第四章 正義

怒賀は一階の自分の部屋でスマートフォンの待ち受け画面をじっと見つめていた。

 運命の輪と女帝。

 私の人生に何かが起こる。そしてそれは私を良い方向に導いてくれる。

 怒賀はベッドで横になって、天井を見た。この上の部屋には楽がいる。

 きっとまた絵を描いているに違いない。楽は絵を描いている時は貧乏ゆすりがでないから静かだ。

 怒賀は楽が絵を描いているところを見たことがない。

 楽はそもそも人と関わるのが苦手だし、特に絵を描いているところを見られるのを嫌う。

 怒賀はベッドをつけている壁に張った一枚の絵を見た。

 この前怒賀が仕事終わりにコアに帰ると、自分の部屋の前の床に絵がおいてあった。

 首から下の人のデッサンだけであり、黄色のワンピースを着た人が少し猫背で椅子に座っている姿が描かれていた。

一度顔を描いた痕があったが、綺麗に消しゴムで消されていた。

 楽は以前から表情を描くことが苦手と言っていた。

だからこそ、この特徴的な絵は楽が描いたものだとすぐにわかった。

必死に自分の顔を描いては消して、納得いくまで描いたのかもしれない。でも最後は力尽きて、こっそり怒賀に渡した。

そんなエピソードがすぐに頭の中に湧いた。

 そして、この服は私が一番お気に入りの黄色のワンピース。仕事が休みでANの占いに行く日だけ着る服。

だからこそ私の絵だとわかった。

 にやけが止まらない。

 これまで誰も自分に興味を持つ人なんていなかった。興味を持たれた時は、大抵悪意を向けられた。

 そんな自分への眩しすぎる優しさ。

 楽にはまだお礼も言えていない。

自分がお礼を言っている所をコアの誰かに聞かれたら、楽は二度と自分を描いてくれないような気がした。

 今日も自分のことを描いてくれているといいな。

 怒賀はそんな期待を胸に秘めながら、絵に優しく触れた。

 触れた瞬間、怒賀の背筋に悪寒が走った。

 一つ懸念事項があった。

 新住人の“心”のことだ。

 入居初日、“心”は二階の楽の部屋から出てきた。それはすなわち、楽のアトリエを見たということだ。

 ちっ。

 昔一度だけ聞いたことのある音が怒賀の頭の中に響いた。

あれは小学生の頃だ。

あの頃は、まだ友達と呼べる人がいた。一緒に少女漫画の話をしたり、かっこよいアイドルの話をしたりできる友達が。

ある時、同じクラスの人気者の美少女が近付いてきた。

「私も○〇君好きなんだよね。かっこよいよね!」

 笑顔で話しかけてくる少女は、怒賀には眩しく見えた。

 どうしてこんな容姿の自分にこんな可愛い子が話しかけてくるんだろう。不思議な気持ちではあったが、嫌ではなかった。

一緒にいると心強い気がした。自分にもスポットライトが当たるような気がして。

彼女のお陰なのか、クラスの雰囲気は一体感があり、担任の先生も満足気だった。

一緒に話すようになってしばらくすると、教室に異変が起きた。

彼女が教室の端で泣いていた。そして女友達が彼女を囲っていた。

怒賀は近づいて泣いている彼女の隣にいる友達に事情を訊いた。

「さっきの体育の授業でドッジボールあったでしょ。その時、美鈴ちゃんが思いっきり顔にボールぶつけてたの。」

 その友達は、目を真っ赤にして教室の扉に独りで座っている美鈴に咎めるような視線を向けた。

 怒賀はお腹が痛くて体育の授業を休んで保健室にいたから、現場にはいなかった。

 彼女の顔は少し赤く腫れており、冷やしたタオルをあてていた。

「そうなんだ。」

 怒賀はぽつりといった。

 どうしてあの時、こう言わなかったのか。

 そうなんだ。ひどいね。

 当時の怒賀はひどく後悔した。

 淡白な返事をした怒賀は、そこにいた女子全員に睨まれた。

 怒賀はどきっとした。

 どうしてそんな目でみるの。

「愛ちゃん、なんでそんな平気なの。友達でしょ。」

 彼女の隣にいた女子の一人が怒賀を非難した。一匹目のペンギンが飛び込んだように、次々に罵声が飛んできた。

「ひどい。」

「本当に友達?」

「愛ちゃんって、前から思ってたけど冷たいよね。」

悪意が怒賀の体温を奪っていく。

「そんなつもりで言ったんじゃないよ。」

 怒賀は慌てて彼女に伝えたが、手遅れだった。

 彼女は呪うような目で怒賀を見ていた。

そこから怒賀は完全に孤立するようになった。ターゲットが変わったためか、いつの間にか美鈴は彼女と仲直りしていた。

一か月。誰とも話すことはなかった。派手ないじめなどはなく、ただ無視された。

こんなことなら彼女に関わるんじゃなかった。関わらなければ、こんな惨めな思いをすることもなかった。

いつも通り独りで放課後帰宅しようとしていた怒賀に、彼女が話しかけてきた。教室には二人きりだった。

「愛ちゃん。なんかごめんね。私の友達が迷惑かけちゃって。皆私のこと思ってだから許してあげてほしい。」

 突然謝ってくる彼女に、怒賀は戸惑った。怒賀が何も言えずにいると、彼女は恥ずかしそうに綺麗に包装された箱を渡してきた。

「これ。仲直りの印のプレゼント。受け取ってくれると嬉しいな。」

 そう言って彼女は笑った。

 あれだけ怖い顔をされたのに、今彼女の笑顔をみるとほっとする。

「サプライズプレゼントだから、家に帰ってみてね。」

 彼女はそう言って去っていった。

 怒賀は言われた通り、開封せずに家に持って帰った。この一か月がまるで嘘だったかのように足取りが軽い。

家について自分の部屋に飛び込み鞄からプレゼントを取り出した。丁寧にピンクの包み紙で包装された箱。

思い返すとこれまで親以外からプレゼントなんてもらったことなかった。早く開けたいような、とっておきたいような。

三〇分くらいプレゼントの前で悩んだ結果、開けることにした。

リボンをほどき、慎重に包装を解いていった。白い長方形の紙箱が現れた。

高揚感が増す。

緊張しながら箱を開けると、期待を裏切るものが入っていた。

どこで拾ってきたんだと思う小汚い手鏡だった。

錆びた鏡には涙を流す醜い顔が映し出されていた。

床に転がっている空っぽの箱から、声が聞こえる。

よくそんな汚い顔で学校に来られるわね。私なら耐えられないわ。

それとも気がついてないのかしら。この鏡でよくみるといいわ。

近くのゴミ捨て場から拾ってきたの。お似合いだと思うわ。

 彼女の綺麗な顔から、毒が吐かれる様子が思い浮かぶ。

 毒が鼓膜を通過して脳に届く。脳の溝にはまりこんで離れない。

ちっ。 

これまで聞いたことのない音が頭に響いた。


          *

高木は事件に関連したスケッチを署の自分の机で眺めていた。

 “心”が殺された事件現場。公園。トイレ。星メンタルクリニック。コア。スペード。

 安斎は凶器をもっていた。それに“心”とも面識があり、ストーカーの可能性も示唆さえていた。星メンタルクリニックに通院しており、病状は最近不安定であったと肥後の証言もある。

 高木はため息をついて天井を仰いだ。

 これだけ証拠が集まって、自供もある。

 それでも、このまま安斎が犯人でいいのだろうか。常に後ろから押されている感覚がある。

 高木のスマートフォンが鳴った。

 高木が電話にでると、聞き覚えのある声がした。

「高木さん。」

「哀川さんですね。」

「はい。」

「どうされました。」

「事件に関してお話があります。」

 哀川は深刻な声で言った。

「どんなお話ですか?」

「それ直接会ってお話します。」

「わかりました。どこで会いますか。」

「あの子の、“心”が死んだ場所で。」

「時間は?」

「一八時。大丈夫ですか?」

「大丈夫です。向かいます。」

 哀川は週刊誌の記者だ。ただ情報収集をしたいだけかもしれない。ただ、おそらく最初に匿名で電話をしたのは哀川だ。少なくとも哀川はコアの内情を隠すつもりはない。事件解決の協力者と考えていいだろう。

 なんにせよ、今は少しでも情報が欲しい。

 高木は署を出た。外は今年一の暑さ。セミが競うように鳴いている。


          *

高木は指定の“心”の事件現場にいた。

昼間は今年最高気温を記録し、うだるような暑さであったが、夕立のおかげ耐えられる夜となった。

 二〇歳の女の若すぎる死は、世の中の同情を買い、たくさんの献花が供えられていたが、激しい夕立でぐしゃぐしゃになっていた。

 高木は献花をなるべく綺麗に整えようとした。

 そうしているうちに、高木を呼びだした張本人が現れた。

 金髪にスーツ姿の哀川が現れた。

「待ちましたか。」

「いや来たばかりです。」

「ならよかった。」

 哀川は周囲を気にしているようだった。

「車で話しますか。私用車なので変に思われることもないと思いますが。」

 哀川は頷き、二人は近くの駐車場に停めてあった高木のセダンの車に乗り込んだ。

「捜査はどうですか?」

 哀川はさっそく探りをいれてきた。

「それより先に、確認したいことがあります。」

「なんですか。」

「事件の後、匿名で署に電話を入れたのはあなたですか。」

 高木はテープレコーダーでその時の音声を流した。

「私です。」

「どうして匿名でこんな電話をしたんですか。」

「事件の話を聞いて、被害者が“心”なのはすぐにわかりました。その日着ていた服や背丈や推定年齢。なによりちょうど姿を消した日でしたから。でもあなた達警察は、全然みつけてくれなさそうだった。だから自分で動いたんです。」

「匿名の理由は?」

 哀川は高木の質問に少し躊躇し、そして決心して話した。

「本当の犯人がコアの内部にいると思っているから。」

 高木は自分と同じ考えを持つ人に会えて、心強く感じた。

「そう思う理由は?」

「勘です。」

「勘ですか。」

「はい。でもあなたも同じような違和感をコアに持っている。だからこそ、まだ独りで捜査を続けている。」

 哀川は車のクーラーを強くして自分に向けた。

「私が一番気になっているのは、“心”は何者なのか、ということです。」

「それは我々警察も同じところで躓きました。しかし、結局フルネームすらもわかっていない現状です。」

 これも高木が気になっている所であった。人一人が二〇年以上生きて痕跡が残らないわけがない。

「今日、気になることを耳にしたんです。」

 哀川が切り出した。

「私は今日、別件で取材していた新型うつの女性に謝罪に言ったんです。私の取材で自殺未遂に追い込んでしまったということで。昨日意識を取り戻したと聞いたので、直接本人に謝罪することになったんです。まあ私は今でも自分が悪いなんて思ってないですけど。」

 哀川は黄色の前髪をかき上げて、少し苛立った様子を見せた。

「まあそんなことはどうでもいいんです。肝心なのはここから。その女性は私達と同じ星メンタルクリニックに通っていたんです。そして、通院していたある日、急に声をかけてきた人がいたみたいなんです。」

 哀川は山口から聞いた話を高木に伝えた。


 哀川は山口が入院している病院を訪れた。

山口は自宅のマンション五階のベランダから飛び降り自殺を試みた。幸か不幸か、街路樹がクッションとなってから地面に落下したため骨盤骨折と擦過傷ですんだ。通行人がすぐに救急車を呼び命に別状はない。ただ、搬送された病院が飛び降りの原因となった勤務先の病院だったのは皮肉なことだ。

哀川は山口に謝罪すると、山口はきょとんとしていた。

「なんで哀川さんが謝るんですか。」

「えっ。いや、私の取材の次の日に山口さんが、その、飛び降りをされたので。私の取材が原因で飛び降りたんでしょ。」

「違います。それは違いますよ、哀川さん。」

「じゃあなぜ。」

 哀川の問いに、山口は奇妙な事を口にした。

「実は、飛び降りた日に薬を飲んだんです。最近通院しているメンタルクリニックから帰る時に女性に声をかけられました。その人は東南(とうなん)医科(いか)大学(だいがく)の研究員であると名乗っていました。名前は榊(さかき)めぐみさんと。榊さんは新型うつ病の研究をしていて、現在治験登録中の薬があると教えてきました。普段から内服する必要はなく、本当に辛いと思った時に飲んでくださいと青色の錠剤を渡されました。」

「怪しいとは思わなかったのですか。」

「もちろん思いました。でも大学のホームページを確認して、榊めぐみという研究員は実在しいましたし、新型うつ病の研究をされているのも事実でした。それに渡された名刺に書いてある研究室の電話番号にも確認して、治験でそういう薬を配っていると言っていました。」

 山口は自分なりに身を守っていたことを力説した。

「いつも飲むわけじゃないし、一応とっておいたんです。」

 しかし、そこから山口の声のトーンが落ちた。

「けどメンタルクリニックでもらう薬も全然効かなくて。飛び降りた日の朝も頑張って出勤しようと思ったんです。看護師長に絶対出勤すると約束したので。でも、どうしても体が動かなくて。涙が止まりませんでした。そんな時に、榊さんからもらった薬を思い出しました。それを飲めば出勤できるんじゃないかと思って、内服しました。そしたら。」

「そしたら?」

 哀川が尋ねると、山口の手が震え始めた。

 哀川は優しく山口の手を握った。

「大丈夫。話してください。」

「死んでしまいたいと思ったんです。生きていることが辛すぎて。もうそれ以外何も考えられなくなりました。そして気づいた時にはベランダから身体を乗り出していました。はっとして降りようと思ったんですが、そのまま落ちてしまいました。」

 山口の涙は止まらなかった。

 哀川は淡々と質問を進めた。

「その薬はまだありますか?」

「いえ。一錠しか渡されなかったので。」

 やはりか。哀川は心で舌打ちをした。

 哀川が調査したところ、榊が渡した名刺に記載されていた電話番号は研究室のものではなく、今は解約されていた。

 さらに榊めぐみという女性は、研究室に所属しているが、現在産休中で研究には携わっていないという。

 山口は最後にこんなことを言っていた。

「自分が患者として、職場の集中治療棟に入院して、治療をうけてわかりました。ここのスタッフは本当にすごい人たちだって。こんな私でも、丁寧に対応していただいて。もし叶うなら、私は尊敬できるこの職場でもう一度働きたい。」

 山口は涙を零しながら、哀川にすべてを打ち明けた。

 今回の一件のお陰で山口はまた働きたいという前向きな気持ちを取り戻すことができた。怪我の治療に時間はかかるが、精神面では一歩前に進んだ。

そんな風に哀川には思えた。

 哀川は胸のざわつきを感じた。

 そして、ふと“心”が言っていたことを思い出した。

時として悪が正義になることもある。 

 哀川自身納得はできないが、そういう見方ができなくもないなと思った。


「その事件と今回の事件はどう関係しているんですか?」

 高木は素朴な疑問を哀川にぶつけた。

「彼女が、“心”がコアに来てから、似た変化があったんです。」

「喜内はこれまで誰と話すときも口は笑っていても、目の奥は笑っていませんでした。一見人当たりが良いように見えて、誰のことも信用していませんでした。でも“心”が来てから、彼女と話す時だけは前のめりになっていました。怒賀もそうです。これまで温和だった怒賀が、“心”をみるとイライラするようになりました。」

「楽さんやあなたにも変化がありましたか。」

「楽も“心”と話す時は楽しそうでした。わたしも、そうですね、少し変わりました。」

 高木は哀川の言わんとしていることが何となくわかった。

「ただ、それはポジティブに捉えると、“心”さんがコアの皆さんを変えただけ。それだけ素晴らしい人だったということに過ぎないともとれますが。」

 高木はわざと哀川が思っていることと違うことを言った。

 哀川はため息をつきながら答えた。

「高木さん。それは、ないと思っています。私達四人はこれまで様々な治療を受けてきました。なんとか感情を手に入れるために。でもどれもうまくいかなかった。それを、一人の女の子と共同共同生活を送っただけで、全員治るなんて現実的じゃないでしょう。」

 哀川は、なかなか自分の意図する答えに高木が辿りつこうとしないことに苛立っていた。

 高木はようやく仮説を立てた。

「つまり星メンタルクリニックの患者五人に起きた感情の急激な変化に、違法薬物が関与している可能性があるということですか。」

「可能性はあると思います。」

 哀川は強い語気で言った。

 高木は窓を少しだけ開けて換気した。新情報の数々で膨張した空気を、少しでも逃がしたかった。

「それで、なんで私にそれを打ち明けたんですか。」

 高木は何かしらの見返りの要求があると確信していた。

「薬について研究所に問い合わせしようと電話したんです。でも、まったく取り合ってもらえませんでした。もし、万が一、この研究所が違法に精神疾患に対する薬を流出させていたとしたら。これは事件性ありと判断できるんじゃないですか。」

「警察の力で捜査のメスを入れたい。そういうことですね。」

 高木の言葉に、哀川は頷いた。

 侭田さんに怒られるな。

 高木はそんなことを考えながら、車を動かし始めた。


          *

高木は東南医科大学の研究室を訪ねた。

 研究室の徳田(とくだ)室長が接客スペースに案内してくれた。実験室を衝立で仕切って、ソファ二つとローテブルがあるだけのこじんまりしたスペースであった。

「すいません。お忙しい中お邪魔してしまい。」

 高木は小さく頭を下げた。

「いえいえ。それで、今日はどういった御用で。」 

 徳田室長はクーラーが効いているにも関わらず、汗が止まらないようだった。

 きっとこれまでの人生で警察にお世話になることはなかったのだろう。緊張が伝わってくる。

「いえ実はですね、あるタレコミがありまして。私としても突拍子もない話なので、あまり信じてないのですが。」

 高木は前置きをわざと大量においた。ふりかぶりが大きいほど、相手には緊張感を与えられる。

「先生方が感情をコントロールする薬を開発して、違法に世にばらまいていると。」

 少しずつ具体的な話にしていく。

「先生の研究室に在籍している榊めぐみさんの名を語って、先生が研究している薬を勝手に処方している人がいると。もし事実なら大変なことだ。」

 高木は徳田室長の目を下から覗き込んだ。瞳孔を通して脳をスキャンするつもりで覗いた。

 徳田室長は両手を組んで口元をつけたまま固まっていた。両目を閉じ高木の視線を拒んだ。

「しかも、その薬が新型うつ病患者の手に渡り、その患者は薬を内服して自殺未遂をしました。」

 高木は持ち弾を有効に、徳田室長に撃ち込んでいく。

 徳田室長の唇が震えている。

「知っていることを、全部話してください。あなた方の研究が、悪用されて世にでるのはアルフレッド・ノーベルのダイナマイト然り、ロバート・オッペンハイマ―の原子爆弾然り、不本意なことでしょう。」

 高木は、徳田室長が隠し事をしていると確信していた。あとはどういった形で吐かせるか。どうやって自分の非を認めやすい状況にもっていくか。

 しかし徳田室長は口元に力を入れた。顔に力が戻っていく。

「高木さん。私はね、自分の発明をどう使われようが、知ったことではない。私は学問としてこの感情という分野を解明したいだけです。」

 徳田室長は力強く高木に言い放った。

「そうですか。そうしたらこれが最後です。」

 高木は写真をジャケットの内ポケットから取り出し、徳田室長の前に並べた。

 そこには人工呼吸器に繋がれ、両腕に複数の点滴を刺された女性がベッドで横になっていた。

 何枚も、何枚も。色々な角度から撮られた写真。なかには傷口をアップにした写真もあった。

 徳田室長の顔が青ざめていく。

「この方が、自殺未遂した実際に存在する山口さんという方です。すごく痛そうだ。特にこの写真なんか、もう。」

 高木は徳田室長の背後に回り、目の前に痛々しい写真を突きつけた。

 徳田室長の息が荒くなる。写真から目を背ける。

「どうしました。知ったことではないんでしょ。あなたが作った薬で他人がどれだけ傷ついても、科学が進歩すれば関係なんでしょ。であれば、直視できるはずだ。」

 高木の言葉の侵入を防ぐように、徳田室長は必死に耳を塞いだ。

 高木は抵抗する徳田室長の胸ぐらを掴み、机に叩きつけた。

「今ならまだ引き返せるなんて甘い言葉はかけない。もうすでに被害者がでてるんだよ。でもな、これ以上続けてたらこんな写真をみても何も感じない人間になっちまうぞ。」

 高木は言葉なんてかけるつもりはなかった。ただ脅しで暴力をちらつかせるだけのはずだった。しかし心の声も一緒に漏れた。演技とは難しいな。

 徳田室長は机に突っ伏したまま動けなくなっていた。徳田室長の視線の先には、机に倒れていた子供の写真があった。

 徳田室長は白衣が乱れたまま、観念したように高木の前に座りこんだ。

「私たちは、先ほどあなたが仰った通り、感情のコントロールを目標に研究を行っています。いわゆる喜怒哀楽に分けて、それぞれに作用する薬の開発が最終目標です。薬の開発っていうのは、非常に複雑かつ面倒な手順が多いんです。そうして、遅々として進まない研究に私はもどかしい気持ちでいました。」

 徳田室長は机の上から写真立てを手にとり、高木に見せた。

 少年は父親の膝の上で、カメラをまっすぐ見ていた。

 その顔は仮面を張り付けたように、無表情で固まっていた。

「私の一人息子です。この子は生まれてから一度も笑ったことがありません。楽しいという感情が欠如して、笑顔をつくることができないんです。」

 徳田室長の声が震え始めた。

「私は息子の笑顔を見たいだけだった。それだけだったんです。」

 床に涙が零れる。抑え込んでいた罪の意識が、後悔が決壊したダムのように溢れ出てくる。

 どれくらい時間がたっただろうか。ようやく落ち着きを取り戻した徳田室長は、ゆっくりと話し始めた。

「おそらく、その自殺未遂をした女性に薬を渡したのは、うちの関係者です。」

 高木は関係者という言葉に引っかかった。

「去年の冬に、星メンタルクリニックの肥後院長からデータ整理の事務員として女性を紹介されました。人手に困っていましたし、付き合いのある肥後院長からの紹介なので迷うことなく雇いました。その女性は入職後に私に提案をしてきました。」

 自分には感情がない。自分を実験に使ってほしい。報酬はいらない。

「もちろん、最初はお断りしました。そんな危険なことはできないと。しかし、彼女は引き下がりませんでした。人間になりたいと。彼女はそう言いました。」

 徳田室長は一息ついて続けた。

「息子と同じでした。周りの子供からロボットと言われていた。そんな彼女を見るに堪えなかった。」

 室長は声を絞り出した。湧きあがる感情を抑えるように、目頭を押さえた。

「私は研究者失格です。そんな感情だけで、必要な手順をスキップして彼女を実験台にしました。」

「それで?」

「彼女に試験薬を処方しました。私達はコアドラッグと呼んでいます。結果は、、、。」

 室長はどのように表現しようか悩んでいた。

「大丈夫ですよ。ありのまま教えてください。」

 高木は助け船をだした。

「成功でした。まだ作用時間は短いものの、コアドラッグを内服すれば喜怒哀楽のどの感情も表現できるように彼女はなりました。」

 徳田は少し嬉しそうだった。しかしすぐにその顔は暗くなっていった。

「ある日彼女が実社会で薬を試したいと言いました。それまでは研究室内だけで実験をしていたので、外出は許可していませんでした。私はまだ早いのではと言ったのですが、彼女は聞き入れませんでした。どうしても笑った顔を見せたい人がいると言って。」

「それであなたは外出許可をだした。」

 室長は静かに頷いた。

「それまで真面目に実験を受けていたので、一日外出を許可しました。そしたら、金庫に保管していたコアドラッグとともに彼女は消えてしまいました。」

 高木は深いため息をついた。

 彼女は最初から計画的に室長に近づいている。そしてコアドラッグがまとめて手に入ったから逃亡した。

「まさか私の研究室が事情聴取の場になるとは。」

 室長は苦笑した。 

「科学者は罪を知った。」

 高木は写真を室長に返して言った。

「オッペンハイマーの言葉です。彼は人類史上最悪の兵器を作り上げた罪の意識に悩まされました。しかし、後に核兵器廃絶を訴え活動しました。」

 高木は続けた。

「あなたのやったことは犯罪です。許されることではないです。しかし、大切なのはこれからどうするか。あなたのやった研究は多くの人を救う可能性がある。その素晴らしい研究を正しく導くことが、生みの親の役目でしょう。」

「そうですね。」

 室長は何回も頷いた。

 高木が彼女の事を詳しく訊こうとした時、室長が言葉を落とした。

「本当に悪いことをした“心”さんには。」

室長が独り言で言った言葉を高木は聞き逃さなかった。

「今、“心”さんと言いました?」

「はい。」

 高木はふと、楽の部屋から押収された顔のない人物画を思い出した。

 ちぎられた糸が逆再生で繋がっていく。

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