第2話

 6月1日、刑事の宇坪が訪ねてきた。「5月25日の16時頃何をしていた?」

「何かあったんですか?」

「いいから答えろ」

「その日なら友人と釣りをしていました」

 その友人っていうのは五十嵐だ。

 その日は『あらしやま』で抗争があり、五十嵐も絡んでいた。宇坪は小倉って出川哲朗に似てるな〜と思った。やばいよーやばいよー。

 宇坪はそのことを告げずに、残間と呂宋に張り込むように告げた。

 

 残間たちは小倉邸近くのアパートを本拠地とした。1日はスーパーで買い物をしたぐらいだったが、2日は和歌山城に出かけた。

 和歌山城は、和歌山県和歌山市一番丁にある日本の城(平山城)である。徳川御三家の一つ紀州藩紀州徳川家の居城である。城跡は国の史跡に指定されている。

 和歌山城は和歌山市の中心部に位置する標高48.9mの虎伏山山頂に建造され、北部を流れる紀の川を天然の堀とする。本丸の北側に二の丸が配され、その外に大きく三の丸が配された、梯郭式平山城である。


 徳川頼宣は1621年(元和7年)より城の大改修と城下町の拡張を始め、計画では完成時より更に大規模な城構えになる予定であったが、大規模な改修であったため幕府より謀反の嫌疑をかけられるほどであった。しかし、附家老安藤直次の弁明で事なきを得た。また、外堀も拡張して総構えにしようとしたが、これも幕府より嫌疑をかけられ中止させられてしまったため、堀止の地名が残っている。後、数度の火災に遭ったが、その度に再建された。現在、城跡として現存しているのは最盛期の4分の1ほどの面積である。


 その他、特徴としては時代によって異なる石垣の積み方などがある。それに、豊臣・浅野時代の石垣には刻印された石垣石がある。模様は約170種類、2,100個以上の石に確認されているが、その大半が和泉砂石である。


 明治維新後も本丸の天守、櫓群は遺ったが太平洋戦争末期の和歌山大空襲で焼失する。 現在は、本丸と二の丸が市立和歌山城公園となっており、本丸南西部には和歌山県護国神社があり、南の丸には和歌山城公園動物園がある。主に三の丸跡等には和歌山県庁舎、和歌山市役所や和歌山市消防局、和歌山地方裁判所・和歌山家庭裁判所・和歌山地方検察庁をはじめ公的機関や学校、商業施設、オフィス街、和歌山中央郵便局、県立近代美術館・県立博物館などがある。


 遺構として石垣、堀をはじめ、公園内には岡口門と土塀、追廻門が現存している。中でも岡口門と土塀は国の重要文化財に指定され、二の丸にある大楠は和歌山県指定天然記念物である。また、大小天守群とそれに続く櫓・門、大手門・一之橋が復元されてある。


 豊臣秀吉の弟・豊臣秀長は、1585年(天正13年)の紀州征伐の副将軍として参陣し、平定後に紀伊・和泉の2ヶ国を加増された。当時は「若山」と呼ばれたこの地に秀吉が築城を命じ、自ら「吹上の峰」を城地に選定し縄張りを行った。普請奉行に藤堂高虎、補佐役に羽田正親、横浜良慶を任じ、1年で完成させた。この際に「若山」が「和歌山」と改められている。


 1586年(天正14年)、桑山重晴に3万石を与え城代に据えた。重晴は本丸を中心に手直しを行った。1596年(慶長元年)重晴隠居に伴い孫の一晴が城代を継いだ。

 

 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの後、東軍に属した桑山一晴は正式に紀伊和歌山に2万石を与えられたが、まもなくして大和新庄藩に転封となった。その後、同じく東軍に属した浅野幸長が軍功により37万6千石を与えられ紀州藩主となり入城した。幸長も引き続き城の改修を行っている。1605年(慶長10年)頃、下見板張りの天守が建てられた。その後、長晟が土塁から石垣に改修した。


 1619年(元和5年)、浅野氏は改易となった福島正則の後、広島藩に加増転封となった。代わって徳川家康の十男・頼宣が55万5千石で入城し、南海の鎮となる御三家の紀州徳川家が成立した。頼宣は兄の2代将軍徳川秀忠より銀5千貫を受領し、これを元手に1621年(元和7年)より城の改修と城下町の拡張を開始した。しかし、この改修が大規模であったため幕府より謀反の嫌疑をかけられるほどであった。


 1655年(明暦元年)11月、西の丸に隣接する家臣屋敷より出火。西の丸・二の丸に延焼した。1813年(文化10年)には西の丸大奥より出火し西の丸御殿が全焼した。


 1846年(弘化3年)7月26日に雷雨があり、天守曲輪に落雷。御殿を除く大小天守など本丸の主要建造物が全焼した。当時の武家諸法度では天守再建は禁止されていたが、御三家という家格により特別に再建が許可され、1850年(嘉永3年)に大小天守等が再建された。


 1871年(明治4年)、全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(廃城令)により廃城となり、多くの建造物が解体もしくは移築された。二の丸御殿は、1885年(明治18年)に大坂城へ移築され、1931年(昭和6年)より大阪市迎賓館(紀州御殿)として使用され、戦後米軍施設として使用中1947年(昭和22年)失火により焼失した。


 1901年(明治34年)に本丸・二の丸一帯が、和歌山公園として一般開放された。


 1908年(明治41年)城内の二の丸に和歌山県立図書館が開館。


 1931年(昭和6年)に国の史跡に指定され、1935年(昭和10年)には、天守など11棟が国宝保存法に基づく国宝に指定された。しかし、1945年(昭和20年)7月9日のアメリカ軍による大規模な戦略爆撃(和歌山大空襲)により天守などの指定建造物11棟すべてを焼失した。


 1957年(昭和32年)、岡口門とそれに続く土塀が国の重要文化財に指定された。翌1958年(昭和33年)に天守群が東京工業大学名誉教授・藤岡通夫の指示を受け、鉄筋コンクリートにより再建された。


 1983年(昭和58年)には1909年(明治42年)に老朽化し崩壊した大手門と一之橋が復元された。


 2006年(平成18年)4月、二の丸と西の丸を結んでいたとされる御橋廊下の復元工事が竣工した。また、同年4月6日、日本城郭協会から日本100名城(62番)に認定された。


 2010年(平成22年)6月から、2011年(平成23年)2月にかけて、大天守(1層)や天守曲輪の一部に対し、クリーニング及び再塗装を実施した。


 今村組組長の息子、 今村貴一はやくざの世界を嫌い、やがて工事現場で派遣で働き始めるが、その現場を仕切る国見組は働き手たちに重労働を強いていた。貴一は怒り組に乗り込んだが、そんな時、貴一の父親、今村健三が子分の反逆でドスで刺殺された。貴一は背中に刺青を入れ、父の跡を継ぐ決意をする。

 

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