第094話 蟲獣・安楽女(2)

 神の島公園へと続く坂の車道。

 稲佐山公園からここまで、自分たちを悪喰の餌としながらロードバイクで疾走してきたイッカ&ギャン。

 運転手のギャンが立ち漕ぎで坂道を駆け上がる。

 正面には安楽女、後ろからは悪喰。

 傍目には絶体絶命に見えるが、戦況は真逆。

 ロードバイクに相乗りしているイッカが、ギャンへと告げる──。


「あれが、後ろのサンショウウオへ食べさせる敵、ですね」


「恐らくな」


「前後から挟まれる前に、左の繁みへ飛び下りましょう。一度に離脱すると自転車のバランスが崩れますから、まずはあたしから」


「わかった」


「それから。ギャンさんが飛び降りるときは、この自転車の持ち主が行ったをやってくださいな。正面の魔物へ『食らえ』と叫びながら──」


 イッカはそう告げると、ロードバイクの重心を崩すことなく、軽やかに跳躍。

 丈の低い藪を踏みつけながら着地したのち、ササ藪の奥へと横転して身を隠す。

 悪喰の狙いが正面からブレないようにするための、すばやい隠遁。

 ロードバイクに一人残ったギャンも、めいいっぱい加速をつけたのちに、車体の左側へ移動し、静かに下車。


「食らえーーーーっ!」


 ギャンは叫び声だけをその場に残すと、イッカ同様ササ藪へと離脱。

 無人のロードバイクが、地を這う安楽女の頭部目掛けて直進。

 自転車の扱いに長けた者が行える、慣性とバランスを保たせた無人走行。

 稲佐山公園にてロードバイクの持ち主である女性飼育員が、イッカたちへ自転車を貸す際に見せた技。

 ロードバイクの前輪が、安楽女の鼻先へと迫る──。


 ──ガッ!


「チッ! こいがどがんしたとね…………うわあっ!」


 安楽女が右腕でロードバイクを払いのける。

 瞬間、目の前から消えたバイクの向こうから、悪喰の姿が現れる。

 「食らえっ!」というギャンの叫びが、安楽女の意識に「攻撃」であることを根付かせ、防御姿勢を取るよう思考を誘導した。

 四つん這いの安楽女には、ロードバイクが実物より大きく、速く見えたこと。

 背後からエルゼルたちが追ってきているであろうこと。

 気が立っていたこと。

 それらも影響し、安楽女はとっさにロードバイクを払いのけてしまう。

 その立ち止まりが、悪喰との距離を詰めた。

 悪喰は場にいる生物の中で、もっとも食いでがある安楽女を最優先の獲物と認識。

 大口を開け、安楽女の人間部にかぶりつく──。


「やめんねっ! 下僕獣同士だぞわたした────」


 ──ばくっ!


 安楽女の視界が、瞬時に真っ暗になる。

 悪喰の口内は、触れるところすべてが厚い粘膜と唾液に覆われており、掴みどころがない。

 生ぬるいを超えて熱いとさえ感じる体温、気を失うほどの腐臭が充満。

 喉と食道のひだが蠢いて、安楽女を無慈悲に胃へと運搬。

 細かい牙が並ぶ大口が、脱出をさらに困難にしている。

 まだ口の外にある安楽女の脚二本が、アスファルト舗装をがむしゃらに引っ掻いて抵抗をするも、悪喰の吸引力にはかなわない。

 同じ下僕獣であろうと、口に収まる生物はなんでも捕食する。

 悪喰が、悪喰と命名された所以ゆえん

 藪の中からイッカとギャン、安楽女を追ってきたエルゼル、ルシャ、セリが、安楽女のすべてが飲み込まれた瞬間を見る──。


 ──ごくんっ!


「ギャンにイッカ……久しいな。二人がその魔物を連れてきたのか?」


 元團長であるエルゼルからの質問に、年長者のギャンが代表して返答。


「はい。この世界の戦姫の提案により、強力な再生力を持つサンショウウオと、有毒のクモを一度に片づける策を取りました」


「蟲女は胃袋で溶け、サンショウウオは毒で死する……か。通常の選択肢にはない、相打ち策。さすがは愛里、わたし好みの一手だ」


 悪喰の体内で暴れる安楽女。

 悪喰の随所が盛り上がったりへこんだりするものの、悪喰の表情はきわめて落ち着いたもの。

 一般的に両生類の胃袋は厚く、カニ、ザリガニを捕食しても、体の内側から破られることはない。

 やがて安楽女の動きが停止。

 それに続き、悪喰も停止。

 悪喰の随所から、黒い瘴気が狼煙のろしのように上り始める。


「蟲女の毒が回ったか…………むっ!?」


 悪喰の体の異変に、真っ先に気づいたのはエルゼル。

 悪喰の背に、わずかに隆起が生じた。

 その隆起がじわじわと縦に伸び、そこが破れて瘴気が噴出。

 黒い瘴気に紛れるようにして、黒い蟲の脚が二本、垂直に伸びる──。


 ──ザシュッ!


 瘴気と化し始めて脆くなった悪喰の肉体を割き、安楽女の二脚、両腕、そして頭部が脱してくる。

 全身に胃酸をまとった安楽女は、体のあちこちが溶けかかって爛れ、そこから瘴気をくゆらせている。

 顔左半分の皮膚は爛れて、左眼は失明。

 下半身のクモの頭部は、溶けて跡形もなし。

 それでもなお安楽女は四つん這いの姿勢を取り、ほぼ消滅した悪喰の塵芥の上で、生き延びる意思を見せた。

 その右腕には、白いクモの糸で幾重にも巻かれたバスケットボール大の球体が、大事そうに抱えられている。


「フハァ……ハアッ……ハアッ……ハァ…………ぺっ! 下僕獣同士で潰し合わせようって、えらいえげつなかこと……すっとね……。ハアッ……ハァ……」


 安楽女は、この場を仕切っているのをエルゼルと見、残る右眼でその顔を睨む。

 蟲のような本能ではなく、意思で抱いている生への執着に、エルゼルは蟲とは異なる脅威を覚えた。


「驚いた……。生きて……いるのか……」


「フン……。食われた瞬間、クモの毒腺を刺激しまくって、ありったけの毒をブチ撒けたと。悪喰の胃酸と、こっちの毒……。どっちが強かか……賭けやったね」


「ありったけ……ということは、以後は毒を警戒する必要なし……だな」


「けっ……! せっかく疑問に答えてやったとに、やることは弱み探しね。意地汚か……」


「敵の一言一句から勝機を見出してこそ軍人。もっともわたしは、がつくがな」


 エルゼルが抜剣。

 とどめは仕込み杖ではなく、剣で収める意向を見せる。

 その抜剣に合わせ、する者がこの場に一人──。


 ──ガササササッ!


「安楽女ええぇええーっ!」


 ササ藪を縫って、弾丸のように飛び出してきた天音。

 宝刀・神気が、白い閃光を宙に描く。

 繭のような球体を抱く安楽女の右腕を、二の腕から斬り落とした──。

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