宵闇に溶ける影

獣乃ユル

宵闇に溶ける影

 陽は最早落ちかけ、橙に染まった空が僕らを急かす。学生の殆どが去り、活気を失った教室の一角で僕は机に座っていた。


「先輩」


「なんだい?後輩君」


 飄々と返答するのは不照《てらず》から。苗字が不照、という時点で初見は驚いたが、普通に考えれば虚も中々だ。俺の一つ年上に当たる彼女は、さぞ当たり前かのように艶やかな黒髪を靡かせながら俺の席の上に座っていた。


「今日は何で呼ばれたんですか?」


 彼女は非常にルックスが良い上に愛想が良いので多くの人間に好かれている。だが、その人らの気持ちは俺にはよく理解ができない。彼女が視界に入るたびに脳髄を埋め尽くす恐怖は、簡単に拭えるものでは無かったからだ。

 何故か俺は彼女に気に入られているようで、度々このように呼び出されては、訳の分からないことに巻き込まれる。


「すぐ本題に入るのは嫌われるよ。私は好きだけどね」


 淡々と告げながら机から飛び降り、教室のカーテンを閉め始める。煌々と夕日から注がれていた光の大部分が遮断され、先輩の顔を認識するのがやっとなほどになる。

 ふと、後ろを見た。自分が使っている木製の机が後ろに並んでいて、その奥には規則的に配置されたロッカーが俺を睨んでいた。何も、いない。教室の角に鎮座する深淵のような面をした影の中にも、硝子のはめ込まれた扉の奥にも。けれど、黒い霧のような何かをそこに幻視してしまって。ひた、ひた、と、迫る足音のようなそれを聞いてしまって。来る、来る、来る。何かが。荒くなった息が、骨を伝って頭全体に響くように


「ねぇ、最近寝れてるかい?」


 俺の焦り切った思考を中断するように、呑気な先輩の声が響いた。


「寝れてないでしょ。隈、酷いよ」


 いつの間にか目の前まで肉薄してきた彼女は、俺の眼の下を人差し指で優しく撫でる。妖艶な笑みを浮かべ、指先をそのまま俺の口元へと運んだ。


「何が怖い?」


 一点して、全てを見透かす様な冷酷な雰囲気で問いかける。

 先輩の言う通り、最近俺は十分な睡眠をとれていない。ストレスだとか、そんな話ではない。いつも通りベットと布団の間に体をねじ込んで、瞼を下す。そうしてしまうと、当たり前だが視野は漆黒に包まれて、部屋全体が死角となる。一つの感覚が遮断されたことによって他の感覚器官は研ぎ澄まされ、本来なら存在しない筈のそれを感じ取る。部屋の真ん中に、勉強机のそばに、パソコンのすぐ前に、布団から少しはみ出た爪先のそばに、無防備な、枕元に。

 頭痛に近いような刺す恐怖が、いつもどこにでも現れる。眠れるはずもない、いつも見られているのだから。


「何……って、言われても」


 それは俺が生み出した幻想でしかない。恐怖心と本能がそこに生み出した虚像だ。いくら迫ってきているように感じても、実害があったわけじゃない。


「君はさぁ、本当に被食者の顔をしているよ」


 挑発的な笑みを浮かべながら、彼女は言葉を紡ぐ。


「君が恐怖する影。一般的には只の虚像と、吐き捨てられてしまうだろう」


 俺の首にゆっくりと手を伸ばし、爪を首に軽く突き立てる。


「けれど、死角に潜むそれが虚像ではないと、どうして言えようか。ほら、でしょ?」


 その言葉に呼応するように、先ほどよりも明確に足音が響き渡る。はっきりと聞こえてくるその音が、より思考を加速させる。地面にへばりつくような、湿った音。一歩、それは歩くごとに水気を含んだ足跡を残す。もう一つ、研ぎ澄まされた聴覚は小さな音を聞き分けた。ぴちょり、という雫が地面で跳ね返る僅かな水音。


「ありふれた形をしているね。髪の長い、女のような何か」


 言葉が幻想を形づくって、妄想は脳に流れる映像と化す。顔を覆い隠す手入れされていない長い黒髪。それは大量の水分を含み、定期的に水を滴り落とす。全身が冷たい水にぬれており、だからこそ、独特な湿った足音を立てている。

 妄想が、幻想が首に鎌を突き立てる。首を伝る嫌な汗が、血だと誤認してしまうほどに。


「見えないならば、それを証明する方法は非ず。けれど、私には見える。君の恐怖で作りだされたそれがね」


 俺の机の横を通り過ぎ、奥へと先輩は歩みを進めていく。暗闇の中で、彼女の眼が紅く光っていたように見えたのは気のせいだったのだろうか。

 それは最早霧ではない。明確な形を保った実像だ。想像通りの、白い服を着たずぶ濡れの女。佇むそれに対して、先輩は臆することなく歩を進めていく。カーテンの隙間から漏れ出ていた筈の光は最早見えず、暗闇のみがこの場を覆いつくしていた。


「影にしか居れない臆病者が」


 女は、勢いよく腕を振り上げた。勢い共に空中に水滴が飛び散り、先輩はそれを鬱陶しそうに払いのける。消えたと錯覚するほどの速度で振り下げられた拳を、先輩は悠々と受け止める。


「その程度で届く命じゃない」


 軽く、先輩が腕を振るった。轟、と風が裂ける音と、紅い軌跡だけが空間には残っていた。



 ◇



 気づけば、カーテンは開かれていた。不意に光度を増した光景に眼は対応が間に合わず、思わず目を擦る。


「これで終わり、帰っても良いよ。後輩君」


 音も立てず、気づかぬ間に俺の席に先輩が座っている。吸い込まれるような黒目がこちらを覗いていることを確認して、あの赤眼は幻だったのかと結論を出す。


「先輩って、何なんですか?」


 廻る思考から思わず言葉が漏れ出る。ずっと抱いていた疑問だったが、いつもはぐらされてばかりだった。


「……秘匿に手を伸ばすのは今を生きる者の特権で、愚行だよ」


 苦虫を噛み潰したような、少し苛立ったような表情を見せる。


「いつも、そうやって手を伸ばした者から闇に呑まれる」


 机の上から、こちらに手を伸ばす。そして、俺の胸に触れる直前でぴたりと手を止める。


「一つだけ教えてあげる。そうやって、手を伸ばすのは君だけじゃない。君に向かって伸びる手だってある」


 けれどね、と言葉を結び、さぞ楽しそうに口角を吊り上げて彼女は言い放つ。


「君は私のものだ。掴ませやしない」

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宵闇に溶ける影 獣乃ユル @kemono_souma

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