第5話 信枚寵愛の小姓・本橋専太郎の幼い妬心


 嫁して三月、いまだに殿とお床盃を交わしていない満天姫の思いは自らに向かう。

 徳川の実家が控えているがゆえに、夫婦の契りを交わすお気持ちになれぬのでは?


 いや、そもそも、わたくしに女子としての魅力が欠如しているのではあるまいか? 

 先夫は大いに愛してくださったが、あれから歳を重ね、苦労も重ね、老けこんだ?


 形だけの夫の気持ちなどあれこれ考えても仕方のないことと思いながらも、つい。

 第一仕えてくれる者に示しがつかぬ……いや、端的に言って恥ずかしくて堪らぬ。



      *



 大御所が就けてくれた綾小路はともかく、津軽随一の古参侍女・松前の目が怖い。

 思えば松前には、初見の挨拶からして、氷のように冷えびえとしたものを感じた。


 田舎育ちゆえ不愛想なだけだろうとも、あるいは未見の地に子連れで嫁いだ自分の気が昂っているせいかとも思おうとして来たが、いつまで経っても馴染んでくれぬ。


 それどころか、日を増すごとに冷淡に、もっと言えば、憎悪のような暗いものさえ匂わせるようになっており、そのことは江戸の誇り高い綾小路の気をも損ねていた。


「松前どのの権高ぶりはどこから来ているのでございましょう、最果ての田舎者が」

「これ、滅多なことを申すでない。殿のお耳に入ったら、厄介な事態が生じようぞ」


 満天姫にとっても綾小路にとっても、高岡城はいつまでも他所の城のままだった。

 お方さまと呼ばれる正室は奥の権力の頂点にいるのがふつうだが、ここでは……。


 かと言って、こう遠い北の国へ来てしまっては、いやだからと泣いて帰るわけにもいかず、満天姫と綾小路は居心地のわるい客扱いに、じっと堪えねばならなかった。


 

      *



 夏の短い北国のことで早くも虫も鳴き始めたある夜、初めて殿のお渡りがあった。

 白羽二重姿で布団に横になっていた満天姫は、慌てて起き直って長い髪を整える。


「いや、そのままそのまま。なにかと慌ただしくつい今ごろに……いや、相済まぬ」

「お忙しい折、ようこそお越しくださいました。かような格好でご無礼いたします」

 

 夫婦とは思えぬ珍妙な会話のあと、信枚は侍女に手伝わせて寝衣に着替え始めた。

 とそこへ乱暴な足音が闖入して来たので、満天姫も付き添いの綾小路も仰天した。


 見ると、顔を真っ赤にした若者……といってもまだ十二、三歳ほどの男子だった。

 女子のように美麗な小袖と袴をまとい、仁王立ちになって両の拳を震わせている。


「専太郎、如何いたした。ここはお主の踏みこめる場所ではない。な、わきまえよ」

 藩主夫妻の閨に入りこむなど許されない暴挙だが、なぜか信枚の口調は甘かった。


「分かっております、専太郎だって……でも、でも、お屋形さまは拙者だけのもの」

 平気で口を尖らせる少年の言いぐさにも、とても聞いていられない妖しさがある。


「わしにもわしの務めがある。いい子じゃから、な、今宵は退がってやすんでおれ」

「ならば、明日は、明日はきっと拙者の部屋に来てくださいますね。お約束ですよ」


 もう堪らぬ、見ても聞いてもおられぬわ。

 満天姫と綾小路はそっと顔を見合わせた。



      *



 正室の目の前で痴話げんかを繰り広げる美童が、藩主寵愛のお小姓・本橋専太郎と知ったのは、なにもなかったように夫婦盃を交わした信枚が立ち去った翌朝だった。


 松前がわざわざ満天姫の居室に出向いて、さも小気味よさげに告げたのである。

 余所者のおまえが知らないこと、まだまだあるのだぞ、とでも言いたげに……。




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