西野コーチ

 裕太の一日は、丹念に髭を剃ることから始まる。髭を剃った後は、コンシーラーで青髭を目立たないようにしていく。

 髭の処理が終わった後は、前髪を整えてから制服に着替え、朝食を取り始める。そして、家を出る前にもう一度鏡で髪の毛をチェックしてから、玄関のドアを開ける。

 女の子になってから、鏡を見る回数が極端に増えた。浩ちゃんにも相談したが、「女の子ってそんなものよ。」と軽く流されてしまった。


 マンション1階のエントランスで、浩ちゃんと待ち合わせして駅に向かう。

「今日はスラックスなんだね。」

 今日の浩ちゃんは、スラックスにネクタイの組み合わせだった。

「今日はなんとなく、そんな気分だったの。」

「私も、たまにはスラックスでもいい?」

「裕ちゃんはダメだよ。今、スラックスにしたら、スカートの歩き方忘れちゃうでしょ。」

 裕太の願いはあっさり却下されてしまった。でも、不思議と嫌な感じはしない。

「ほら、襟のところゴミがついてるよ。ちゃんと鏡見た?」

 浩ちゃんが手を伸ばしてゴミを取ってくれた。憧れの浩ちゃんとは、すっかり姉と妹のような関係になってしまった。でも、中学の頃のように素っ気なくされるよりは、こっちの方がいい。


「この関数は、Xが2の時最小値を取るので・・・」

 本田先生が黒板に数式を書きながら、問題の解説をしている。今日の本田先生は、黒のボウタイブラウスにピンクのスカートを合わせている。きれい目な感じでまとめながらも、どこかにかわいらしさを感じる。

 男であることを知らなければ女性の先生だと思うし、他の女性の先生よりも仕草に女性らしさを感じる。つい見惚れてしまうが、今は授業中と思い授業に集中することにした。

 授業が終わり、日直である自分と隣の席の吉川さんとで黒板を消す。入学初日に注意されて以来吉川さんが自分に絡んでくることはないが、それでも敵意のある態度は変わらず、席が隣であるにもかかわらずあまり話もしない。


「裕ちゃん、お弁当食べよ。」

 お昼休みになり、篠原さんがお弁当を持ってきてやってきた。いつの間にか右隣りの橋本さんと、3人でお昼ご飯を食べるようになっていた。呼び名も、篠ちゃん、佳那ちゃんと呼び合うようになって仲良くなっていた。

「裕ちゃん、今日西野コーチが来る日だね。私、西野コーチ好きなんだ。」

 同じバレー部の橋本さんは、楽しそうに話している。部活動の外部委託の一環で、OBの西野コーチが仕事の休みの日に教えに来てくれている。西野コーチ以外にも数名OBのコーチが教えに来てもらっているが、教え方が丁寧で親しみやすい性格もあり西野コーチはみんなに好かれている。

「そうだね。西野コーチって、本田先生と同級生だったらしいよ。」

「そうなの。」

「うん、この前来た時に聞いたよ。ところで、篠ちゃんの吹奏楽部も外部のコーチっているの?」

「うん、いるよ。市の吹奏楽団の人たちに教えてもらっている。そうそう、私にクラリネット教えてくれている小島さん、とってもかわいいんだけど男なんだよ。この学校出身じゃないけど、高校時代好きな男子に好かれるために女の子になったんだって。すごいよね。いいな~、私もそんな恋したい。」

 篠ちゃんと佳那ちゃんが恋バナで盛り上がっている横で、「好きな人のために女の子になる」好きな人の性別は違うが、今の自分と同じ境遇な人もいたことに自分も救われるような気がした。


※好きな人のために女の子になった小島さんのことをもっと知りたい方は、拙著「君をすきになるまでの100日間」を読んでください。同じカクヨムにあります。


 授業が終わり部活の時間となった。裕太はボールを拾ったり、汗で滑らないようにこまめにモップをかけたりと、マネージャとして裏方の仕事を一生懸命やっていた。

 作業の合間、浩ちゃんが練習している姿を横目で見る。いつもの優しい笑顔と違い、真剣な表情で練習する浩ちゃん。どっちも好きだ。

「10分、休憩。」

 西野コーチの声が体育館中に響いた。

「お疲れ様です。ドリンク飲まれます?」

 裕太はスポーツドリンクの入ったコップを西野コーチに渡した。

「ありがとう。松下さん、1年生だけどもうスカート履いてるんだって。」

「はい。」

 まだ男なのにスカートという思いがあり、返事に恥ずかしさがこもる。本田先生や篠ちゃんのようにはなれない。

「私が高校のころは、早くても1年生の秋ぐらいにならないと、男子はスカート履き始めなかったけど、最近は早いね。男子も増えたし。時代は変わったね。」

 時代が変わったというほど西野コーチとは年齢は離れていないはずだが、その分近年急速に男子のスカート着用のハードルが下がってきてるのかもしれない。


 練習が終わり、西野コーチの前に集合して整列をする。

「練習、お疲れさま。各自、今日練習で覚えたことは忘れないように、練習ノートに書くように。言語化することで、「なんとなく」から「意識して」に変わるから。」

 西野コーチが練習の総括を終えた。

「あっ、ごめん。最後にみんなにご報告があります。」

 西野コーチがそれまでの真剣な表情から、照れくさそうに言葉を付け足し始めた。

「この度、入籍しまして姓が西野から、森田に変わりました。もちろん、指導は続けていくので、今後ともよろしくお願いします。」

 突然の結婚報告にみんなが驚いた。


「西野コーチ、この学校の同級生と結婚だって。高校から付き合い始めて、結婚ってすごいよね。」

 帰り道、浩ちゃんが感心したように話している。高校時代に付き合い始めて、結婚。できれば、浩ちゃんともそうなりたいが、妹扱いされている今のままではと思ってしまう。



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