第8話 素振り

 気温が低い早朝を一人の少年が歩いていた。

 背中には学生鞄を背負い、左肩には刀と脇差を包んだ黒布を担いでいた。

 右手は自然と下げていたが、それは利き手を常に開けておくためだ。

 諱隼人であった。

 彼は学校の制服に身を包み、登校している最中だった。まだ夜が開けきらぬ内から鍛錬をし、学校へ行く準備をして出たのだ。

 彼が向かったのは自宅から程近い場所にある小さな公園である。そこは通学路の一つであった。

 隼人は決まった通学路を持たない。

 毎日同じ道を通るという事は、日常生活のパターンを作り出すことになり、それだけ敵に付け入る隙と計画を与えることになるからだ。

 その為、動き始める時間も通学路も毎日変えていた。

 その公園では既に何人かのジョギングをする老人や犬を連れて散歩する女性がいた。

 この時間帯でも運動に精を出す人々の姿を見ると、少しだけ嬉しくなる。

 自分の行動が正しいものだと実感できるからだ。

 早起きは三文の徳という諺があるように、朝早く動く事で気分も良くなる。何事も時間に余裕を持って行動する事は大切な事なのだ。

 しかし、今日ばかりは誰もいない場所に行きたかった。明確な理由がある訳ではないが、しいて言うなら学校に着けば嫌でも人と人の間に揉まれることになるから。

 高校に行くことを決めたのは自分だが、気楽に生きるのは中々難しいものだなと思った。


 人間は元来一人で生まれて一人で死んでいくものである大勢の中に混じってゐたからって孤独になるのは、わかり切ったことだ。


 そう言ったのは、明治、大正、昭和と活躍してきた日本の小説家・田山花袋。

 その意味は、人間は生まれるときも死ぬときもひとりである。それが人間の本来の姿だと思えば、孤独を憂い嘆くことはない。

 大勢の中にいないと寂しくてやりきれないという人がいる。孤独を恐れて自主性を失うと、「小魚は群れたがる」という状態になり、個性のない人間になってしまう。

 しょせん、孤独を逃れられぬ人間ならば、孤独を愛し、自由・自主の精神を大事にして、個性豊かな人物になるようにしたい。

 という意味だ。

 だが、現実は違う。

 孤独を愛すると言ったところで、それを貫ける者はごく少数だろう。

 多くの人は誰かと一緒にいる方が安心するはずだ。

 そして、個性豊かになれと言われても、どうすればいいのか分からない者がほとんどではないだろうか?

 隼人は、そんなことを考えながら世の中の無常を考えた。

 そして、この言葉は間違いだとも思う。

 人は一人で生まれる訳では無い。

 両親によって生まれてくるのだ。

 そして、なによりも母が居なければ生まれることもない。

 自分がそうだったように。

 だが、自分の身の上を考えれば、一人で生まれたというのもあながち間違いではない。

 公園に着いた隼人は、ベンチに座って空を見上げた。

 朝の澄んだ空気のお陰か、昼間に見るよりも綺麗に見える気がした。

「人間は考える葦である。か」

 隼人は哲学者パスカルの言葉を思い出していた。

 人間は考えることしかできない。

 つまり、何もしないということは考えないということであり、思考停止の状態に陥るということになる。

 何もしなければ、何も変わらない。

 ただ漫然と日々を過ごしていても意味がない。

 自分はもっと何かができるはずなんだ。

 そんな気持ちがあったからこそ、こうして今ここに居るのだが……。

 思考の迷路に行き着いた時は、頭を空にして刀の素振りをするのが隼人の日課になっていた。

 ゆっくりと呼吸を整え、心を落ち着けていく。

 余計なことは一切頭に浮かべず、ただ一心不乱に振るうだけだ。

 刀を振るっている時だけは、雑念を忘れられたからだ。

 無鍔刀と脇差を腰に差す。

 隼人の使う刀には鍔がない。

 鍔がなく柄頭には手貫紐てぬきおが下がっていた。

 鍔とは、刀身と柄との間に挟む金属の板のこと。鍔の役割は、刀のバランスを調整し、柄を握る手が刀身の方へと滑って負傷させないストッパーの役割がある。

 また、鍔には防具としての役割がある。

 剣道では手首を狙らわれた際、鍔に当たって打たれないことがよくある。鍔がないと、刀身で頭部への攻撃を受け止めたつもりでも、相手の刀が滑って、こちらの指が斬られる可能性もある。

 鍔がないということは、そう言った利点を自ら排除するという意味だ。それは自ら不利にしているように見えるが、あえて外しているならば何かを意図した改造なのだろう。

 手貫紐は、鍔を外した欠点を補うために付けているのが予測できる。

 なお、手貫紐とは、輪になった紐に手首を通して柄を握り戦闘時に刀剣を取り落とさないように使うものだ。本来は馬上で使用される太刀に見られる拵えであり、刀には見られない。

 寸尺も二尺(約60.6cm)しかないが、造りは蛤刃と呼ばれる刀である。

 この形状の方が、斬った時に骨や腱などの硬さを感じにくくなるため、実戦では使いやすいとされている。

 そして、もう一つの武器として使っているのが、脇差だ。

 こちらは、刃長一尺三寸(約39.3cm)。

 中脇差と呼ばれる大きさの物を使用している。

 江戸時代になると、護身用として多くの町人が中脇差を所持していた。

 短いゆえに間合いは狭いが、その分取り回しが良くなり、懐に飛び込まれた際に対処しやすい。

 隼人はベンチから少し離れて立つ。

 周囲に人の姿はない。

 鞘の切り込みに親指の爪を入れ鯉口を切る。鞘から抜き放つと白銀に輝く刃が現れる。

 右手に下げた状態に左手を運ぶ。

 右脚を引き、地を踏みしめ腰を切って、そのまま左上に向かって一気に振り上げた。

 左逆袈裟斬り。

 相手の左腰骨から右肩までを斜めに斬り上げる。

 基本の位置に刀を戻し、再び逆袈裟に構える。

 そして、もう一度同じ動作を繰り返す。

 音がしない。

 それは奇妙な光景だった。

 まるで効果音を入れ忘れたかのように、素振りをする剣に音はなく、振り続けられる。遅いのかと言えば、そんなことはなく危険な鋭さを持っていた。

 当の隼人は、そのことを気にすることもなく続ける。

 これが基本的な動き方となる。

 隼人の剣術は、現代で言うところの居合術に近いものだ。

 抜刀し、相手を斬るという一連の流れの中で、構えることなく自然に右手に刀を持ち、最速の一撃を放つことを目的としている。

 剣の素振りと言えば一刀流の遺伝子を受け継ぐ剣道が上から打ち込むような型が主流だが、それは一刀流の極意である技が「切落し」と呼ばれる究極の直線技にある。

 その為、基本刀法というのは流派によって異なる。

 二階堂流では、横薙ぎの以外の刀法を3年間行わせない。

 示現流の修業は袈裟懸けに打ち込む稽古から始める。

 ならば、隼人の剣は、逆袈裟斬りを主体としているのと言えた。

 一刀流にある最速の一撃を放つ剣は理想の剣と言える。

 だが、隼人はあえてその道を選ばなかった。

 理由は二つある。

 一つは、受け継いだ古流剣術の理合がそうだったからだ。

 もう一つは、単純に自分にあったやり方を模索した結果だ。そもそも、剣術において重要なことは、いかに速く、正確に相手を打ち倒すかということに尽きる。

 だが、隼人は、それを良しとはしなかった。

 確かに速い攻撃は有効だ。

 だが、それだけでは駄目なのだ。

 隼人は、相手が構え、防御の体勢に入る前に倒してしまうことが理想だと考えている。

 防御の体勢に入られてしまえば、そこから先は体力勝負になるからだ。

 そして、それこそが自分の望む戦い方。

 どれだけ早く動けても、相手に受け躱すなどの防御されればそれまでだ。

 それが何度も繰り返されればいずれ疲れて集中力が途切れてしまう。

 だからこそ、先手を取る必要がある。

 相手が構え、心を落ち着ける暇を与えずに、自分の攻撃を繰り出す。

 そうすれば、相手は防御の手段を選ぶことができず、必ずどこかで隙が生まれるはずだ。

 そこを突いて勝つ。

 隼人は剣の理合に、そんな考えを持っていた。

 それから30分ほど素振りを続けた。

 額には汗が流れ落ちる。

 呼吸を整え、刀を鞘口へと導き素振りを終えた。

 そして、刀と脇差を黒布に包むと、学校へと向かって歩き出す。

 雑念は消えていた。

 隼人の心の中はとても澄み渡っていた。

 人を斬っていれば、嫌でも考えることがある。

 人を殺すということはどういうことなのか。

 その重さに耐えられるのか。

 自分の中の正義感と倫理観に問いかけても答えは出ない。

 だから、ただひたすらに素振りをするのだ。

 己の迷いを振り払うように。

 そう思いながら公園の中へ入っていくと、そこには先客がいた。

 それも見知った顔であり、よく知る人物でもあった。

 ベンチに座っている人物は、黒いチュールワンピースに、黒のブラウスを羽織り、肩にはストールを掛けていた。

 足元は白のサンダルを履いており、首元からはネックレスが覗いている。

 髪は長く、艶やかな黒い髪を腰まで伸ばしている。

 そして、彼女はどこか浮世離れしたような雰囲気があった。

 整った顔立ちをしており、目鼻立ちがくっきりとしている。

 まるで人形のような印象を受ける女だ。

 そんな格好をしているのは一人しかいない。

 月宮つきみや七海ななみだ。

 彼女は、本を読んでいた。

 だが、今日に限ってはページが進んでいないように見える。

 こちらに、気づいていない気がする。

 だが、それは擬態だ。

 隼人は、今日の自分の通学路パターンが読まれていたことを腹立たしく思った。顔を合わせたくないと思いながら、このまま無視して通り過ぎようと歩を進める。

 隼人が丁度、七海の前に差し掛かった時、彼女が声をかけてきた。

 独り言ではない。

 それは挨拶だったからだ。

「おはよう」

 七海は文庫本をずらして、視線のみが隼人に向いていた。

 目が合う。

 隼人は思わず足を止めた。

 とても落ち着いた口調だった。

 男なら、誰しも心地よいと感じるような響きを持っている。

 しかし、学校へ急ぐ、今の隼人にとっては煩わしさしか感じない。

 できれば関わり合いになりたくなかった相手だ。

 だが、向こうから話しかけられてしまった以上、無下に扱うわけにもいかないだろう。

 隼人は、仕方なく返事をした。

「何の用だ、口入屋」

 なるべく感情が乗らないように努める。

 それでも、多少なりとも苛つきが出てしまっていたかもしれない。

 だが、今はそれよりも目の前の女が何を考えていたかの方が重要であった。

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