第4話 暗殺剣・行逢神
突然に雑踏が発生した。
夕方の帰宅ラッシュを過ぎ、夜の帳はとうの昔に下りていたが、街に住む人々は帰る家を忘れてしまったように練り歩く。
だが、人が歩けるのに歩けない場所があった。
それを前にすると、人々は塞き止められた水のように足を止め人の流れに澱みを作る。
交差点。
目の前にあるのが片側三車線もある街のメイン通りであるため、歩行者信号の待ち時間は長い。
そんな時間を過ごす人も様々だ。
意味もなく目の前を流れる車を見る人。
スマホでゲームを始める人。
音楽を聴き始める人。
ぼんやりと空を見上げる人。
その誰もが信号が変わるまで待つことに変わりはない。
それぞれの暇つぶし。
長いと思われた時間だが、いつかは終わる。
車道の信号が黄色から赤に変わる。
程なくして、歩行者用信号が青に変わると同時に、人々は歩き出した。
いや、気の早い男が一人いた。
車道の信号が赤に変わったのを見てから、交差点に進入したのだ。
一見して、いかにも社会のルールを守らなさそうな男だった。自分の都合は並べ立てる癖に、人の意見や頼みごとは聞く耳に持たない。そんな風体の男だ。
そんな男だからこそ、注意をする者もいなかった。
交通ルールを守らない違反者がいたところで、律儀に警察に通報する市民が居ようはずもない。
その男に不幸がかかれと、内心で黒い期待をかける者もいたが、それは発生しなかった。
男の足が遅くなった。
人より急いで出たにも関わらず、後ろから続く者に男は抜かれたのはスマホが鳴ったからだ。
男は立ち止ることで後ろから続く人と、正面から来る人の迷惑も顧みず交差点の真ん中でスマホ取り出し、ディスプレイに表示された相手を見ると、面倒な表情をしながらも通話に応じた。
「おう。オレだ。……なんだはねえだろ。これでも、色々と忙しいんだぜ」
男は生理的に受け付けぬ、嫌なものを唇に浮かべた。
やがて歩きだす。
面白いことでもあったのか男は喉を鳴らして笑う。
その声を聞いて、すれ違う人間は眉間にシワを寄せた。
男の声が不快なのだ。
そして、この不愉快な会話は延々に続いていく。
その日もいつもと同じように過ぎていくはずだった。
交差点には様々な人間が行き交う。
その中に一人の少年の姿があった。
少年の服装はジーンズにフード付きジャケットというラフなもの。
ブラックとミッドナイトブルーという色は、モノトーンコーデながら地味で重たくあったが、その身なりは清潔感があり、よく手入れされていることが分かる。
諱隼人であった。
隼人は竹刀袋のショルダーストラップを肩がけにし、ベルトを用いて刀を腰に密着させていた。
その姿は、黒井源一郎の営む質屋を出た時と同じ姿であった。時間は、あれから一時間も経過していなかった。
歩みの遅い男は、瞬く間に人の波に呑まれた。
地方から出てきたばかりの人間は、スクランブル交差点の賑わいに祭りでも行われているのではないかと勘違いしてしまいそうだ。人の歩みは、それぞれまばらであるにも関わらず背中を押しあい、ぶつかり合わないのは一種の奇跡にもみえた。
隼人は竹刀袋のジッパーに手を伸ばす。
そっと開く。
正面からくる、ターゲットとなる、その男を見据える。
あくまでも自然に。
そうすることが当たり前のように、視線を合わせないように自然にしながら、視界の端で捉えるように意識を向けた。
隼人は、男の挙動に注意を払う。
男の様子に変化はなかった。
気づかれた様子はない。
少年は男との距離を詰めていく。
男は右手に持ったスマホでの会話に必死になっているため、周りが見えていないようだ。
このまま行けば隼人の右側を男が通り、男の右側を隼人がすれ違うようになる。
男までの距離は約8mといったところだろうか。
隼人はまだ柄に手を持っていかない。
7m。
男は電話に夢中だ。
6m。
隼人は歩く。
5m。
男は面白くて声を上げる。
4m。
隼人は歩く。
3m。
男は相槌を打つ。
2m。
隼人は歩く。
1m。
男は話しに聞き入る。
0m。
隼人は歩く。
男と隼人は、すれ違った。
だが、結局、隼人は刀を抜かなかった。
-1.2m。
それは、隼人と男が完全に背と背を向けているという距離であった。
斬り付けるには完全に場違いな立ち位置だが、これで良かった。
その瞬間、隼人は刀の柄を迎えに行った。
世界は、いや宇宙の時間すらも時を止める。
それは一瞬を通り越しての出来事だった。
水面に垣間見た魚の鱗のごとき薄光を曳いて刀が空を翔び、男の右首へと吸い込まれた。
少年は振り返っていない。
抜刀した腕と刀のみを後方へと放ち、男の首を斬った。
引き戻された刀は鳥や蜂が巣に戻るが如く、鞘口へと吸い込まれた。
【
これは幕末に実在した暗殺剣だ。
殺気を悟られないように相手に正面から近づく。
相手と、すれ違う。
すれ違った瞬間に抜刀し、振り返ることなく腕と刀の長さを用いて、そのまま後方に居る相手の首筋の頸動脈を斬る。
素早く納刀し、静かに立ち去る。
後方では、頸部を斬られた相手が血を吹き出して倒れるという剣だ。
正式な術名は無い。
隼人は、この暗殺剣に人や動物に行きあって災いを成すとされる神霊の名を借りて行逢神と名付けて、便宜上の技名としている。
暗殺剣・行逢神。
それは剣において唾棄すべき技であった。
剣術の勝負は一対一か、あるいは数名の助太刀を交えても、堂々と正面切っての立ち会いをするものだ。そのうえで勝敗を決することで、剣の技量というものが定められる。
だが、暗殺剣は、その言葉通り闇討ちの剣だ。
相手に対応する備えを与えず、命を奪うことのみを目的とし殺す。
剣技・剣法とは、本来そういうものではない。
騙し討ちだ。
だからこそ、そうした技はあっても、流派に属さぬ技だからこそ技名が付けられなかったのだろう。
しかし、この時代においても隼人の剣は暗殺に特化していた。
隼人にとって、この現代社会における戦いは殺し合いではなく、人知れずに相手を葬ることこそ勝利であった。
故に、その技術は洗練されていた。
そして、それを体現できる才覚も持ち合わせている。
隼人の瞳に感情はない。
まるで人形のように、無感動な視線だけを前へと向けていた。
世界に時間が戻る。
周囲の人々は、隼人が斬撃を放ち男の首を斬ったことに気が付かなかった。
それは男も同じだった。
首を斬られたにも関わらず男はスマホへの会話を続けており、まるで通話相手に何事もなかったかのように話していた。
それとも隼人の行逢神は外れていたのか。
そもそも、そんな現実が無かったかのように男は平然と交差点を渡り終える。
交差点を渡る人間たちの誰もが、男の異変に気づかなかった。
隼人の足が止まる。
隼人は交差点の横断歩道を背にして、人の流れに逆らうように立ち止まった。
人の流れは変わらない。
いや、変わった。
人の流れが途切れたのだ。
それは歩行者信号が青から赤へと変わったからだ。
隼人は渡り終えた男の背中を見据える。
男の膝が崩れた。
交差点の歩行者信号の近くに集まった人々は、男の変化に気づく人もいたが、大半は無関心のままだ。
男は見えない誰かに首でも締められているかのように、自分で自分の首を掻きむしり始めた。
喉を潰すように爪を立てるが、それでも声にならない悲鳴を上げながら苦しみ悶える。
男の表情は苦痛に歪み、顔色はみるみると土色へと変わっていく。
男はスマホを落とし、近くの自動販売機にもたれ掛かって崩れ落ちた。
隼人は、男から目を離さない。
男が地に倒れ伏しても尚、見つめ続けた。
凝視すれば、男の首には傷痕がある。
だが、皮膚は裂けていない。
ゆえに血も流れていない。
だが、男は死んでいた。
そこには、隼人の放った行逢神の刃であった。
隼人は男の死を確認して、その場を離れた。
歩き出す。
ゆっくりと、歩を進める。
仕事の完了であった。
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