第3話 迷い
―――
「……っはぁ……はぁ……」
全速力で走って帰ってきた僕は、玄関のドアを閉めた途端ズルズルとその場に崩れ落ちる。
「城田さん……」
彼の名前を呼んだ瞬間、先程の光景が蘇る。
「冷蔵庫にしまわなきゃ。」
ボソリと呟いたけど中々立ち上がれない。僕は天を仰いだ。
忘れたかった。忘れられたらどんなに楽だろうか。
だけどそんな思いに反して、あの時の二人の姿は簡単に脳裏に思い描けるのだった。
「幸せそうだった……」
思わず溢した自分の言葉に自分で傷ついて一人笑った。
「さて、と……」
ようやく重い腰を上げると、僕は荷物を持ってキッチンへと入っていった。
調理台の上に紙袋を置いた時、ガチャンという音がして慌てて中を覗く。
「あ……」
城田さんと二人で使おうとして買ったペアのカップが、無惨にも粉々に割れていた。
また一つ、心の傷が増えた気がした。
欠片を慎重に一つ一つ袋から取り出してゴミ袋へと捨てる。そして食材を冷蔵庫にしまった後、リビングのソファーに体を投げ出した。
「今日は、疲れた……」
悶々と悩んだ挙げ句朝から素っ気なくされ、一生懸命掃除をして買い物に行けば、女性とのデート現場を目撃してしまった。
何というストーリーだろう。今時のドラマでもこんな展開はないと思う。
僕は寝返りを打って天井を睨んだ。そこに城田さんの顔を思い浮かべて。
「眠い……」
突然睡魔が襲ってきた。僕はもう一度寝返りを打った。
寝て起きたら全部夢だったっていうオチにはならないだろうか。
もう、何も考えたくない。忘れてしまいたい。そんな思いを胸に僕はゆっくり目を閉じた。
―――
「……い……おい!」
「は、はい!」
誰かの呼ぶ声が聞こえて僕は跳ね起きた。
外はすっかり暗くなっていて、消えていたはずの電気は煌々とついている。
「あれ?……っ!」
キョロキョロと辺りを見回して凍りついた。
「……城田さん」
城田さんがソファーの脇にしゃがんでいたのだ。おそらく彼がかけてくれたのだろうブランケットがするりと足元に落ちた。
「何で……いるんですか?」
「仕事が終わったから寄ろうと思って電話をしたんだが、何度かけても出なかったから来てみたんだ。」
「そうだったんですね。すみません……」
「いや。」
彼はいつものように素っ気なく言うと、僕が起きて空いたスペースに座った。
「コーヒー淹れますね。」
「あぁ。」
僕の言葉に短く返事をすると、カバンから分厚い本を取り出して眺め始めた。
「ふぅ〜……」
彼のそんな様子を見ながら、僕はため息を吐いた。
『彼女はどうしたのか。』なんて口が裂けても言えない。『どうして僕のところなんかに来たのか。』なんて情けなくて聞けない。
僕の心は割れたカップと同じように粉々で、泣きたくなった。
「城田さん。」
「何だ。」
「今日ってずっとお仕事でしたか?」
「……あぁ。」
「何時まで事務所にいました?」
「午前中は外出したが、午後からはずっと事務所にいた。最後の客がしつこくてな。ついさっき出てきたんだ。」
「そう、ですか……」
「お前は休みだったんだろ?何してたんだ?」
「掃除してました。」
「そうか。」
一瞬だけ目が合った後、彼の視線は再びその本に注がれた。
「はい、出来ましたよ。」
彼の元に行き、淹れたてのコーヒーをテーブルに置く。彼はチラリと僕を見るとコーヒーに口をつけた。
―――
彼は僕の事を名前では呼ばない。一度だって。
『おい』とか『お前』ばっかりで、まるで長年連れ添った夫婦みたいだ。でも実際はそんなもんじゃない。仲が冷え切った仮面夫婦だ。
「おい。」
「何ですか?」
「何か最近、元気がないな。また何か悩んでるのか?」
「え?あ、いや、あの……」
「俺に言えない事なのか?」
城田さんの顔色が変わる。怒っているような表情。僕は下を向いた。
言える訳ないじゃないか。貴方の事で悩んでいます、なんて。
しかも浮気を疑って、自分の方がそうなんだと気づいてしまったから、だなんて……
「大丈夫。ちょっと疲れてるだけです。」
「本当か?」
「はい。だから、心配しないで。」
無理に笑って言うと、城田さんは一瞬だけ眉を顰めた。
「そうか。何かあったらすぐに俺に言え。いいな。」
「はい……」
鋭い視線が僕を射抜く。僕は小さく返事をするので精一杯だった。
―――
「シャワー、借りるぞ。」
向かいのソファーに座ってコーヒーを飲んでいた僕に城田さんの声が降ってくる。慌てて顔を上げると着替えとタオルを持った彼が見下ろしていた。
「あ、はい。湯船にお湯溜まってるのでゆっくりしてきて下さい。」
「あぁ。」
スタスタとお風呂場に向かう城田さんの背中を見ていた僕は、ホッと息をついて強ばっていた体から力を抜いた。
今日の出来事の影響か、城田さんの前だと妙に緊張する自分が滑稽に感じる。飲む気がしなくなったコーヒーをシンクに捨てると城田さんの分のカップと一緒に洗った。
本当は今日から新しいカップで飲むはずだったコーヒー。割れた欠片が入ったゴミ袋を複雑な表情で見た。
「お湯加減どうでしたか?」
「ちょうどよかった。」
「そう、良かった。ビール飲みますか?」
「明日も早いんだ。今日はいい。」
「そうですか。」
冷蔵庫から取り出してみせたビールに城田さんは首を振る。僕はそのまま冷蔵庫にしまった。
「お前は飲めばいい。」
「いえ。僕も今日は飲む気分じゃないので。」
「そうか。」
頭にタオルを被ってソファーに座った彼は、今度は携帯をカバンから取り出す。
一部始終を見ていた僕は水滴を丁寧に拭いたカップを棚にしまいながら深呼吸した。
彼女からのメールでも読んでいるのだろうか。彼の表情がふと和らいだ気がして、また胸が傷んだ。
「じゃあ僕も入ってきますね。」
そう声をかけると、『あぁ。』という短い返事。
一旦着替えを取りに寝室に行くとお風呂場に足を運んだ。
「どうしよう……」
シャワーを頭から浴びながら呟く。
彼に本命の彼女がいた事を知った今、選択肢は二つ。知らないフリをしてこのままの関係を続けるか。全部話して自ら別れを告げるか。
僕は迷っていた。女性ならいっそ諦めもつくと考えていた昨日の自分を殴ってやりたい。きっと相手が誰であっても、同じように傷つくんだと思った。
だけどこのままこの関係を続けたとして彼は僕を愛してくれるだろうか。半年も付き合っていてキスはおろか手も握ってくれない、名前も呼んでくれない人が果たして僕を想ってくれるだろうか。
そんな事を考えてしまう自分が酷く哀れに思えて、僕は目を瞑った。
―――
「もう寝るんですか?」
「明日早いと言っただろ。」
お風呂から上がると、城田さんが客室に入るところだった。僕の問いかけに対していつもの口調で答えるとさっさと部屋に入ろうとしたから慌てて呼び止めた。
「城田さん!」
「何だ。」
面倒くさそうに振り向く彼。その強い瞳に見つめられて、思わず怯んだ。
「あの……おやすみなさい。」
「あぁ。」
微かに頷くと踵を返して部屋に入っていった。
「はぁ〜……」
力が抜けた僕はソファーに沈み込む。そして頭を抱えた。
何を言おうとした?何を聞こうとした?
自分の中でまだ答えが出ていないまま、何かを口に出しそうになってしまった。
一度大きく深呼吸すると彼が消えていったドアを睨んだのだった……
―――
迷っているのは、貴方への愛が日常より勝っているから。
愛を捨てて昔に戻るだけなのにこんなにも辛いなんて。
どうして僕だったのだろう。僕が告白したから?受け入れてくれたのはカウンセリングの一環なの?
悪いのはどっち?玉砕覚悟で告白なんてしてしまった僕なのか、それに簡単に答えた貴方なのか。
迷っているのは、もしかしたらという浅はかな願望。
愛を捨てて僕を選んでくれる事を願っていた。
どうして僕だったの?愛を確かめる事もない。言葉にも出してくれない。
悪いのは貴方。優しいけど、冷たい貴方。
愛を捨てて貴方のいない世界に戻る事がこんなにも辛いなんて……
悪いのは貴方。いいえ、悪いのは全部僕。
貴方を愛してしまった僕なんだ……
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