第5話 戦場剣術

 夜の繁華街を歩く男が居た。

 茶髪に長身、細身だが意外にも筋肉はしっかりとついている。

 服装は、今の若者らしくオシャレだ。

 カーゴジョガーパンツにチェックシャツ。

 靴もシャレたブーツを履いている。

 軽音をしているのか肩には、ギターケースを担いでいた。

 そんな彼は、スマホ片手に歩いている。スマホでは、SNSサイトが起動し、スマホを操作しながら歩いて行く。

 そして、何かを見つけると立ち止まった。

 そこは、ゲームセンターだった。

 ゲームセンターの入り口にあるクレーンゲームのガラス越しに見える光景を見て、彼は笑みを浮かべている。

 彼の視線の先には、金髪の少女がいた。

 少女は、必死になってクレーンを動かして景品を取ろうとしているが上手くいっていないようだ。

 それでも諦めずに何度も挑戦するが結局取れなかったようで残念そうにしている。

 それを見た彼は、クスッと笑うと少女に近づく。

「取ってやろうか?」

 突然声を掛けられて驚く少女だったが、男のイケている姿を見て頬を染めると小さくうなずく。

 男は、クレーンを操作するとウサギのヌイグルミを見事に一発で景品を取る。

 それを少女に手渡す。

 嬉しそうな笑顔を見せる少女。

 男もニッコリと微笑む。

 二人は、そのまま一緒にゲームセンターを出た。

 繁華街から離れた場所にある小さな公園に着く二人。

 そこで、ベンチに座って話し始める。

 男は、この辺に住んでいるフリーターだと話す。

 彼女は、近くの女子校に通う女子高生だという事が分かった。

 男は、彼女が可愛くて仕方がなかった。

 だが、男の目的は他にあった。

 それは……、彼女と親密になること。

 男は、自分の名前を告げる。

「俺は世戸せと大輔だいすけ

 自己紹介をした大輔と名乗った男は、女の子の名前を聞きたいと言った。

 しかし、女の子は自分の名前は教えられないと言い断る。

 困った顔をする大輔。

 どうしようか考えている様子だったが、急にニヤリとした表情に変わる。

 彼は、女の子の腕を掴むと引き寄せた。

 いきなり腕を掴まれて女は驚いた顔をする。見つめ合う二人の距離は徐々に縮まって行く。

 お互いの吐息が、かかるくらいまで近づいたところで――。

「そこまでだ」

 大輔が女の子から視線を、声の方向に変えると一人の少女が立っていた。

 ストレートベースで大人っぽいポニーテールの髪型。

 キリッとしていて凛々しい雰囲気は、どこか冷たく感じる瞳をしていた。

 背筋がピンっと伸びておりスタイルが良いため綺麗な姿勢に見えるが、可愛いというよりカッコイイという言葉の方が合っている少女。

 だが、同時に水のように清らかで透き通った美しさも兼ね備えていた。

まるで芸術品のような少女。

 少女の名を風花澄香かざはなすみかと言う。

 澄香の登場により空気が変わる。

 変えたのは澄香というよりも、腰に角帯をし帯刀した脇差と刀の存在だろう。

 そのせいか、辺りの雰囲気が変わった。

 先ほどまでの甘いムードは消え失せてしまった。

 さすがにマズいと思ったのか、大輔は慌てて女の子から離れる。

 それから誤魔化すような態度で話しかける。

 だが女の子は、身だしなみを整えると飽きたように立ち上がる。

「お芝居は終わりね」

 そう言うと、大輔を残して歩き出し、目の前に居る澄香の傍らに立つ。

「乗りすぎよ。私が、声をかけなかったら、どこまでするつもりだったの?」

「死ぬ前に、少しいい思いをさせてあげても良かったけどね。じゃ。あとはよろしく」

 女の子は、澄香の告げるとその場を後にしていた。

 大輔は理解する。

 引っ掛けたつもりが、引っ掛かっていたのは自分だったと。

 呆然とする大輔に、冷たい視線を向ける澄香。

 澄香は女の後ろ姿を見送ることもなく、今度は鋭い目つきで大輔を睨みつける。

 そして、怒りに満ちた声で告げる。

「私は風花澄香。お前は、世戸大輔だな」

 名前を呼ばれた事で観念したのか、大輔は両手を上げて降参の意思を示す。

 澄香は、手に持っていたスマホを見せる。

 そこには、SNSサイトが表示されていて、とある写真も映し出されていた。

 そこに映っているのは、大輔が女の子と一緒に歩いている所の写真だった。

 女の子の肩を抱き寄せている大輔の姿がハッキリと写されている。

 それをみた大輔の顔色が一気に青ざめる。

 大輔には、身に覚えがあったからだ。この日、彼は女の子を引っ掛けてホテルへ行くところだった。

 相手の名前は知らない。

 いつも利用しているアプリで知り合った女の子だ。

 相手が未成年であろうが、人妻だろうが、そんな事は関係ない。

 自分の容姿を褒めてくれる女性なら誰でも良いとさえ思えてしまう。

 彼は、そういう男だった。

「下半身にだらしないだけなら、ただのゲス。だが、貴様は剣士でありながら、麻薬の売人でもあるな」

 澄香の言葉を聞いて驚く大輔。

 大輔は、自分が何をしているのか知らなかった。

 いや、知ろうとしなかった。

 だから、何のことなのかわからないといった顔をするだけだった。

 それを見た澄香は苛立つ。

「薬物中毒になった女は、お前に薬を求め、そして、薬を欲しがれば売ってやるとそそのかし金を巻き上げる。

 あまつさえ、金が無くなれば女に売春を強要。お前は元締めとなって荒稼ぎをしていた。そうだな」

 大輔は何も答えない。

 ただ黙り込んでいるだけだ。

 それが肯定を意味していた。

 だが、澄香はそれでは許さないとばかりに強い口調で言う。

「否定しても無駄だ。調べは既についている。証拠もあるから言い逃れはできないぞ」

 大輔は諦めた表情を浮かべて俯く。

「俺は……、どうなるんだ? まさか警察に突き出されるのか?」

 恐る恐る尋ねる大輔に、澄香は答える。

「お前が一般人ならな。だが、貴様は道場と流派の名誉もけがした。よって、斬る」

 澄香は刀を抜くと白刃が光輝く。

 その切っ先を大輔に向けると静かに八相に構えた。


 【八相の構え】

 「陰の構え」といわれ、自ら攻撃を仕掛けるのではなく、相手の出方によって攻撃に変わる構え。

 刀を立てて頭の右手側に寄せ、左足を前に出して構える。

 八相は中段・上段より疲れにくく下段よりも機敏に動けるという利点がある。

 この構えを正面から見ると前腕が漢数字の「八」の字に配置されていることから名付けられており、刀をただ手に持つ上で必要以上の余計な力をなるべく消耗しないように工夫されている。

 相手との単純な剣による攻防では実用性が多少犠牲になっており、例外的に相手の左肩口から右脇腹へと斜めに振り下ろす『袈裟懸け』や相手の鞘を差している側の胴体を狙った『逆胴』は仕掛けやすい。


 澄香の姿からは、殺気を立ち上らせるほど迫力がある。

「抜け。最後は剣士として殺してやる」

 澄香の誘いに、大輔は苦笑いしながら頭を掻いた。

 そして、ため息をつくと、ギターケースから刀を出すと鞘ごと地面に投げ捨てる。

「そうかい! じゃあ、やってやるよ!」

 大輔は、ニヤリとした笑みを向けて、刀を構える。

 お互いに見つめ合いながら、ジワジワと距離を詰めていく。

 先に動いたのは大輔の方だった。

 大輔は見た目こそフリーターらしい雰囲気だが、その実、剣術家だ。

 幼い頃から剣を学び、高校を卒業するとすぐに免許皆伝となった天才である。

 そして、その才能に溺れることなく努力を重ね、今では、一流の使い手となっている。その実力は師範に次ぐ師範代の位置におり、門下生の中で彼に勝てるものは居なかった。

 近隣の剣術道場の交流試合においても負け知らず。

 また、大輔は独自の修行方法を確立しており、その成果もあってか、彼の強さは更に磨きがかかっていた。

 いずれ自分自身の流派を興そうとさえ考えていたのだ。

 そんな大輔が本気にならない訳がない。

 彼は自信を持っていた。

 目の前の女は確かに強いかもしれない。

 しかし、たかが女だ。それも未成年の女子高生だ。自分の敵ではないとも思った。

 なぜなら、大輔は相手の力量がある程度わかるからだ。

 だから、大輔は迷うことなく仕掛ける。一気に間合いを詰めた大輔は上段に振りかぶった一撃を放つ。

 だが、それは澄香の身体をすり抜ける。

 まるで幻影を相手にしていたかのように。


 ――速い


 巧みな歩法によって躱す。

 相手を惑わす技。

 いや、その上の術の域に達している。

 技とは基礎的な、やり方や方法に過ぎない。

 術とは、技の積み重ねを昇華し洗練されたもの。

 同じ材料、同じ調理器具、同じ方法で調理をしても、素人が作った料理とプロが作った料理の味に差が出る。

 それが《術》だ。

 澄香は戸田流を継承していた。

 戸田流は、冨田家で伝承された中条流剣術の流れを汲む流派だ。

 中条流(中條流平法)は、中条長秀を開祖とする武術の流派。短い太刀を使う剣術で有名であった。この流派では基本的に長尺の刀を相手に、小太刀で応戦する技術が磨かれていた。

 小太刀の極意は、見切りにあった。

 相手の攻撃を見切ることで、相手に反撃を許さない。

 澄香もまた、この技術に長けている。

 だからこそ、大輔の攻撃を避けられた。

 大輔は自分の刀が避けられたことに驚くが、直ぐに冷静さを取り戻す。

 相手は、まだ子供だ。

 ならば、大人気なく本気でいく必要はないと。

 大輔は、再び攻撃を仕掛ける。

 今度はフェイントを入れてからの斬り上げ。

 だが、これも空を切る。

 大輔は舌打ちすると、素早く後ろへ飛び退く。

 澄香は距離を詰めるために前へと飛ぶ。

 だが、澄香の方が早い。

 澄香は、着地と同時に踏み込むと、鋭い刺突きを放った。

 それを大輔は身を捩って回避した。

 避けなければ確実に貫かれていただろう。

 それほどまでに鋭い刺突きであった。

 その攻撃を大輔は避けると、踏み止まり、そこから刀を振り下ろす。

 澄香は刀の鍔で防ぐ。

 刀が完全に加速する前に自ら合わせに行った為に、鍔にかかる負担は少ない。

 しかも澄香の鍔は、江戸時代以降に見られた彫物や図柄が施され装飾が精巧な作りではない地味な鍔だ。

 実用を重視していたため、美しく見せる必要はない。その為、耐久性が高くなっていた。

 大輔は、澄香の予想外の対応に驚く。

 まさか、自分の攻撃を受け止められるとは思っていなかったのだ。

 澄香の刀を受け止めた衝撃が腕に伝わる。

 重い。

 その重さから澄香の力の強さを感じた。

 大輔は、澄香の刀を押し返そうとする。

 だが、澄香の力は想像以上に強く、押し返すことができない。

 澄香は、そのまま刀を滑らせると、大輔の腕を斬り落とさんとばかりに刀を横に薙ぎ払う。

 大輔の上腕を刀が削った。

 皮一枚を切られた程度ではあるが、傷口から血が流れる。

大輔は痛みに顔を歪めると、慌ててバックステップして距離を取る。

 澄香は追撃を仕掛けない。

 大輔の動きを警戒してか、一定の間合いを保ちながら構える。

 大輔は額から汗を流して呼吸を整える。

 大輔は、今まで自分が優位に立ってきたと思っていた。

 だが、それは間違いだった。

 澄香は、自分よりも遥かに強かったのだ。

 そして、その事実に焦りを覚える。

 このままでは負けてしまうと。

 真剣勝負における負けは死を意味する。

 大輔は、必死になって勝つ方法を考えてみた。

 しかし、思い浮かぶのは一つしかない。

 すなわち、隙を作って斬る。

 その瞬間を狙うしか無かった。

 だが、その機会が訪れるかどうかわからない。

 そもそも、そのチャンスを作り出すことが難しい。

 それに仮に作れたとしても、それが成功するとは限らない。

 いや、恐らく失敗する確率が高い。

 それでもやるしかなかった。

 そうしなければ、死ぬのはこちらなのだから。

 大輔は覚悟を決める。

 そして、大きく息を吐くと、全身の力を抜いた。

 刀を両手で持ち、腰を落として半身になる。

 これは、大輔が独自に編み出した剣だ。

 相手の動きに合わせて柔軟に対応する剣術である。

 それは、相手が動く前に先読みし、攻撃を回避するというものだ。

 この技には欠点がある。

 それは、相手が動いてくれないと意味がないということだ。

 だが、今の状況なら、これが最善の策だと大輔は判断した。

 大輔はこの技を《流水》と名付けていた。

 世戸家の人間は代々受け継ぐ技があった。それこそが正統伝承剣術だ。

 しかし、大輔はその技に満足していなかった。

 なぜなら、その技は、あくまで流派の中の一部に過ぎないからだ。

 だから、大輔は独自の流派を作ることにした。

 そのために彼は努力を重ねてきた。

 その結果として得たのが、この《流水》であった。

 澄香も、大輔が何かを察したのか警戒する。

 構えを見ただけで分かる。

 この技は、厄介なものだと。

 だからこそ、澄香は慎重に間合いを測る。

 もし迂闊に飛び込めば、痛手を負うかもしれない。

 ならば、まずは相手の出方を見るべきだと判断した。

 大輔は動かない。

 澄香もまた動かなかった。

 二人の視線が交差する。

 静寂が場を支配する。

 まるで時の流れすら止まったかのような錯覚さえ覚える。

 やがて、先に動いたのは大輔の方だった。

 だが、それは攻撃ではない。

 フェイントだ。

 澄香は、それを見極める。

 刀を持つ手に力が入った。

 次の瞬間、大輔は一気に踏み込んだ。

 その踏み込みは、速い。

 一瞬にして、澄香の間合いへと入る。

 澄香が動いた。

 大輔は腰を落とし半身になる。《流水》の基本姿勢になって、澄香の放った横薙ぎを躱す。

 その一刀を大輔は躱す。

 大輔の中で勝利の方程式が出来上がった。

 相手は、自分の予想通りの動きをした。

 そこに合わせて大輔は澄香の首根を狙った袈裟斬りを放つ。

 澄香は刀で防ごうとするが、間に合わない。

 だが、澄香は慌てることなく、左手を添えて防御しようとする。

「バカが!」

 澄香の腕を切断し、首根に刀を叩き込もうとした。

 その瞬間、大輔は違和感を覚えた。

 澄香の左腕が妙に大きいのだ。

 いや、違う。

 澄香は、制服の下。左腕に防具をつけていた。

 

 【籠手こて

 小具足の1つに分類される。

 着用者の腕部を保護する。家地いえじと呼ばれる筒袖状の布に、金属や皮の板や鎖を取り付ける。

 一般的に籠手を用いる場合は大鎧を用いる上級武士は左手のみに着用し、下級武士は両手に着用することが多かったが、時代が下り戦闘様式が変化するにつれて上級武士も両手に着用するようになった。

 武士によっては、籠手に多くの筋金を入れて盾代わりとしていた。

 戦国時代から江戸時代にかけて活躍した黒田二十四騎の一人・野口のぐち一成かずしげという武将がいた。

 天正5年(1577年)の高倉山城(現:兵庫県たつの市)攻めを初陣とし、敵将・神吉小伝次かみよし こでんじを討ち取って以来数々の戦場で武勲を立て、三木合戦、小田原征伐、文禄・慶長の役、木曽川・合渡川の戦い、関ヶ原の戦いにも参戦した。

 そんな一成の戦場剣術は、剣道の感覚からすると非常識なものだ。

 普通は、斬られまいと敵の攻撃をかわし、敵の隙を衝いて攻撃するべきものである剣術だが、一成はあえて左腕を攻撃させながらそのまま突っ込み、敵を斬り倒すというものだった。

 聞けば腕が何本あっても足りなさそうだが、左腕には籠手を装着しており、それを刀で断ち斬ることは(鉄板ならもちろん、革であっても)難しいため、ためらわずに突っ込んだのだ。

 もちろんノーダメージではなく、自分も多少は傷を負っており、まさに「肉を切らせて骨を断つ」を地で行ったのだ。

 すると当然のごとく傷を負うのは身体の左側が多くなり、通称を藤九郎と呼ばれていた一成は、関ケ原の頃には左助と呼ばれるようになっていた。

 そんな一成がある時、ある剣客と立ち合った際、相手の木刀を左手で受け止めて右手の木刀で突き倒した。

 すると剣士は抗議してきました。

「手で刀を受け止めるなんて剣術は聞いたことがない」

 冷笑された為、一成は自分の具足櫃ぐそくびつから籠手を取り出して見せたが、その籠手には多くの太刀痕が残っていたとされる。

 補修してまた斬られした太刀痕が無数に刻まれた籠手に、剣士は息を呑んだ。

「事実わしはこうやって戦い、敵を斬って生き延びて参った。お遊戯ならばいざ知らず、いざ戦さ場で作法がどうのなどと言うておったら、命がいくつあっても足らんわい」

 剣術の腕前を売り込みにきたのだが、いざ合戦の場で後れをとるようでは話にならない。その剣士は、黒田家への仕官を諦めて立ち去った。

 主君のために文字通り我が身を惜しまず戦い続けた一成の戦場剣術は、武術・武芸から武道へと洗練された現代の剣道には、ルール違反だが生き残った方が勝ちとする真剣勝負に則れば、有効な戦法だった。


 そして澄香もまた、左腕に籠手を着用していた。

 澄香は、大輔の攻撃を左手の籠手を使って防御した。

 そして、大輔の刀を押し返す。

 澄香の左腕が異様に大きいように見えたのは、この籠手が理由だった。

 大輔は焦っていた。

 まさか、自分の攻撃を防ぐだけでなく押し返してくるとは思わなかったからだ。

 だが、その動揺を澄香は見逃さない。

 一気に踏み込む。

 大輔は慌てて刀を引き戻す。

 しかし、もう遅い。

 澄香の刃先が、大輔の左肩を斬り下げる。

 

 【雁金かりがね斬り】

 雁金というのはかいがね、貝骨がなまったもので、肩甲骨を言う。

 ただ肩を斬るのとは違う。

 雁金を斬り下げるには、刀の切先から五寸(約15cm)は深く入り、入身になる必要がある。

 強固な肩の筋肉を断ち斬り、背中に位置する雁金を断つ目的となっているために、相当な斬撃力を必要とする。

 ここを斬り下げるのは、通常は、一寸(約3cm)、二寸(約6cm)。

 免許皆伝の腕前でも三寸(約9m)。うまく斬っても五寸(約15cm)程という。

 ここを両断し斬り下げる刀法を、雁金斬りと呼び最も剣士の実力が試される。

 剣道では面打ちを避ける為に首を振って、肩に打突を受けることで有効打としない防御があるが、古流剣術における刀法では、それを許さない。

 なぜなら、首を振るということは、首筋と肩を相手に晒すことになるからだ。

 そして、そこを斬ることを目的とした刀法が、これであった。


 裂帛の気合。

 だが、澄香は大輔の雁金を六寸(約18cm)斬り下げた。

 そこまで行けば、雁金を斬り心臓の動脈を裂いた。

 致命傷だ。

 澄香の放った斬撃は、見事に決まり過ぎた。

 鮮血が舞う。

 人を斬る要は刀や腕ではない。

 脚と腰だ。

 脚をしっかりと踏み、腰で斬る。

 それが出来なければ、どれだけ優れた刀を持っていようと、どれほどの腕力を持っていようと、人は斬れない。

 逆に言えば、どんな名刀だろうと由緒ある剣術だろうと、当たらなかったら意味がない。

 そして、澄香には、それをするだけの技量があった。

 大輔は倒れ伏す。

 倒れたまま起き上がることはなかった。

 まだ息がある。

 澄香は刀を大輔の胸に突き入れて止めを入れる。

 刀を通して伝わる鼓動が止まる。

 澄香は、人を殺したことに対する罪悪感はない。

 そもそも、自分が殺すと決めた相手を殺すだけだ。

 そこに善悪の区別はなく、あるのはただ自分の信念のみ。

 だが、それは澄香の事情であって、他人に押し付けるものではない。

 大輔は死んだ。

 澄香は、血振りを行って残心を決める。


 【残心】

 残心とは、技を決めた後も心身ともに油断をしないこと。

たとえ相手が完全に戦闘力を失ったかのように見えてもそれは擬態である可能性もあり、油断した隙を突いて反撃が来ることが有り得る。それを防ぎ、完全なる勝利へと導くのが残心である。

 この精神を詠った道歌に以下のようなものがある。


 折りえても 心ゆるすな 山桜 さそう嵐の 吹きもこそすれ。

(桜を手に入れたと油断するな。嵐が吹いてしまったらどうするのだ)


 武道の中には、剣道・柔道・空手・弓道・居合道など、技を行った後に特定の形(型 かた。体の構え)で身構える、相手との間合いを考慮して反撃方法を選ぶ、一拍おいて刀をおさめるといった一挙動を「残心」と呼ぶ。

 相手の反撃に瞬時に対応する準備と、更なる攻撃を加える準備を伴った、身構えと気構えである。


 澄香は刀を布で拭うと、鞘に納める。

 そこに、待っていたように3人の男達が集まって来る。

 澄香は気に留めない。

 男達は死体収納袋に大輔の死体を詰めると、どこかへと運び去っていく。一人は、血液除去剤ブラットールを散布して、血液の痕跡を消していく。

 そして、別に一人の男が澄香の近くに寄ってくる。

 20代後半の若い男だ。

 名前を、高坂たかさか正信まさのぶと言った。

 澄香に世戸大輔の始末を頼んだ依頼方の男であった。

 正信は澄香に頭を下げる。

「ありがとうございます。風花様、これで当方の道場の名誉が守られました」

 正信は礼を言う。

 しかし、その言葉に感情はない。

 淡々と事務的に言うだけだ。

 そんな正信の態度に、澄香は苦笑を浮かべる。

 だが、すぐに表情を引き締めて厳しい口調で言う。

「まさか。我々の道場の師範代が、麻薬の売人などと。しかも、女性ばかりをターゲットにするなどと、許せる訳がありません。

 かと言って、我々が挑んだ所で勝つことは出来ませんし、警察に通報すれば道場の名誉の失墜に繋がります……」

 正信は苦しい胸の裡を語る。

 澄香は黙って聞いていたが、興味をなくしたのか視線を外す。

「そんなことはどうても良いわ。それより、報酬とを教える約束はどうなっているの?」

 澄香の声には、わずかな苛立ちが含まれていた。

 その声を聞いて、正信はハッとした顔になる。

「その件ですが、どうか当道場までお越し下さい」

 正信は頭を下げる。

 その姿に澄香は疑念を巡らせる。

はかりごとを考えているのではないだろうな。例えば、私を始末するとかな」

 澄香は鋭い目で睨む。

 だが、正信は思ってもないことに驚く。

「滅相もない。報酬だけでしたら、この場でお支払いできますが、については、師範から口止めされておりまして。うかつなことをして、私も死にたくはありません。必ず、ご満足いただける情報を用意していると師範はいっておりました」

 正信は必死になって弁明をする。

 それを澄香は無言のまま見つめていた。

 しばらく沈黙が続く。

 やがて、澄香は大きなため息をつくと、仕方ないという風に答える。

「なら聞かせてもらうわよ。《なにがし》についての情報を」

 澄香の目の奥底に、妖しい光が宿っていた。

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