第083話 海獣・磯撫(5)

「──ラネットさん描き上がりましたっ! 署名……入れますっ!」


 ラネットの全身像の背後に、長崎空港と大村湾。

 それを描き終えたリムが、一旦筆を高々と掲げてから、力んだ表情で署名。

 ラネットの全身が瞬時に青白い光に包まれ、愛里が姉妹世界を去ったときのように、音もなく姿を消す──。


「ふう……。お師匠様、暖色系の絵の具がもう限界なので、描けてあと、二、三人です」


「了解よ、リム。アンタは戦線出てないけれど、あれだけの精緻な絵を瞬時に描いてるから、心身くたくたなんでしょ? お疲れ様…………って、スクール水着ぃ!?」


 リムが描き終えたラネットの全身像は、紺色のワンピースタイプの水着、白い水泳帽、そして水着と同じく紺色のニーソックスを着用。

 手には白いグローブを嵌めている。


「……なんでこの格好?」


「暖色系の色を節約する、苦肉の策ですね……。とにかく金髪と肌の面積を減らしました。転移先が海ですし、水着でもいいかなぁ……と。アハハハ……」


「なるほど……。服装を変えるとは機転が利くわね。相変わらずの地頭の良さ! ちょっと性癖が強すぎる気もするけれど…………特にグローブ」


 苦笑しながら、ベレー帽越しにリムの頭を撫でる愛里。

 そのスケッチブックを、音もなく聴音壕から這い出してきていたトーンが、わきから覗き込んだ。


「この絵……欲しい。戦い……終わったら……譲って」


 ──大村湾、長崎空港滑走路北端そばの海上。

 ディーナが駆る小型艇の後部に、青白い光の柱が空から降り注いだ。

 発光を受けて水しぶきが宝石のサファイアのように輝き、その中から紺色の水着に身を包んだラネットが現れる。

 ディーナが腰を下ろしている座席背後の、わずかな荷物置き場のスペースに直立姿勢で転移したラネットは、突然の潮の香りと三六〇度の海面に面食らった。


「……ふへええっ!? いっ……いきなり海の上ぇ!?」


「おーっ、ラネットです! 水着で現れるとは、海戦への士気が高いですっ!」


「あはははっ、やあディーナ。ちょっとの間乗せて……って! 水着はともかく、なんでニーソックス穿いてんのさぁ!?」


「泳力は落ちそうですが、見る分にはかわいいですねー! それより研究團の『声』がお出ましということは……。あのシャチに、とどめを刺しに来たですね!」


「あっ……うん、そうっ! 聴音壕のトーンとボクを結ぶ直線上に、シャチの全身が来るように運転してっ!」


「了解ですっ! 振り落とされないよう、しっかり掴まっててくださいですっ!」


「う……うんっ! あ……グローブあるから、船の縁を掴みやすいっ! リムってば、こういうところちゃんと考えてくれてるんだ。さっすが元チームリーダー!」


 ただの絵の具の節約とも知らず、ラネットが頷きながら感心。

 その左方で海面が激しく隆起し、磯撫での背中が海上に現れる。

 余波で船体が大きく傾き、盛大に泡立ったしぶきの塊がラネットの顔を直撃。


「ぶはーっ! なっ……なにあのデカさっ! 巨蟲くらいあるんじゃっ!?」


「あれよりデカいですから、舐めてかからないでくださいですっ!」


「ディーナ、あいつといままでやりあってたの? すごくないっ!?」


「それでも駆逐艦よりは、ずっと小さいですっ! あいつ程度を恐れていては、海戦なんてできっこないっ! ですっ!」


 ディーナがニヤリと口角を曲げて、スロットルレバーをめいいっぱい傾ける。

 小型艇が青白い航跡を描いて全速前進。

 磯撫を右舷から追い越し、その前方で左方へと旋回。


「取舵いっぱーい、ですっ! ラネット、わたしの体にしっかり掴まるですっ!」


「う……うんっ!」


 盛大に波しぶきを上げながら、軽快なハンドルさばきで全速ターン。

 膝を軽く浮かせた姿勢で、重心のバランスを取るディーナ。

 ラネットが必死にしがみついたのは、戦姫團史上最大と崇められ、恐れられる、豊満なバスト。

 いまのラネットの手が届く範囲にある、最も掴みやすい隆起──。


「あああぁ……ごめんディーナっ! 痛くないっ!?」


「ぜんっぜん大丈夫ですっ! っていうか、それが一番重心安定する姿勢ですから、攻撃に移るまで絶対離さないでくださいですっ!」


「わ、わかった!」


 大きいながらも、男を知らぬ年ごろの少女ならではの頑なさに満ちた、ディーナの乳房。

 ハンドルに連動して右へ左へと揺れ、ラネットの重心をディーナに同期させる。

 ディーナの言うとおり、掴まるには最適の部位──。


「ラネット! あいつは陸からの射抜きで、左目が潰れてるですっ! ですから常に、あいつの左側に位置取るですっ! にあいつが乗ったら、真正面にターンするから合図くださいですっ!」


「りょっ……了解っ!」


「あと……尾びれの打ちつけがあるですっ! 尾びれからは大きく距離を取るように移動するので、心得ておくですっ!」


「それも了解っ!」


 ラネットの返事と同時に、磯撫の尾びれが激しく海面を叩く。

 巨大な鉄板が天高くから落下したかのような、轟音と衝撃。

 大きな余波のみならず、振動をともなった風圧が小型艇を大きく傾ける。


「くうっ……!」


 波に逆らわない繊細な操舵で、ディーナが船体を立て直した。

 ラネットは生まれて初めて見る巨大な海獣と、初めて経験する海上での戦いに気圧されていたが、両手の中にある弾力に満ちた膨らみが、多幸感を生み出してそれを相殺──。


(ああぁ~♥ トーンのかわいいかわいい微乳が世界一好きだけれど、この掌に収まりきれない巨乳も……いいよぉ♥ 表面はすっごい柔らかいのに、芯にはすっごい弾力があって、「イヤイヤだめっ♥」って感じで押し返してくるのがまた……♥ リム、やっぱりグローブは必要なかったよぉ。素手で揉んでみたいぃ……♥)


 スクール水着と水泳帽に身を包みつつ、ニーソックスとグローブを嵌めて巨乳を鷲掴みにするラネットの姿は完全に変態。

 しかしディーナはそれらをいっさい気にすることなく、操船に集中。


(……わたし、ヨット、手漕ぎ船、小型艇は子どものころから乗ってるですが、こんなに思いどおりに動いてくれる船は初めてですっ! この世界の造船技術がすばらしいのだと思うですが……。まるでこの海までもが、わたしの操舵を手伝ってくれてるみたいです……!)


 長崎空港の南東の海には、大村競艇場がある。

 終戦から七年後の一九五二年開場。

 国内における初の競艇開催地であり、ボートレース発祥の地を謳っている。

 長崎県の戦後復興に大きく貢献し、それはいまなお続く。

 ボートレースには「左回り」「追い越しは右側」というルールがあるが、左目を失った磯撫の左側へ常に回りこもうとするディーナの操船が、偶然にもこれに一致。

 尾びれの攻撃を避けるために、磯撫を右側から追い越してターンし、左側へ回り込む動作は、まさにボートレースの様。

 天音の言うところの「場」が、ディーナの操船に味方していた──。

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