甘人、来たりて

そうざ

When Ama-Bito Comes

              1


「何を作るの?」

「甘水」

「アマミズ?」

「これを木に塗っとくとね、虫が面白いくらい集まって来るんだよ」

「へ~」

「俺が自分で開発した魔法の蜜だ」

 カッちゃんは、にやにやしながら砂糖、蜂蜜、西瓜の搾り汁、そして最後に何か透明なとろっとした液体を瓶に入れ、思いっ切り上下に振った。

 僕よりたった二つ年上なだけなのに、従兄弟のカッちゃんは色んな事を知っている。ゲームの知識だったら負けない自信があるけれど、昆虫採集となると僕は全く敵わない。やっぱり中学生は小学生よりも凄い。

「ほら、筆を貸してあげるからユウ君も塗ってみな」

 僕は、カッちゃんを真似てそこら中の木に甘水を塗って回った。ここには一泊二日の予定で来ているので、明日の午前中にはもう帰らなければならない。最初で最後のチャンスだと思うと、力が入った。

 僕は森の奥にも入って行った。カッちゃんにも内緒の僕だけの木が欲しいと思った。後で探し易い特徴のある木が良い。きょろきょろと辺りを見回すと、Y字の太い木が目に止まった。幹が僕の目の高さくらいから二つに分かれている。丁度、分かれ目の所にうろがあった。これだっ、と思った。

 僕は、うろの中にたっぷり甘水を注いだ。まるで小さな泉のようになった。仄かに甘い匂いが森全体に広がて行くような気がした。きっと色んな虫が沢山集まって来るに違いない。


 僕は、お父さんの故郷に来ていた。

 毎年お盆になると、お父さんは必ず田舎に帰る。僕とお母さんを連れて行こうとはしないけれど、僕は別に構わない。お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも僕が生まれる前に死んでいるから、田舎には叔父夫婦とその子供の中学生が暮らしているだけだ。これまで一度も会った事のない人達に、僕は何の興味も持てなかった。

 でも、今年の僕は違った。どうしても連れてって欲しいとお父さんに頼み込んだ。何故かと言えば、お父さんの田舎には野生のカブトやクワガタが沢山居ると、お母さんがこっそり教えてくれたからだ。ペットショップで買うのではなく、自分の手で捕まえてみたい。そう思った僕は、もう居ても立っても居られなくなってしまった。

「分かったよ、連れて行ってやる」

 お父さんが約束してくれた。僕の泣きべそ作戦は大成功だった。

 お母さんは留守番になってしまったけれど、寧ろ嬉しそうだった。普段は学校に行っている僕が、夏休みになるとずっと家に居るから、煩わしいらしい。僕は、空っぽの虫籠が一杯になるのを想像して中々眠れなかった。


              2


「カッちゃん、ユウを縁日に連れて行ってくれないかな」

 夕飯時、お父さんが箸で冷奴を割りながら言った。

 何故かカッちゃんが返事をしないので、お父さんは僕の方に話し掛けて来た。

「行きたいだろ」

「うん、まぁ。お父さんは行かないの?」

「縁日は子供のもんだよ。二人でたっぷり夏休みの思い出作りをしなさい」

 お父さんはまたカッちゃんを見た。

「頼むよ」

 カッちゃんは生返事だった。

「二人共、お小遣いをあげるから。ねっ」

 叔母さんは、僕達に三千円ずつくれた。

「二時間くらい行って来な。カッちゃん、ユウを宜しくね」

 お父さんがカッちゃんの肩を軽く叩いた。

 柱時計は午後七時を差している。こんな時間から子供だけで二時間も外で遊んで良いだなんて、普段のお父さんだったら許さないと思うけれど、田舎に帰って来て心が広くなっているのかも知れない。

 でも、カッちゃんは相変わらず面倒臭そうな顔をしている。昼間は僕に親切だったのに、どうしたんだろう。

 すると、叔母さんが強い口調で言った。

「カツヒコ、連れて行ってあげなさい」

 何もそんな言い方をしなくても良いのに、見た目と違って怒ると恐い人なのかも知れない、と僕は思った。


              ◇


 先を行くカッちゃんの懐中電灯が歩道を行ったり来たりする。僕それを懸命に追い掛ける。

「もう少しゆっくりで良いんじゃない?」

「あぁ……ごめん」

 縁日を回っている最中も、カッちゃんは浮かない顔だった。理由を訊いても、何でもない、としか答えてくれない。

 さっさとお小遣いを使い切ってしまった僕達は、懐中電灯の灯りだけを頼りに当て所なく歩き、やがて畑の畦道を進み始めた。

 カッちゃんがまた早足になって行く。付いて行くだけで精一杯だ。

 やがて、何処からか水の流れる音が聞こえて来た。

「こっちは用水路だから、落ちないように気を付けて」

 やっと口を開いたカッちゃんは、道の右側を照らした。土手の下にちょろちょろと水が流れている。

「そろそろ帰らない?」

「まだ一時間しか経ってないよ」

 疲れた僕達は、畦道に並んで座った。いつの間にかさっきより辺りが明るくなっていた。見上げると、真ん丸の月と、ゆっくりと流れる千切れ雲。夜が僕達を包んでいた。

 カッちゃんは、寄って来る蚊を叩くのに夢中なのか、また何も言わなくなってしまった。

 堪らなくなった僕は、懸命に話し掛けた。

「こういう所に蛍って居ないの?」

「居ないよ、こんな所に――」

 言い掛けてカッちゃんは言葉を呑んだ。

「どうかした?」

「昔……見た気がする」

「いつ?」

「小さい頃……まだ学校に行く前かな」

「この辺で?」

「多分」

「一人で見たの?」

「母ちゃんと……それから」

 カッちゃんは、月を見詰めたまま必死に思い出そうとしているみたいだった。

 やがて、ぼそっと呟いた。

「ユウ君は、いつもお父さんが一緒で嬉しい?」

 カッちゃんのお父さんは仕事で海外出張が多く、一年の大半は家を空けていると聞いていた。僕のお父さんも偶に出張で家を空ける事はあるけれど、とても比べられない。

 辺りが急に暗くなった。雲が月を隠しただけだった。


              ◇


 家に帰ると、叔母さんが西瓜を出してくれた。

 時計の針はきっかり午後九時を差していた。僕達は蚊に耐えながら約束を守ったのだった。

 お父さんは、団扇を片手に縁側でぼうっとしていた。浴衣の襟を大きく開いていて、やけに眠そうに見えた。

「叔母さん、この辺って昔は蛍が居たの?」

「そこまで自然が豊かな土地じゃないからねぇ。見た事ないわ」

 カッちゃんは何故か話に乗って来ようとしない。

「一度も見た事ない?」

「記憶にないわねぇ」

 すると、お父さんが口を挟んだ。

「何処かで買って来て、川辺かなんかに放した事がなかったっけ?」

 叔母さんが無表情になった。それを見て、お父さんは団扇の動きを速めた。僕達は無言で西瓜を食べ続けた。


              3


 多分、午前零時は過ぎていたと思う。

 僕は、おしっこを我慢し続けていた。とても朝まで堪えられそうもなかった。きっと西瓜を食べ過ぎたからだろう。

 カッちゃんはすやすや寝息を立てている。起こすのは悪いし、何よりも一緒にトイレに行って欲しいなんてとても言えない。かと言って、他人の家でお漏らしなんかしたら大変だ。

 僕は、心の中で鼻歌を歌いながら暗い廊下を歩いて行く覚悟をした。

 トイレは便所と言った方がぴったりの薄汚れた感じだった。急いで用を済ますと、行きと同じように鼻歌で廊下を引き返した。

 その時、雲が切れて、廊下の窓から月の光が差し込み始めた。畦道で浴びた光よりももっと明るく感じた。お蔭で怖さが一気に弱まって行った。

 不図、あのY字の木の事が気になった。

 もう虫は集まって来ているのだろうか。甘水を吸い切って満腹になったら何処かに飛んで行ってしまうかも知れない。今の内に何匹か捕まえておいた方が良いんじゃないか――月に誘われた僕は、便所のサンダルのまま森へ向かった。


 白くぼやけた世界の中に、樹木の影が浮かんでいる。靄が立ち込めているのか、もう直ぐ夜明けなのか、どちらにしろ僕が道に迷っている事は確かだった。

 いつの間にか、辺りに光の粒が舞い飛んでいた。こんな所に蛍が居たんだ――そう思った瞬間、前方にY字の木が薄っすらと浮かび上がった。

 僕は、忍び足で慎重に近付いて行った。ぼやけた影が段々はっきりと見え始める。

 そこに現れた光景に、僕は固まってしまった。

 坊主頭のでっぷりとした男が、パンツ一丁の姿で木に組み付いている。

 男の眼は血走っていた。鼻息が荒く、赤紫色の舌先をほらに突っ込んで器用に甘水を舐めている。

 時折、男は嬉しそうな声を上げ、全身に浮かんだ玉の汗を飛び散らせた。

 あれは甘人アマビトだよ――突然、カッちゃんの声が聞こえた。

 甘水の配合は微妙で、少しでも間違うと甘人好みの味になってしまうと言う。甘人は一旦舐め始めると最後の一滴を舐め尽くすまで梃子でも動かないから、放っておくしかないんだ――カッちゃんは、悔しそうな、悲しそうな顔だった。

 僕は、甘人を睨み付けた。それでも甘人はお構いなしにぺちゃぺちゃと舌を鳴らしている。図々しい奴だ、嫌な奴だ、と思った。

 だけど――どういう訳か、お父さんに似ているような気がした。そんな気がしてならなかった。


              4


 僕は寝汗を掻いていた。夏の太陽はもうすっかり高く昇っていた。

 隣の寝床にカッちゃんの姿はない。どうやって森から帰って来たのか、全く記憶がなかった。あれはやっぱり夢だったのか。

「何度も起こそうとしたんだよ。だけど、眠い眠いって……」

 とっくに起きていた様子のカッちゃんがやって来て、僕に虫籠を差し出した。

「仕方ないから一人で行って来たけど、カブトもクワガタも居なかった」

 数匹のカナブンが虫籠の中で暴れている。

「きっと甘水の調合をしくじったんだ」

「アマミズ……」

「微妙なんだよ、甘水は」

「アマビト……」

「えっ?」

「甘人って知ってる?」

「何、それ」

 カッちゃんはぽかんとしている。本当に初めて聞く言葉という顔だ。昨夜、カッちゃんが教えてくれたんじゃないか、と言い掛けてやっぱり止めた。どうせあれは皆、夢だったんだ――。

「相手は自然だからな、そんな事もあるさ」

 帰り仕度をしていたお父さんが、笑いながら言った。

「残念だったわねぇ。良かったらまた来年いらっしゃいね」

 叔母さんが慰めるように言った。

 朝食の後、僕は最後のチャンスでもう一度だけ森に向かったけれど、Y字の木すら見付ける事は出来なかった。


              ◇


 ローカル線の駅まで、カッちゃんと叔母さんが見送りに来てくれた。

「また来年、必ず来るから」

「来年こそは、これを一杯にしような」

 カッちゃんが空っぽの虫籠を叩きながら言った。用のないカナブンは全て逃がしてやったので、今年の収穫はゼロで終わった。

 もう電車がホームに入って来たのに、お父さんと叔母さんは名残惜しそうに話し込んでいる。普段、生活をしていて、こんなに楽しそうなお父さんを見る事はない。たった一泊二日の帰省だったけれど、お父さんはずっと笑顔だった。

「ユウ君のお父さんって……」

 カッちゃんが無表情でこっそり僕に囁いた。

「お盆だけじゃなくて、ちょくちょく――」

 最後の方は、発車のベルに紛れて聞き取れなかった。

 カッちゃんと叔母さんがどんどん小さくなって行く。叔母さんはいつまでも手を振っていたけれど、カッちゃんはぼんやりと佇んだままだった。お父さんは手を振り返していたけれど、僕は虫籠をぼんやり見積めていた。

「今度、ペットショップで買ってやるから、そんなにがっかりするな」

 お父さんの声がやけに遠くに聞こえる。昨夜の夢の内容を思い出そうとしたけれど、頭の中に靄が掛かっているみたいで、上手く行かなかった。

 お母さんには何を話そう。カブトもクワガタも捕れなくて残念だった事、縁日に行った事、カッちゃんとは気が合った事――他に何があるだろう。

 車窓を眺めながら、来年は甘水の作り方を教えて貰おうと思った。ちゃんとした調合で、ちゃんとした虫が来るようにしたい。

 でも――来年の事なんてまだ分からない。

 いつまでも虫に興味があるかどうかなんて、誰にも分からない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

甘人、来たりて そうざ @so-za

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説