第4話 浅姫なおり満天姫、いざ津軽信枚へ入輿のこと



 津軽への再嫁にあたり、薄幸そうな浅姫から、天地に力満つ満天姫と名を変えた。

 名付け親はもちろん博識な天海で、大御所家康にも異論のあろうはずもなかった。


 およそ五十万石の大大名から十分の一の小藩へ、たれの目にも尋常ならぬ格下げに映りがちなところ、その憐みを跳ね返し、凛然たる誇りをもって北の果てへ出向く。


 力強さあふれる新たな名前は、大御所におねだりしてしばらく借りることになった関ヶ原合戦図屏風の右隻とともに子連れの負い目を抱えた身の拠りどころになった。



      *



 北の守りという大御所の期待を担った満天姫の入輿は慶長十六年(一六一一)六月二日と決まり、それより半年前、満天姫と直秀母子は駿府城から江戸城へ移動する。


 迎える信枚は、津軽藩江戸屋敷から二代将軍・秀忠のもとに挨拶に出向いて結納の儀も滞りなく行われ、満天姫も会うたびに、夫となる人への親しみを深めていった。



      *



 お輿入れ行列が出立する朝、駿府から江戸城へ出向いていた家康も見送りに出た。

 徳川家お抱えの蒔絵師・幸阿弥こうあみ家による姫輿は、金箔が光り輝く絢爛ぶりだった。


 徳川の縁戚や各大名からの祝い品は前もって船で送ってあったが、貝桶、厨子棚、黒棚、唐櫃からびつ、屏風箱、行器ほかい、それに長持五十棹は人びとの目を惹くに余りあった。


 そのいずれの品にもくまなく、津軽・徳川両家の家紋が華やかに散らされている。

 すなわち、津軽の始祖の近衛家にちなむといわれる杏葉ぎょうよう牡丹丸と葵紋とである。


 中央に大輪の牡丹の花を咲かせ、その裏側から左右七枚ずつの葉を舞い上がらせた津軽の家紋は安定した徳川の葵紋と相性がよく、婚姻の幸先のよさをうかがわせた。

 

 江戸城から津軽藩高岡城まではおよそ百八十里。

 満天姫二十三歳、直秀六歳の新たな門出だった。



      *



 無事に着到した高岡城での盛大な婚儀の夜、満天姫は少なからぬ衝撃を受けた。

 待てど暮らせど新婚の夫・信枚が閨に姿を見せぬまま、ついに朝を迎えたのだ。


 驚愕の事実を知ってか知らずか家老・服部長門守康成が城内を案内してくれた。

 先代・為信が発願し、志半ばで二代・信枚に承継された高岡城は平山城だった。


 津軽富士こと岩木山を見晴るかす本丸をはじめ、内北の廓、北の廓、二之丸、三之丸とつづき、徒歩ではとてもまわりきれないほど広い城内は、石高をまさっている。


「とうていすべてはお見せできぬ」と言いつつ、長門守は藩の歩みを語ってくれた。

 津軽の先祖・大浦光信は隣接する南部下久慈より当地に来て民を治め、開拓した。


 初代から数えて五代目・為信が津軽一円を平定し、姓も大浦から津軽に変えたが、接する南部との不仲は相変わらずで、現在もなお両藩の確執は根深くつづいている。


 初代・光信は自分の没後を案じ、遺言どおり、南方をにらむ立ち姿で埋葬された。

 それに……長門守はふいに声をひそめた「二代藩主承継時にはお家騒動が……」


 ――熊千代騒動。


 初代・為信の嫡男・信建が早逝したとき、その嫡男・熊千代はまだ幼かったので、臨終の為信は三男・信枚への承継を遺言した(二男・信堅も早くに没している)。


 これを不服としたのが熊千代を推す為信の女婿・建広で、江戸の幕府に正統な承継を訴え出たが、主張は却下されたので、建広一派は追放されて、一件落着となった。


 がしかしでございます……にわかに口ごもった長門守は素早くあたりを見まわす。

「紛争の芽は地中で時を待っているようでして、油断も隙もございませぬ次第にて」




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