鴉 144

「ちょっと〜ふたりして固まんないでよ〜」






 天狗の声が遠くに聞こえる。






 すごいな、これ。こんな気持ち。






 感情の波に飲まれながら、それでもどこか他人事のように思う自分も居た。






 感情の波。



 もし光が時間を戻すって選択肢を選んだらって。そう考えただけで。






 イヤだ。



 普通に、当たり前みたいに思った。イヤだ。そんなのイヤだ。そんなこと。






 時間が戻るってことは、俺の世界がまた天狗と天狗山だけになるってこと。



 俺の世界から光が消えるってこと。



 この、光に対する何て呼んだらいいのか分からない気持ちが、光が来てから知った俺の中の色んな気持ちが全部。



 全部、消えるなんて。






 そんなの。






「鴉」






 光が向かい側から俺を呼んだ。






 光。






 俺が拾った小さいの。



 拾ったからには責任を持って面倒を見ようって。大事に。俺が天狗にしてきてもらったように。



 できてるかは分からない。正直難しい。でも、それなりに。俺なりに。






 それが消える。全部消える。



 消えたことさえ消えて。






「………何で、泣くの?」






 光に言われて気づいた。泣いてるって。



 気づかないうちに泣いてた。想像だけで。






 まだ光は何も答えてないのに。






 俺は袖で涙を拭いた。何でもないって。






 決めるのは俺じゃない。



 決めるのは光。



 俺はそれを。






 聞くだけだ。






「ゆうちんとゆっきーには許可取ってるから、今から見に行ってみる?」

「今から?何を?」

「血桜」

「………え」

「………」

「こないだよりまたもうちょっと咲いて、本当にあとちょっとで満開なんだって。ちなみに正式に使用許可ももらってる。どう使ってもいいって」






 光は黙った。



 進んでく話に困惑してるようにも見えた。



 色んなことに迷ってるようにも。






 台所は静かになった。恐ろしく静かだった。



 誰も何も言わない。



 誰もぴくりとも動かない。






 すべては光の答え、だから。






「………どこまで戻ったら、母さんは死なずにいてくれるんだろう」






 どれだけかの静寂の後に、光がぽつんってつぶやいた。






 光は。



 戻る気なのか。






 がつって2回目の衝撃。






 イヤだ。そんなの。






 俺がどんなに思ったところで。






 普通に考えれば、そんなことができるならそれを選んで当然だ。



 光はこの山にその命を捨てに来た。自ら命を断とうって思うほどの目に遭った。



 母親の死に始まって、もう生きていたくないって思うほどのことがいくつも。






 それがリセットできる。される。願うだけで。



 そんなの。






 俺が思ってることはひどいことだ。残酷だ。



 時間を戻さないでくれってことは。






 自ら命を断とうとしたほどひどい目に遭った光で居てくれってこと、だから。






「もしそれを………ぴかるんのお母さんが死ぬ選択をしないぐらい戻ってって願ったら、ぴかるんが生まれない可能性大だよね」

「………え?」

「自ら死を選ぶほど絶望した人の絶望感を打ち消すとしたら、まったく違う人生にならなきゃ無理だと思うよ。そもそもからのやり直しが必要なレベル」

「………そもそも、から」

「違う親から生まれてまったく違う育てられ方をして、ぴかるんのお父さんじゃない人と結婚して子どもを産む。………それはもう、ぴかるんのお母さんじゃないよねって、ぐらいそもそも」

「そこまでしないと無理?」

「少なくとも死んじゃう少し前に戻った程度では9割以上難しいと思う。ぴかるんなら分かると思うけど、絶望って………蓄積でしょ?」






 光がまた口を閉ざした。



 思ったより簡単には行かなそうで。



 思った以上に、難しそうで。






「………俺は光がいい。今目の前に居るこの光が」






 俺が言ったところで。






 なのに。






 言わずにはいられなかった。口がもう言葉を発してた。



 ひどいことだ。ひどすぎる。この光イコールひどい目に遭った光、なのに。






「………鴉」






 ほら。



 ダメだ。言ったら。






 光がめちゃくちゃに、悲しい顔をした。

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