エピローグ
高木は『スペード』を訪れた。
オープン前で従業員が店内の清掃をしていた。準備段階を見ると、あの煌びやかな世界観は作り物なんだとよくわかる。
高木は黒いレザーソファに腰かけて須田を待った。
須田は水の入ったグラスを二つ持ってきて、須田の対面に座った。
須田の若々しく見えた顔は、疲労のためか今日はいつもよりずっと老けて見えた。
「今日はどうされたんですか。事件は解決したんでしょう。ニュースで見ましたよ。」
須田は雑な拍手を高木に送った。
「そうですね。」
「それで、わざわざ捜査協力した私に報告しにきたんですか。意外と警察は義理深いんですね。」
「それもありますが。まだお伝えできてないこともありまして。」
「結局事件の被害者の女性が、“心”さんだった。私に必要な情報はそれだけです。」
「意外と冷たいんですね。」
「私と“心”さんは雇い主と従業員の関係。亡くなった人を悼む時間があるのなら、彼女が抜けた穴を埋めることに費やしたい。」
須田は喉を鳴らして水を飲んだ。
須田をよく見るとネクタイが緩み、微かにアルコールの臭いがすることに高木は気がついた。
「どうしても気になっていたことがあったんです。」
「これ以上の受け答えは時間の無駄。お帰りください。」
須田は煙草に火をつけようとした。
「安斎正則はこの店に出入りしていない。」
高木の言葉で須田の手が止まった。
「最初に須田さんと出会って、あなたや常連客から安斎のストーカー話を聞かされた時から違和感はありました。あなたはともかく、常連客が皆口を揃えて赤の他人の安斎のことを良く覚えている。まるで口裏合わせをしているかのように。」
高木は須田の顔を見ながら言った。
須田は火をつけることなく、煙草灰皿に捨てた。
「そして、あなたから安斎のストーカー話を聞いた後、すぐに安斎が自首した。動機、凶器、自供が同時に手に入りました。さすがに上手くいき過ぎでしょう。」
「何が言いたいんですか?」
須田の瞳が揺れる。
「須田さん。あなたは肥後院長の犯罪に加担した。私はそう思っているんです。」
高木は貰った水に手を全くつけなかった。飲めば須田の一瞬の変化を見落とすかもしれない。
「証拠はあるんですか。」
高木は小さく笑みを浮かべ、水を口に含んだ。
「証拠はありません。それにあなたの罪を問うつもりもない。あなたはもう重い十字架を背負っている。」
高木がそう言うと、須田の笑みは消え表情は曇った。
須田は従業員をフロアから控え室に移動させた。
高木はフロアに二人になったことを確認して、口を開いた。
「あなたと“心”さんは父子ですよね。」
氷が解け、グラスが鳴る。
「DNA鑑定をしたんですね。」
「捜査の一環ですので。」
高木が表情を崩さず言うと、須田はネクタイを外し立ち上がった。
「お酒を飲んでもいいですか。」
須田が尋ねると、高木は小さく頷いた。
須田はカウンタ―に向かい、ウイスキーを手に取りトワイスアップを作って戻ってきた。
ウイスキーの豊潤な香りが広がる。
須田はゆっくりウイスキーを口に含み、アルコールが脳に届くのを待ってから話し始めた。
「娘はお客の女性の間に意図せずできた子だったんです。二〇歳の私は自分の生活すらままならない、ちっぽけなホストでした。家族を養うなんて到底できるわけない。私は認知せず、店から逃げ出しました。最低な人間です。」
高木の呼吸が少し荒くなる。
「私は逃げるようにして仕事に没頭しました。仕事をしている時だけは、何も考えずにいられました。幸い仕事の方は順調でした。ホストとしても人気が出て、経営陣に組み込まれました。その頃の記憶はあまりの忙しさにあまり覚えていません。目の前のことをクリアするのに必死でした。それでも罪の意識は抜けませんでした。時間ができれば、空白を埋めるように逃げた記憶が膨張して脳を埋めました。逃げ出してから一九年経過し、私は独立し自分の店を持ちました。それがこの会員制クラブ『スペード』です。順風満帆とまで言いませんが、見ての通りこれだけの従業員を雇えるようになりました。」
須田は両手を広げて自慢して見せたが、その顔は寂しそうだった。
「この店は、『スペード』は娘の社会的な死の上に成り立っているんです。」
「トランプのスペードは夜そして死を意味する。」
高木はそう言って水の入ったグラスをどかし、黒のスペードが描かれたコースターを手に取った。
するとコースターの意外なデザインに意図せず気がついた。
黒いスペードの裏には、小さく赤いハートがプリントされていた。
須田は話を続けた。
「店が軌道に乗り始めたある秋でした。夜の繁華街の道のわきで、汚い毛布に包まって体育座りしている“心”に出会いました。家出の子やホームレスの子ならたくさんいる街でしたが、“心”はそのどちらでもないように思えました。“心”は世を恨んでいるわけでも嘆いているわけでもなく、初めて世界を見た赤子のように、ただ目を丸くして流れゆく街の風景を眺めているようでした。」
高木はビデオカメラで見た“心”が道端で座っている想像をした。
「一度はそのまま通りすぎましたが、“心”のことが気になり引き返しました。すると“心”はお腹を抱えて身体をひきずって、路地裏に消えようとしていました。私は思わず声をかけました。人手は足りているのに、“心”に店で働ないかと誘いました。あの子は二つ返事で了承しました。」
「大胆なことをしますね。」
「自分でもそう思います。ただの贖罪のつもりでした。生きていれば年齢も同じくらいの少女を救うことで、自分が救われようとしたんです。」
須田はそう言ってウイスキーを多めに口に含み、自虐的な笑みを浮かべた。
「でも“心”さんはただの少女ではなかった。」
高木は須田に言った。そして“心”の動画を須田に見せた。
須田は、表情を変えることなく静かに動画を観た。高木も何も言わずに須田の言葉をまった。
「わが子とは思えないほど、真っ直ぐな子だ。」
須田は背もたれに体重を預け、高い天井を眺めた。
「いつ“心”さんが自分の子だと気がついたんですか?」
「あの子を肥後院長の元に紹介する前のことです。ある時気心の知れた常連客が初めて新人の“心”を指名してくれました。私は自らサポートに入り、何とか次回につなげようとしました。」
『不愛想なところはオーナーによく似ているよ。親子かと思った。』
「その常連客に言われた時はただの冗談だと流しました。ただ、よく思い出してみると“心”が最初に座っていた場所。初めて“心”と出会った場所は、私が逃げた女性の家からすぐの場所でした。そして“心”から聞く母親の特徴とその女性には似通った点がいくつもありました。私は彼女に黙って親子鑑定を依頼し、そして私は“心”が娘だと知りました。一度逃げた私がこんなこと言うのもおかしな話ですが、“心”が娘で良かったと本当に思いました。これでなんの躊躇いもなく、彼女のこれまでの辛く悲しい人生をすべて背負うことができる。そう思ったんです。」
そして須田はここからウイスキーに口をつけることなく、話した。
「そこから私は、まず彼女のメンタル治療を始めました。どうせなら腕の立つ医師に診てほしい。だから近くのクリニックではなく、遠くの星メンタルクリニックの肥後院長を選びました。治療が始まって数か月すると、“心”に表情がでるようになりました。笑ったり、怒ったり、泣いたり、喜んだり、今までになかった娘の表情を見れて私は幸せでした。最初は治療がうまくいっているんだと、素直に喜びました。」
「しかし、“心”の様子が徐々におかしくなりました。仕事中も頻繁に席を外れては、トイレに駆け込んでいるのを私は見ていました。そして戻ってきたと思えば、こちらが心配になるほどテンション高くお客と話していました。私は治療が思わぬ方向に向かっているんじゃないかと思い、肥後院長を訪ねてましたが、問題ないの一点張りで私には見守るしかできませんでした。」
「そしていつの間にか彼女は私から距離を置くようになりました。私が“心”のために借りていたアパートをでて、肥後院長が用意したシェアハウスに住むようになりました。それでも『スペード』での仕事はいつも通りこなしていたので、深く考えないようにしました。年頃の娘なんてそんなものなのかもしれない。そんな浅はかな考えでした。今思えば私は逃げてばかりです。そんなんだから、こんなことになってしまった。」
須田は一息つき、残ったウイスキーを一気に煽った。
「あの子が急に店に来なくなり、私は再度肥後院長に連絡を取りました。肥後院長は私に、今“心”の精神状態が不安定でクリニックで隔離していると言いました。また、隔離する前に事件に巻き込まれた可能性があり、警察が“心”のことを訊きにくるかもしれないとも言いました。戸籍のない“心”が見つかれば、治療にも影響してくる。だからカモフラージュに協力してほしいと依頼を受けました。」
「安斎正則のことですね。」
「はい。安斎は私の店に来たこともありません。私の嘘です。」
「賢いあなたならそんな怪しい話はすぐに疑ったはず。本気で信じたんですか?」
須田はテーブルから一枚の写真を取り出した。
そこには満面の笑みの“心”と優しそうに笑う須田が二人で映っていた。
高木が初めてみる“心”の笑顔。ビデオカメラに写っていた“心”とは別人に思えるほど、眩しく輝いていた。
「父親が一番見たいと思う表情を、嘘でも見せてくれた肥後院長をどうして疑うことができますか。私にはできなかった。」
須田の言葉が揺れる。
「でも今となれば、それも親のエゴイズム。私は父親失格です。二度も父親としての仕事を果たせなかった。」
そう言って須田は写真を胸に涙を零した。
消え入りそうな声で何度も、何度も謝りながら。
*
「哀川さんはこれからどうするの?今回の件、記事にする?」
楽は哀川に尋ねた。
二人は随分と閑散となったコアに残っていた。リビングのテーブルで向かいあって座って話した。
「そうね。記事とか本にしたら売れるかもね。外にいる煩い記者達よりは、真実に近い記事にできそうだし。」
「でもしないんでしょ。哀川さん、なんだかんだコアのこと好きだからね。」
楽は自然に微笑んだ。
哀川は正直悩んでいた。
真実を伝え、悪いことを悪いと言える正義を貫いてきた自分が、降りかかった事件を語らないのは矛盾していないか。自浄作用がないのではないか。
だが、こうも考えていた。これ以上責めることにどんな意味がある。
人を殺めた安斎と怒賀、その二人を操っていた肥後、怒賀を脅迫していた聡美。
それぞれが罰を受けた。もうそれでいいじゃないか。
少なくとも自分が一緒に暮らしてきた怒賀は、メディアが報道する極悪非道な人間ではない。
おそらく会社からも、事件の報告のお達しが届くだろう。断れば解雇になるのは目に見えていた。
外では記者達が怒声に近い大声で、哀川と楽の名前を叫んでいた。
「メディアからしたらおもしろい事件なんだろうね。これだけ人が集まるってことは。」
楽は楽しそうに言った。
こんな状況でも、楽は笑顔を作れるほど、楽は今回の事件を昇華できている。
一番幼かった楽が、一番馬鹿にしていた楽が、前に進もうとしている。
哀川には子供がいないが、子供の成長は嬉しいとともに少し寂しく感じるという。
きっとこんな感情なのだろう。
哀川は小さく笑った。
「私は今回のこと記事にはしない。そしてここを出ようと思う。」
「喜内さんも出ていったしね。」
楽は喜内がいた部屋の方をみて言った。
最初にコア内で話が合った通り、怒賀を除いて社会的ダメージを最も受けたのは喜内だった。喜内が何かしたわけではないが、同居人から殺人犯がでたこと、無自覚ではあるが違法薬物がコア内で使用されていたことがやはりまずかった。風評被害を避けるため病院は喜内を解雇という形で切り捨てた。
いくら貢献してきても、病院も所詮は会社である。
それでもさすが喜内といったところだろうか。退職が決まった次の日にはコアを出ていった。
「ここでウジウジしていても何も変わらない。こんな僕でも雇ってくれる病院を探すよ。僕に残っているのは手術の腕だけだからね。」
そう言って快晴の秋空のもと旅立った。
「楽はどうするの?」
「うーん。すぐに行く先はみつからないから、もう少しコアにいるよ。やりたいことが見つかったら出ていこうかな。」
楽は頬杖をついて答えた。
たしかに楽は不定期にバイトしているだけだったから貯金も多くないはずだ。すぐに引っ越しというのも難しいのかもしれない。
「そっか。じゃあお別れだ。」
「そうだね。」
「またどこかで会おうね。」
哀川は楽に握手を求めた。楽は恥ずかしながらも手を差し出し哀川と握手した。
哀川はもうコアの人間と会うことはないだろうと思っていた。
哀川は目に熱いものを感じた。そして頬を伝って床に流れ落ちた。
嘘の再会の約束をして、涙を流せる自分は正しい在り方なのだろうか。
感情を求めすぎて、自分の中に作り上げた虚構の感情じゃないか。
この涙は一〇〇パーセント真実でもないが、一〇〇パーセントの嘘でもない。今わかることはそこまでだ。
哀川は荷物をまとめてコアを出た。楽が最後にみた哀川の姿はフラッシュを大量に浴びながら、力強く歩く後ろ姿だった。
楽はコアに一人になった。
部屋に戻り、ジーパンのポケットから青い錠剤をとりだし机に置いた。
引き出しをあけて二重底をはずした。そこには最後に楽が描いた無表情の“心”の似顔絵が隠されていた。
「ごめんね、“心”。それでも僕はやっぱり笑った君が好きなんだ。」
楽はそう言って、無表情の“心”の似顔絵を破いて捨てた。
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