第028話 正午

「はぁ……。ふぅ……♥」


「はあっ……ふうっ……あふぅ……。ふうぅ……はふぅ……ふぅ……♥」


 湿った若い唇二つが、十数秒もの密着から、息を荒くして分かつ。

 名残惜し気に繋がる唾液の糸を、天音の右小指が優雅に絡め取った。

 体力に秀でている天音は早々に呼吸を整え、いまだ荒い息を吐くリムを、目を細めて眺める。


「フフッ……。まんまと師匠さんの策略に、はまっちゃったかな?」


「わたしも……つい、雰囲気に流されちゃいました……。『虫籠むしかごゆうに良し悪しなし』……ですかね。アハハ……」


「ん? リムの世界のことわざ? 籠の虫は、好き嫌いなく交尾する……って意味?」


「あ……はい。ニュアンス的には、特定の環境に男女を置けば、自然と好き合うって感じなんですけど……」


「こっちの世界だと、『吊り橋効果』ってやつかなぁ。世界は異なっても、恋愛事情はいずこも同じだねっ! アハハハッ!」


「ちゃ……茶化さないでくださいっ! わたしは……わたしなりに、いまの本気だったんですからっ! もぉ!」


 リムが瞳に涙を滲ませながら、レンズ越しに天音を睨む。

 それを受けた天音の表情に、動揺の色はない。

 愛しげ、そして寂しげに、リムを見つめ返す。


「その言葉……聞けてよかった。ボク女の子なのに、男の子の人生を重ねられてさ……。恋愛なんて知らないまま、一揆で死ぬんだって覚悟してた。でも最期の最期に、夢が叶ったよ。出会ったときからずっと……リムが気にかかってたんだ」


 天音の真摯な眼差しが、リムの瞼に込められていた力みを解いた。

 遠回しな、一目惚れの自供。

 リムも天音へ抱いている好印象を、キスの余韻が冷めない唇から滑らせる。


「わ、わたしも……。天音さんの中性的なところ、正直惹かれてました……。正確に言えば、画家のおじいさんが描いた天音さんの絵を、見たときからですけど……」


「別世界の者から好かれるのって、迷惑じゃない?」


「い、いえっ! そこは全然っ! 仕返しでバラしちゃいますけど、お師匠様もわたしの世界に恋人いるんです。それも、三十歳以上年上の女の人!」


「へええぇ! 師匠さん、愛に殉ずる人だね! 正式に弟子入りしよっかな~」


「……はい、お師匠様はすごい人です。自分と接点のない異世界のために、死闘へ身を投じて……。不安も心労も表に出さず、功績は隠して、常に周りを笑顔にして……。でも怒ると、まるで親みたいに厳しく、親身に叱ってくれる……。そのお師匠様を生んだ世界が、ここなんですね……」


 リムは一旦天音から視線を逸らし、窓の外を見る。

 高層の建物、広い車道、それらを囲む海と山々。

 いつの間にかリムから、高所への恐怖心が消えていた。

 リムは再び、視線を天音へと戻す。


「わたしもお師匠様みたいに、この世界を救えるんでしょうか。おじいさんから託された、この画材で……」


「リムなら必ずできるよ。そしてボクが、必ず守ってみせる。この戦いが、終わるときまで──」


 しばし見つめ合う二人。

 リムは乙女心を揺さぶられるがあまり、天音が発した「最期の最期」「この戦いが終わるときまで」という言葉の意味を、読み逃してしまう。

 二人が乗るゴンドラが、地上から七〇メートルの最高部に近づく。

 天音はそこで一度リムをぎゅっと抱き寄せると、すぐにその体を両腕で押し放し、距離を置いた──。


「……もういいよ、現れても。猶予をくれたことには、感謝する」


 天音がリムとは逆方向の、窓の外を向く。

 すぐさまそこに、天地逆さまの女性の顔が、上方から現れた。

 リムが短く「きゃっ!」と悲鳴を上げる。

 栗毛色の太い三つ編みを、両肩から垂直に垂らした、スーツ姿の女性。

 その顔が下卑げびたニヤけ面を浮かべ、歪ませぎみに唇を開く。


「別に猶予やったわけでも、がめしとったわけでもなかとけどねぇ。正午を待っとるだけよ?」


「なにっ!? 正午になにが起こるんだっ!?」


「あーあ! 千羽にも百合そっちあったら、こがん(※こんな)争いに巻き込まれんですんだとにねぇ……。あい(※あいつ)は男女カプ原理主義者やけん……ふぅ」


「……はあ?」


「まあ……よかよか! わたしは拾体の下僕獣が一体、らく! 殉教した阿比留千羽に代わって、この不毛な世界を潰すもンたい!」


「拾体の下僕獣っ! 信徒の命と引き換えに顕現したかっ! 恨みはないけれど、いまの時代……ううんっ、三千世界の民のために、消えてもらうっ!」


 天音が両手を近づけ、己の武器である島原の守り刀、宝刀・神気を取り出す構え。

 しかし安楽女は構えることなく、ますます笑顔を歪ませる。


「おーおー! キリシタンが三千世界(※仏教用語)とは噴飯ふんぱんったい! まあそこはツっこまんでやるけん、やれるもんならやってみんね!」


「出でよ……宝刀・神気…………えっ?」


 悪魔デビル戦同様に、天音は合わせた掌から宝刀を取り出そうとする。

 しかし左手に、半透明の細い糸の束が浮かび上がって、それを制した。

 天音の指を拳状にがんじがらめにする、細く強固なワイヤー。

 それは安楽女が精製した、蜘蛛の糸だった。


「くっ……掌を……開けないっ! そうか、その顔……。さっきの……!」


 悪魔デビル戦のあと、天音の左手へ強引に握手を求めてきた、市井の眼鏡の女性。

 その顔と安楽女の顔が、天音の瞳の奥で重なる。

 察し返した安楽女が、満面の笑み──。


「千羽はヤリチンに騙されて捨てられて、自殺しようとしたバカ女けどね。もう十人しか残っとらん物言う神の信徒ば、減らすわけにもいかんとさー。この安楽女様が分泌する猛毒で、ヤリチンに復讐すっとと引き換えに、体ば譲ってもろうたとよー!」


「猛毒……! おまえの正体は……毒グモかっ!」


「千羽はね、この世界に絶望したと! 自分に寄ってくっとは、初物狩り自慢のヤリチンと、男尊女卑のセクハラくそジジイだけ……ってね! おかげで助かっとるよ! おまえも右衛門作も、千羽のガワに騙されっぱなしやけんねぇ!」


「この世に絶望した信徒と、それを利用する下僕獣のハイブリッド……。完全に右衛門作さんの思惑の外。の人間には、もはやどうすることもできない……」


「わかったらおとなしゅうしとかんね(※おとなしくしておけ)! 天草四郎もしょせん、わたしら下僕獣と同じ、右衛門作に創られた存在! 塵芥ちりあくたになるまでのわずかな時間、ここで惚れた女とおらんね(※過ごせ)! ハッハハー!」


 安楽女の顔が、ゴンドラの窓から上方へと消える。

 すぐさま──。


 ──ガゴンッ!


 轟音とともに、観覧車が停止。

 リムと天音が乗るゴンドラを頂点にして、回転が滞る。

 しかし動力が断たれたわけではなく、観覧車は回転を続けんとする。


 ──ガッ! ゴッ! ガッ!


 観覧車全体が小刻みに揺れ、その振動が個々のゴンドラへと伝達。

 振り幅が徐々に大きくなる。

 あちこちのゴンドラから、利用者の悲鳴が上がった。


「きゃあああぁああっー!」

「なにっ! なんなのっ!?」

「地震っ!? ねえ地震っ!?」

「観覧車倒れる倒れちゃうっ! いやあああぁ死にたくないいいっ!」

「わああぁあああぁんっ!」


 天音は左手を拘束する蜘蛛の糸を恨めしそうに見たあと、窓から観覧車を見渡す。

 観覧車全体に、天音の左手を縛るものと同じ蜘蛛の糸が、張り巡らされている。

 観覧車の軸は火花を吹きながら、回転を継続しようとする。

 眼下には、愛里、ステラ、そして右衛門作がいる屋上庭園。

 三人の姿が小さく見える。

 天音は開閉不可となった左手を、観覧車の窓へと叩きつけた──。


「くううぅ……! あいつわざとボクを見逃したっ! 右衛門作さんの処刑を見せるために……くそっ!」


 指の第二関節に血を滲ませながら、再度窓を殴ろうとする天音。


「……ダメですっ!」


 それをリムが、全身を引き寄せて止めた。

 リムの顔には、高さへの恐怖はもうない。

 かつてナルザーク城塞への蟲の襲撃に抵抗した、民間兵の顔。

 非力なれども、自分もなにかしら戦わねばならぬ──という、軍人の顔。

 さしもの天音……天草四郎も、気圧される。


「リム……?」


「お師匠様は……この画材の使い道を、天音さんに聞けとおっしゃっていました。いままさに、そのときじゃないですかっ!」


 リムは右衛門作の鞄からスケッチブックを取り出す。

 そして真っ白なページを開いて、両太腿の上に固定。

 次いで絵筆、絵の具、パレットを握り、鞄の底にあったペットボトルのミネラルウォーターをひっせんとして使用。


「さあ、描きます! 現状を打破する、異世界の戦姫をっ!」


 利き腕の左手でくるくると絵筆を回したリムは、勇ましい表情で筆の先端をスケッチブックに着ける。


「この画材を使えば、描いた人物が現れるんですよねっ! ステラさんにも引けを取らぬ、双剣の使い手フィルルさん! 弓の名手にして、嗅覚も人間離れしたムコさん! 惜しまれつつ團長を退くも、一警察官として城塞の足元を守る剣鬼……エルゼル前團長っ! 戦況に適した人材を、すぐに描き上げてみせますっ!」

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