黒沢貴史のこと(注:この章も、こちら側の世界の話です)

 大久保清孝オオクボ キヨタカは現在、派遣社員をしている三十三歳の男だ。地味な顔立ちであり、体もさほど大きくない。全てにおいて、普通の男である。特に関心を惹くような経歴があるわけでもない。

 そんな彼は今、天田士郎と名乗るルポライターから取材を受けている。正直言うと、清孝は取材など受けたくはなかった。訳あって、静かに波風立てず生活したかったのだ。

 だが、士郎のこの言葉は無視できなかった。


「黒沢貴史さんについてお聞きしたいんですが……お時間いただけませんか?」




 清孝は、士郎と共にカラオケボックスに入った。

 士郎は部屋に入ると同時にソファーに座り、こちらをじっと見つめていた。どこか不思議な雰囲気の男である。中肉中背、自分と同じく地味な顔立ち。人ごみの中に入ったら簡単に紛れこんでしまえるタイプだ。取り立てて注目すべき点は見られない。

 にも関わらず、清孝は違和感を覚えた。それが何なのか、はっきりはわからない。しかし、他の人間とは違う強力な何かを感じる。その感じは、誰かに似ていた。


「大久保さん……いや、あえて清孝さんと呼ばせていただきます。私はね、貴史さんについて色々とお聞きしたいんですよ」


 言いながら、名刺を渡してきた。同時に、ニヤリと笑う。なぜか知らないが、その笑顔は清孝を不快にさせた。同時に不安にもさせる。こんな嫌な笑顔は、これまで見たことがない。


「貴史とは、ここしばらく会ってないんですよ。どうしたんです? あいつは何かやったんですか?」


「何かやったんですか、とはどういう意味です?」


 その目に好奇の色を浮かべ、士郎は聞き返す。


「いや、聞いているのはこっちなんですが」


 清孝はさらに不快になった。目の前の男は何も教える気がないのか。人に質問だけしておいて、こちらの質問には答えない気なのだろうか。

 すると、士郎の態度が変わる。


「まあまあ、そんな怒らないでくださいよ。私の知る限り、貴史さんは特に悪さはしてませんよ……こっちではね」


「待ってください。こっちではって、どういう意味ですか──」


「いい加減にしろ」


 士郎の表情が、またしても変化した。と同時に、喉に強靭な指が食い込む。士郎の手のひらが、清孝の喉を掴んでいたのだ。清孝は声にならない悲鳴を上げながら、全力で指を外そうとする。が、士郎の指は離れない。


「オレは知ってるんだよ……貴史とあんたがどんな人間だったか。本当は、あんたなんかに聞く必要はないんだ。ただ、どうしても確かめておきたいことがある。十七年前の事故について、教えてくれないかな?」


 言い終えると同時に、士郎は手を離す。同時に、士郎のまとっている雰囲気も変わる。不気味で危険、しかし、どこか懐かしい……。

 清孝は逆らうことができなかった。無論、怖かったせいもある。だが、それ以上に士郎の雰囲気は無視できないものがあった。かつて、共に地獄を生き延びた友人と同じ何かを感じるのだ。その何かに促されるかのように、清孝は語り始めた。


 ・・・


 大久保清孝と黒沢貴史。

 ふたりは一時、有名人になりかけたことがある。飛行機が墜落するという大きな事故を生き延び、さらにアフリカ大陸を横断し奇跡とも言うべき生還を遂げたのだ。

 しかし、マスコミはふたりを取材しようとはしなかった。それは、彼の奇行ゆえである。

 帰国直後にテレビカメラを向けられた時、貴史はゲラゲラ笑い出した。狂気すら感じさせる笑い声だ。

 次の瞬間、信じられないことが起きる。貴史は、テレビカメラの前でいきなり服を脱ぎ、全裸になったのである。

 それだけではない。さらに皆の前で放送禁止用語を叫びまくり、最後にこう締めくくった。


「どうですか皆さん! こんな男のことを、そんなに知りたいんですか!」


 言うまでもなく、彼らふたりへの取材は中止となった。




 黒沢貴史と大久保清孝、そして中嶋尚美ナカジマ ナオミは幼なじみである。家が近いこともあり、三人は家族ぐるみの付き合いをしていた。

 その日、黒沢家と大久保家と中嶋家は、家族全員で飛行機に乗っていた。三人が高校に入学したお祝いに、アフリカへと旅行に来たのである。

 だが悲劇が起きた。空港からは遥か遠い場所で、飛行機はいきなり急降下を始めた。そして墜落する。

 後にわかったことだが、この航空機の機長は心身症を患っていたらしい。妄想からの幻聴……その幻聴の指示による意図的な操作ミスが、事故の原因だと言われている。


 アフリカ大陸のど真ん中で飛行機は大破、乗員乗客合わせて三百人以上が死亡した。だが事故の直後、三人は生きていたのだ。貴史と清孝はあちこちにケガを負いながら。そして尚美は両足が千切れた状態で……。

 尚美は激痛のあまり、狂ったようにわめき続けた。痛い、痛いと……さらには殺してくれと、痛みから解放させてくれとも叫んでいた。

 すると、動いたのは貴史だった。彼は尚美の首に両手を掛ける。その瞳からは涙が溢れている。しかし口元は歪み、笑い声が洩れていた。


 ・・・


「笑っていたんですか、貴史さんは?」


 士郎が尋ねる。彼はボイスレコーダー片手に、真剣な表情になっていた。その瞳は、どこか悲しげでもある。

 一方、清孝は口元を歪めた。


「あんたは、わかっている人かと思ったんだがな。ホラー映画なんかだと、キャラの異常さを演出するために笑いながら人を殺したりするよ。でもな、笑いながらじゃないと出来ないこともあるんだ。笑うことで、心のいろんな部分を麻痺させなきゃあ……笑うことで、これは大したことじゃないって自己暗示をかけなきゃ、あんなことは出来なかったよ。自分の好きだった女を殺すなんてことは……」


「好きだった?」


「そうだよ。貴史は小学校の頃から、ずっと尚美のことが好きだったんだ。そんな女が両足潰されて、痛みのあまり殺してくれって泣きわめいてるんだぜ……オレは何もできなかった。ただ震えながら見てることしか出来なかった。けど、あいつはやったんだよ。惚れた女の、最後の願いをな」


「そうでしたか。話の腰を折ってすみません。では、話を続けてください」


 士郎に言われ、清孝は再び語り出した。


 ・・・


 だが、悪夢はまだ続く。

 夜になり、集まってきたのは夜行性の肉食獣の群れである。火を焚いているふたりの周りで、死体を漁り始めたのだ。肉食獣を遠ざけるため、ふたりは一晩中火を焚き続け、交代で見張った。

 朝になり、清孝は日の光の眩しさで目覚めた。ふと見ると、貴史が何かを食べている。

 それは尚美の体の一部だった。無言のまま、かつて尚美だったはずのものを口に運んでいる──

 清孝の視線に気づくと、貴史は笑った。

 哀しい笑顔だった。


「ほっといたら、尚美は獣に食われちまう。獣に食われるくらいなら……オレが食う」




 その後、ふたりは歩き始めたのだ……日本に帰るためである。

 この少年たちの行動は、完全に間違いだった。本来ならば飛行機の墜ちた場所から動かず、助けを待つべきだったのだ。しかし、ふたりは動いてしまった……広大なアフリカ大陸を。

 これは最悪の選択である。ふたりの少年が生還する可能性は万にひとりもない。不可能なはずだった。

 ところが、貴史と清孝生き延びる。無事、日本に帰還したのだ。


 ・・・


「貴史は、日本語で交渉しやがったんだ。恐ろしい奴だったよ。オレなんか、ビビって何もできなかったのに。貴史は、銃で武装した山賊みたいな連中を相手に、日本語で交渉しやがったんだ。テレビ局も取材できないような、本当に危険な連中相手にな。あいつは化け物だった」


 いつの間にか、清孝の顔が青ざめていた。当時の記憶が鮮明に甦ったのだ。

 目の前に現れたのは、理解不能な言葉で喚き散らす危険な男たちだった。銃を構えた彼らは、本物の殺気を放っていた。だが、貴史は自分の前に立ちふさがり、身振り手振りを交えて日本語で叫び続けたのだ。

 無論、日本語など通じるはずもない。だが、奇跡が起きた。彼らは奇妙な表情を浮かべながら、武器を下ろしたのだ──




 話を聞いていた士郎は、真剣な表情で口を開いた。


「これはオレの推理だが、貴史には異能の力が眠っていたのかもしれない。相手に自分の意思を伝え、そして相手の意思を読み取る力がな。それが、極限状況で目覚めちまったんだろう。ガイみたいな、腕力ではない特殊能力がな」


「ガイ?」


「ああ、すまん、こっちの話だ。とにかく……仕方ないとは言え、自分の好きだった女を絞め殺し、その肉を食った。その瞬間、人間としての大切な何かを捨て去ったんだろうなあ。その結果、得た力……そんなの、オレは欲しくないね」


 士郎はそう言って、肩をすくめる。


「貴史はあの時、本当に凄かったよ。銃で武装した連中が、目を白黒させてたんだぜ。オレたちが生き延びられたのは、運が良かったせいだが……その運を活かせたのは、貴史の力だよ」


 淡々とした口調で語る清孝の顔には、奇妙な表情が浮かんでいる。


「なるほどな。で、日本に帰って来てからはどうだったんだよ?」


「日本に帰ってからは、会う回数が減っていった。いや、会いたくなかったんだ。顔を合わせると、思い出しちまうんだよ……あん時のことを」


「あんたにひとつだけ教えるよ。今は何してるか知らないが、つい最近まで、輸入代行の会社をやってたらしいぜ。そこで一度、社員が南米のゲリラに拉致されたらしいんだ。ところが、貴史はゲリラ相手にヘラヘラ笑いながら交渉したらしいぜ。最後には、奴らとロシアンルーレットまでやらかして、人質を解放させたって話だ。南米のゲリラも、その度胸に免じて安い身代金で人質を解放したらしい。それ以来、ヤクザ連中も一目置くようになった。裏社会じゃ、有名だよ」


「そんなこと、奴には朝飯前さ。価値観が根本的に違う、アフリカの原住民との交渉に比べりゃあな。最後に会った時、あいつは鍋やコップ、それに調味料なんかがごっそり入ったスポーツバッグを持ってた。いつ、どこで遭難してもいいように常に持ち歩いてるんだって……笑えるだろ」


 そこで清孝は言葉を止め、両手で顔を覆う。

 直後、体を震わせ泣き出したのだ。


「どうしたんだい?」


「オレは奴が怖かったんだ。貴史は、怒りも泣きもしなくなった。いつも笑ってる、ぶっ壊れた男になっちまったんだ。オレは、奴が怖かったんだ。オレは、貴史から逃げた」


 清孝は涙を流しながら、途切れ途切れの言葉を発する。言い終わった後、嗚咽を洩らしながら床に泣き崩れてしまった。


「オレには分からんが、貴史は笑い続けてないと自分を保てなかったんじゃないかな。とりあえず、これは取材費……みたいなもんだ。あんたに渡す。これで代金払っといてくれ」


 士郎は封筒をテーブルに置き、泣き崩れる清孝を置いたまま出て行った。




 その夜。

 清孝は車を降り、ひとりで近所にある潰れた病院の跡地に入り込んだ。

 明日は仕事を休むことになっている。さんざん嫌味を言われたが聞き流し、謝り続けた。そんなものにいちいち腹を立てている場合ではない。ここしばらくは我慢していられたのだが、もう無理だ。

 あいつが悪い。あの天田士郎とかいうルポライターさえ来なければ……あいつが来て、昔のことをほじくり返していった。そのせいでまた、病の発作が起きてしまったのだ。最後に発作が起きたのは一月前だ。間隔をもっと空けなくてはならないのに。

 不意に、誰かの視線を感じた。清孝は立ち止まり、周囲を見渡す。誰かがいる。こちらを見ている。こんな場所で、なぜ隠れているのだろう。ひょっとしたら、自分と同じ目的のためではないか。


「いやあ、懐かしいねえ徳川病院。若かりし頃、ここでヤクザとモメてさ……まさか、あんたがここに来るとはね」


 言葉とともに、物陰から姿を現したのは士郎だった。昼間に会った時とは違う匂いを発している。どうやら尾行されていたらしい。

 だが、そんなことはどうでもいい。思った通り、この男は自分と同類だった。


「やっぱり、あんたも同類だったんだね」


 清孝は笑った。と同時にカミソリを取り出す。理髪店などで使う、折り畳み式の物である。彼は、このカミソリで人の喉を切り裂いて殺すのが、たまらなく好きなのだ。ここに来る前に、既にひとりを餌食にしている。死体を解体し、用意した薬品で溶かすためにここに来た。まさか、ここで二人目に遭遇するとは。


 大久保清孝は何もわかっていなかった……目の前の男の強さを。昼間に首を掴まれ、わずかながらでも強さの片鱗に触れたはずなのだが、カミソリを持った時点で既に判断力が低下していたのだ。

 清孝はカミソリを振り上げ襲いかかる。だが振り上げた瞬間、士郎の左手が飛ぶ──

 次の瞬間、清孝のカミソリを握った右手首を士郎の左手が掴んでいた。さらに強い力でねじ曲げられ、カミソリを落とす清孝。

 そして、士郎は清孝の右腕を伸ばしながら肘関節に力を加え──アームバーという関節技だ──一気に破壊する。

 清孝の悲鳴。士郎はそのまま彼を突き飛ばした。病院の床に這いつくばる清孝……次の瞬間、土下座を始める。


「た、助けて下さい! お願いです!」


「あんた見苦しいぜ。人を殺すんだったら、殺されることも覚悟しとけよ。オレもあんたと同じ人殺しだ。ただ……オレが殺すのは、あんたみたいな人でなしだけだ」


 士郎は氷のような目で、清孝を見つめる。


「人を殺せば、そいつも殺されるんだよ」













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