まえたでかいクモ……? 嘘ですよね? そもそもクモって食べ物じゃないよね?

「猪俣さん、そりゃあ君にとって大差ないのかもしれないけれど、これがたいていの人の反応だからねぇ。後学のためによく覚えておいて」

 たぶん僕は顔を引きつらせていたのだと思う。あきれたように溜め息を吐く須藤教授。ごめんなさい、と肩を落とす猪俣先輩。鍋の中でぐるぐる回るアシダカグモ。

「ま、まあ、そろそろいい頃合いだから、いただきましょうか! うん、切り替え大事」

 火を止め、クモを引きあげると、竹ザルの上に置いた。ゆで上がったクモはしんなりとしているが体色は茶色のままだった。

「あ、もしかして、渡辺くん……………………ひいた?」

 先輩がおびえた子犬のように尋ねた。お願いだからひかないで、という祈りがひしひしと伝わってきたが、僕は自分の顔がこわばるのを防げなかった。

「す、すみません、こういうのは、初めて見たもので……」

 先輩が一生懸命なんでもない顔を作ろうとしながらも、かなり沈んでいるのは明らかだった。この人を傷つけてしまったという罪悪感が僕の胸に巣食った。僕のハートもすでにいくらかダメージを受けたけれど。

「あのね、えっと、うん、見た目はあれだけど、おいしいんだよ? クモもカニもだいたい同じ味なんだよ。美味だから。ホントに。マジで。科学的に言うなら、分類上はどっちも節足動物門だし」

「猪俣さん、それ言ったらサソリもムカデもカブトムシも全部節足動物だけど分かってる?」

「うっ……」

 須藤教授の鋭い――のかどうか僕にはよく分からない――ツッコミで、先輩がさらに沈んだ。ザルに上がった茹でクモのつぶらな瞳が僕を見ている。これがカニの味……?

「でも脚が八本で、似てるでしょ? 何となくカニに見えてくるでしょ? っていうか、エビのほうがよっぽど不気味な形してるよね? あの奇妙な曲がり具合といい、異常に長いヒゲといい」

「すみません。クモにしか見えないですし、これのほうが不気味です」

「そんなバッサリと……」

 僕が素直な感想を述べると、先輩はがっくりと肩を落とした。何だか可哀そうだ。

「渡辺くん、もし猪俣さんに騙されて――ごめんごめん、悪気はないもんねぇ――誤解があってここに来たのなら、申し訳ないけれどいつでも帰って大丈夫だよ。『虫の輪』は何するサークルかといえば、虫を捕まえてきて料理して食べるサークルだから」

「へ……?」

 僕は自分の耳がおかしくなったのかと思った。

「虫を食べるなんて、冗談ですよね……?」

「冗談じゃないんだよねぇ、これが。まあ、クモは食べないにしても、イナゴやハチノコだったら現代日本にも食べる文化があるしねぇ」

 確かにそういう食べ物があるらしいとは知っているけれど。

 大学とはなんと恐ろしい場所だろうか。このサークルはある種の宗教か何かなのだろうか?

「ホントにおいしいのに……」

 先輩が口に細長い物をくわえてつぶやく。歯でしごくようにして、チューチュー吸っている。ザルを見ると――茹でクモの脚が一本減っていた。

 うげえ、マジでこの人、クモの脚を食べてる……。

「いま私見て引いた!? やっぱり!?」

「猪俣さんのことは放っておいていいよ。彼女に付いていける人なんて、たぶん日本に三人くらいしかいないから」

「先生、それはひどいです!」

「だって事実じゃん……」

「私だってデリケートな乙女なんですよ!?」

「クモの脚くわえてる乙女は、猪俣さん以外に見たことないなぁ」

 なんかもう教授もあきれている。

 なんだろう。すごく――白衣と寝ぐせを除いて――綺麗なお姉さんなのに、このギャップ。光明が差したと思ったのに詐欺にあったような感じ。

 虫を捕まえてきて料理して食べるサークル? 想像しただけで気分が悪くなりそうだ。僕はいったいどうすればいいのか? 即刻、辞める? また振り出しに戻るのか? 四年間、孤独に耐えるのか?

「ま、アシダカグモの脚がうまいこともまた、事実なんだけどねぇ」

 ただただ困惑している僕をよそに、須藤教授は茹でクモへ手を伸ばした。脚を一本むしって口へ持っていく。先輩がやっていたように、先端から付け根に向かって歯でしごくようにして、恐らくは身を絞り出しているのだ。

「うん、美味だ。渡辺くんには申し訳ないけど、感謝だねぇ」

「ホントですねー」

「猪俣さんはもっと反省してね」

「反省はせずに精進します!」

 いつの間にか二人とも和んでいる。二本目、三本目と脚を吸う。しかもやたらとうまそうに、である。

「ビール飲んじゃおっかなー。おめでたいし」と先輩がちらっと見たのは冷蔵庫。

「この時間からここで飲むのは許可できないねぇ」

「ですよねー」残念そうな先輩。

 アシダカグモは大きいとはいえ、その脚はタラバガニなんかとは比べ物にならないほど細い。つまりそれだけ食べられる肉の部分も少量しかないわけだ。いかにも貴重な食材であるかのように、二人が時間をかけて味わいながらゆっくりと食べているためか、自然とうまそうに見えてしまうのである。受け入れがたい光景にもかかわらず、僕は目を離せずにいた。

 辞める、と言ってしまえば振り出しに戻る。ここに残れば虫を食べることになる。

「お腹、壊さないんでしょうか? 毒とか……」

「毒はないし、中までよく加熱殺菌したから食中毒にもならない。ま、たいていの虫はきちんと加熱すれば問題なく食べられるよ」

 本当かよ、と内心で思ったけれど、いつまでもどっち付かずで黙って見ているわけにもいかない。僕は決心した。

「一本だけ、もらっていいですか」

 最後の一本の脚に手を伸ばしていた先輩が、ぱぁーっと顔を明るくしてザルごとクモを僕に突き出した。

「食べなよ! だって渡辺くん、君が捕まえたんだから!」

「は、はあ……」

 恐る恐る最後の脚を引っ張ると簡単に取れた。ザルの上には胴体だけになって不気味さを増したクモが横たわっている。そっちのほうはもう見ないようにして、しましまの入った茶色い脚を、まず鼻の前に持っていった。匂いはない。確かに脚だけ注視していると、小型のカニの脚に見えなくもない。ならばと口へ持っていく。案外すんなりと食べることができた。歯でしごくと少量の、柔らかい身が押し出されてきて舌の上に乗った。冷めてしまっているが、風味は感じる。舌の上で転がして味わってみた。ああ、これは、もしかして、カニのような……。

「どう?」

「カニ……です」

 そう結論付けるほかなかった。自分でも驚いたけれど。

「でしょでしょー? 私、嘘ついてないよね? 詐欺師じゃないよね?」

「はい、確かに……」

 僕、間違いなくクモを食べたんですよね? 廊下を這ってたアレを食べたんですよね? ……信じられない。なんかもう情報処理能力が追いつかないというか。

「ではでは、三人でメインをいただくとしましょうか」

 先輩が取り出したのは二本のピンセットだった。彼女の好奇心に満ちた瞳には、ザルの上の茶色い物体しか映っていない。対象はどうであれ、僕にはあんな目をすることはできないと思う。

「先生、どっちから行きます? 上? 下?」

「好きなほうでいいよ」

「じゃあ頭から行きます。とりゃー!」

「頭胸部(とうきょうぶ)ね」

 先輩はクモの顔の付いているほぼ球形の部分――頭胸部を、ぷっくらと膨らんだ尻尾みたいな部分――腹部というらしい――から切り離した。これだけでもかなりグロい光景だ。バラバラ殺人状態。切り離した頭胸部にピンセットの尖った先をメスのように入れていく。先輩が嬉々としてクモを縦に真っ二つに裂くのを、僕は恐怖と好奇心半々で見守っていた。中から現れた身は、意外にも白くてプリッとしていた。まさしくカニの肉ではないか!?

「こやつ、綺麗な身体しとるわー」

 先輩が感嘆を漏らした。僕も綺麗だなと思ってしまった。クモなのに。

「せっかくなので、一番は渡辺くんに」

 と先輩がピンセットを渡してきたので、流れでつい受け取ってしまった。ピンセットで食事する日が来るとは。

「いいんですか?」

「どうぞどうぞ。君は功労者だから」

 僕は先輩と教授の優しい微笑みに促され、ピンセットの先で白い身をちょっとだけつまみ、落とさないように慎重に口へ運んだ。

「……すごく……カニです」

「ほら! 私、まったく嘘ついてない! クモは陸のカニだよ。これからはカニって呼ぼう!」

「呼びませんよ!」

 思わず突っ込んだ。なぜだか無性に悔しい。敗北したような気分だけど、おいしい。クモとは思えないほどおいしい。プリプリとした柔らかい身、口の中にほのかに広がる甘みが高級感さえ漂わせる。目の前のザルに分断されたクモの頭胸部と腹部がなければ、絶対カニだと思ってしまう。こんな世界があったなんて……。

 三人でちびちびとカニもどきを味わい、続いて腹部へと移る。

 先輩が腹を裂くと、中身はドロッとしていた。これを須藤教授がやはりピンセットの先に取ってなめる。

「あんまり味しないなぁ」

 僕も一度だけなめさせてもらったけれど、この部分はあまりおいしいとは言えなかった。味も薄くてよく分からない。ただドロッとした何かとしか言い表せない。結論を言うと、まずくはないがうまくもなく、ビジュアル面の大きなマイナスを考慮すればあえて食べたいものではない。先輩と教授が半々ずつ食べて、アシダカグモは皮だけとなった。

「ごちそうさまでした。命に感謝」

 先輩と教授は皮だけになったクモに、仏様でも拝むみたいに手のひらを合わせた。僕も真似して手を合わせる。残った皮はゴミ箱に捨てられた。

「やっぱりクモはいいねぇ」

「そうですねー」

 先輩はあのコーヒーを、須藤教授は湯飲みでお茶を飲みながら和んでいる。僕も出されたお茶をすすった。さすがにお茶にまで虫の何かが入ってるということはないですよね? 怖くて聞けなかったけれど。

 僕は人と話すのが苦手だ。この二週間で会話したのはスーパーとコンビニのレジの人だけ。それなのに今日はこんなにたくさん言葉が出てきたのは、新しい世界を知って、好奇心が刺激されたからなのかもしれない。あるいは、先輩と須藤教授の人柄の良さのおかげだろうか。

「あの、アシダカグモってこの辺にはよくいるんですか」

「いるよ。君の家にもいるんじゃない?」

「実家では見たことないです。今はアパートで一人暮らしなんですが」

「そうなんだ。アパートにも出るよ。出たら大事にしてあげるといい。益虫(えきちゅう)だから」

「益虫、ですか?」

「そうだよ、人間には害がないし、ゴキブリを駆除してくれるから」

 ふむ、あれがゴキブリを……。

「帰ってきて電気つけた瞬間に動かれると、ビビりますけどねー」

 先輩が和やかに言った。

「ところで先生! アシダカグモがカニの味なのは、そのエサのゴキブリがカニの味ということでしょうか?」

「唐突に何かと思ったら。どう考えてもそれは違うでしょ」

「ですよねー。不思議」

 この会話を聞いて、僕の脳裏を不吉な考えがよぎった。つまり僕はさっき、ゴキブリを食っているヤツを食ったということになる。それってなんだか間接的に僕がゴキブリを食ったみたいな気がして……あのドロッとしたものってまさかゴキブリのペースト……? とか考えてしまったり。胸騒ぎが……してくる……。

 青ざめていたであろう僕に、須藤教授がフォローの言葉をかける。

「ゴキブリを食べた生き物を食べたからって、僕らがゴキブリを食べたことにはならないよ。ゴキブリだって消化されちゃえばタンパク質でしかない。クモに食われた時点で消化されて分解されて跡形もなくなって、それから新たに別の物質に作り替えられて、クモの体になったわけだからね」

「ですよねー。ゴキブリはゴキブリでちゃんと食べてみなきゃダメってことですねー」

 いや、違うだろ!? と僕は内心でツッコミを入れた。やっぱこの人、いろいろやばいのでは……?

「僕はアレはきっとおいしくないと思うね。それに見た目の抵抗がね……」

「私もそんな気はしてるんですけどねー。でもワンチャンいける気がしなくもないんですよねー。あいつ、けっこう肉厚で食べ応えありそうですし」

「うん、食べ応えは間違いない。まあ、素揚げで試食するのは構わないよ」 

 どんな会話だよ……と絶句しつつ、嫌な想像を打ち消すようにお茶の残りを飲み干して、壁の集合写真をもう一度眺めた。写っている五人の温かな雰囲気は、今こうして飲み終えたお茶のように、心を落ち着かせてくれる。いいな、と改めて思った。

「渡辺くん、君がうちに入るかどうかっていう話だけど……」

 先輩が遠慮がちに話を切り出した。

「嫌だったら撤回していいからね? 強制しないからね? 悲しいけれど私は君の意思を尊重するから! 悲しいけど! 泣くけど!」

 先輩はホントに悲しいらしく、涙をこらえるような顔をしている。もし僕が「やっぱり退会します」なんて言えば、本当に泣くのだろう。

「猪俣さん、そんなこと言われたら撤回しにくいでしょ」

「先生、でも! 私のこの悲しみは、確かにここにあるんですよ! 偽りなくここにあるんですよ! この気持ち、分かりませんか!?」

 とセーター越しに豊満な胸を押さえる先輩。「分かった分かった」と教授は軽くあしらう。

「分かってないですよね!? 分かってない人って絶対二回言いますもん! 私のマリアナ海溝並みに深い悲しみ、五メートルくらいしか分かってないですよね!?」

「猪俣さん、とりあえず黙ろうか?」

「ひどい!」

 パイプ椅子から床へと派手に崩れ落ちる先輩。冗談めかした感じではなく本当に床にビタン! と倒れるので、怪我をしていないか心配になってしまう。こういうことを日常的にやっているから白衣がやたらと汚いんだな、と妙に納得した。

 先輩は絶対に変人と呼ばれる部類の人だ。だけどただ変人なだけではない。こんなにも感情を隠すことなく、ストレートに見せてくれる人を、僕は知らない。いや、実は僕にもそういう時代があったけど、忘れているだけなのだろうか? とにかく羨ましい。

「猪俣さんはおいといて、渡辺くん、どうする? サークルに興味あるなら連絡先教えておくけども」

「代表の私のをね!」

 先輩は床の上でもう笑顔になっている。ずいぶんと忙しく表情の変わる人だ。頭には寝ぐせにホコリが追加された。

「あっ、朝ご飯食べるの忘れてた!」

 急に起き上がって立ったままのり弁を食い始める先輩。昼ご飯でも晩ご飯でもないのかよ!? っていうか、なんで全てが唐突なんだ……。

「徹夜明けで寝て起きて朝ご飯を買いに行って戻ってきたところで、アシダカグモを見つけたわけだよ」

「猪俣さん、しゃべりながら食べるのやめてもらえる? 飛び散ってるんだけど」

「あとでちゃんと拭きますって。えへっ」

「君、いつもそうやって忘れるよねぇ……」

 この人、絶対やばい人だ。だけどこの人のそばにいたら、僕は少し変われるかもしれない。最低な大学生活を回避できるかもしれない。だから僕は、「よろしくお願いします、先輩。教授」と頭を下げた。

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