第五章 運命の輪

 怒賀はソファでテレビを眺めた。

 テレビには、視聴者から投稿された苛立たしいシチュエーションを紹介するバラエティー番組が流れていた。

 出演者達は演技だろうが、口々に文句を言っていた。

 そもそも他人のエピソードを自分に投影して、本気で怒ることは可能なんだろうか。

 前にもカフェで三〇歳前後の女が三人そろってひたすら愚痴っていた。一人が話せば、残りの二人はわかるわかると共感していた。

 話していた女はともかく、他の女達は腹を立てているようには思えなかった。

 共通の敵をつくることで一体感を強めているだけのように思えた。

 そんなことのために怒りってあるのか。

 怒りって必要な感情なのだろうか。

 少なくともあのトイレの鏡に映った私の顔は、ひどく賎しい顔をしていた。

 テレビの電源を消し黒くなったモニターに反射する自分の顔をみた。

 あの時ほどではないが、疲れた顔をしている。吹き出物も増え、唇が乾燥して皮が剥がれる。

 図太いと思っていた神経もなんてことはない。私は後悔している。

 私はこんな意味のないもののために人を殺したのか。

 ソファに身体が吸い込まれていく。

「いつも疲れてるけど、今日はいつも以上に疲れてますね。」

 階段の方から声が聞こえてきた。心地の良い声。見なくてもわかる。

 楽が階段を降りて、怒賀の隣に座った。

 楽が両手をあげて身体を伸ばした。モノクロのシャツがめくれて、腰が見えた。

 怒賀は目を逸らした。さっきまで散々悩んでたのに、好きな男の肌が見えたくらいで、動揺している。

 あの事件の前、“心”と楽はもっと、、、。

 頭が激しく拍動し、身体が熱くなった。

「あの日。“心”が亡くなった日。怒賀さん、僕の部屋覗きましたよね。」

 楽の言葉が怒賀の体温を急速に奪って言った。 

怒賀が楽の方をみると、楽はテレビの方をむいていた。

無論、テレビなんて見ていなかった。

「あ、あの。別に覗こうとなんて思ってなかったの。ただ、ただね、、、」

 怒賀は言葉に詰まった。

 自分が目撃した状況を説明するのも嫌だったし、それを自分が想像以上に気にしているのも恥ずかしかった。

「あれ、わざと愛さんに見せたんです。」

「えっ。」

「彼女はね、愛さんが最も望んでいることを叶えようとしただけなんです」

 怒賀は全く楽の言葉を理解できなかった。

 私が望んでいること?

 怒賀はこのフレーズに聞き覚えがあった。

『あなたが今一番求めていることと、一番望まないことは。』

 ANの決まり文句であった。

 どうして“心”が私の望むことを知っているんだ。そんな話、“心”としたことなかった。

 頭がこんがらがっている怒賀に楽は小型のビデオカメラを渡した。

「それみたら、全部わかります。」

「全部ってどういうこと?」

「彼女の全部。」

 楽にばれた。

 頭の中には、それだけだった。人殺しなんて愛されない。

 ビデオカメラを壊したくなる衝動に駆られた。壊したって楽は忘れてくれないのに。

 よく見ると、楽の目は真赤に充血していた。

 観念したように怒賀は黙ってビデオカメラを受けとり、中に写っている動画を見た。

 そこから三〇分後、怒賀は雨に打たれていた。

 歩いた。何も考えられなかった。

 ぬるくて重い雨が降っていた。ずぶ濡れになっている自分を惨めに思うことはなかった。

 自分にピッタリだ。このまま雨に溶かされて水たまりにでもなってしまえばいい。

 恕賀はプログラミングされたように歩いた。行く先なんて一つしかなかった。

 怒賀はビルの階段を上がった。

 扉の前に立ってドアノブに手をかけた時、自分の目の前が真っ暗になるのを感じた。

 鍵がかかっている。

 これまで一度も鍵がかかっていることなんてなかった。

 人生の指針だったタロットが、急になくなった。

 結局振り出しに戻った。

 どこかに向かうことも、立ち止まっていることもできない昔の自分に。

 重い上半身を支えていた足が崩れ、その場に座り込んだ。

 誰かが階段を登ってくる。甘い香りが埃臭い踊り場に満ちる。

「大丈夫?こんなずぶ濡れになっちゃって。」

 顔を上げると美しい顔を持つ女が立っていた。

「どうしてこんなところに?」

 怒賀は女に尋ねた。

「どうしてって。心配だからじゃない。きっと心の綺麗なあなたのことだから罪悪感に苛まれていると思って。」

 この女は思ってもいないことが次から次へと出てくる。

 どうせリビングにつけた盗聴器で楽との話を聞いたんだろう。そして私がむかうところを予想してここに来たといったところか。

「相談してくれればいいのに。昔からの友達でしょ。」

 よく言う。あんなあてつけのような鏡をプレゼントしておいて。

「まあ話はリビングで全部聞いたわ。で、あなたどうするつもりなの。あなたのために動いた“心”を殺しておいて。」

「自首するわ。もう疲れたし。」

「それはだめ。それでは勝の価値が下がる。同居人が殺人犯だなんて知れたら大変よ。それに、、、」

「それに?」

「自首なんてしても罪滅ぼしになんてならない。あなただけのうのうと生きても、だれも喜ばないわ。愛ちゃん。」

 女のことは嫌いだ。でも今回ばかりはこの女の言う通りかもしれない。

「あなたはもう死ぬことでしか終わらせることができないの。」

 女の美しいはずの顔は、醜く笑っていた。

 そして怒賀は拒めなかった。

 怒賀は言われるがままに新幹線の切符をもらい、点滴をとられプロポフォールとかかれた白い液体の瓶を鞄にしまい車をでた。

 女は雨の中傘もささず歩く怒賀を見送った。

「よくできました。」

 女は真っ白のスポーツカーを自宅に向けて走らせた。こんな大雨のなか愛車を走らせるのは不快であったが仕方ない。

 すべてはあの女がいけない。私の勝にちょっかいを出した“心”とか言う女が。

 水商売の女ごときが勝を誘惑するなんて。勝も勝だ。私をおいてほいほいついていって。

 不幸中の幸いだったのは、私が通っていたタロット占いに怒賀も通っていたこと。怒賀と勝が同じ屋根のもとに住んでいるのはむかついたけど、そのおかげで憎い“心”を自分の手で殺さなくて済んだ。なんの意見も持たない怒賀を操作することは簡単だった。なんとでも解釈できるタロットを信じるなんてあの子らしい。

 女は偶然の再会を装い、怒賀と連絡を取るようになった。

 怒賀が楽という男が好きで、それを邪魔する“心”を疎ましく思っているのは話をするようになってすぐにわかった。

 楽との恋愛を応援するためという口実で、コアに盗聴器を怒賀につけさせた。

 あとは少しずつ、怒賀の負の感情を育てればよいだけ。きっかけさえあれば爆発するように。怒賀の気持ちは承認しつつ、“心”がこれから楽を奪っていく未来を想像させる。

 そしてとどめにタロット占い。怒賀が引いた『運命の輪』と『女帝』。

 自分で切り開く必要があると言ってやった。“心”を脅してコアから追い出せと。

 事件の前に会った時には、怒賀はいつもよりもそわそわしていた。

 もう少し時間がかかると思っていたが、意外と早くに行動に出てくれた。

 それにしても本当に刺すとは。内気な人ほど、逆上すると大胆な行動にでる。恐ろしいものだ。

 怒賀が捕まることまで想定していたけど、勝手に別の人が逮捕されてくれたおかげで、より私に繋がることはなくなった。怒賀も死んでくれたし、平穏な生活が戻ってくる。

 それに面白い情報も手に入った。

 女はEDMを車内で流した。今日ほど上機嫌になれるのも珍しい。

 女は電話をかけた。

「あ、勝?今日ディナーなんだけど、後日に変更できない?」

「いいよ。急用かい?」

「そうね。大切な用ができちゃって。今後埋め合わせさせて。」

「埋め合わせなんて大丈夫だよ。無理に予定あけなくてもいいし。」

「わたしが大丈夫じゃないの。それに今度会う時は勝が喜ぶプレゼントも持っていくね。」

「プレゼント?」

「とにかく、楽しみに待っててね。運転中だからきるよ。」

 そう言って一方的に聡美は電話をきった。

 喜内が心から喜んでいる姿を想像すると、聡美は心躍った。

 聡美はアクセルを強く踏んだ。


         *

怒賀は駅のホームの椅子に腰かけた。

 旅行に出かけるのか、キャリーバッグを転がしている人が目に入る。

 みんな目的地での思い出作りに目を輝かせている。今日ほど他人が羨ましく思ったことはない。

 私は何のために生きてきたのだろう。

 怒賀は人生の分岐点であっただろう日を思い出した。


怒賀は何をやっても身に入らない日々が続いていた。

“心”がコアにやってきてから、胸の中で膨張している何かが常に気になっていた。

 デスクの受話器から放たれる怒声が、膨らむスピードを速くする。

 なんでこの人たちは、こんなに怒りに震えることができるんだろう。たかだか携帯電話ごときで。羨ましい。

 これまでそんな風に悠長に聞き流していたのに、今日は面倒に感じる。仕事も長く感じる。

早く仕事を切り上げてタロット占いに行きたかった。

前に占ってもらった結果が本当に合っているのか。人生が変わるような札が出たのに、あの日から良い方向に動いているとは到底思えない。

仕事が定刻になり、先輩の小言を振り切ってタロット占いに向かった。

夕方でも大気の熱は残っており、小走りをすると汗が滲む。

いつものビルに着くと、階段にまだ順番待ちの列はできていなかった。

怒賀は安心して息を整え、階段を登った。古びたドアを開けようとすると、鍵がかかっていて開かない。今まで鍵がかかっていることは一度もなかったのに。

怒賀はドアの前で待った。だれかが開けにくるのか、今日は休みなのかわからないが、待った。 

怒賀の他にも数人占いに訪れては、ドアが開かないことを確認し去っていった。

二時間くらい経っただろうか。外は暗くなり、夕方から完全に夜になった。

怒賀は後ろ髪ひかれながらも最終的には諦めコアに帰ろうとした。

階段を降りると、電話がなった。

聡美からだった。

でるかどうか悩んだが、でないと後で面倒になる気がした。

ここで電話に出なければ、変っていただろうか。

聡美はこれから会おうと言ってきた。

断る理由も気力もなく、近くのカフェで会った。

「殺しちゃえば?」

 聡美に口から恐ろしい言葉がこぼれた。

「えっ。」

 怒賀が反応に困っていると、聡美は笑って怒賀の肩を叩いた。

「冗談よ。冗談。私、これでも医者なんだから、そんなこと本気で言うわけないでしょ。」

「うん。」

 あの一言は冗談とは思えないほど、冷たく胸を抉る一言だった。

聡美は続けて話した。

「でもさ、このまま“心”がコアにいたら、楽君盗られちゃうよ。いいの?」

「よくない!よくない、けど。」

「けど?」

「悪い子じゃないし、むしろいい子。だから“心”ちゃんならしょうがないかなって思い始めてる。」

 怒賀がもじもじ話していると、聡美は大きなため息をついた。

「愛ちゃん。女は愛ちゃんみたいに素直な子ばかりじゃないよ。彼女も絶対演技しているだけ。じゃなきゃ、愛ちゃんの気持ちに気付いてて楽君に近づかない。」

 聡美は怒賀の手を取った。怒賀は体に力が入る。聡美の細くて長い指が怒賀の手に絡みつく。

「脅して追い出すだけでもいいじゃない。『運命の輪』。行動しなきゃ人生変えられないよ。」

 聡美は優しく怒賀に言った。

 怒賀は聡美が植え付けた種がなんなのか、気がつくことはなかった。

もやもやしながらリビングに入るとテーブルに置き手書きがあった。

『お仕事お疲れさま。今日は愛ちゃんにサプライズプレゼントがあります。

ワインを飲み干して二階に来てね。 心より』

“心”からのプレゼント。

ちっ。

またあの音だ。

嫌な思い出が脳裏によぎる。

逆流してくる記憶をワインで胃の中に押し戻した。

怒賀は二階を見上げた。

廊下の電球が切れかけているのか、ちかちかと不規則に点滅していた。

怒賀は吸い寄せられるように二階に上がった。

楽の部屋の扉が珍しく開いていた。

別に覗き見るつもりなんてなかった。たまたま楽の部屋が空いてたから覗いてみた。

楽が絵を描いているのを見られると思ったから。

部屋に灯りはついておらず、ギシギシと何かが軋む音だけが嫌に響いていた。

二人とも裸だった。“心”は楽に跨り、細い体を精一杯揺らしていた。

 “心”にはいつもの無邪気な笑顔はそこにはなく、能面のような顔をしていた。

 頭痛がする。吐き気もしてきた。

 怒賀はその場を離れ、外に飛び出した。

 頭の中に“心”の笑みが焼き付いて離れない。

 走る。走る。全力で走る。息切れの音と疲れで頭がいっぱいになるように。

 このわだかまりの吐き出し方がわからない。息苦しい。

 脚が絡まって前のめりに転んだ。痛みを感じる前に、焼き付いた映像が膨張し、爆発しそうであった。

 起き上がることもせず、頬の内側を強く噛み、震える身体を力一杯自分で抱きしめた。

 どれくらい経っただろうか。

 カンカン。

 何かが地面に落ちた音がした。

 地面に突っ伏していた顔を上げると、自宅で使っている包丁が落ちていた。

 ハンドルがフィットして、よく切れると哀川が自慢していた、あの包丁。

 そして怒賀を見下ろしていたのは、“心”であった。

 自分の重い身体がこんなに素早く動けると初めて知った。

 目の前の包丁を握り締め、“心”に突進した。お腹に包丁を突き刺し、その場に倒し馬乗りになった。

 何度も何度も突き刺した。肉を貫通する感触が気持ちよかった。

 お腹だけを見ていると、サンドバッグのようにも感じた。

 自分の中の燃料が急に切れ、脱力感に襲われた。

 血液が溢れ出る。鉄の臭いが鼻をつく。

 これが怒りか。あの時の舌打ちが膨張した結果。これまで何より欲してた感情。

 怒賀は、もう“心”の存在なんて忘れていた。それほどまでに、今し方手にした感情を、子供のように素直に喜んだ。

 しかし怒賀はすぐにしまったと思った。

 飛び出して来たから鏡をもってくるのを忘れた。

 こんな記念日に。

 憤怒した顔が薄れていく前に、見ておきたい。

 怒賀は周りをみて、自分の現在地を確認した。

 たしか公園がこの通り沿いにあったはず。

 怒賀は再び走り始めた。

 公園に到着し女子トイレに駆け込んだ。

 一秒でも惜しい。怒賀は曇った鏡を袖で拭いた顔を見た。

 唖然とした。

 鏡には、同級生だった女の子や“心”がしていた、あの醜い薄笑いが映っていた。

 綺麗な顔の二人がしても不快感を与えたが、自分がするとここまで嫌悪感を覚えるのか。

 自分が手にしたかったものはこんなに汚く醜いものだったのか。

 怒賀はその場に崩れ落ちた。

 緩めのワイドパンツのポケットからスマートフォンが滑り落ちる。

 待ち受け画面が暗いトイレの中で灯りを灯す。タロットの待ち受け画面が映し出される。

 怒賀は再び驚愕した。

 『運命の輪』と『女帝』の逆位。

 スマートフォンが逆さまになっているだけだが、怒賀の眼を釘付けにした。

 さらに、怒賀の脳内で占いの言葉が再生される。

『運命の輪』そして『女帝』の、、、

 途中で途切れてしまったが、あれは『女帝』の逆位と言おうとしていたんじゃないか。

 女帝の逆位。感情のコントロールの乱れ、心の弱さを意味する。

 そうか。私が勘違いしていただけ。タロットは間違ってなかった。

 怒賀は泣いた。醜く大声で泣いた。もうどんな顔をしているかもわからない。これまでどんなことがあっても、これだけ体裁を気にせず泣いたことはなかった。

 もうどうでもいい。怒賀は右手の一部となった包丁を眺めた。

 その時、外から短い悲鳴があがった。高い声と低く太い声。 

 恕賀が入口の方に顔を向けた。

 誰かが近付いてくる。怒賀の顔に緊張が走る。

 入口から怒賀の方に何か入った黒い袋が突如放り投げられ、怒賀の膝元に落ちた。

 怒賀が状況を理解できないうちに、床に落ちたスマートフォンが鳴り出した。

 非通知表示。

 怒賀が電話にでた。

「はい。」

「その袋のなかに着替えがある。水道で全部血を流してから、その服に着替えろ。包丁と服は全部その袋にいれて置いて、家に帰れ。」

 男の声が電話から聞こえてきた。

 この声は。怒賀ははっとした。ANの声。

 どうして私の電話番号を知っているんだろう。

 しかし次の瞬間には、そんな陳腐な疑問を振り払っていた。

「そうした方がいいんですよね。」

 怒賀は恐る恐る尋ねた。

 スピーカーから返答はなかった。いつも通り。

 袋の中から量販店で売っていそうな黒いTシャツと短パン、ビーチサンダルを取り出した。

 怒賀は血まみれになったブラウスとワイドパンツとパンプス、靴下をすべて脱いで黒い袋に入れた。手や顔に付着した血液も丁寧に洗い流した。

 怒賀は着替え終わり外に出た。外には誰もいなかった。

 さきほどいちゃついていたカップルは、相変わらず女が男に覆いかぶさっていた。

 呑気なものだ。こんな殺人犯が近くにいるにも関わらず。

 自分のやったことが大したことではないように怒賀は思えてきた。

 走ってきた道とは違う道を歩いて家に帰ることとした。

 これからどうやって過ごしていこう。別にもう逮捕されてもいい気がする。初めて怒りに任せて、衝動的に動いて。

 それでも、あの占い師は私に逃げるよう指示した。結局最初のタロットも私が勘違いしていただけで、結局あたっていたわけだし。

 怒賀はそんなことを考えて歩いていると、自宅に到着した。

 家に入ろうとすると、再度スマートフォンが鳴った。

 聡美からだった。

 悪い予感しかしない。

「愛ちゃん。あなたとんでもないことしちゃったわね。」

 聡美は電話の奥で高笑いしていた。

「ちゃんとこの目であなたの勇姿みてたわ。動画にも撮った。」

 いつもであれば怯んでしまうこの意地悪な声に、今日の怒賀はうってでた。

「警察に通報したければすればいい。」

「別に通報するつもりなんてないわ。あなたが勝手に捕まるだけ。お疲れ様でした。」

 そう言って聡美は電話を切った。

 あの日、怒賀は完全な人間となり、そして人間としての道を外れた。


          *

部屋に籠って何日たっただろうか。

 楽は署から帰ってきてから、一歩も動けずにいた。心配した喜内や哀川が扉の外から声をかけてくれるが、無視した。

 自分がどんな生活を送ろうが、誰にどんな態度をとろうが、“心”は帰ってこない。

 楽は立ち上がり、似顔絵を描くとき“心”がいつも座っていた回転椅子に座った。描き始めた時は、“心”がふざけてくるくる回るから集中してうまく描けなかった。だから何回も動かないように怒った。

 今となってはその時描いた絵よりも、怒った時の思い出の方が何倍も大切になった。ふざけて笑う彼女の顔の方が数十倍愛おしく感じた。

 楽は“心”とおなじように椅子を回した。見慣れた部屋の景色が線になり、滲んだ。

 一回くらい笑った“心”を描いてあげたかった。

 椅子の回転が弱まり、力なく止まった。

 楽は顔を上げ、涙と鼻水の拭くため目の前にあったティッシュ箱に手を伸ばした。

 手を止めた。

 これまで楽が置いたことのない場所にティッシュ箱があった。いつも使っているティッシュ箱もベッドの近くに置いてある。部屋に二個のティッシュ箱。

 楽が似顔絵を描く椅子と“心”がいつも座っていた回転椅子を結んだ直線上の棚に置いてあった。

 楽は棚の上のティッシュ箱を手に取ると、紙ではありえない重みを感じた。中身を見るとティッシュはなく、小型のビデオカメラが入っていた。電源は入っていない。

 いつからこんなものが。楽は背中に汗がつたうのを感じた。まさか“心”とのことも録画されたいたのか。

 楽は部屋に鍵がかかっていることを確認して、ビデオカメラとテレビを繋げた。音漏れを避けるためヘッドホンもテレビに繋いだ。

 心して映像を流し始めた。


「コア初日です。楽太郎をこれから観察していきたいと思います。」

 そう言ってカメラを楽が見つけた位置に配置し、“心”は回転椅子に座った。

 楽と“心”が初めて出会った日であった。

 よく覚えているが、改めて映像でみると一つ記憶違いしていることがあった。

 “心”は緊張していた。笑顔は作っていたが、どこかぎこちなかった。“楽は自分が動揺しすぎて,人の事は全く見えてなかった。

「わたしも行くー。待ってよー。」

 そう言って“心”は、楽が部屋を出た後カメラの停止ボタンを押した。

 

「えーと観察二回目です。今日は楽に似顔絵を描いてもらうと思います。」

 そういって“心”は回転椅子に座って、くるくる回り始めた。

 すると楽が部屋に入ってきた。

 “心”がしつこく楽に似顔絵をねだる。楽は断っていたが、最後はしぶしぶ描き始めた。

 楽が準備している間、“心”は隠れてカメラにピースサインを送った。

 楽が画用紙に鉛筆で描き始める。“心”は落ち着かないように回転椅子で揺れる。楽は何度も注意する。

 そんなやりとりを懐かしく思っていると、楽は目を疑うシーンが流れた。

 自分が笑っている。“心”の似顔絵を描きながら、楽は笑っていたのだ。

 楽は愕然とした。思考が停止し映像だけが流れていく。

 テレビの中の楽が似顔絵を描き終わった後、部屋を出ていった。

 “心”はカメラに近づき停止ボタンを押す前に言った。

「楽はすでに感情欠損を克服しています。絵を描いている時の彼はとても楽しそうでした。」

 “心”は嬉しそうにカメラに報告していた。そしてこう付け加えた。

「むしろ私のことを良くわかっている人でした。」

 そう言って楽が描いた顔のない似顔絵をカメラに映して停止ボタンを押した。

 停止した“心”の顔は少し寂しそうだった。

 最後の部分の意味はわからないが、楽はすでに克服していたのだ。自覚していないだけで、楽しいという感情を持ち合わせていたのだった。

 楽は全身の力が抜けた。もう諦めかけていた。

“心”を失ってこれ以上楽しいと思うことなんてないと思っていた。こんな形で知るなんて。

 次も、その次も、“心”の絵を描いている時、楽は楽しそうにしていた。まるで別人のように。

 次の映像は“心”の部屋でとられたものだった。

 “心”はカメラの前で座っていた。

 ただ、そこに座っていたのは楽が最後に会った無表情の“心”だった。魂が抜けた“心”。

 “心”は改まって話を始めた。


 この動画をみているのが、楽であることを強く願います。

 本当の私を知ってほしい。

 だからその動画を残します。

 私の名前は、“心”と言います。

 母がつけてくれた名前です。

 素敵な名前です。

 私が生まれてからつい最近まで、母以外を知りませんでした。

 父は、母の妊娠が発覚してから蒸発したそうです。心の弱い人だったのでしょう。

 ただ責める気持ちはありません。

 その分母の愛情を独占することができたのですから。

 夏に背の高いひまわりがたくさん咲く近くの公園の公衆トイレで、母は私を産んだそうです。

 他人の手で私が汚されることが許せなかったと言っていました。

 それほどまでに、母は私を愛している。

そんな圧倒的な愛を、世間の凡庸な女が与えることができるでしょうか。

母の庇護のもと、私は健全に育ちました。大きな病気をすることなく、この年まで育ったのは、やはり母あってこそでしょう。

ただ一つ、私には感情がありませんでした。いや、正確に表現するのであれば、物事に対して微小な感情は生まれますが、それを表情や行動にだせるほど増幅させることができなかったのです。

そのことを辛いと思うことはありませんでしたが、母の愛情に対して反応できないことが申し訳ないと思いました。

六畳一間の空間が私のすべてでした。

食べ物や着るものはすべて母が外から持ってきました。

母は夜に外にでて、朝に酔っぱらって帰ってきます。昼はずっと寝て、また夜に出かけていきます。母と話すのは母が帰ってくる朝か、仕事に出かける夜だけでした。

不自由に思ったことはありませんでした。母がいない時は、母がたまに持って帰ってくる本を読みました。ジャンルに統一感はなく、連載物の途中の単行本の漫画だったり、数年前のファッション雑誌だったり、カバーのない古い小説本だったり。

一度だけ外の世界について母に尋ねたことがありました。一二歳の時でした。

ファッション雑誌でとても可愛らしい服をきた、自分と同じくらいの年齢の女の子がとびきりの笑顔を見せていました。私は母に、外にはこんな可愛い子がいるのかとききました。

母は私をぶちました。私はあまりの衝撃に声が出せなかった。

その時の母の顔を私は忘れられませんでした。

顔が歪み、口元が震えてました。

それ以来、私は外の世界について、母にきくことはありませんでした。

一九歳の誕生日の前日。

「明日は早く帰ってくるからね。そしたら“心”ちゃんの誕生日会しようね。」

 そういって母は夜の闇に消えていきました。

 母がそんな約束をするのは初めてでした。私は母の帰りを寝ずに待ちました。目が冴えてしまって寝れなかった。

でも母は帰ってきませんでした。何日待っても帰ってきませんでした。

 冷蔵庫の中には食べるものはありましたが、母から勝手に食べてはいけないと言われていたので何も食べず何も飲みませんでした。

 私は空腹と喉の渇きで限界でした。

 冷蔵庫に入っていたオレンジジュースを飲みました。

 初めて母の教えを破りました。冷蔵庫に向かって何回も謝りました。

 冷蔵庫の物がなくなるまで待ちましたが、母は帰ってきませんでした。

 私はついに外に出る決意をしました。母を探しに。

 初めて触るドアノブは冷たく、扉は意外にも軽く感じました。あれだけ重く堅く閉じた扉に見えたのに。

 外は暗く、半袖の私には寒かった。家から毛布をとってきて、それを羽織りながら階段を降りました。

 私の家は建物に挟まれた、薄暗い場所にありました。冷たい風の通り道。

 路地裏から光の方に向かって歩きました。

 開けた場所にでると、騒がしい音に包まれました。

 眩しすぎるおびただしい数のライト。

 そしてたくさんの人。人。人。

 私は頭痛とめまい、吐き気に襲われました。あまりの情報量に耐えられなくなった私はその場に座り込んでしまいました。毛布に包まり目を閉じ、耳を塞ぎました。

 帰りたい。

 そう思って這って路地裏に戻ろうとした時、声がしました。

「大丈夫?」

 あれだけの喧騒の中、決して大きくなかった声を拾えたのは、私がその言葉を待っていたからだと思います。

 顔を上げると、私よりもずっと背の高い男の人が立っていました。

 初めて見る男の人。小説や漫画で呼んだ男の人は、どこか怖い印象でした。でもその人は違いました。いまだになんて表現したらいいのかわからないけど、コーヒーみたいな人でした。苦いけど、嫌いじゃない。そんな感じの人でした。

 そこで初めて須田さんに出会いました。

 須田さんについていこうと思ったのは、似ていたからです。

 須田さんは笑ったり、怒ったり、泣いたりできましたが、ただ演じているだけでした。須田さんの瞳の奥は深く暗いけど、私はその目を見るのが好きでした。

 須田さんのお店で働きながら、私は生活するということを教わりました。いかに自分が特殊な環境にいたのかも教えてもらいました。

 信じられないことばかりで、すぐに座りこんでしまう私も須田さんのサポートのおかげで少しずつ立っていられる時間が増えました。

 また母のことも一緒に探してくれると言ってくれました。私を拾ってくれた人が須田さんのような親切な人でとても幸運でした。

 半年が経っても母を見つけることはできませんでしたが、少しずつ普通の人のような生活を送るようになりました。

 でも問題もありました。私には全くお客さんがつきませんでした。お店の人ともうまくやれませんでした。原因は自分でもわかっていました。

 私は接客業をするには不愛想すぎる。

 笑う練習も須田さんとたくさんしました。

 私の顔なのに、私の言うことはきいてくれない。須田さんの困った顔をみると、みぞおちが痛くなる。

 須田さんは私を病院に連れて行ってくれました。

 星メンタルクリニックという場所です。

 肥後院長という男の人に出会いました。

 肥後院長に私は悩みを打ち明けました。

 何を見ても、何を聞いても何も感じない。そのせいで、須田さんに迷惑をかけている。だから笑えるようになりたい。怒ったり、泣いたり、喜んだりしたい。

 肥後院長は、そんな私にぴったりな薬があると教えてくれました。私は、肥後院長の紹介で大学の研究室に入ることになりました。

 そこで徳田先生に出会いました。徳田さんは、私が悩みを相談すると苦しそうな顔をして泣いていました。最初は断っていた徳田さんも、私が何回も頭を下げて頼むと、最終的には被験者になることを了承してくれました。

 そうして徳田先生から薬をもらえるようになりました。コアドラッグです。

 飲み始めてすぐに、私は初めて心を手にいれました。

 いままで見ていた無機質な風景一つ一つに、心が揺れました。

 スペードのお客さんの冗談で笑ったり、仕事でミスをして哀しかったり、須田さんに褒められて嬉しかったり、仕事終わりの楽しみのプリンを仕事友達に取られて怒ったり。

 毎日が本当に刺激的でした。

 何より須田さんが喜んでくれて、須田さんの笑顔をみて嬉しいと感じられる。

 幸せでした。

 徳田さんの研究室から大量に薬を持ち出しました。肥後先生がそうしたら、他の人にも配って笑顔にできると言ったから。

 悪いことかもしれないと思ったけど、私を救ってくれた肥後先生のためにやりました。須田さんにもこのことは話しませんでした。人の物を盗ることはよくないと教えてくれた須田さんはきっと怒るだろうと思ったから。須田さんの悲しんだ顔を見たくありませんでした。

 それ以降、徳田先生のところには行かなくなりました。

先生は次に、患者さんにその薬を配り始めました。病院で処方するとお金がかかるから、私からただで渡してくれと言われました。

戸籍のない私だと怪しい薬だと思われるから、徳田さんの研究室で使っていた違う人社員証を見せました。

 次にシェアハウスに入るよう言われました。

 私と同じように、心の悩みをもつ住人をコアドラッグで助けてほしいと言われました。

 須田さんにも相談しましたが、お客がつくようになった私に、誰かと一緒に住んだ方が安心だろうといってシェアハウスを勧めてくれました。

 そうしてわたしはコアに入居しました。

 みんな良い人でした。哀川さんは少し怖かったですが。

私と違って、それぞれが一部の感情が欠落している状態でした。感情が欠落した状態で長い間社会にいることはつらいことです。私はその状態が短かったから、まだましだったと思います。

 私はしばらくして皆の食事にコアドラッグを混ぜるようになりました。

 喜内さんには嬉しくなる黄色の錠剤を、哀川さんには悲しくなる青色の錠剤を、愛さんには怒りたくなる赤い錠剤をいれました。

 肥後院長から急激な変化は精神的に良くないといわれたので、間欠的に投与しました。

 コアドラッグの効果は少しずつ現れ、三人は少しずつ表情にでるようになりました。

 嬉しかった。須田さんに自慢したかった。こんなに自分は役に立つ人間になったと。そして褒めてほしかった。

 そんな中、もう一人大切な人が私にできました。

 楽です。

 楽といる時が一番笑ったと思います。

 絵を描いている楽は本当に楽しそうだった。自分では気がついてないんでしょうけど。

 楽には始めからコアドラッグは必要ありませんでした。

 楽はなんの異常もない、人間味あふれる素敵な男性です。

 今はその感情を思い出せないけど、私は楽に恋していたんだと思います。

 初めて恋した楽に、本当の私を知ってほしかった。でも怖くてできませんでした。

 コアドラッグで創り上げた私でなく、無味乾燥な私を知ったらがっかりするだろうと思いました。

 でも本当は、楽は無自覚に気がついていたのかもしれません。

 初めて楽が描いた私の似顔絵を見たとき、本当に驚きました。

 顔がない似顔絵。心がない私を見抜いたような本質的な絵でした。

 その絵を見た時、私は疑問に思いました。

 コアドラッグを使って感情を生み出すことは、本当にいいことなのか。そんなことをして動いた感情なんて価値があるんだろうかって。

 私は肥後院長にこの疑問をぶつけました。

 肥後院長は、私が初めては母に外の世界について訊いた時と同じ顔をしました。

 言うことを聞かないと、コアドラッグをもう渡さない。そう肥後院長から言われました。

 抵抗しようとしました。コアドラッグはもう使わない。誰にも渡さない。 

 でも、もう私は薬がないと、心がないと生きていけない体になっていました。

 だめだと思っても、コアドラッグのためになんでもするようになりました。

 愛さん。本当にごめんなさい。

 これから私はあなたにひどいことをします。あなたの気持ちを知っていて。

 だから私にこれからどんなことがあっても、仕方がないと思います。たとえ殺されたとしても。

 なにも後悔することはありません。これから変貌するあなたは、本当の愛さんではないのだから。

 コアの皆が幸せな未来を歩めることを、心から願っています。

 ありがとう。さようなら。


 そこで動画は終了した。

 楽は涙がとまらなかった。

悔しかった。

“心”はこんなに自分のことを理解してくれていたのに、自分は“心”のこと全然知らなかった。

楽は溢れ出る涙をぬぐった。

今度は自分が闘う番だ。

楽は部屋を出た。一階に怒賀がソファに座っていた。

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