第16話 「平凡な容姿か」

『……なんだと?』


「体調が悪いってことです。寝てます」


『……そうか。じゃあ、物は相談だが』


「相談?」


『きみは自分が不安定な立場に立たされていることは自覚してるよな。慎重に身を処さないといけない』

 

「それは、はい……」


『丹野を見ていて何か怪しい点がないか。何か漏らしたりしてないか、よく見張ってろ。そして全部おれに報告しろ』


 ぼくはハンズフリーに切り替えてテーブルに置いた。


「丹野は警察と懇意なんでしょ?」


『あいつが犯人ならお前さんは無罪放免だろ。よく考えろよ』


「……ネイリストの件はどうなりました?」


『ネイリスト伊藤は自宅での施術があったことを認めたぞ。だが認めたのはそこまでだ。それから愛人候補が他に二人みつかったが決定打はない。ヤツはほかにネタは隠し持ってないだろうな』


 ぼくはひそかにガッツポーズを取った。丹野の推測は当たったのだ。当の丹野は「むにゃむにゃ」と何か呟いているが意味をなしていない。


「あ、丹野が起きました。代わります」


『お、おう。そうしてくれ。丹野か。身に着けていたベルトやバッグなどはすべて彼女の持ち物だと判明した。指紋はなし。殺された現場についてはまだ未確定だ。ほかに意見があったら教えてくれ』


 自分勝手なものだ。これなら丹野のほうがまだ信用できる。

 これまでの情報から考えれば、被害者は自宅で殺された可能性が高い。いかにも外出した先で災禍にあったかのように見せかけるために適当に装わせたことから犯人はファッションには疎かったと思われる。彼女の夫にはアリバイがある。当夜20時から24時にアリバイのない者、ファッションに疎い者、土地勘がある者、車で死体の運搬ができる者があやしい。

 ぼくのことじゃないか。


『今後は何か気づいたことがあればすぐにおれに話せ。明日はサボるなよ』


「あふは……らめ……ら。しぇんやくが……ありゅ……」


 明日はだめだ、先約がある。野田は脳内で変換した。


『? おい、ヘンなクスリとかやってないだろうな。ろれつが回ってないぞ』


「も、ねりゅ」


『なんて言っ──』


 通話を切った。田西刑事には申し訳ないが仕方ない。今は履けないパンツよりも役に立たない探偵だ。さいわい、ふたたび電話がかかってくる気配はなかった。

 

 リビングに伸べた来客用の布団をポンポンと叩いたが、のっそりと立ち上がった丹野は、まるで気づかずに奥の寝室に入った。


「おい、そっちはぼくの」


「おやふみぃ」


 丹野はベッドに倒れこんだ。ほんの数秒で寝息を立てた相手に、抗議の声は虚しい。もう何を言っても無駄だ。

 一泊くらい好きにさせてやるさ。

 時計を見るとまだ19時を回ったばかりだ。いつもなら仕事をしている時間。心が落ち着かずに何かしていたくてたまらなくなった。

 ブーメランパンツを拾って丸めてゴミ箱に投げ入れる。さよなら過去の野田透和。

 今日は過ごしやすい天候だったのにヘンな汗をたくさんかいた。

 風呂に入ろうかと脱衣所に行くと、洗濯かごが目に留まった。酷く臭う丹野の衣服。一緒には洗いたくない。洗濯欲に一気にスイッチが入った。

 さいわい、備えつけのドラム式洗濯乾燥機は優秀だ。

 衣類を検めたところ、丹野が熊に見えたのは9割方は濃茶のコートのせいだと判明した。肩幅が異様に広い。サイズ表記は6L。6……L? ウール製品だから水洗い禁止。これはゴミだ。横によけておく。

 ほかにはワイシャツとスラックス、黒い靴下とブルーグレーの下着。これらは意外なことに全てブランド品だった。 

 乾燥までは自動で二時間半くらいか。風呂に入る時間は充分にある。

 収納棚から新しいバスタオルとバスマットを取り出す。

 洗面所の鏡におのれの顔が映り、一瞬、はっとなった。


「平凡な容姿か……」


 気弱そうに見える垂れ目。丸みがある鼻。小さめの口。こだわりのない、ただ短いだけの髪型。高校生のとき生活指導員に脱色を疑われた茶がかった色。日に焼けていても疲労が隠しきれていない肌。なで肩のせいで余計に貧弱に見える身体。もともと外側に筋肉がつきにくい体質なのだ。だが肉体労働の成果で体幹は頑丈にできている。30キロの米袋をふたつ抱えて階段を駆け上がることだってできる。


「米袋抱えて走るぼくより花束抱えて微笑むあいつにはかなわないだろうけど、でもお姫様抱っこ競争なら負けない自信あるぞ」


 しかも今日はとくに疲れた。ストレスも感じている。鏡の中の自分が老けて見えたり何か言いたげだったりしても気にすることはない。

 視線をそらした先には収納棚に置かれたままの丹野の手帳。彼の秘密や弱点が詰まっていそうだ。今なら見咎められることはない。少しくらい中を覗いてもいいのではないか。

 だが誘惑はすぐに失せた。田西刑事を喜ばせたくない。

 

 洗濯機の音に合わせて歯を磨き、軽くシャワーを浴びると、身体は眠気を訴えてきた。慣れない来客用布団に寝転がると、乾燥ファンの微かな音が心地よいノイズとなってさらなる眠気を誘った。


 翌朝、目を開くと絶好調の男がいた。

 一瞬、誰だかわからなかった。この男はまた変化していたのだ。

 オールバックに撫でつけていた前髪が今はふわふわのくるんくるんになっている。控えめなアフロだ。天然パーマだろうか。顔はイケているのに髪はお笑い芸人のようだ。


「なんだこの家は?」


「……おはよう」


 時計は朝の8時を指している。寝過ごしてしまったようだ。


「米びつはあるが米が入っていない! 冷蔵庫にあるのは醤油とケチャップとマスタード。賞味期限切れのチョコレートシロップ。あとはビールと脱臭剤。脱臭剤に仕事させろ! 

塩と砂糖もないのか。調理器具は鍋とフライパンがひとつずつ。包丁は錆びている。あるのはカップラーメンとパスタ。しけったシリアルとカロリーメイト。個包装のスティックコーヒー、しかもブラックしかない。何を食べたらいいんだ」


「朝飯でも作ってくれるつもりだったのか。ありがたいけどロクなもんないよ。いつも朝は食べないからね」大きく伸びをする。「身体が凝ってるなあ。もう少し寝てようかな。せっかく降ってわいた休みだもん」


「いぎたなく二度寝するな。今日はおれと一緒に捜査に行くんだ」


「……は?」


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