第六章 死神
喜内はいつも通り仕事終わりにタクシーに乗った。
前回“心”がタクシーに乗りこんできたせいで、聡美を放置する形になった。
スマートフォンも奪われたから言い訳もできなかった。
あの後の状況説明は、海外の学会の質疑応答よりも難解であった。
もう“心”はいない。自分の生活をかき乱すやつはいなくなった。
しかしあんなあっけない終わり方とは、なんとも儚いものだ。
喜内はスマートフォンをいじりながら、SNSを眺めた。
美男美女が自分との写真をアップして、思い出を脚色して語っている。
高級レストランの写真、オーシャンビューの別荘の写真、グランピングの写真、クルージングの写真。
決して自分ではアップしない。誰かがアップして自分がタグ付けされることがもっとも良い。
自分から自慢するなんてみっともなくてできやしない。
四つのSNSの一日分の投稿を確認し終わると、電話がなった。
聡美からで、今日のディナーのキャンセルの連絡だった。聡美がドタキャンするとは珍しい。まだ怒っているのだろうか。
そんな月並みなことを考えていると、突然ドアが開いた。
「今日は美女との密会はないんですか?」
喜内が横をみると、声の主は高木であった。
高木はそのまま喜内の許可をまたず、タクシーに乗り込んだ。
喜内はたびたび予定が崩れることに苛立ちを感じた。
「なんですか。仕事の時間を邪魔しなければ、プライベートの時間をいくら潰してもいいわけじゃないでしょ。」
喜内は苛立ちを包み隠さず、そのまま高木にぶつけた。
高木は何も言わず、じっと喜内の顔を見た。
「なんなんですか。」
「あんた。“心”さんが何者か、知っていますよね。」
高木の言葉に、喜内は呆れたように答えた。
「高木さん。ブラフを繰り返すのはつまらないですよ。」
「そうですかね。」
高木のとぼけた顔に喜内はさらに苛立った。
「事件は解決したんですよね。あなたが独断で捜査されているんだったら、これ以上協力する必要性はないは、、、。」
喜内の口が止まった。
高木が一枚の写真をジャケットの内ポケットから見せていた。
そこには喜内と肥後がバーらしき所で話している場面が映し出されていた。
喜内の額に汗が光る。
「この写真はある店の防犯カメラのものです。心当たりは?」
高木の涼しい顔が、嘘が無駄な状況であることを物語っていた。
喜内が愛用する、あのバーであった。
「自慢が過ぎると敵を作りますよ。あなたがよく使うタクシーの運転手達が、あなたがよく行く場所をべらべら話してくれました。いつも美人ばかり連れているから嫉妬でもしてたんでしょう。」
喜内は車内にいる運転手のフロントミラー越しににらみつけた。運転手は目線を逸らして窓の外を眺めた。
喜内は怒りに震えた。タクシーの運転手達にではない。
「口の堅いバーのオーナーなら信頼できるとでも思いましたか?我々は警察です。なんとでもなる。例えば違法に客を宿泊させていたことを強請るとかね。」
高木は笑顔を作りながらも、目は笑っていなかった。
「別に、肥後院長と会うことくらいあるでしょう。医者と患者なんだから。」
「そうですね。でもこの映像よく見てください。あなたが手に持っている写真。」
そういって高木はスマートフォンを取り出し、監視カメラの動画を流した。
画面の中の喜内が持っている写真には、一人の女性が映っていた。
「この写真の女性とあなたは、このバーで一緒に過ごしたことがある。その時、あなたはこの女性のことを“心”と呼んでいた。」
高木から次々に暴露される情報に、喜内は対応しきれず黙るしかなかった。
「さらに、最初の肥後院長とあなたが“心”さんについて話している動画は、“心”さんがコアに入居したとされる日よりもずっと前のことです。これはどういうことか、話してくれますよね。」
高木は有無を言わせない威圧感を醸し出していた。
外では救急車が病院に到着したため、けたたましくサイレンが鳴っていた。
「私は何もしていない。」
喜内が絞りだした言葉だった。
「肥後院長から“心”さんをコアに入れるように指示された。そんなところでしょうか。」
喜内は驚いて、高木を見た。
「じゃないと不自然だ。身元不明の人間と共同生活するなんて、自分の地位を守りたいあなたが一番拒絶するはず。でも、あなたは率先して“心”さんを迎え入れている。違和感しかない。」
高木の推理に喜内は両手を挙げて降参した。
「高木さんの言う通りです。肥後院長の指示で“心”をコアに入居させました。」
肥後は喜内にこう言ったという。
喜内君は何もしなくていい。“心”がコアで何をしても、何が起きても見て見ぬふりをすればいい。そして私も“心”とは何の関係もない。“心”は自分からコアに入居してきた。そういうことにする。
喜内は何も言わず従った。
「肥後院長はなにか目的など言っていませんでしたか?」
「全く。肥後院長の考えていることは全く分かりません。ただ。」
「ただ?」
「彼女がコアに来てから、コアの雰囲気が変わった。それが良い方になのか、悪い方になのかわかりませんが。少なくとも私は“心”に対して、これまでの女性に感じたことのないものを感じていました。よく言えば好意。悪く言えば支配欲。自由奔放な彼女を自分の思い通りにしたい。そんな風に思っていました。」
話し終わった喜内はどこか嬉しそうに高木には見えた。
「最後の質問です。あなたがリスクを負ってまで、肥後院長の言うことに従う理由は?」
高木は一番の謎だった質問を喜内にぶつけた。
喜内は鼻で笑った。
「そんなの単純なことですよ。主治医だからです。心身共に健康な高木さんにはわからないかもしれない。私の心の病が良くなるのも悪くなるのも、肥後院長次第。そして肥後院長の腕は一流だ。他の医師のもと治療を受けていたら、きっとわたしはもっと前に駄目になっている。」
喜内は頭をヘッドレストにつけて目を閉じた。
高木は後ろから押していた手の正体に近づいている確信があった。
タクシー内に着信音が鳴り響いた。喜内のスマートフォンだった。
喜内が画面を見ると、楽から電話がかかってきた。
「もしもし。どうした?」
楽から電話なんて相当珍しいことだった。
「喜内さんに見せたいものがあって。」
楽の声は未だかつてないほど真剣だった。
「事件と関係するものかい。」
「すごく。」
喜内は高木に目配せした。高木は運転手にコアへの行き方を伝えた。
「わかった。今高木刑事といるんだが、一緒にみても平気?」
「是非見てほしい。」
喜内はすぐ帰ることを伝え電話をきった。
高木と喜内はこれから知るだろう新事実に身構えた。
*
本日最後の患者の診察が終わり、肥後は掃除と書類整理を淡々とこなしていた。導入した機器で仕事をシステム化することで時間や人件費を節約できているが、アナログの部分はすべて一人でやらないといけないのは、やはり疲れる。
肥後が部屋の備品補充をしていると、入口の自動ドアが開いた音がした。
足音が聞こえない。
肥後の心拍数が上がる。
診察室のドアがゆっくりと開く。
警戒する肥後の前に一人の女が立っていた。見たことのない女だ。
「肥後先生ですね。」
女の言葉は断定に近い確認に肥後は思えた。
「そうですが。そちらは?」
「石川聡美と申します。率直に用件だけ伝えます。コアドラッグを渡してほしい。」
聡美はコアで盗聴した、“心”の証言の音声データをスマートフォンで流した。
「あまり時間がないの。あなたはすぐに逮捕されるわ。違法薬物と殺人に関与した罪で。警察にも情報が入っている。もしこのままこのクリニックやあなたの家に捜査のメスが入ればすぐに証拠も見つかる。でも。」
聡美は肥後に手を差し伸べた。
「その前に、あなたと全く関係のない私がコアドラッグを管理すれば、隠し通せる。黒に近いグレーであっても、黒にはならない。そうでしょ。」
「初対面のあなたをどうして信用できる?」
肥後の言葉に聡美は自慢の笑みを浮かべた。
「コアドラッグが世に知れたら、厳しく規制されてしまうでしょう。そうなったらコアドラッグが入手困難になってしまう。それは私も困る。これが理由です。」
肥後の顔が柔和になる。聡美は勝ちを確信した。
だが、肥後の口からは期待した答えは返ってこなかった。
「そうですか。ただ残念ですね。わたしは打算的な女が嫌いでね。」
肥後がそう言うと、聡美は一歩後ずさりした。
背中が何かにあたる。
聡美が振り返ると、お腹に激痛が走る。
その場に倒れ、顔だけを何とか上げると見知った人物が立っていた。
「怒賀。」
そこにはスタンガンを持った怒賀が立っていた。
*
高木と喜内はタクシーでコアにむかう途中哀川を職場で拾い、四人で楽が持つ動画を観た。喜内と哀川は言葉を失っていた。
高木の提案で四人は星メンタルクリニックに高木の車で向かっていた。
助手席の喜内は生気の抜けた顔をしていた。
「怒ってるのか?“心”さんに。」
高木は喜内に尋ねた。
「自分でもわかりません。たぶん怒ってないわけじゃないと思います。ただ、それ以上に虚しいですね。ようやく手に入れた感情が人工物だと聞かされて。」
喜内は窓の外を眺めながら言った。
「意外と脆いんですね。喜内さんって。」
楽は後部座席からぼそっと言った。
「お前に俺の何がわかる。自分だけ普通の人間とわかった途端上から目線だな。それとも何か。“心”とセックスして一人前になったつもりか。ただ利用されただけなのにな。」
喜内は振り向くこともなく、毒を吐いた。
「さすがに言いすぎだろ。」
哀川が宥めに入った。
次の瞬間、楽が後ろから喜内の首を腕で閉め始めた。
喜内は必死に暴れるが、完全に腕が入ってしまい抜け出せずにいた。
哀川も懸命に楽を止めにはいるが、普段は弱弱しい楽から想像できない力が込められ止めることができなかった。
喜内の顔が赤くなり、目の焦点がぶれてくる。
突然、車内から激しい爆発音がした。
高木以外の三人の目が丸くなる。
高木が左手で銃を喜内のシートにむけて撃っていた。
「お前らいい加減にしろよ。こんな風になるために、“心”は命を落としたわけじゃないだろ!」
少しだけ開けた窓の隙間から、冷たい秋風が入ってくる。そんな季節の変わり目を話題にできるほど、車内の雰囲気は軽くなかった。
「怒賀さんは連絡つかないのか?」
高木は一息ついて、落ち着いた声で哀川に尋ねた。
「ず、ずっと電源切っているみたいで。」
哀川は初めての銃声に怯えた声で答えた。
高木達が星メンタルクリニックのビルに到着した。夜遅いため、すでにドアは施錠されていた。
高木が辺りを見渡し、何かを探して走り始めた。哀川達三人も後を追った。
高木は外に漏れ出す灯りを見つけ、ビル内に入っていった。
そこは警備員室だった。
「すいません。私は中央警察署の刑事の高木です。星メンタルクリニックの肥後院長に話があって来たんですが。」
高木はなかにいる警備員の中年の男に声をかけた。男は机に脚をおきならが、週刊誌を読んでいたが、すぐに姿勢を正して近づいてきた。
「警察の人?何か悪いことでもしたんですかい?」
男はどこか嬉しそうだった。
「話を聞きにきただけです。」
高木は、何も教える気がないことがわかるように男に言った。
それが伝わったのか、男は明らかに不機嫌になった。
「肥後院長も大忙しだね。今日は時間外の来客がいっぱいだ。」
「いっぱい?私達の外にも来ているんですか?」
「女の人が二人入っていったよ。最初は火遊びの臭いがプンプンしたよ。一人目はすごい美人でさ。院長の愛人だと思うな。」
男は今度はニヤニヤ笑いながら言ってきた。明らかに哀川に向かって話しかけていた。
哀川は眉をひそめた。別にこの男は何も悪いことをしていない。悪ではないのに湧いてくるこの不快感。こういったゴシップ好きな人間に、自分の仕事が支えられていることを目の当たりにすると自分のやっていることが正義なのか揺らぐ。
そんな哀川を気にすることなく男は続けた。
「だけど次にまた女の人が入ってきてな。その人はこうぱっとしないというか、どちらかというとイケてないタイプでさ。その上不愛想な感じ。まあこの時間に二人とも院長が許可してクリニックに向かったんだから、院長も物好きだよなぁ。」
男が哀川に近づこうとした時、高木が割って入った。むっとする男に高木は友好的な笑顔で交渉した。
「そしたら私達も中に入れてください。警察の権限で面白いものが見られるかもしれませんよ。」
高木がそう言うと、男は手のひらを返したように乗り気になった。
「いいねえ。前から気になっていたんだよ。」
男はそう言って懐中電灯を警備員室から取り出し、五人は職員用のエレベーターに向かった。星メンタルクリニックのある一二階に着くと、男は案内人かのようにクリニックを小声で紹介してきた。
「ここ精神科のクリニックなんですけど、ここの院長は実は訳ありなんですよ。」
「というと?」
「実はなんと、ここの院長の奥さんは昔に頭のおかしいやつに殺されてるですよ。」
「頭のおかしいやつ?」
「精神疾患をもっていた若い男だったらしいよ。街中で急に包丁を振り回してさ。通り魔ってやつ?一〇人以上の死傷者がでた大事件になっちゃって。その時の被害者が院長の奥さんだったってわけ。」
男は真剣な顔を作って、高木に語り部のように話した。
「普通の人なら、悲しみにくれたり、怒り狂ったりするだろ。それなのにあの院長は、奥さんを殺した男も精神疾患の被害者の一人と考えた。もともと外科医だった肥後院長は精神科に専門を変えて精神疾患患者の治療にあたった。いやいや、変人というか聖人というか。」
「なんでそんなこと知っているんですか?」
高木は疑いの目を男に向けた。男もその視線の意味を感じ取ったのか言い訳をはじめた。
「週刊誌ですよ。すごい印象的な事件だったし。」
「それだけですか?」
「それだけだよ。変に疑わないでくださいよー。」
高木が男を詰めていると、喜内が高木に声をかけた。
「扉。空いてますね。」
喜内はクリニックの扉がわずかに開いていることに気がついた。
高木を先頭に五人はクリニック内に入っていった。
「肥後院長。いらっしゃいますかー。中央警察署の高木です。」
高木は奥の診察室に向けて話しかけた。
少し間が空いてから、肥後院長が診察室から出てきた。
「これはこれは高木刑事。こんな時間までお疲れ様です。今日はどうされましたか。」
肥後は笑顔で高木達を出迎えた。
「遅くに失礼します。肥後院長にお尋ねしたいことがありまして。」
「私の知っていることは、全部あなたにお話ししましたが。」
高木と肥後はお互いの出方を窺った。
その均衡を破ったのはどちらでもなかった。
「知ってますよね。“心”のこと。」
震えながらも声をあげたのは、後ろにいた楽だった。
喜内と哀川は怒りに震える楽を見て驚きを隠せなかった。いままでそんな楽を見たことなかった。
「楽君。私は今まで君達患者に嘘をついたことはない。」
とぼけたように答える肥後に、楽はビデオカメラを見せた。
「この中に“心”の証言が入っています。あなたとの関係性について話しています。」
楽は必死に怒りを堪えていた。これまで楽の治療に当たってくれたことへの、楽なりの配慮なのだろう。
「徳田先生も“心”さんの紹介元は肥後院長だと証言しました。」
高木は楽を援護するようにつけくわえた。
「知りませんね。なんの話をしているのか、皆目見当もつかない。あなた方は身元もわからない人と怪しい薬を開発していた人の話を鵜呑みにしてここにやってきたんですか。正気の沙汰とは思えない。」
肥後は子馬鹿にするような態度でせせら笑った。
楽は我慢の限界に達していた。前に出ようとする楽を、高木が制止した。
「たしかに片方の供述だけを信じるのは、平等性に欠けます。」
「そうでしょうね。」
「だからあなたの潔白を証明するために、家宅捜索をさせてください。もちろん、このクリニック内も。」
高木は捜索差押許可状を内ポケットから出した。
「いつの間に。」
哀川は高木の用意周到さに声をこぼした。
肥後は顎をさすりながら、ふんふんと頷きはじめた。
「よほど、その“心”さんという人のことを信頼しているんですね。」
肥後は自分を睨みつける楽を見ていった。
肥後の笑みに余裕を感じたのは、高木だけではないはずだ。
「いいでしょう。もちろん捜査には協力しましょう。」
肥後は両腕を広げた。
「しかし、それで私の仕事に悪影響がでるのは納得できない。そうだ、哀川さん。あなた週刊誌の仕事をやってますよね。もし今回の警察の判断が間違いだった場合、大きく取り上げていただきましょう。」
肥後は笑みを崩さず哀川に言った。哀川は答えに詰まった。
肥後がこれだけ余裕を見せるということは、証拠はすでにすべて隠したということを物語っている。
「どうしました。この警察の行動はあなたの正義に反してはいませんか?そういった過ちを世に発信して、社会的制裁を与えることが哀川さんの役目でしょう。」
肥後は哀川に左手を向け、高木に右手を向けた。指揮者が場を掌握しているかのように。
「高木刑事。本当はあなたが一番わかっているはず。現状私を叩いても何も見つけることができないと。賭けにでるには時期尚早でしたね。」
そんなこと高木はわかっていた。しかし、これだけ手詰まりな状態を考えれば、決定的でなくてもわずかな証拠でも手にいれる必要がある。
おそらく先ほどクリニックを訪れた女性二人は協力者の可能性が高い。そしてタッチの差で証拠を隠された。
ビデオを確認したのはコア。つまりコアにいた人間。
または、、、コアを盗聴していた人間。
高木はクリニック内を見渡した。以前描いたクリニックの絵を、頭の中に複写した。
非常階段へ繋がる扉の前の床に、何かをひきずった痕が残っていた。
おそらくあそこからコアドラッグをもって逃げたんだ。今から追いかけても肥後が時間稼ぎで止めにはいるだろう。
高木は扉を睨んだ。肥後はその様子に気がついていたが、ただ眺めていただけたった。
肥後の完全勝利だった。
敵地での敗戦ムードを切り裂くように、突然非常扉が開いた。
クリニック内全員の視線が扉に視線が集まる。
そこにいたのは怒賀だった。怒賀の左手には黒いリュックがぶら下がっていた。
「怒賀さん。」
喜内が話しかけたが、怒賀は反応しなかった。その代わり怒賀は肥後の方を見つめていた。
高木が怒賀の視線を追うと、肥後が青ざめた顔をしていた。
「怒賀君。どうしたんだ。診察は終わったから帰っていいんだよ。」
肥後は明らかに動揺していた。
肥後とは対照的に、怒賀は覚悟を決めた顔をしていた。
「肥後先生。もういいんです。高木刑事。すべてをお話いたします。」
怒賀が高木に近づくと、肥後が間に身体を滑り込ませた。
「よくない。どうした怒賀君。やっぱり体調が悪いようだから、診察室で休んでいよう。」
肥後は慌てて怒賀を奥の診察室に連れて行こうとした。
すると、楽が飛び出して肥後に背後から飛びかかった。二人は床に激しく倒れこんだが、楽は決して肥後の背中を離さなかった。
「愛さんが話しているんだ。邪魔をするな!」
楽は叫んだ。肥後はその剣幕におされ黙り込んだ。
「それでは話を聞かせてもらいましょうか。」
高木が怒賀に言った。
怒賀は小さく深呼吸をして、そして力強い声で言った。
「私です。“心”を殺したのは私なんです。」
それから怒賀は自分がやったことを話し始めた。
怒賀は聡美の車内で、ナビに星メンタルクリニックが目的地とされていることに気がついた。
聡美はコアドラッグを狙って星メンタルクリニックに向かうと怒賀は推測した。聡美の性格上、コアドラッグのような人をコントロールできる薬の存在を知って放っておくわけがない。
怒賀は聡美から離れた後、肥後に電話した。
「これから石川聡美という女性がそちらに向かいます。肥後院長と“心”とコアドラッグの関係を知って脅すつもりです。」
怒賀は肥後に事情を説明した。
「そうか。よく連絡してくれた。そんな狼藉者は返り討ちにしないとな。怒賀君。君がやりなさい。」
「えっ。」
「怒賀君は聡美さんにいじめられていたのだろう。そのせいで、どれだけ苦しんだことか。今すぐ私のクリニックに来なさい。」
「で、でも。」
「大丈夫だよ。“心”の時のように、また偽装してやるから。」
怒賀は自分の耳を疑った。
「安斎君は私に忠実な患者だ。コアでのトラブルシューティングのために働いてもらっていた。それに、君が信頼するタロット占い師としてもね。」
怒賀はスマートフォンを落としそうになった。
占い師。ANのことか。
怒賀の中で繋がった。怒賀が通っていた占い師で、あの日怒賀を助けたのは逮捕された安斎正則であり、安斎正則は肥後の駒の一つだった。
怒賀は肥後の手の内でピエロのように踊っていただけだったと悟った。
「わかりました。これから向かいます。」
ちっ。ちっ。ちっ。
舌打ちが止まらなかった。
「じゃあ肥後院長を訪れたもう一人の女性って。」
喜内は目を丸くして怒賀に言った。
「そう、聡美です。先ほど肥後先生をだますために、私がスタンガンで襲いました。今は下の駐車場にとめてある車の後部座席で寝ています。
「どうして聡美がそんなことを。」
「喜内さん。あなたを独占するため。私が間違ったように、聡美も間違った愛し方をしてしまった。」
怒賀は楽の方を見て言った。
喜内は唖然とした。喜内は聡美といて心が満たされることはなかった。それは別に聡美だからではなく、誰といてもそうだった。それでも、聡美のことを蔑ろにしたつもりもなかった。誕生日には値が張るプレゼントをあげたし、グルメな彼女が喜ぶ店にも何回も連れて行った。聡美はそういうことを望んでいるのだと勝手に思っていた。
でも違った。聡美の願っていたことはただ一つ。喜内と一緒に心から笑うことだった。
そんな単純なことに、こんな大事件が起こるまで気がつけなかった。
喜内は怒賀の隣を通って、走って非常階段を駆け降りていった。
「肥後院長。思わぬ裏切りにあいましたね。」
高木は立ちすくむ肥後に向かって言った。
肥後は歯を食いしばり、次の手を探しているように高木には思えた。
「あなたは“心”さんを利用して、徳田室長が開発したコアドラッグを手に入れようとした。さらに、精神的に弱っている患者に実験的に処方するために、”心”さんを通してコアドラッグを与えた。万が一、患者が違法行為を指摘しても“心”さんが捕まるだけ。そして“心”さんはあなたの名前を決してださないようにしつけられている。」
高木は肥後の周りをゆっくりと歩きながら追い詰めた。
「そして次なる実験の場としてコアを利用した。“心”を潜入させて、密かにコアドラッグを食事に混ぜさせた。その結果、怒賀さんはコントロールできないほどの怒りの波に押し流され、“心”さんを殺してしまった。あなたはコアを監視していた安斎に証拠隠滅を指示した。すぐに怒賀が逮捕されるわけにはいかなかった。おそらく半減期の問題。すぐに逮捕されて血液検査などされれば、コアドラッグの存在に勘付かれるかもしれない。」
「そんなことのために、関係のない他の三人まで。」
哀川はぽつりと言った。
「そんなこと?そんなことだと。」
肥後は苦笑しながら、拳を強く握っていた。
「あなた達は、このコアドラッグの存在意義を理解できていない。精神疾患はそもそもそう簡単には完治しない。感情の変動幅が小さくなるだけだ。治ったと思って通院しなくなり、症状が再燃して前よりひどい状態になってからやってくる患者も多い。でももしコアドラッグが完成すれば、完全に精神疾患をコントロールできるようになる。人類は心の病を完全に克服できるんだ。」
「徳田室長も同じことを言っていました。しかし今その薬で苦しんでいる人もいる。」
「医療の発展に比べれば些細な問題だ。」
「あなたの目的は本当に医療の発展でしょうか?」
高木の言葉に、肥後が眉をひそめた。
「少しばかり調査させて頂きました。一七年前、あなたは奥様を亡くされていますよね。当時二四歳の統合失調症の男が、錯乱して通行人を多数包丁で刺した、無差別通り魔事件。あなたの奥様はその時の被害者だった。」
「なんだ。あんた知ってたのかい。」
警備員の男が会話に入ってくる。
「警察を舐めないでください。」
高木は背後にいる男を振り返らず言い放った。
「続けます。当時、一般内科医だったあなたは、その事件の後から精神科医に専門を変えています。その時のあなたは、『加害者も被害者の一人だ。精神疾患という悪魔と私は闘うことにした。』と言っていましたね。この発言を機にあなたは、精神科医として一躍注目を浴びることとなった。多くの患者の治療に当たり、たくさんの患者の心を救ってきた。」
肥後は静かに高木の話を聞いていた。
「しかしここ五年の間に、奥様の事件の関係者が不可解な事件に巻き込まれていたことが、私の優秀な部下の捜査でわかりました。」
高木はバッグから三枚の書類をテーブルに出した。
「大手心療内科クリニック院長で、あなたの奥様を殺した竹本という男の担当医のひき逃げ事件。当時事件を担当し、竹本を無罪にした女弁護士の強姦事件。そして心神喪失者保護団体会長の一家殺害事件。この事件の加害者は全員無戸籍者かつ心神喪失で無罪判決をうけた人間です。」
その場にいた高木と肥後以外の全員が絶句した。
「そして全員薬を内服していたにも関わらず、処方箋や精神科・心療内科の受診歴は全くなかった。今回の安斎のように。被害者達は、あなたが憎んでいた方々でしょう。まさに目には目を、歯には歯を。憎むべき彼らに、同じ苦しみを与えた。違いますか。あなたは自分の復讐のために、あなたを信頼する患者達を利用し犯罪者にした。」
肥後の顔が険しくなる。
「どうしていまだに彼らはあなたの名前を出さないと思いますか。あなたに救われたことを感謝し、あなたに全幅の信頼を寄せているからです。赤子のように身をゆだねたんです。あなたはそんな彼らを裏切ったんだ!」
肥後は診察室に逃げ込んだ。高木が追いかけると机に置いてあったカッターで頸動脈を切り裂こうとしていた。
高木はすばやく肥後の右手をひねり、カッターを取り上げた。
肥後は抵抗を諦め、その場に座り込んだ。
「医療の発展のためだ。」
肥後は先ほどとは違い、か細い声で息を吐き出すように言った。
「あなたの言っていることは数十年後には正しいかもしれない。しかし、今は違う。人類はまだ、そこまで成熟できていない。」
「完全に否定はしないんだな。」
「正義とは置かれた環境で違う。現代では私の正義の方があなたの正義より力をもっているというだけ。そういう見方もできるからね。ただ、あなた自身が薬を使わなかったことが、答えでしょう。」
肥後院長の机には亡くなった奥さんの写真が大切に飾られていた。
「どうせならもう少し馬鹿な刑事に逮捕されたかったよ。それならもっとこの世界を諦められたのに。」
肥後院長は小さく笑った。
外から聞こえてくるヒグラシの鳴き声は、ピークに比べると随分落ち着いたように思えた。
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