第3話 亡夫の姿を求め関ヶ原合戦図屏風の右隻に執着



 大御所こと徳川家康は身内や寵臣から寄せ集めた(笑)養女のなかでも、どういうものか異父弟・下総関宿藩主松平康元の娘である浅姫をことのほか気に入っている。


 幼時から愛んで来た浅姫の望みなら、たいていのことはというところがあったが、諄々と説く天海の弁からしても、こたびの件については決意が堅いように思われる。


 人誑しと言われる温顔をゆるめながら「どうじゃな、その気になってくれたかな」いきなり問われた浅姫は「はい、徳川家のお役に立てるのであれば」と答えていた。


 いくら可愛がってくれるといっても養父にはちがいないのだし、天下人・太閤秀吉亡きいま武門の頂点として絶大な力を掌握している人物の意向に背けるはずもない。



      *



 であるならば……大御所&天海を前に、浅姫は精いっぱいの智慧を働かせていた。

 条件というのもおこがましいが、ふたつのことだけはきっと約束していただこう。


 ――亡き夫・福島正之の忘れ形見である直秀を、再嫁先の津軽に伴うこと。

   大御所さまご愛蔵の『関ヶ原合戦図屏風』を嫁入道具にくださること。


 果たして家康は、人の好さそうな下ぶくれの温容の八の字眉をかすかに動かした。

「わが孫の身上は当然としても、合戦図屛風をくれとは、言いも言ったりじゃなあ」


 かたわらから天海も「あの屏風は大御所さまご秘蔵の逸品にて……」口を添える。

 そんなことはよく分かっている、分かってはいるがどうしても欲しい理由がある。


 ――せめて亡夫の勲功をそばに置いて、直秀ともども朝夕に拝してやりたく……。

   母子を迎えてくださる津軽さまとてさようにご器量の狭い方とは思えませぬ。


 じつは、これより何日か前、茶の席に事寄せて、津軽信枚に引き合わされている。

 堂々たる偉丈夫で顔つきも凛々しく、大きな心の持ち主だと浅姫は観察していた。



      *



「いや、これは一本とられおったな、わしとしたことが、浅姫には、かなわぬわい」

 大御所の機嫌が存外にいいので天海もほっとしたのか「ご聡明な」つい追従めく。


「だが、合戦図屏風はわが半生のかけがえのない記録。八曲二対、全部はやれぬぞ」

「よく存じております。せめて福島正則陣営の描かれております右隻だけでも……」


 家康の逆鱗に触れる恐れをかなぐり捨てて、浅姫は何度も畳に平伏して懇願した。

 関ヶ原合戦図屛風にはその数二千と言われる東西軍の将兵が細かく描かれている。


 正直、浅姫にとってほかはどうでもよかった、黒地に白、山道紋様の十一本の幟が風にはためいている福島陣営の、できれば亡夫・正之の姿らしきものがあれば……。



      *



「負けたわ、そなたには。じゃがな、この屏風はわしの命そのものゆえ、浅姫ならずともだれにもやるわけにはまいらぬ。よって、右隻のみ貸して進ぜよう、よいな?」


 いまは天下に並ぶ者とていない大御所だが、桶狭間では織田信長に、三方ヶ原では武田信玄に敗れ、本能寺から命からがら逃げ、あげくに秀吉に天下を先んじられた。


 ようやく関ヶ原で首領に立ったときはすでに五十八歳になっており、じつに四十年にわたる「重荷を負うて遠き道を行くがごとし」そのままの半生を歩んで来ている。


 堪忍の人生最高の晴れ舞台となった関ヶ原合戦のもようを巧みな絵師に描かせて、日々の慰めとも、つぎなる飛躍への糧ともしようという気持ち、痛いように分かる。


 しゃっきりと身を起こした浅姫は、もう一度きちんと手をつがえて深く平伏した。

 大御所家康の目に光るものが見え、天海は満足げにそうした両者を見守っている。




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