第一章 再会
令和日本
第002話 喪失
──令和四(2022)年、初夏。
長崎県長崎市。
市中心部の歓楽街・思案橋通りから車道を2本挟んだ、緩い坂道の通り。
通りの端にある、小さなとんこつラーメン店「ワンダーランド」。
三十路の女店主、
午前11時開店。
午後2時から4時まで仕込み休憩。
午後7時閉店、ないしスープがなくなり次第終了。
専用駐車場、提携駐車場、なし。
──現在、午後6時25分。
5席あるカウンター席の一番奥には、10代半ばほどの少女がひとり。
2基ある4人掛けテーブル席のひとつに、背広姿の中年男性客がふたり。
店主の愛里は、次の来客、もしくは「替え玉」「会計」の声があるまで、厨房内のいすで腰を休めている。
いまは店内に会話はなく、壁に掛けられた22インチテレビから流れる女性アナウンサーの声が、ローカルニュースを伝えている。
「……この男性の遺体からは致死量の神経毒が検出されており、自殺、他殺の両面で県警が捜査しています。続いてのニュースです。今年1月、熊本県天草市の個人所有の土蔵から見つかった南蛮画が、このたび長崎歴史文化博物館に……」
──午後6時半。
半袖の襟首シャツを着た、薄い頭髪、肥満体型の、初老の男性が入店。
愛里が立ち上がり、歓迎の声を発する。
「いらっしゃいませー!」
入店したのは、常連客の渡辺。
いかにも酒で肝臓を痛めていそうな、土色の顔をした細目の男。
愛里は常連と見るや、声のトーンを少し落とした。
「……あら、ナベさん。悪いけどドアのプレート、ひっくり返してくんない? ナベさんで、きょう上がりにしちゃうから」
「おう」
入店したばかりの渡辺が店外へ戻り、引き戸にぶら下げられている「OPEN」のプレスチック製プレートを「CLOSE」に裏返し、再入店。
常連客と、人当たりのいい女店主の、気さくなやりとり。
渡辺はカウンター席の真ん中に座り、セルフでピッチャーからコップへ、冷水をなみなみと注ぐ。
「……メグちゃん、やっぱこの店閉める時間はえーよ。繁華街そばのラーメン屋が、7時閉店ってないだろぉ? 将棋の野試合、詰めろで切りあげちまったよ」
「だってわたし、酔っぱらい嫌いだもーん。だから酔っぱらいが出回る前に、店閉めるの! 締めラーメン目当ての泥酔客が、うちでリバースしたら最悪じゃない?」
本日最後の一杯に取りかかりながら、愛里が笑顔で話を続ける。
メニューはとんこつラーメン一品のみで、常連から注文を取る必要はなかった。
「……わたしはねぇ、こういう若くてかわい~い女の子がいっぱいくるお店を目指して、『ワンダーランド』っていう横文字の店名にしたのよ!」
カウンター席の端で食事中の少女に、伸ばした右掌を向ける愛里。
一見の少女は、灰色のパーカーにデニムジーンズというラフないでたち。
黒い長髪を、背中のフードの上に広げている。
「えっ……? かわいい女の子って……ボクですか?」
食事を中断し、自分の鼻の頭を指さしながら、きょろきょろする少女。
店内には、ほかに女性客はいない。
「あらやだボクっ娘なの!? わたしボクっ娘大好き! 替え玉オマケしちゃおっかな~?」
「あははっ、ありがとうございます。でも最近太り気味だから、遠慮しときます」
「じゃ、オマケは体重に余裕ができたときにね! 女の子のリピーター、大歓迎!」
愛里が人差し指を立てながら、少女に向かってウインク。
会話を傍聴していた渡辺が、冗談半分不機嫌半分で割って入る。
「おいおい。おじさんの常連も、大切にしてほしいなぁ!」
「そんじゃナベさんには、お冷ついであげる。表面張力ギリギリまでサービスよ?」
愛里が厨房から身を乗り出し、ピッチャーを手に取ってコップに水をつぎ足す。
中ほどまで冷水が減っていた渡辺のコップに、愛里は一滴もこぼすことなく、山なりに水を湛えるという、地味な職人芸を見せた。
「……水だけかい。お冷だけに冷てぇなあ。だいたい、客が女の子だらけのとんこつラーメン屋なんて、見たことねーよ」
(……わたしもこっちの世界じゃあ、見たことないわねぇ。あれから3カ月だから、向こうじゃもう1年かぁ……)
愛里は麺をお湯にくぐらせながら、スライドショーのように思いだす。
2度にわたる異世界への転移。
その2度目の、異世界でもとんこつラーメン職人としてすごした日々を。
屋台での、ラネット、リム、ルシャとの出会い。
城塞の食堂で、大勢の戦姫團受験者相手に、厨房をきりもり。
老いて自分の母ほどの年齢になっていた、異世界での恋人、アリスとの再会。
(あ゛ー……異世界ロス、ほんと酷いわ。前んときもロス脱却に5~6年かかったけど、今度は一生モンね……。三十路独身女には刺激がすぎたわ。あの英雄生活は)
どんぶり鉢にスープを入れ、さっと湯切りをした麺を波立てずに浸し、前もって準備しておいた具材を手際よく並べていく。
(アリス……泣いてすごしてなきゃいいけど。老い先短いんだし、心配しかないわ。なんかの拍子にあんたがこっちへ来ないかと思って、験担ぎでこの店名にしたんだけど……なさそうよねぇ。アリス・イン・ワンダーランド……)
生卵を味噌汁用のお椀に割り落とし、熱湯を軽くかけて少し固めて、かつ温めてから、ラーメンの表面にぷりっとスライドさせる。
異世界で出していたものとほぼ同じ、愛里流のとんこつラーメンが仕上がった。
「……はい、お待ちどお!」
「おっ、待ってました! なぁメグちゃん、営業時間延ばせないんなら、メニューを増やして顧客満足度上げちゃどうだい? 前に一時期、餃子もやってたろ?」
「やってたけどね……。利益は出るんだけど、肉体的な負担が大きくてさ。体壊しちゃ元も子もないから、ラーメン一本にさせてもらってるわ。餃子はラーメンのベストパートナーだから、やりたい欲はあるんだけどねぇ」
「儲け出るんなら、バイト雇いなよ」
「そうねぇ。薄給で馬車馬のように働いてくれる女の子のバイトなら、欲しいところだけど……。そういう子、どこかに落ちてないかしらね。あはっ♪」
──カッ!
愛里が苦笑いを終えた瞬間、突如厨房の床から、白い光が放射状に広がった。
光は店内に充満し、場の一同の視界を奪う。
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