子連れ満天姫――津軽へ再嫁 🩴
上月くるを
第1話 先夫・福島正之、養父・正則に誅殺さる
そのころは浅姫と名乗っていた満天姫は「えっ?!」絶句したまま蒼白になった。
徳川家康の養女として
その若妻と幼子をのこして、まさかの餓死とは……夫・福島正之の身になにが?
思うはしから、目の前で平伏する家臣が大柄な身体をふるわせながら言い添える。
――まことにご無念ながら、殿さま御自らのご成敗にて候……。(ノД`)・゜・。
殿さまとは養父の安芸備後藩主・福島正則にほかならないが、後継を託した養嗣子を広島城の奥に幽閉し、飲食を断ち苦痛を長引かせ、最後の最後に自分で斬る。💧
いかな乱世とはいえ、そんな酷いことが、現実に起こり得るのだろうか。( ゚Д゚)
瀬戸内海に間近い三原城の満開の桜も、二十七歳の浅姫の目に一瞬で色を失った。
*
忘れ形見となった直秀を抱いて養父・家康のもとにもどった浅姫は、心身に著しい不調を来たし、なんとか落ち着いて呼吸ができるようになったのは数か月後だった。
冷静に振り返れば最初から歯車が合わなかったのだ。
浅姫が知らなかっただけで、家康も承知だったはず。
長男が早逝した福島正則が甥・正之を養嗣子に迎えたときは、当然、承継を考えていたが、だいぶのちに正室に男子が誕生した、それも満天姫の入輿の一年前に……。
人間ひと皮むけば煩悩のかたまり、その最たるものが実子への執着であることは、関ヶ原合戦では徳川に就いた正則がいまも慕いつづける豊臣秀吉の例に顕著である。
正則にすれば、養嗣子・秀次一家を根絶やしにし実子・秀頼さまを守った太閤殿下に倣ったまでのこと、妻子を助けただけ情味があるわという義があったやも知れぬ。
次代藩主になる覚悟がいきなり手の裏を返された正之の言動が一時荒れたのも無理からぬことだが、それを養父・正則自らが幕府に訴え出て自分の城に監禁とは……。
*
ちなみに、事柄を時系列で追うと、つぎのごとし。
? 年、福島正則の長男・正友の早逝により甥・正之が正則の養嗣子に迎えられる。
慶長三年(一五九八)正則の次男・忠勝(二代将軍・徳川秀忠の偏諱を受く)誕生。
慶長四年(一五九九)正之、徳川家康の養女・満天姫(実父は松平康元)と結婚。
慶長五年(一六〇〇)正之、関ヶ原合戦に出陣し軍功を挙げる(竹ヶ鼻城の戦い)。
慶長十一年(一六〇六)正之(二十二歳)・満天姫(十八歳)に長男・直秀誕生。
慶長十二年(一六〇七)正則から狂疾を幕府に訴えられた正之、広島城内に幽閉。
慶長十三年(一六〇八)三月、正之没(享年二十四)。忠勝が正則の嫡男となる。
*
参考までに、福島家のその後の軌跡も書き添えておく。
慶長十九年(一六一四)大坂冬の陣で江戸城留守居役として江戸に留めおかれた父・正則の代わりに忠勝が出陣。夏の陣には遅参し、破壊された道や堤の修復工事。
元和五年(一六一九)、幕命で正則が改易されたとき、忠勝は将軍・秀忠の上洛に随行していたが、父と共に信濃高井野に移った。この際に正則から家督を譲られた。
元和六年(一六二〇)忠勝没(享年二十三)。正則は悲しみのあまり越後国魚沼郡二万五千石を幕府に返上。墓は須坂市小河原の大乗寺と京都市妙心寺塔頭・海福院。
のち、忠勝の弟・正利が三千余石の旗本として福島氏を再興したが嗣子なく断絶。
忠勝の孫・正勝が小姓組番頭として仕え、福島氏は二千石の旗本として存続した。
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