第005話 二つの現在(いま)
「んくっ……こくっ…………ふぅ」
ガラス製のコップに汲まれた冷水を中ほどまで飲んだリムが、一息つく。
出入口が施錠された、閉店後のとんこつラーメン屋の店内。
テーブル席の一つに、愛里とリムは向かいあって座る。
異世界ロスのところへ降って現れたリムに、愛里は感慨深げに話しかけた。
「そっか……。向こうじゃあ、もう一年かぁ。みーんなわたしのこと、忘れちゃったかしらねぇ……」
「いえ、そんなことないです! ラネットさんから聞いた話ですけど、アリスさんは『一二〇歳まで生きる!』ってジョギング始めたそうですし、ステラさんは『お師様の顔に近づける』って、ソバカスができるよう不摂生を続けてるそうですよ」
「なんかわたし、悪い影響ばっか残してる気がするわね……。『メグリ・ホシガヤ被害者の会』とかできてないかしら? ま、アリスが元気だとわかって安心したわ」
「わたしだって、お師匠様のことは忘れたことありませんっ! 漫画家のわたしは、お師匠様あってですからっ!」
「あー……リム? もう『お師匠様』って呼ばなくていいわよ。この世界だとわたしは、ただのオバサン。戦姫の力なんてナシ。他人様から師匠と呼ばれるものは、なに一つ持ち合わせてないの」
「いいえっ、お師匠様はいつまでもお師匠様ですっ! 故郷じゃない世界のために尽くし、常にみんなを笑顔にした生き様、一生尊敬しますっ!」
「あはっ……。そう言ってもらえるのは、うれしいわねぇ。あらやだ、あんまり持ち上げられたから、目からナトリウム含んだ水出ちゃってるわ……ぐすっ……」
「俗に言う涙ですね……アハハ。ところで、この窓の外には……。お師匠様の世界が、広がってるんですよね……」
「ええ、そうよ」
「なんだかカラフルな光が、たくさん動いてますね……」
すりガラス越しの、現代日本の街の景色。
ネオン、街灯、車のライト、信号機……。
それらの輝きがぼやけて、店内へと入ってくる。
「電灯に、車の明かり……よ」
「車……。わたしのおうちの周りでも車増えてますけど、ここはすごい数の車が走ってるんですね……。明かりも……色がたくさん……」
「しょせんあなたたちの世界の、延長線上のものよ。あした夜が明けてから、ゆっくり見せてあげるわ。今夜のところは、なにも知らずに休みなさい。寝不足なんでしょ?」
「ええ……。でも、なにも知らずに……というわけには、いかないですね。漫画の先生……プロの漫画家としては!」
リムの眼鏡のレンズが、ギラリと光沢を放つ、
その光沢の奥にある眼球が、カウンター前のマガジンラックを捉える。
そこには立てられた新聞と、数冊の漫画雑誌。
ヤングチャンピオン。
漫画ゴラク。
漫画タイムス。
ビッグコミック。
ビッグコミックオリジナル。
愛里の定期購読している、漫画雑誌の最新号。
愛里は右手人差し指を立てて、それをリムの顔の前へと伸ばす。
「ふふっ……。あそこにある雑誌は、客層に合わせたオッサン向けよ。リムが見たいのは、きらっきらな瞳を持った女の子の恋愛漫画。そして、溜め息が出るほどの繊細な美少年と美青年が絡みあう、ボーイズラブ漫画……よね?」
「……はいっ!」
──バンッ!
リムが両掌でテーブルを叩き、身を乗り出す。
コップの中の冷水が、ゆらゆらと大きく左右へうねった。
「わたしがこの世界へ呼ばれたのは、その叡智を得よ……という天啓だと思いますっ! 当然その手の漫画……揃えてますよね、お師匠様ならばっ!」
「そんな俗物的な理由で、異世界転移は起こらないと思うんだけれどね……。二度も蟲と戦わされた、経験者としての勘だけど」
「やっぱりわたしも、お師匠様みたいになにかと戦わなければ、ならないんでしょうか……?」
「……さあ。でもね、リムがこの世界の漫画を見たいって言うのなら、止める理由はないわ。生きるということは
「じゃあ……!」
「招待するわ。趣味全開の厚い本薄い本を集めた、二階のわたしの部屋……。パンドラボックスへ! むふふふっ!」
厨房の隅のドアを開けると、二階への階段。
愛里が壁のスイッチを押し、二階の電灯を点けて先導。
リムにはたったそれだけの出来事でも、驚くべき先の文明の賜物。
口を真横に閉じ、この先なにが起ころうとも平常心を保とうと、気を引き締める。
二階のフローリングの廊下。
そのもっとも手前の部屋のドアノブへ、愛里が手をかける。
──ガチャリ……。
「ようこそ、わたしの部屋……へ……って……。あららぁ?」
メグリの個室の中央には、身を丸めて寝入っているステラの姿──。
「すぅ……。すうぅ……」
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