第2話 「黒衣の宰相」こと天海僧正の正体は?



 安芸備後から駿府に出もどって三年目。

 浅姫は堅牢なうえにも堅牢な駿府城内でもとりわけ贅を尽くした黄金座敷にいた。


 対座しているのは、家康に影のように付き従い、まつりごとに大きな発言力をもっている黒衣くろごの宰相こと天海で、持ち前の温顔で、ゆるりゆるりと家康の希望を説いて来る。


「でも、わたくし、とうていその気にはなれませぬ」

「拙僧にも、その気持ち、痛いほどよう分かります」


「ならば、どうか辞退させてくださいませ、このお話」

「まあ、そう堅くお考えにならずとも、お心をやわらこう。人には添うてみよなどと申しますゆえ、ここはひとつ、大御所さまのご慈愛にすがられたがよかろうと……」


「安芸の殿を亡くして間がないわたくしには、あまりに酷うございます」

「お労しい……だが、そういつまでもお悲しみでは、福島どのも浮かばれますまい」


 法体と豪奢な小袖の珍妙な押し問答の因は、ずばり、浅姫の再嫁の一件だった。

 家康には養女が二十人ほどいて、あちこちの大名に嫁がせ縁戚関係を結んでいる。


 浅姫もそのひとりだったのだが、不測の事態によってああいうことになったので、正直、家康の持ち駒を任ずる身として、肩身が狭くないはずはなかった、がしかし。



      *



 大御所さまは狡い。

 浅姫は紅唇を噛む。


 肝心なことや面倒なことはみな天海僧正任せで、自身はうしろで綱を引いている。

 幼時から実父のように接してくれた人に直接言えない、歯がゆいことこの上なし。


 たしかに天海は優秀な天台宗の碩学で、多くの弟子に慕われている。

 浅姫も尊敬はしているが、こちらの胸の内を見透かされるような苦手意識もある。


 だいたいからして天海の過去は謎に包まれていた。

 本能寺の変から生還した明智光秀説や、殺されたはずの織田信行(信長の弟)説。


 ひとり家康だけがその正体を知っており、男同士ながら、両名は連理の仲だった。

 大御所が口を閉ざしている以上、だれも天海の素性云々など問うものとていない。


 ああだのこうだの雑魚どもが取沙汰しなくても、天下取り一歩前という怪物に絶大な信頼を置かれていること、それが天海のすべてと言えよう、浅姫はそう見ている。



      *



 天海を通し養父・家康が浅姫という駒を置こうとしているのは陸奥の果てだった。

 その名を津軽藩という、海峡を越えれば蝦夷の異世界という、恐ろしい北の突端。


 江戸と駿府と安芸備後……温暖な土地しか知らない浅姫の脳裡を雪女がかすめる。

 おお、怖い、大御所はそんな遠隔の地へわたくしを追いやって平気なのだろうか。


 実の父ならそんな酷いことをお命じにはなるまい。

 まして連れて行かれる直秀は、なんと不憫な……。


 そんな浅姫の気持ちを見透かしたように、天海はあくまでやわらかく言い添える。

「二代藩主・信枚のぶひらさまは拙僧の弟子でございますが、人品骨柄まことに申し分なく」


 江戸の津軽藩屋敷のうち中屋敷が上野山にあり、浅草常福寺の和尚とも昵懇とか。

 武門ではなく学問の絆を強調されると、外堀から埋められているような気が……。


 その隙を突き「ひとまず大御所さまにお目通り願いましょう」天海が手を打つと、妙に乾いた音の格天井への響きが終わらぬうちに、襖を開けて家康が入って来た。




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