不透明な自殺

tete

第1話

*****


自称幽霊「宮本」は自殺したいと言った


苦悶な表情でもがき抗うように


ひどく人間らしい演出で彼女は動かなくなった―






鯖の塩焼きとインスタント味噌汁の入ったビニール袋を片手に、ふらふらとオートセキュリティの番号を押した。

ヴィーと機械音がして自動ドアが開く。

上には真っ黒なコートを羽織り、蛍光色のジャージは高校で使っていたものだ。


今は何時だろう。


日が出ていないせいで朝なのか昼なのかすらもわからないが、確認する必要もない。

実に2日ぶりの朝ごはんである、今が朝ならば。




2階への階段を一つ一つ踏みしめるように上がっていく。

昨日の雨でできたであろう水たまりが通路を塞ぐように広がっていた。

濡れるのは嫌だ。

しかしそれ以上に飛び越える元気もなかった。

203、204、205、と通り過ぎていき、206は自分の部屋だ。




住人が部屋を出るところをほとんど見たことがない。

しかし半分くらいは自分に非があることを知っていた。

弁当やスナックを買いに行くこと以外に出る用事がなかったら

当然人に会うこともないというものだ。

その上最近は1日に1回食べたら良いほうだと思っている。

右隣に関しては一度だって顔を合わせたことはない。




鍵はかけていない。

ゴウンゴウンと洗濯機のうるさい音。

玄関の半分を占領するパンパンのゴミ袋。

部屋に散らばる崩れた段ボールの山。


そして後ろ姿の


ゴミ袋を出し忘れたことが悔やまれたが、それは「そんなこと」で済むような些細なことだったのだろう。

どれだけ目を見張っても後ろ姿の少女に身に覚えがなかった。






玄関で見つめる僕。

凛と立つ少女。

扉が静かにパタリと閉まると、少女は驚いたようにこちらを振り向いた。

容姿が良く、まるで今起きたと言わんばかりの青いパジャマ姿だった。

アシンメトリーな髪形と大きな目が特徴的なその少女は、ポカンと口を開けたままこちらを見ている。

「え、ちょっと…」

少女は目を泳がせ、小さな会釈をした。

反射的にペコリと会釈をしてしまったがそれどころではない。

「ど、ちらさまで…?」

顔を上げこちらを向いた彼女は言いづらそうに髪をなぞるだけだった。

とても整っている顔立ち。

歳は大して変わらないだろうから、20そこらと思われる

正直可愛い。

それゆえに「不審者」「通報」という考えは浮かばなかった。

少女が口を開いたのは数秒間の沈黙の後のことである。

住人です、206号室宮本です」




元?元住人ってなんだ?

「えーっと…そうではなくてですね

そうだな…ここ僕の部屋なんですが」

『宮本』と名乗った少女は「んん…」とあからさまに悩んでしまった。

悩んだ末に彼女は何か諦めるように言い放った。


「幽霊です、ご心配なく」

「は?」


焼き鯖の入った袋が地面にバサッと落ちる。

幽霊ですか…そうですか…。

…。

夢か幻想か、はたまた幻覚か。

危ない薬に手を出した覚えはなかったが、疲れとストレスには自信があった。

優しめの悪夢を見ている補償は十分だ。

そうしている間にも空腹と疲労が作り出した少女はこちらへゆっくりと歩いてくる。

躊躇もなく、歩いてくる。

『可愛い』という感情はどこかへ置いてきてしまった。

『幽霊』、『少女』、『接近』という状況は、背中に冷や汗をかくのに十分すぎるほどの恐怖感を与えた。

本能的な危機感で近くにあった包丁へと手を伸ばす。


ところがである


しかし少女はそれを見て「えっ‥?」と明らかに怯えた様子で立ち止まったのだ。

幽霊なのに?

目線が確かに刃物を見ていた。

立ち止まり少し後ろに後ずさりする。

と、そのとき地面に放置されていた段ボールにつまずき彼女は体制を崩してしまった。

情けなくベッドに倒れ、ボフンと跳ねた。


躓く…?


その様子を黙ってみていた。

そしてひどく冷静に、しっかりと包丁を握った。

感じたのは違和感。

空腹で回らないはずの頭が1つの事実を導く。

彼女は嘘をついている。




「宮本さん」

少女は硬直した顔で、ボクの顔と包丁とを行ったり来たりして見つめている。

包丁の先はしっかりと彼女を指していた。

「本当のことを言ってください。

どうしてここに入ったんですか?」

「本当です、本当にベッドで目覚めたらここだったんです」

「ベッドでって…」

靴を脱ぎ捨てた。

刃の先から雫が落ちる。

「ちゃんと本当の理由を話してください、危ないことじゃなければ見逃すので」

彼女はうんともすんとも口を開こうとしない。

「段ボールで躓いてましたよね、そのあなたが倒れているベッドも」

彼女の座っているベッドを指さす。

「あなたの座っている部分が重みをもって変形してる。

それはですよね」

指摘をしても彼女は固まったまま動かないままだった。

「そもそも幽霊だったら包丁で怖がることはないんじゃないですか」


言い終わるよりもはやく、彼女はカタカタと震えだした。

口元がキュッと結ばれ、そして不気味にニコリと笑った。

そしてクスっと堪えきれないように彼女は声を出して笑ったのだった。


「ごめんなさい、でもあなた幽霊のこと何もわかってないんですね」



*****



「どういうことですか?」

少女はベッドに座り直した。

人差し指を立て彼女は言った。

「その前に包丁を置いてください、お願いします」

言われた通りにすると安心したように話し出した。

「幽霊には重さがない、実体がない、触れればすり抜け、浮いているって、そう思ってないですか?」

細い人差し指をふらふらと左右に動かし、ニコニコと笑っているのが不気味に見えた。

「・・そうですが」

彼女は「やっぱり」と言ってこちらへ手招きした

「幽霊には重さがある、触れることも触れられることもできる」

そう言って彼女はベッドの上のクッションを伸ばしたり潰したりして見せた。

「すり抜けたりもしないし痛覚もある、たとえばあなたがその包丁をわたしに突き立てれば」

今度はボク置いた包丁を指さし、胸をおさえるような動作をとった。

「苦痛に悶え、そして死ぬ」


死ぬ…だって?


一度死んだ人間がもう一度死ぬのか?

「じゃあ死んだらどうなるんです?あなたもう死んでるんでしょ?」

彼女は首を傾げた。

「それはわからないです。

死んだことないですし包丁を突き立てられたこともないですから」






口論が状況を解決するとは思えなかった。

彼女の言っていることには少々無理がある。

一体その幽霊についてのエトセトラはどこで知ったというのだろう。

死んだことがないのに死ぬとどうやってわかる。

ということは、十中八九彼女はここへどうにかして侵入したのだろう。

不自然な点は彼女が全く焦っていないということだ。

間違えて入ってしまったならとうに吐いているはずである。


「あの、まあ長居されても迷惑だと思うので言うんですけど」

そしてますます理解不能な状況が誕生した。



「わたしの自殺を見届けてくれませんか」






「…え?は?」

「自殺です、その見届け人になってください」

「自殺…?いやあの、まずその幽霊だって証拠もない…」

「わかってます、だから」

言葉を遮って彼女は手招きをした。

「絞め殺したりなんかしませんよ。

わたしは何も持ってません」

両手を上にあげてひらひらしている。

確かに何も持っていないようだ。


「証拠ですよね?、幽霊だっていう」


もう一度彼女は手招きをして見せた。

ゆっくり彼女のほうへ歩いていく。

大量の皿と冷凍食品の抜け殻を乗せた簡易テーブル。

そして部屋に似合わない赤色の大きなゲーミングチェアを避けるように通り抜ける。

彼女の目線はずっとこちらに向いたままだ。




近づいてわかったのは、彼女は結構お洒落であるということだ。

胸の前によくわからない小さなオブジェがぶら下がったネックレスをしている。

そして片方の耳には三角形のピアスがついていた。

思ったよりも髪は短く、顔立ちは近づいてなお美人が際立った。






思えば何をそんなに気にする必要があっただろうか。

彼女はほとんど確実に人間だ。

無防備ならなおさらのこと警戒する必要はない。

というか幽霊に取って喰われようが、人間に刺されようが

どちらにしてもどうでもいいというのに。

そういうところも心底自分が嫌いになる。

彼女は誤解が解けたと思っているのだろう。

満足げにベッドに座って待っている。

包丁を片手にビビっていた数秒がひどくくだらなく感じられた。




手を伸ばせば触れられるほどの距離まで来ても、彼女はこちらを見つめたままじっと座っていた。

妙に気恥ずかしい気分だった。

「で、どうやって」

彼女の白い手がスッと伸びて俺の手首をつかんだ。

怖さや驚きとかではなく、ただただ『ドキリ』とした

そしてそのまま少女のほうへ引っ張られていく。

彼女の眼がボクを見ていた。

ボクも同じように彼女の眼を見ていた。


だから事を目で確認したのは感触を追うようにしてのことだった。


手の端に感じる少しの柔らかさが彼女の胸であること。

それを触っているのが自分の手であること。


「あなたの心臓の音が聞こえますか?

でもあなたの鼓動がうるさいせいではないんです。

わたしはあなたとは違うだけです」


言われて初めて気が付く。

彼女の鼓動を感じなかった。

パッと彼女が俺の腕を放す。

胸元に残される手のひらを見てすぐさま引き上げた。

彼女は満面の笑みで「ね?」と笑った。




心臓がない、心臓がない…

「わかりました、確かに宮本さんは幽霊かもしれません」

「かもじゃなくて幽霊なんです」

不満げに口をつぼませている。

自分でも何を言ってるかわからなかったが、心臓がないってそういうことでしかない。

「というかいきなり包丁向けるのは怖かったです」

「それはすみませんでした、でも強盗かなんかだと思ってつい」

刃物を向けたのは申し訳ない。

「幽霊だとして、ボクの部屋にいる理由とか、

あとさっき自殺を見届けて欲しいとか言ってたのは…」

「理由と言われればないのですが、起きたらベッドの上、この部屋にいました。

あとはその通りの意味です」

「もっとその、未練とかないんですか?

やり残したこととか」

「未練ですか?どうして?」

「いやその、未練があって幽霊になったっていうじゃないですか。

理由もなく幽霊にはならないんじゃなかなって」

「それも偏見です。

幽霊は皆未練を抱えていると思ってますよね?

未練を晴らしたらハッピーに消えるみたいに」

「…違うんですか?」

「違います」


足元の段ボールがミシッと音を立てた。


「わたしは死にたいんです、今すぐに。

いなくなりたいの、こんななんもない人生いらないんです。

…未練なんてありません、ただの一つも」


彼女の言葉に少しの強さを感じた。

滲み出るような少しの強さだった。


死ねなかった、それが彼女の未練だったのではないか




「変なこと聞いちゃってごめん」

「いえそんなこと」

気まずそうに小さくぼやいて目線をそらした。

中途半端に差し込む外の光が沈黙をさらに気まずくしていく。


「宮本さんはどうして死にたいんですか?」


今じゃないとわかっていてそれでも聞いた。

案の定彼女は口を開かない。

しかしこのままではどうしようもない。

「その、言いずらかったら全く話す必要はないんだけど。

仮に自殺するとして、どうしてボクが見届ける必要があるんだろうって。

言い方選ばなくて悪いけど、1人で勝手に死ねるんじゃないですか?」

「それじゃ駄目です、見張ってもらわないと」

「それはどうして」


一瞬間があり、彼女は答えた。

「もう何回も死んでるんです、死のうとしてるのに

いつもいつもベッドの上で目が覚めて。

悪夢の中で悪夢を見てる自分を見てるみたい。

もうこれで最後にしたいんです」

「だから見張っててくれってことですか」

彼女はコクコクと頷いた。






死ぬことに誰かの許可はいるだろうか

自分という人間が死んだら不都合があるだろうか

別に悲しむ人間がいないって言ってるわけじゃなくて

大事にしていたぬいぐるみが1つ、なくなってしまったみたいに

しまっていたはずの何かがどこかへ行ってしまったように

いなくなることはいつも他人事だ

だから幽霊に死にたいと言われたってなおさら止める意味なんてないと思った

できる限り協力してあげたいと思った

だけど胸の奥を素手で触られるような感覚がする

人間と幽霊を隔てるものが心臓のひとつというならば

僕の心臓の鼓動を今止めて

その軽い薄っぺらい命になれたなら



「ボクも一緒に死にます」



「え…?どうして?」

意外にも彼女は驚いた顔をしていた。

それ以上に戸惑った表情をしていた。

自分は死ぬと言っておいて他人のことは驚くのか。


「ずっと前から考えていたんです。

だから今決めました」


「今って…そんな簡単に決めていいんですか?

あなたこそやり残したこととか…

ほら、それって書き途中なんじゃないんですか?」

指さした先は机の上の開かれたパソコンだった。

画面に映るのは書きかけの駄文。

「少し見てしまったんですが、

それあなたが書いているんでしょう?」

「まあ、そうですね」

最終編集日時が忌々しく感じる。

今さっきまでこれを書いてる奴、とか思われているだろうか。


「そうですね、それがボクの未練であり




才能がなかったのは知っていた。

もっと違う方向なら才能があったかもしれないということも知っ

ていた。


だけどそれは違うと思った


それじゃあ初めから決まった場所に収まるようで、どうしても生きた心地がしなかった。


だから選んだ



最初は書いてる実感が湧かなかった。

書いていれば書けるようになる

続けていればそれが才能になる日が来ると、そう思っていた。



書くことに慣れた。

いつもいつも、これじゃない、こうじゃないと思うことが増えた。

伸び悩んでいると思わなければどうしようもなかった。



大学に行かなくなった。

全部を書くことに捧げれば

そうすればきっと。



書くことが好きじゃなくなった。


食べ物をあまり食べなくなった。


部屋を片付けなくなった。


動くことが億劫になった。




そして生きることが嫌になった





「挫折ですか?」

「いえ、挫折ではないんです

病気なんですこれは」

「でもとても引き付けられる文でした。

才能があるのにどうして」


才能


出してほしくなかった言葉。

軽々しくそれを言わないでほしい。

「自分と他人の思う才能って違うと思うんです。

少なくともボクは認めなかった」




こうして人間と幽霊が一緒に死ぬことになった。

ボクは彼女を幽霊だと理解し、彼女はボクという人間を理解した。

方法は窒息死で意見がまとまった。

両者痛いのは望んでおらず、睡眠薬と一酸化炭素

が最適であると判断したからだ。

皮肉にも徒歩5分もかからない場所で死ぬための装備が揃ってしまった。

睡眠薬は以前睡眠障害で医者にかかった時にもらったものが家にある。

宮本はごく普通の人間のように店員と接し外を歩いたが

誰も彼女に脈が流れていないことを知らない。

袋を右手に家までの坂を上る頃、すでに日は沈もうとしていた。


扉を開けると玄関に置きっぱなしの塩サバとインスタント味噌汁、それと出し忘れたゴミ袋がいまだそのまま放置されていた。


ひどく疲れていた。


後ろを見ると宮本も気だるげに立っていた。

「一度寝てからにしよう」という提案に彼女はすぐ同意した。


これからずっと眠ることになるというのに昼寝をするのは不思議な気分だった。


仮にも歳の近い女の子が一緒のベッドに寝るのは気にならない。

どうして死ななければいけないのだろう。

そんなことを思い始める前に俺たちは目を閉じた。


どこまでも平和な瞬間に感じた。







冷気と扉の音で目が覚める。

ガチャリと鍵の回った音。

玄関を見ると宮本が靴を履いて立っている。

生気がないようにボーっと。


「あれ、外行ってたんですね。

なんかお腹とか空いた感じですか?」


俺の話に反応も示さず、彼女は靴を脱いだ。

ゆっくりと何も言わず歩いてくる。

機械のような違和感を持った彼女の顔を見た。


その目はもう死んでいた。


彼女は机の上に手を伸ばす。

そして包丁を手に取った―




刃の切っ先がゆっくりと彼女の胸を向いた。

包丁を握る彼女の指は震え、力が入っている。

体が前後に揺れて足元がふらついた。

笑ったり強張ったり呼吸が荒くなったり、

表情がコマ送りのように定まらないまま一つ一つ変わってしぼむ。

強く食いしばるように、弱く怯える彼女の手は、どこにも定まらない体と裏腹に少しも動かなかった。


何をしているんだ、とは言い出せなかった。

彼女、宮本が今この瞬間自殺しようとしている。

死を恐れながら死を望んでいる。

誰かが止めなければ彼女は死んでしまうのだろう。


…それなのに。



どうしてだろう

見てみたかったのはこれだった



ボクは失敗の役者だ。

彼女のその様を画面の外で鑑賞するの第三者。

表情、感情、体の動き一つ一つすべてを、一つも逃すことなく視界に入れたい。

焦りでも哀れみでもない感情が頭を巡って全身に麻酔をかけているようだった。




声を出したのは宮本のほうだった。

カタチにならない言葉の片鱗が音になって落ちていく。


彼女が自分を殺せないことは明白だった。


柄を握る手からパッと力が抜け、刃が下を向く。

その場に崩れ下を向いた。

小さく速い呼吸を繰り返す。

彼女を脅かす刃は皮肉にも手放せないように手中におさまっていた。


「わかんない、わからないの!」


そうか


「あなたが、あなたが簡単に死ぬなんて言うから、死ぬことばかり考えた。

でも怖いの、怖くて仕方ないの!

ふとした瞬間になんで死のうとしてるのか、

なんで死ななきゃいけないのかわかんなくなるの」


そうか、だから


「きっとわたしは死ぬことなんかできない。

きっとできないの…

包丁をどこに突き立てればいいかわからなかった。

痛そうで、苦しそうで

あるはずのない心臓が都合よく響くのが聞こえるの。

簡単には死なせないって誰かに言われている」





彼女の発する言葉が耳に入ってくる。

入ってくるたびに感じた、

彼女の言葉は眼でとらえるべき言葉だ。

文字にして形にして美しい描写を添える

そうすれば彼女はきっと才能になる。


けれど気づいた。


言葉の選び方、紡ぎ方、

憎たらしいほど切りつけた自分の言葉を美しいと思った。


わからない、わからない


いまどんな表情をしているか

いまどんな感情をしているか




彼女が苦しそうに声を上げていた。

その声が聞こえなかった。

彼女の心臓があった場所に包丁が挿さっている。

目が大きく開かれ口が非対称に歪む。

歯がむき出しになる。

四肢をばたつかせる。

理解しやすくて見るに堪えない動きで苦しむのだ。


細く長く息を吸って

そして彼女は絶命した


包丁を握る手が解かれていく

他でもないだった




立ち上がろうとして視界が回った


洗濯機の上に置かれた練炭


何かが倒れる音


ガシャン、バタン、カラカラ


コップが落ちる音、なにかに当たる音


意識がカチリと消える音







なにかが頭に落ちてきて、無理やり目を覚まされた。

依然として頭に居座っているそいつを持ち上げる。

カランカランと落下してきたのは割り箸だった。

見上げると空のプラスチック容器がこちらを見ていた。


塩鯖だった。


真横で洗濯機がゴウンゴウンと音を立てていた。





どこを見渡しても宮本がいた痕跡は見つからなかった。

わかったことは2つだけ。


1つ、包丁が床を突き刺していた。

一歩間違えれば刺さっていたという距離である。

降ってきたのが塩鯖でよかったと思ったのは初めてだ。


2つ、書きかけの文章および保存していた文章データと作品がひとつ残らず吹き飛んでいた。

ため息はつかなかった。

なぜなら続きを書く気もなかったし、見返す予定もなかったからだ。


そして3つ、特筆するものではないため2つと言ったが、換気扇が全て切れていた。


別に不自然ではない。

そう思わなければ気が済まなかった。




不可思議な出来事―

そのすべてを「夢落ち」で片づけることにした。

考えすぎや過度な疲労が悪夢を見せることはしばしばある。

徹夜や行き詰まりがきっと影響したのだろう。


幽霊「宮本」は死んだ。

自分で死ぬこともできずに未練がましい顔が脳裏に浮かぶ。

殺したのも壊したのもボクだった。

憶えている、どうしようもないほど憶えている。

けれどボクは変わらない。

段ボールにまみれた狭い部屋できっとまた駄文を書き続けるのだ。

胸に手を当てる。


人間と幽霊を隔てるものが心臓だけ


本当なのか嘘なのか

現実だったのか夢だったのか

わからない、わからなくていい

今まで通り何も変われない



ただ、人間と幽霊を隔てるものが心臓だけならば

なぜ僕の胸はこんなにもうるさく響くのだろうか









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