第2話

「今日はフォルメイの所という話じゃなかったか」

(出たな)

「予定は未定って格言、ご存知ありません?」

「知らん」

「不勉強では?」

「馬鹿か。私が知らぬ以上、そんな格言は存在しない」

「……」

 正解。格言というより、庶民の知恵に言葉遊びが加わって生まれた言葉というところだろう。けれど、轟然とそう言い切った上、人を馬鹿扱いする神経が今日も癇に障る。


 うんざりとした顔で、シェルヴィは花壇に所狭しと植えられたセクレドダチュラから、目だけを斜め後ろへと移した。

 丁寧に磨かれた頑丈そうなブーツ、その上に黒のボトムス。金銀の糸で縁取りのある長めの上衣は深い緑で、裾は飾り細工の施された皮製のベルトで抑えられている。腰にあるのは「そんなんで本当に実用に足るの?」と訊きたくなる宝飾品のような長剣だ。

 細身に見えるだけで、鍛えられていると服の上からでも分かる胸と肩は、騎士という肩書きが伊達じゃないと、頼んでもいないシェルヴィにまで教えてくれる。

 その上、仰ぎ見なくてはならないほど高い位置にあるのが、浅黒く焼けた顔。精悍と騒がれるだけあって、首も顎も引き締まっていて、形のいい薄めの唇は、いつもムカつく笑みを湛えている。もっとも人によっては“余裕のある笑み”ということになるらしいが。

 何より印象的なのは、風にさらさらと揺れる白金の髪と、抜けるような空色の瞳。

 彼を前にする度、「一流の彫物師が、技術の粋をもって彫像を作ったとしても、彼ほど美しくはならない」と騒ぐ世間の人々に、シェルヴィも同調しそうになる――その中身を知らなければ。


 シェルヴィは盛大に溜息をつく。

 本当なら立ち上がって、礼の1つも取るべきだが、そんな気分になれる訳もない。さりとて、変に捻くれても、相手は王子様だ。嫌味も常識も通じず頭にくるだけ、と自身に言い聞かせた。

「予定が変わったのです。ここはラズフィード殿下がおいでになるような場所ではありません。せっかくのご衣装が土に塗れます」

「騎士団での稽古着が汚れたところでなんだと言うんだ」

「……」

(悪かったわね、稽古着とその他の服の区別もつかなくて)

 睨んだ先――数年中に引退するだろう王弟の跡を継いで、騎士団長に就任すると見られている、この国の王の3男は、全く表情に変化を見せない。それがまた憎たらしい。


 倦怠半分、諦め半分に、シェルヴィは顔を薬草に戻す。そして、青みの強い緑の茎を人差し指と親指で挟み、八つ当たり気味にぐっと引きちぎった。棘による痛みの後に、青臭い香りと微かな血の匂いが周囲に散る。

「?」

 横から伸びてきた長い腕に、いきなりその手を捕まれた。

「許可なく体に傷をつけるな」

「……」

 掴まれている手の感覚と、普段より数段低い声に、頭が真っ白になる。

(きょかって、許可? 誰の……って、)

「っ、殿下の許可が必要な体ではありません!」

 何様!? というか、誤解を招く言い方をしないでください!と続けて叫びそうになるのを、辛うじて飲み込みつつ、シェルヴィはばっと自分の手を奪い返し、胸元で握り締める。そして、慌てて周囲を確認した。

(冗談じゃない。こんな辺鄙な場所で、かの『ラズフィード様』と話しているだけでも面倒なことになりかねないのに、そんな台詞を誰かに聞かれたら最後、袋叩き決定だわ)

 視界の隅に入る整った顔の眉根が寄った気がする。

 それはそれで問題だけど、切実さは同じ。王族の不興を買ってひどい目に遭うか、周囲皆の不興を買ってひどい目に遭うか――現実問題、後者の方が恐ろしいことは珍しくない。


 長い息の音に続いて、再び手を奪われた。そのまま上方へと引かれていく。

「……?」

 疑問を覚えて、顔を向ければ、眉を顰めたラズフィードが、シェルヴィの草汁と血で汚れた手袋を取り去ったところだった。

 外気に曝け出された指先に触れようとしているのは唇。色味のない冬の薬草園で、薄く開かれたその唇の合間から覗いた赤色がひどく目に付いた。

 ――それこそが麻痺の魔法であるかのように。


 赤い裂け目から、若干色味の薄いものが出てくる。

「……」

 呆然とするシェルヴィの目の前で、柔らかくて温かいそれが、指に触れた。湿った感触を残しながら、傷口を撫でていく。時折指を変えて、確かめるように、何度も、何度も。

「……っ」

 動きに応じて、ゾワリと全身が粟立つ。自分の体がびくびくと勝手に震えているのも分かる。体表に血が集まって来るのも。

(……ナ、ニガ、オキテ……)

 与えられる感覚に頭を支配され、思考を失う間に、温かく濡れたそれは、少しだけ指から離れた。

「……ぁ」

 その舌の主は、奪ったままのシェルヴィの手の甲の向こうで、不意に口角をスッとあげた。その上にある、空の瞳は射るようにシェルヴィを見ていて……

「色も味も変わらないのだな――魔女であっても」


 ――マジョ、デアッテモ。


「っ」

 一瞬で硬直と紅潮を解くと、シェルヴィは握られていた手を乱暴に振り解く。そして、晴れた空の瞳をぎっと睨みつけた。

「……随分なお戯れですこと」

「戯れてなどいない」

(じゃあ、悪趣味ってはっきり言われたい?)

 悪びれる様子もなく、素で返してくるラズフィードに、シェルヴィはこめかみに青筋を立てた。

「いいえ、お戯れに決まってます」

 だが、怒鳴ってやりたいのをぐっと抑えつけ、シェルヴィは引きつった笑みを浮かべる。

(不自然に動揺するな、隙を見せるな、ボロを出すな、尻尾を掴ませるな――フォルメイ先生にまで迷惑がかかるでしょう?)

 先生の煌々と光り輝く禿げ頭を思い浮かべて、シェルヴィは気を落ち着ける。あの神々しい輝きは、先生の好々爺然とした顔の造りと、言動の割に親切な(気がする)内心と相まって、不思議な鎮静作用がある。シェルヴィには。


 一石二鳥でこれ見よがしに大きく息を吐き出すと、シェルヴィは困ったように笑って見せた。

「何度も申し上げている通り、私は魔女ではありません」

「ローデルフの出だろう」

 ラズフィードは、ローデルフ族の証とも言うべき、シェルヴィの長い黒髪を1房、長く節くれだった指に絡める。

「ローデルフ族が魔女ということ自体、根も葉もない流言です。実際は偶々古い森に居ついた、単に薬業を生業とする一族です」

 シェルヴィは、自分の髪の根元を引くことによってその房を奪い返した。

「だが、先代クールマウ教皇帝は、その“単なる”薬師一族の里をわざわざ滅ぼした」

 広大なローデルフの森を挟んで東に位置する国の第3王子は、同じく西にある宗教国家が50年ほど前に引き起こした惨事を口にする。

「それこそ単なる愚か者だったのでは?」

 平静を装っているつもりだが、辛辣さを隠せているか、自信がない。


 正確には51年前のことだ。シェルヴィの祖母を含め、ローデルフ族は住み慣れた森を焼き払われ、過半を虐殺されて、各国へ離散した。

 悲劇はそれだけに留まらなかった。この大陸の多くの民は、クールマウ教に帰依している。教皇国を逃れても、教皇としての地位を利用した布達により、ローデルフ族への執拗な迫害は続いた。

 先代教皇が退位した後も、魔女だから神の使いである教皇に故郷を追われたと流布され、生業である薬業で人を救えば魔道の技、救えなければ患者は贄にされたと罵られるという具合に、今なおローデルフ族は差別に喘いでいる。

 教皇国と水面下で対立していて、薬師としてのローデルフ族の価値を認め、陰に保護しているこのアジナイラ国ですらそうなのだから、クールマウ教の影響が強い地域の同胞たちの惨状は、言わずと知れたものだ。


「退位したとはいえ教皇を愚か者呼ばわりとは、中々言う。確かに最悪な言いがかりだな――大半の者にとっては」

 口元を緩め、くつりと笑ったラズフィードの様子を、シェルヴィはそうとばれないよう慎重に窺う。今彼が口にした「大半の者」という部分に反応すべきか否か――肯定は論外、否定も足がかりになる。

 瞬時にそう判断すると、シェルヴィは訝しげな顔を作り、ラズフィードを見つめた。

「……」

 空色の目に含みを持たせつつ、彼は無言でシェルヴィをじっと見つめ返してくる。この人のこういう所が大嫌いだ。

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