第050話 ナルザーク地方警邏隊巡査 エルゼル・ジェンドリー
──阿鼻亀へ向けて野砲の攻撃が続く、神の島公園。
遊具が並ぶ芝生広場へ突如として現れた砲座に、高台へ避難してきた市民たちは驚きを隠せず、公園の端で身を寄せ合う。
民間人のだらしない様を見て、砲隊長のノアは深いため息。
「はァ……なんだなんだァ? 揃いも揃って、怯えたヒツジみたいに隅に集まって! この緊急の戦時、民間人にもできること、いくらでもあろうがッ!」
現役軍人のノアから怒声を浴びせられた市民が、いっせいにビクッと緊張。
母親の胸に抱かれていた乳幼児が、不安と恐怖で思わず泣き始める。
その泣き声を不快に思ったノアが暴れだすのではないか……と、市民は戦々恐々。
しかし、ノアは──。
「──ハッハッハッ! そうだ、赤子は泣くのが仕事だ! 怖ければ泣けッ! 元気よく泣けッ! 涙も糞尿も、あらん限り撒き散らせッ! ハッハッハッ!」
ご機嫌そうに、豪快に笑うノア。
それを一気に軍人の鬼上官の顔に変え、周囲の市民をぐるりと見渡す。
「赤子は泣くのが仕事! ではいま、大人の仕事はなにかッ!? 土石を積んで擁壁を造り、飛来物から身を守るッ! 敵に見つからず移動できる塹壕の構築ッ! それらを……この世界のやりかたでやれッ! ここにはそろそろ、敵の遊撃部隊が現れるだろう。そのとき生き死にの戦いに巻き込まれぬよう、退路も確保せよッ!」
現役軍人のノアからの具体的な指示、助言。
それを受けてもなお、市民たちは公園の端に並び、動こうとはせず、傍観。
ただ一人、眼鏡をかけた事務服着用の女が前へ出て、ノアへの間合いを縮める。
拾体の下僕獣の実質的な統率者、安楽女──。
「ハハッ、無駄無駄。最後の戦争からほぼ八十年。ここに
「……なんだ、おまえは?」
「いま自分で言うたやろう? 敵の遊撃部隊さ!」
安楽女のスカートを破って、二本の黒い蟲の脚が現れ、ノアを急襲。
毛深い脚の鋭い先端が、ノアの心臓を突き刺さんと伸びる。
「くッ!」
腰の剣に手を回すノアだが、すでに安楽女のつま先は眼前。
そのとき──。
──パンッ! パンッ!
連なる発砲音。
先端が欠け、宙で動きを止めた安楽女の二脚。
離れたところで硝煙を漏らす、銃口。
その砲身は、松葉杖。
仕込み銃の松葉杖を、地に片膝を置いて放ったのは、戦姫團前團長、エルゼル・ジェンドリー。
その姿を見たノアが、思わず息を飲む──。
「だ……團長ッ!」
「いまは城下町の一巡査だ。戦姫團の砲隊長殿」
「こ、ここだけの話ですがッ! わたしにとっての團長は、いまだあなたですッ! エルゼル様ッ!」
「ふむ。ここだけの話というか、聞かなかったことにしよう。階級を軽んじるのは、軍では重罪だからな。では砲隊長殿は、引き続き砲撃を頼む。警察官のわたしは、この蟲女を捕縛する」
「はッ! ご武運をッ!」
ノアが後方へ飛びのき、阿鼻亀を目視できる展望台へと戻る。
入れ代わりに、松葉杖を突いて立ち上がったエルゼルが、安楽女と対峙。
左腰の鞘のロックを、親指で弾いて解除する。
「こっちの世界の蟲は、会話ができるか。思考が読めるだけ、
「フン……。カッコつけて出てきたくせに、膝に故障持ちね。仕込み杖も、時代遅れもいいとこの村田銃もどき。何秒持つやろうかねぇ……ハハッ♪」
「あいにくと、脚の多さは強さに繋がらないと、嫌というほど経験していてな。甘く見ないほうがいいぞ……ハッ!」
健康な右足で大地を蹴り、滑空するように一気に間合いを詰めるエルゼル。
その踏み出しの一瞬で抜剣し、水平の剣筋で斬りこむ。
安楽女は後方に飛びのきつつ、蟲の脚二本の爪を交差させ、それを受ける。
そして新たに三本目の蟲の脚を伸ばして、エルゼルの眉間を上方から急襲。
しかしエルゼルは慌てず、その脚の爪を、松葉杖に仕込んだ銃で迎撃──。
「──バカがっ! そいは囮さっ!」
四本目の蟲の脚が、地を這いながらエルゼルを下方から貫こうとする。
跳躍したエルゼルは松葉杖の下半分にある、三角形状の骨組みの隙間へ、四本目の脚を通した──。
「フフッ……。囮にかかったのは、どちらかな?」
「なにっ!?」
──バギィイイッ!
松葉杖の、三角形状の骨組みの隙間──。
瓶入り飲料の栓抜きの要領……テコの原理で、そこを抜けた蟲の脚を、エルゼルはへし折った。
「ギャアアァアアァアアッ!」
「銃……という
「ぬぅ……ぐううぅ……。さっき團長って、呼ばれとったけど……。どうもあのそばかす女と、同等の資質ごたっね!」
「そばかす女……
エルゼルが松葉杖を地に着けて、姿勢よく直立。
左膝の故障をいっさい感じさせないばかりか、松葉杖に多量のギミックの存在を伺わせる、不敵なたたずまい。
安楽女は露にしている四本の蟲の脚で地を突いて跳躍し、十分に間合いを取る。
「……どうも本気で
怒声を上げた安楽女が、ドス黒い瘴気を全身から発散。
その瘴気の向こうで、徐々に巨大化する安楽女のシルエット。
やがて瘴気が雲散霧消し、安楽女の真の姿を顕現させる。
「ハーッハッハッハッハッ! 遊びはもう終わりさっ!」
その頭部の上に、安楽女の腹部から上が垂直に立っている。
西洋の神話に登場する、巨大グモと美女のハイブリッドの魔物、アラクネ──。
誤訳されて日本へ伝わったアラクネを、山田右衛門作が下僕獣の一体として採用した、和洋折衷の魔物。
人間の両腕と、八本の蟲の脚を持つ、異形の生物──。
「不気味かろ? 気持ち悪かろ? 向きあっとるだけで、
安楽女は自らの異形を誇り、それをもってけん制しようとする。
しかしエルゼルは、冷静に、不敵に笑い返す──。
「くっくっくっくっ……ハーッハッハッハッハッ!」
「な……なんがおかしかとねっ!?」
「フフッ……。これが笑われずにいられようか。もっとも
「なにっ!?」
「秘剣……
エルゼルの全身が、青白い光跡を残して瞬間移動。
松葉杖を携えた者の動きとは思えぬ高速ダッシュで、安楽女の真正面を横切る。
瞬間──。
安楽女の両前脚が付け根から断たれ、白濁とした体液を撒き散らしながら、芝生の上へと落ちた。
「うギャアアァアアァアアッ!」
「フフッ……。知性あらば、痛みは臆病に通ずる。貴様、蟲の雑魚にも劣るぞッ!」
カマキリが異常進化した生物、蟲──。
その駆逐を使命とする、乙女のみで構成された陸軍戦姫團。
その團長の座を二期連続で務めた偉大なる才媛、エルゼル。
蟲と同等の姿形をした安楽女を恐れる理由は、なに一つなかった──。
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