第三章 悪魔
高木は物体となった遺体に手を合わせた。
別に手を合わせたからといって生き返るわけでも、犯人を教えてくれるわけでもない。
早く仕事に着手したい気持ちを抑えて、五秒ほど合掌する。
結果的に、これをした方が時間短縮できる。ジンクスみたいなものだ。
合掌を解き、遺体を確認した。
顔だけが焼けており、腹には複数個所の刺創があった。
「鋭的外傷による出血性ショックが死因だな。凶器は鋭利な刃物。無惨な殺害方法から怨恨が一番考えられるな。被害者の交友関係をあらえば、すぐ解決できる。」
侭田(ままだ)は高木の背後から遺体を覗き、断言するように言った。
「子宮内から精液も検出されています。」
「強姦された後に殺されたのか。惨いことをするやつがいるもんだな。」
侭田は高木の上司の刑事である。
五〇歳を過ぎ、その経験量から現場を仕切ることが多い侭田初見を重視するタイプであった。そのため、最初の見解があっていればすぐに事件解決できるが、誤っていた場合は目も当てられない。
しかし現実は難解な謎に包まれた事件はほとんどなく、侭田の方法で大半の事件が解決できる。
「そうかもしれないですね。顔が判別つかないので被害者の同定に時間がかかりそうですが。」
高木はわざとひっかかるように返答したが、侭田は全く気にしていない。
「でも、他に周辺で三人殺されてるんですよ。そっちは鋭利な刃物で全員気管損傷と頸動脈損傷で亡くなってます。これも怨恨ですか?」
高木の部下の峰岸(みねぎし)が侭田に噛みつく。
峰岸は仕事熱心な分、自分の考えと違う人がいると上司だろうか噛みつく青い男だ。それでも高木には懐いていた。
「それは目撃されて勢いでやっちゃっただけだろ。」
侭田はさして興味を示さず、二人から顔を逸らし現場の周辺に集まった主婦達を見た。
「しかし、あれだな。世の奥様達は本当に刺激に飢えてんだな。買い物袋ぶら下げたおばちゃん達が、野次馬根性丸出しで集まってるわ。」
侭田はうんざりした顔をつくってみせ、早くも撤収したがっていた。
「高木はどうせまだ残るんだろ。」
「はい。もう少し。」
「ったく。このあと会議あるんだから、遅れず帰って来いよ。」
そう言い残して侭田はパトカーで警察署に帰っていった。
高木は現場の違和感を整理したかった。
事件現場を遠景と近景で俯瞰し、持参の画用紙に風景画のように現場を描き始めた。
高木のいつもの習慣であった。
現場を絵に落とし込むことで、細部にまで検証を行うことにつながり、見落としのない捜査になると高木は信じている。
急がば回れ。
これは侭田の方針とは真逆であるが、高木の人生の軸になっている格言である。
高木は、侭田同様元来せっかちな性分であるが、侭田とは違い高木の直感は外れる傾向にある。そのため、刑事になったばかりの高木は、侭田の真似をして直感で捜査をした結果、捜査ミスばかりしていた。
そして試行錯誤を繰り返した結果、高木は絵を描くという独自の捜査方法に辿り着いた。
高木は現場の絵を鉛筆で描いて回った。
焼死体は侭田の言う通り、怨恨の線が濃厚である。
それにしても、昼夜で違うとは言え、これだけ人目に付きそうなところで、こんな手間のかかる殺害方法をとるとは。身元を隠そうと顔を焼いたのか。
それに比べて、他の三人は首だけを正確に突かれている。興奮している犯人が、恐ろしいほど冷静に人を殺している。
目撃者だった可能性が高いが、ここにも疑問が残る。
二人目、三人目の被害者の大学生カップルは、焼死体から距離がある公園で死んでいた。となれば、犯人はここに来たということか。
高木は現場の公園に来た。おそらく、焼死体から公園まで、今自分が歩いてきた道を犯人も通ったと考えられる。
公園に何の用があったのだろう。
カップルが殺された時に座っていたと思われる長椅子に近づき、そこから周りをみると公衆トイレが目に入った。
すでに現場検証の捜査員が調査を開始していた。高木は挨拶がてら、中の状況を聞いた。
特に証拠となりそうな物は見つからなかったとのことだった。
高木はトイレの絵も描き始めた。そこで女子トイレの鏡の一枚が雑に拭かれていることに気がついた。
高木は鏡の前に立ち、思考を巡らせた。
犯人が返り血を拭くために、自分の恰好をチェックしたのだとしたら。犯人は女か。
安易な考えに飛びつかないように、絵に集中した。
絵を描き終わって、近くのパトカーに乗せてもらい署に向かった。
焼死体の現場、公園までの道のりの殺害現場、公園の長椅子の殺害現場、トイレ。
それぞれの絵を繰り返し見直した。絵の出来としてはいいが、事件の核心につながる物にはなっていない。
高木は鉛筆の黒鉛で黒くなった手を眺めた。
この事件を解決するには、まだまだ黒さが足りないように思えた。
*
夏も本番に近づいているのに、警察署内は節電のためクーラーをまだつけることができなかった。
公共機関であるから、積極的に節電をしていかないといけないという理屈は理解できるが、仕事効率が落ちるほどの暑さは公共の利益とは思えなかった。
五日間たったが、目撃情報もなく被害者の特定もできていなかったことも高木達を苛立たせた。
「高木刑事!情報提供者から直接電話です。直接高木刑事と話したいと。」
峰岸が大声で高木に伝えた。
「こっちに回してくれ。」
高木は手元の電話をとった。
「もしもし代わりました。高木といいます。」
「絵を描いていた刑事さんですか?」
電話主はボイスチェンジャーを利用していて、男か女か判断のつかない高い声を発していた。
「そうです。あなたのお名前は?」
高木はゆっくり時間をかけて答えながら、逆探知の指示を出した
「岸川町三―六―一二のシェアハウス。そこが被害者の家です。」
高木は急いでメモを取った。
「情報ありがとうございます。あなたのお名前を教えていただいても、、、」
高木が言い終わるまえに、通話は切れていた。
「逆探知で位置特定をしてくれ。」
いたずらかもしれないが、何も情報がないよりましだった。
*
大粒の雨が途切れることなく降り続く一日だ。傘をさし撥水性のある革靴でも、中まで浸水した。
高木はリークのあった住所に辿りついた。オフホワイトの二階建ての家で、似たような住宅街の中に紛れていた。
住人の情報は近隣からすぐに聴取できそうだ。
高木はそう思いながら、インターホンを鳴らした。木曜の二〇時という時刻は、世間的にみて無礼な訪問時間だろう。しかし、仕事や学校からこの時間なら帰ってきている可能性が高いし、次の日が金曜であるから外食も少ないだろうと高木は踏んだ。
窓から部屋の灯りがこぼれているが、すぐには返答がなかった。一分ほど経つと、男の声が聞こえた。
「はい。」
「もしもし。夜分遅くに失礼します。私、中央警察署の高木と申します。近所で起きた事件のことで、少しお話を伺えないでしょうか。」
高木は警察手帳をカメラの前に見せながら丁寧に話した。
「少しお待ちください。」
男はそう言って、通話を切った。
少しすると男が玄関から出てきた。
男は目鼻立ちのくっきりした優しそうな顔をしていた。体格は高木ほど筋肉質ではないが、一八〇センチメートルある高木を見下ろすほどの長身であった。
「初めまして、喜内と申します。こんな天気なのでお話は中で。」
「すいません。ありがとうございます。」
喜内は高木を家の中に通した。喜内はタオルとスリッパをあらかじめ準備してくれていた。
リビングに入ると夕食後だったのか、金髪ショートヘアの女がキッチンで洗い物をしていた。高木と女は言葉を発さず軽い会釈をした。
喜内がお茶を出し、高木とリビングのテーブルに着いた。
「突然の訪問で申し訳ありません。それにお茶まで出していただいて。」
高木はわざとらしく下手にでた。
「それでどういったご用件でしょうか。」
喜内は自らのお茶に全く手を付けず、話を進めようとした。
「最近、近所で殺人事件が起きたのをご存じですか。」
「ニュースで見ました。四人亡くなられたんですよね。」
「そうです。全員刃物で刺されてなくなりました。」
「悲しい事件です。」
喜内からはなんの感情も読み取れない。
とはいえ、赤の他人が亡くなっても感情が揺さぶられる人の方が少ないだろう。
「ただ。」
高木は一口お茶を飲んでから、もったいぶって切り出した。
「ただ?」
「一人だけ身元が分からないんです。」
「このご時世にそんなことがあるんですね。」
「顔が焼かれてしまっていましたし、身元確認できるものも所持していませんでした。こういった場合時間がかかることは珍しくありません。」
「そうですか。」
高木は情報を出すたびに喜内の反応を窺った。加えて、横目でキッチンにいる女の表情も見逃さないようにした。
「それで事件の目撃者を探すために、こんな大雨の中、平日の夜に警察は聞き込みを行っているわけですか。ご苦労様です。」
喜内はわずかに嫌味を含めて高木に言った。
「これも上からの命令なもので。申し訳ありません。」
高木は受け流し、次にどうやって核心に迫ろうか思案した。
すると喜内が口を開いた。
「その身元が分かっていない人はどんな特徴ですか?」
「おそらく二〇歳から三〇歳くらいの女性で、身長は一五二センチメートルのやせ型です。事件当時は黄色のワンピースを着ていました。」
喜内は顎髭を触りながら、高木に言った。
「その外見に該当する人を知っています。」
「本当ですか。」
「はい。ただ本当に知っているかと訊かれると難しいですね。」
「どういった意味でしょう。」
「私達は今四人で共同生活をしています。私とキッチンにいる彼女、あと男女一人ずつ住んでいます。ただ、実はつい一週間前までもう一人一緒に住んでいました。」
「その人が、その該当する女性ですか。」
「そうです。」
二人の間に流れるような受け答えが続く。
「ちょうど一週間前に家を出たきり、帰ってきません。」
「連絡も?」
「つきません。」
「警察には届出なかったんですか。」
「はい。」
「どうしてですか。」
「こんなことを言うと冷たいと思われるかもしれませんが、シェアハウスをしていると日常茶飯事なんです。同居していた人が急に蒸発してしまうことなんて。いちいち警察に届けたり、探したりしていたらきりがない。」
喜内は苦笑混じりに高木に言った。
「その方の名前は。」
「名前は“心”と言います。」
「申し訳ありませんが、フルネームでお願いします。」
「フルネームはわかりません。年齢も分かりません。二〇歳だといってはいましたが。」
高木はメモの手を止めた。その様子に喜内も気づき付け加えた。
「先ほど言った意味はこういうことです。私達は“心”について外見以外の情報をほとんど持っていません。実は男だったと言われても、証明することもできないほどです。」
喜内は淡々と説明した。
「一か月くらいしか滞在していませんでしたし。ただ六本木の飲食店で働いていると言っていました。『スペード』という店だと言っていました。名刺もあります。私達よりは情報を持っているんじゃないかと。」
喜内はそう言って名刺入れから、一枚取り出し高木に渡した。
黒い名刺に“こころ”と白文字の平仮名で記載されており、その他は店の住所と電話番号が載っていた。
「この店を訪れたことは?」
「ありません。哀川は行ったことある?」
喜内は哀川に確認した。
「ないわ。」
哀川の目がわずかに揺れたのを、高木は見逃さなかった。
「哀川さん。“心”さんのことで追加情報はありますか。」
高木は哀川に鋭い視線を向けた。
「ありません。」
哀川ははっきりと答えた。
「わかりました。そうしたら、“心”さんの部屋を見せてもらえますか。」
高木が食らいつく。喜内は比較的すんなり承諾した。
二人は二階の“心”の部屋に向かった。
喜内がドアを開けると、八畳ほどの正方形の部屋が現れた。
まあ想定はしていたが。
高木は、物が一つも置かれていない部屋を眺め思った。綺麗に掃除され、髪の毛一本も落ちていない。
「彼女が消えてから、そのままにしていたんですが。昨日ちょうど掃除してしまって。」
喜内は後ろから高木に声をかけた。
高木はそれ以上詮索せず、一階のリビングに戻った。
「今日はありがとうございました。もう遅いので、後日四人それぞれからお話をお聞きしたいのですが。」
「承知しました。」
喜内はそう言って、四人の連絡先を高木に渡した。
「最後に私から質問なんですが。」
喜内は玄関で靴を履く高木に言った。
「答えられる範囲でお答えします。」
「この家は事件現場の近所とは言え、家ならここ以外にもたくさんありますよね。事件から五日間で、ここより近い場所すべて回ったわけではないですよね。」
「と、いいますと?」
「なんで私達にあてをつけたんですか?」
喜内が高木の胸の内に投石した。
この男、かなりきれる。高木は警戒心を一段階上げた。普通警察が家に来たらボロがでる人間が多い。そんな中、喜内は尻尾を見せるどころか、こちらの動きから違和感に気がついている。
「残虐性の高い事件なので、大規模な捜査を行っています。捜査にあたる人員も多く、懸命な捜査活動を続けています。喜内さんが想像するより、警察はずっと速く動けるものです。」
高木の言葉に納得した様子はないが、これ以上詰めてくることもできないだろう。高木の予想通り、喜内はそれ以上なにも訊いてこなかった。お茶とタオルのお礼を言って高木は家をでた。
本当であれば、今日全員の事情聴取とDNA鑑定の検体入手を行いたかったが仕方がない。
濡れた靴下が気持ち悪い。
ここまで先の見えない捜査もなかなかない。高木はコアを振り返りながら思った。
*
高木が家を出ていくと、喜内は部屋に籠っていた怒賀と楽をリビングに呼んだ。
「誰か、警察に“心”のことをリークした?」
喜内は静かな声で三人に訊いたが、だれも反応を示さなかった。
どんっ。
三人が顔を上げた。怒賀は体を縮ませて怯んだ。
喜内が机に拳を叩きつけていた。
「どういうつもりだ。警察に一度目をつけられれば、平穏な生活ができないことくらいわかるだろ。」
「あなたが一番困るからって、そんなに怒らなくても。」
哀川は鼻で笑いながら、煙草をふかした。
吹きかけられる煙以上に、哀川の言葉が喜内を苛立たせた。
「なんだよその言い方。僕は全員が一番困らない方法をとった。感謝されることはあっても、そんな態度をとられる筋合いはない。」
「これから私達どうしたらいいんですか。」
怒賀は救いを求めるように喜内に弱々しい声で話しかけた。
「知らぬ存ぜぬで突き通すしかないだろ。」
喜内は両手を口元で組んで三人を見渡した。
「本当にこの中に“心”を殺した犯人がいないなら、、、ね。」
冷蔵庫の製氷機がガラガラとなる。
「仕方ないだろ。ここいる全員にアリバイがないんだから。疑われて元々。」
哀川は明るく振舞った。
「でも、もうこの家には“心”と繋がるものなんて何一つない。堂々としていればいいんだ。それに。」
「それに?」
喜内の途中で止めた言葉に怒賀が食いついた。
「次の手はもう打ってある。」
喜内は先ほどまでのぴりついた顔から優しい顔に変わっていた。
哀川が何も話さない楽を見た。楽の顔はいつも以上に青白く見えた。
*
夜一一時を回った頃、喜内は病院を出て駐車場に歩いて向かった。
黒いセダン型のドイツ車に乗り込もうとすると、男の呼び止める声が聞こえた。
「喜内先生。こんな時間までお仕事とは。恐れ入ります。」
喜内が声のする方を見ると、息苦しい暑い夜なのにネクタイまでしっかり締めてスーツを着ている男がこちらに向かって歩いてきた。
「高木さん。こんな所でどうしたんですか。」
喜内は驚きながらも、落ち着いた声で話した。
「いやー、喜内さんと少しお話したいなと思いまして。失礼ながら出待ちさせていただきました。」
「それなら、あらかじめ言って頂ければ時間つくったのに。」
「いえいえ。沢山の患者を救う大切な仕事をされている。仕事終わりの僅かな時間でもいいので、私にいただければ感謝感激ですよ。」
喜内には高木の必要以上に遜る姿が、少し不快に思えた。
そして、喜内が勧める前に高木は車の助手席に乗り込んだ。
リズムを崩されながらも、なるべく表情にでないように運転席に乗り込んだ。
車内は行き場のなくなった空気が熱を吸収して沈殿していた。
喜内はすぐにエンジンをかけ、冷房をつけて重い空気を吹き飛ばした。
「それで、話はなんですか。」
喜内はレザーシートにもたれかかって、鞄の中のミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。
「そうですね。喜内先生も疲れてらっしゃる。ではさっそく本題に。」
高木はエアコンの吹き出し口を自分の方向に向けながら言った。
「喜内先生。“心”さんを殺害したのは、あなたですよね。証拠はそろっています。」
喜内はペットボトルを開ける手を止めた。
喜内が高木の顔を見ると、高木の目に強烈な憎悪の念が充満していた。
罪と罰だけでできた世界に生きている人間。
犯罪者を全員死刑に処するべきだと考える人間。
喜内はペットボトルを持ったまま動けなかった。
高木の大きな右手が首元に近づいてくる。大蛇が首元に纏わりつく。
「お医者さんが煙草とは、あまり関心できませんな。医者の不養生とはこのことですね。」
高木は喜内のジャケットの内ポケットから煙草の箱を取り出して、自分の内ポケットに入れた。
喜内は思い出したように息を吐いた。
高木はにやにやしながら頭を下げた。
「誠に失礼致しました。私はせっかちなもので、被疑者全員に自供を促すようにしているんです。」
「そういうやり方は問題になりますよ。」
「先生のような寛大な方が多くて助かります。」
そう言って高木はもう一度頭を丁寧に下げて、助手席を降りて歩き去った。
喜内はペットボトルを開けようとした。
手が震えて力が入らない。
喜内は後部座席にペットボトルを投げ捨て、ドライブにギアをいれた。
*
なぜ逮捕されないのだろう。
ニュースでは通り魔の犯行と言っていた。
“心”以外に三人が刺殺されたらしい。
凶器も見つかっていない。
あの人がどこかにもっていったんだろうか。
でももう、そんなことどうでもよい。
足元に転がる”心”。手が温かい。鉄臭い。
どれだけ思い返しても、あのときの感情は思い出せない。
あれほどとめどなく湧きあがった感情。
どうしたら、あの気持ちを思い出せるのだろう。
*
事件が動いたのは事件発生から一〇日後であった。
高木は喜内、怒賀、哀川、楽から話を聞いた時にこっそり採取した唾液の付着したサンプルでDNA鑑定を行っていた。
結果は捜査本部に衝撃を与えるものであった。
被害者の女性の子宮内の精液と楽の唾液のDNAが一致したのだ。
もちろんこれで楽が犯人であると断定はできないが、重要参考人として話を聞く必要はでてくる。
高木達は美術館でバイト中の楽に任意同行を求めた。楽はすんなりと応じた。
高木は取調室で楽と向かいあって座った。
楽は長く伸びきったくせの強い髪を無理やりワックスでオールバックにしていた。ただ、そのワイルドな髪型に対して顔や服装は地味で弱弱しいものだった。
面長な顔、垂れ目、チェックのシャツにジーパン。どこにでもいそうなすこし影の薄い普通の青年だ。
「楽君。なんでここにつれてこられたかわかるかな?」
「。。。」
「先日殺された女性と君が性交渉を行っていたことがわかったんだ。つまり君と女性には面識があるはずなんだ。どうかな。」
「。。。」
「君がよほどのプレイボーイでない限り一〇日前くらいに楽しんだ女性の事は覚えているだろ。」
「。。。」
高木はため息をついた。
無気力。
この言葉を体現したような男。身体に芯がなく、死んだ目をしている。こちらの質問には全く反応を示さない。こういう男は、、、。
「人が何人も死んでんだよ!知っていること全部吐け!」
高木は唐突に楽を叱りつけた。
楽は眉一つ動かさず、机の角をぼんやり眺めていた。
怒鳴っても、例え殴ったとしても何も話さない。わかっていたことだが。
高木には目の前に鍵のついた大きく頑丈な箱が置かれているように思えた。この鍵穴にあう鍵を探す必要がある。
高木は手元の封筒からB三サイズの画用紙を取り出した。楽の部屋に隠されていた顔のない人物画だ。
「君の部屋に隠されていたデッサンをお借りしてきた。顔のない人物画ばかり。」
「。。。」
「僕も絵に多少覚えがあるんだ。良く描けている。顔がなくても女性らしさや若々しさが表現できている。」
「。。。」
高木は素直に絵の感想を述べた。風景画を主として描く高木には、決して描けないレベルの絵だった。
「このモデルは誰かな?」
「。。。」
「この女性、被害者の女性によく似ていると思うんだ。服装も事件当時女性がきていたワンピースに似ている。」
「。。。」
楽は何も話さない。
「君は、“心”という女性に恋をしていたのか?」
楽は眉ひとつ動かさず下を向いていた。
高木が部屋を出ると、峰岸が近付いてきた。
「楽はかなりの変態野郎ですね。好意を寄せた女性を無理やり襲って、殺して。さらに顔まで焼くなんて。どうかしてますよ。」
峰岸は怒りで顔が赤くなっていた。
「お前の中では、この事件はそういったあらすじになっているんだな?」
高木は落ち着いた声で峰岸に言った。
「すいません。決めつけはよくないとわかってはいますが、もしそうだとしたら許せなくて。」
峰岸は諫められたと感じ、素直に謝罪した。
「わかっていればいいんだ。ただお前のその熱量は捜査に欠かせないものだ。大事にしろよ。」
峰岸は高木の言葉を恥ずかしそうに受け取った。
「で、頼んでいたことはわかったか?」
「ああ。わかりましたよ。持ち主は意外や意外。」
峰岸は手に持っていたタブレットをスムーズに操作した。
「楽が住んでいる家の持ち主は、肥後(ひご)忠司(ただし)という男でした。」
「肥後忠司。聞いたことのある名前だな。たしか、、、」
「さすが高木刑事。精神科医としてテレビにも出演するほどの有名人です。」
峰岸は高木の言葉を遮って、肥後が経営するクリニックのホームページをタブレットに映して見せた。
「でも、どういう関係性なんですかね?」
峰岸は眉間に皺を寄せながら思索した。
高木は硝子越しに峰岸を覗いた。
被害者の女性は彼の鍵を開けることができたのだろうか。
*
高木は肥後が経営する星メンタルクリニックを訪れた。
喜内達の家の隣駅にあり、オフィス街の高層ビルに組み込まれていた。
高木がクリニックに入ると、驚いたことに誰もいなかった。受付の人も含めてだ。
こんな好立地にあるクリニックだから、勝手に繁盛していると思っていたが。
高木は腕時計に目を向け、アポイントの時間は間違っていないことを確認した。
しばらくすると奥の部屋から、サングラスと帽子とマスクで顔を隠した長身の女性がでてきた。
女性が高木に気がつくと、一瞬戸惑っていたが小走りで高木の横を通って出ていった。
高木が不審に思っていると、次に白衣を着たオールバックの男が出てきた。
「高木刑事ですか。」
男は低めの落ち着いた声で尋ねた。
適度な笑顔と安心感を与える声。白衣も皺一つないパリっとした清潔感のあるものだった。二人は握手をした。
「はい。お仕事中無理きいていただいて感謝します。」
「いえいえ。悲しい事件に巻き込まれてしまった方々のためです。できる限り協力させていただきます。」
男はこのクリニックの代表の肥後院長だ。五〇歳前後と思われるが、肌は綺麗で白髪もない。
自信過剰に見せることも、必要以上に遜ることもない。年齢を重ねるにつれてどちらかに偏ってしまう現代には珍しい人だと高木は思った。
二人は奥の診察室で腰を下ろした。
机の上には患者ファイルが山積みになっていた。午後の診察分のものであろう。
「さっそく本題に入りますが、喜内さん、怒賀さん、哀川さん、楽さんが住んでいる家の持ち主が肥後院長になっています。あなたと四人はどういった関係なのでしょうか。」
高木はメモの中を見られないようにしながら、書き留める準備をした。
「私と四人は、主治医と患者の関係です。」
肥後はそう言って、四人のカルテをパソコン上に映し出した。
「というと、四人はそれぞれ疾患を抱えているということでしょうか。」
「はい。」
肥後は重く頷いた。
肥後の説明が要点を抑えた上手なものだったため、高木はメモをとるのにそこまで苦労しなかった。
新事実は以下のようなものだった。
喜内、怒賀、楽、哀川の四人は全員、肥後の元で治療を行っていた。ただ病名のついている疾患ではない。
一部の感情が欠落している状態。
喜内は喜ぶことができない。怒賀は怒ることができない。楽は楽しむことができない。哀川は哀しむことができない。
感情の一部が欠落していても、日常生活に支障をきたすことはない。
しかしコミュニケーションをとっていくうちに、同調できない部分が目立ってくる。足並みを揃えなければ、弾き飛ばされるこの世の中では、感情の欠落が大きなビハインドになる。
四人はそういった目には見えないハンディを背負って生きてきた。
薬での治療は効果がでないことや確立した治療法がないことから、心の名医の肥後ですら頭を悩ましていた。
そこで、肥後院長はグループセラピーを思いついた。
感情が欠落している四人を共同生活させることで、なんらかの変化が起こるのではないかと考えた。
肥後院長はシェアハウスを用意して、四人に相談してみた。
誰かしらは反対するだろうと思っていたが、思いの外全員がすんなり了承した。
ちょうど二年前からシェアハウスをスタートした。
些細な衝突はありながらも四人は共同生活を二年続けてきた。
本来の目的である欠落した感情の獲得には至っていないが、本人達は苦にしてなかったため継続させていたと肥後は言う。
「同じ辛さを共感できる人が近くにいるというのは、心強いものですよ。」
肥後は優しい目で、画面に映る四人のカルテをみた。
「肥後院長が四人の家に行くことはありますか?」
「いえ。私がコアに入ることはありません。」
「コア?」
高木は不思議そうに肥後に尋ねた。メモ帳の真ん中にコアと書き、丸で囲った。
「ああ、失礼。私がつけた家の名前です。」
「どういう意味ですか。」
「大した意味はありませんよ。感情の欠落した四人が集まって、完全な心、コアを作り上げてほしい。そういう願いでつけました。」
肥後は背もたれに体重を預けて、天井を眺めた。
「さっきの質問なんですが。」
高木は答えを催促した。
「ああ。そうでしたね。コアには私は行ったことがありません。基本的に喜内さんに管理は任せています。」
「そうですか。それでは、喜内さんが五人目の入居者をとっていたことは知っていましたか?」
高木は顔をメモに向けながら、目だけを肥後に向けた。
「いえ、初耳です。そういったことがあるなら、喜内さんから私に連絡をしてくるはずですが。」
肥後は驚いた顔をしながらも、努めて冷静に答えた。
高木は数秒だけ間をおいて、再び話し始めた。
「名前を“心”という二〇代の女性です。ご存じないですか?」
「申し訳ありませんが。」
「でも質問の内容を変えます。このクリニックの患者でない人が、コアの事を知り入居する可能性はありますか。」
「それはないと思います。コアは公に入居者を募集していません。それにコアのことを知っているのは私と入居者の四人だけです。」
「そうなると、四人のうちの誰かが、“心”さんをコアに引き入れたことになりますね。」
高木は客観的事実だけを並べた。
「そうなりますね。でもなんで。」
肥後は疑問を自分に投げかけ、思考の渦に入っていった。
高木は腕時計を見た。午後の診察が始まる時間が近付いている。
「最後に。どうして四人はこのことを隠していたと思いますか?」
高木は肥後に尋ねた。
この質問には、肥後はすんなりと答えた。
「それはあの四人に限ったことではないでしょう。誰も精神科にかかっているなんて言いたくない。まして被害者の住んでいた可能性がある家に、精神疾患患者が共同生活しているとマスコミに知られた日には、どんな辛い目にあうか。警察のあなたなら容易に想像つくでしょう。」
肥後は残念そうに高木に言った。
この仕事をしていれば、嫌でもそういった反吐がでるような場面に出会う。
事件現場にいたあの野次馬の主婦達を高木は思い出していた。
遠くから眺めて、自分に関係がないと分かると勝手な推理を始めて騒ぎ出す。
そして自らを正義と信じ、仮説がいつの間にか真実のように話され、関係者を被害者・加害者関係なく追い込んでいく。
もし四人がこの事件と全く関係なく、警察である自分がコアに入るのを近所の人間に見られ噂されていたとしたら。
高木は膨らむ想像をかき消し、肥後に丁寧にお礼を言ってクリニックを出た。
*
高木は“心”が働いていた会員制クラブ『スペード』に足を踏み入れていた。
一見入口もわからないくらいの場所に構えられた店の内装は、古城を思わせるクラシックな世界を演出していた。
高木は階段を降りて店内を見渡すと、テーブルはすべて埋まっていた。
しかし広いフロアと高い天井のためか混雑している印象はなく、優雅な時間が流れていた。
スタッフの男が近付いてきた。
「いらっしゃいませ。ご予約のお名前をお願いします。」
ホストでもやっていけそうな男前なスタッフが、丁寧な口調で尋ねてきた。
「いえお客としてきたわけではないんです。私、警察のものです。“心”さんについてお話を聞かせていただきたくて。」
高木が警察手帳を出そうとした時、男が制した。
「ここでそういったものを出されると他のお客様が心配されます。お話なら事務室で。」
男の言葉は丁寧であったが、言葉の端々に鋭さを感じた。
男の言う通り、スタッフ用の事務室に二人は入った。
部屋には一人別のスタッフが休憩していたが、男はそのスタッフを部屋から追い出し鍵をした。
男は名刺を高木に渡した。須田(すだ)敏(とし)行(ゆき)という名のオーナーであった。
オーナーの割には若いように見えた。
「若い女性の囲まれていると、不思議と自分も若くいられるんですよ。」
須田は高木の心を見透かすように、先手を打ってきた。
「そうですか。羨ましい限りです。」
「それで。“心”さんの身になにかあったんですね。」
須田は主導権を奪われまいと、アイドリングトークを早々に切り上げ、先に質問を高木に投げかけた。
「なにかご存じですか。」
高木は質問で返した。
須田と高木の間に重い沈黙が流れた。
先に口を開いたのはここも須田であった。
「高木さん。お互いに忙しい身だ。面倒な駆け引きはやめておきましょう。私が持っている情報はすべてお渡しします。その代わり、目をつぶっていただきたいことがある。」
ため息とともに須田は言葉を吐き出した。
高木は須田の無駄を省く姿勢に、少し嫌悪感を抱いた。
身元不明の焼死体が最近発見されたこと。
近くの家の失踪者と焼死体の特徴が似ていること。
その失踪者は“心”という名前で、同居人から『スペード』で勤務していることがわかったこと。
高木は要点を押さえて須田に説明し、“心”の情報を求めた。
須田は高木に断りを入れて煙草に火をつけた。黄金色のティップペーパーで、高級感のあるものであった。渋い香りが部屋に広がった。
「履歴書とかありますか?」
高木が尋ねると、須田は煙を吐きだして答えた。
「ありません。」
「ない?しかし、ここで勤務していたんですよね。」
「最初にお願いした目をつぶっていただきたいことはそこです。私は“心”さんのことはほとんど知らないんです。」
「どういうことでしょう。」
「私は街中で“心”さんをスカウトしました。彼女も働き口を探していたようで、すぐにでも働きたいと言ってくれました。しかし彼女は身分を証明するものを何一つもっておらず、それでも良いかと尋ねてきました。」
「それで?」
須田は半笑いで話した。
「普通の経営者なら、リスクを考えて雇うことをやめるでしょう。しかし私は彼女の魅力のベネフィットをとったんです。心の距離を詰めるのが上手な人でした。裏表がなく表情豊かで、お客様から愛されると確信しました。」
須田の笑いの中には恥ずかしさが滲んでいた。好きな女の子ができた時の少年の顔のようだった。
「私が予想した通り、いやそれ以上でした。“心”さんはスタッフからもお客様からも愛される、心優しい素敵な女性でした。交友関係の難しいこの界隈で、敵を作らないことは難儀なことです。」
「違法行為と知ってのことですよね。」
「刑事さん。お互いのメリットのために話したんです。あなたは“心”さんのことを知りたい。私はこの店を守りたい。もし約束を守れないようならこれ以上は話せません。」
須田の目が本気になった。
「わかりました。これ以上の詮索はやめましょう。話を戻します。それでは“心”さんの写真などはありますか。」
「ありません。」
「そんなこと、、、」
「ないんです。“心”さんは写真だけは断っていましたので。」
須田は高木の言葉を遮って言い放った。
須田の言葉を信じるなら、“心”は明らかに身分を隠している。高木はコアでの事情聴取に近いものを感じた。
または。
高木は聴取を続けた。
「彼女が恨みを買うようなことはなかったでしょうか。」
「そうですね。少なくとも私は聞いたことがありません。」
「であれば、ストーカーはどうでしょう。この手の仕事をしていると、愛情の度が超えて事件になることもあります。」
「ストーカーですか。ああ、そういえば“心”さんを特に御贔屓にされていたお客様が前にいました。それ自体は問題ないのですが、店外でも、“心”さんに執拗につきまとっていたみたいなので、当店から注意させていただきました。それ以来来店されなかったし、“心”さんからも相談はなかったので解決したと思っていましたが。」
須田は思い出すように説明した。
「ちなみに、その方の名前は。」
高木はメモを取り出しながら、須田に尋ねた。
「確か、安斎(あんざい)正道(まさみち)様だったと。」
高木は手を止めた。
安斎正道。
星メンタルクリニックで見た名前だ。
高木は誰かの手に後ろから押されたように感じた。力強く乱暴な手。
「高木さん。」
須田の声で高木ははっとした。
「彼女を見つけてあげてください。」
須田は高木に頭を下げた。
「もちろんですよ。」
その後、須田の協力のもと“心”をよく指名していた客を何人か紹介してもらい、“心”の話を聞いた。
追加情報はなく、事件前日も『スペード』で働いていたことの言質は取れた。あとは“心”の人柄が良いことを再確認するだけであった。
高木は須田と客にお礼を言って店を出た。
高木は記憶の引き出しをひっくり返して思い出した。
確かあのカルテには、うつ病と書いてあった。
聞いたことのない病名だった。なんにせよ、もう一度星メンタルクリニックを訪ねる必要がある。
クリニックにむかおうとした時、スマートフォンが鳴った。
侭田からだった。
「捜査ご苦労さん。今どこだ。」
「今は被害者が働いていた会員制クラブに。」
「そうか。でも、もう調査の必要はなさそうだ。」
「というと。」
「いま犯人が自首した。」
侭田の声は嬉しそうだった。犯人が捕まったことよりも、捜査の目処がようやく立ったことへの嬉しさのように高木は感じた。
「安斎正道という男だ。とりあえず、戻ってこい。」
そういって侭田は電話を切った。
突如として事件が解決に向かって動き始めた。
再び後ろから押されたように感じたのは勘違いだろうか。
*
「なんで今更自首なんかしたんだ。」
高木は安斎に尋ねた。
「あんなにたくさん殺しておいて、逃げきれないと思いました。」
安斎はぼそぼそと答えた。
「どうして“心”さんを殺した?惨い殺し方だった。」
「何度も告白したのに振られて。誰かのものになるなら殺してしまおうと思いました。顔を燃やしたのは身元がばれないようにするためです。」
「他の三人はなんで殺した。」
「顔を見られたので殺しました。」
安斎は目を閉じたまま、デスクに声をぶつけることで高木に届けようとしているように高木には見えた。
安斎の顔は、強いパーマのかかった肩にかかる重い髪でほとんど隠れていた。
高木は手元の安斎のプロフィールの書かれた書類を見た。
メガバンクの銀行員で課長をしている三八歳独身男性。前科もなく、順風満帆にみえる人生。
そんな男がどうしてこんな大それたことをしてしまったのか。
鍵はやはり。
「星メンタルクリニック。」
高木がぽつりと言うと、安斎が初めて顔を上げた。高木と安斎の目が合う。
「あなたが通っているクリニックですよね。どうして通っているんですか?」
「。。。うつ病です。」
安斎は再び顔を伏せていった。
安斎は高木を、もっと言えば高木の目を警戒している。
高木は直感的に気がついていた。
自首をした人間は、大なり小なり解放感を感じるものだ。罪を隠すことはストレスなのだ。
しかし安斎には解放感など微塵も感じられない。
さらに問い詰めようとしたところで、侭田から呼ばれて部屋の外にでた。
「なんですか?」
高木は話の腰を折られ少し苛ついた。
「安斎の部屋から被害者の血痕のついた包丁が見つかった。完全に黒だ。」
侭田は腕を組んだまま一人頷いていた。
「まだ取り調べが終わっていません。」
「いや終わりだ。これ以上追い詰めてうつ病が増悪したらどうするんだ。加害者だからといって必要以上に苦しめれば問題になる。」
侭田は手間を嫌うが、トラブルとなるとその比ではない。早く事件の幕引きを図りたいのだろう。
「よかったじゃないか。物的証拠も揃ってるし、安斎が犯人で事件解決だな。」
侭田は高木の肩を叩き、上機嫌だった。難航していた事件が、思いもよらぬラッキーで解決できて、今日飲みに行く場所を考えてたんだろう。
「よし、それじゃあ今日は飲みにでも、、、」
「いや、やめときます。」
そういって高木はその場を去った。
“心”の身元をいくら探っても、すべて足跡が綺麗に消されている。顔すらわからない。
そんな中、突然犯人だけが見つかった。
安斎は何かを隠しているのは間違いない。
だからこの事件を早く閉幕したいと思い自首した。
だったらなぜ、初めから名乗りでなかった。
気持ちの整理ができていなかったといえばそうかもしれない。
やはり一番の鍵となるのは、コアのことをリークした人間。なんとかもう一度連絡をとることができれば。
高木は楽をコアまで車で送った。車内でも楽は全く話すことなく、窓の外を眺めていた。
結局、楽と“心”がどういった関係だったのかもわからなかった。
「犯人、見つかったんですか?」
コアにつく直前に、楽は声を出した。
「重要参考人だった君が釈放されたんだ。そう考えてもらっていい。」
「そうですか。」
「どんなやつか聞かないのか。君は被害者の女性と親しい仲だったんだろ。」
二〇歳にもなる男に、わざわざ親しい仲とオブラートに包んで言ったのは、楽の幼さの残る顔のせいだろう。
「別に大した仲じゃないです。」
そう言って楽は車を降りた。そして振り向くことなく、家の中に入っていった。
楽は玄関から二階の自分の部屋にまっすぐ向かって部屋に入って鍵を閉めた。
捜査のため物色された後の部屋は散らかったままであった。
楽はその場に座りこんだ。あの日の出来事が頭から離れない。
*
あの夜、楽は“心”にまた頼まれて似顔絵を描いていた。
毎回顔が描けず、ダメ元で描いているからそんなにプレッシャーになることもなくなった。
ただ、いつもと違うのは“心”が酔っていたことだ。部屋に入るなり楽に抱き着いてきた。
「どうしたの。こんなに酔っぱらって。」
楽はこれまでの人生で初めての経験に戸惑った。
「楽。私を描いて。本当の私を、、、描いて。」
“心”は顔を上げず、楽の胸に顔を押し当てたまま言った。
どこか願いのように聞こえた。
楽は理由を訊くことができなかった。
自分なんかでは受けきれない。そうわかっていたから。
楽は自分の役割をよく理解していた。
“心”を椅子に座らせて、似顔絵を描く準備をした。
準備が整い、楽が“心”の方を見ると、顔を下げ俯いたままだった。
「辛いところ申し訳ないんだけど、顔をあげてもらってもいいかな。少しでいいんだけど。」
どうせ描けないくせにと思われるかもしれないが、描かないことと描けないことはどうしても分けたかった。
楽の言葉を聞いて、“心”はゆっくりと顔を上げた。
“心”の顔は楽の想像とは異なるものだった。
悲しみに暮れる顔でも、悔しさを滲ませる顔でもない。
何も感じとれないアンドロイドのような顔だった。表情豊かで、人間味溢れる“心”からは想像のできない冷たい顔をしていた。
「大丈夫?顔色悪いけど。」
「いいの。早く描いて。」
“心”はそれだけ言って、以降声を出さなかった。
乱れた服や髪を整えることもせず、“心”はその場に静止していた。
楽はいつもの手順通り、顔以外描き終えた。“心”の顔に視線を向け、見た通りに画用紙に映していった。
自分でも驚いた。今まで書けなかった人の顔を、右手が描出している。自分でも理由はわからない。
楽は鉛筆を置いた。いつもの笑顔ではない、冷たい“心”の似顔絵。達成感はそこになかった。まるで、いままで書いてきた無機物をスケッチしているような気持ちになった。
「描けたよ“心”。でも、、、」
楽は描けた絵を“心”に見せようと立ち上がろうとした。しかし急に両肩に重みを感じて、また座らされた。
楽が顔を上げると、目の前に下着姿の“心”が立って、楽の両肩に手を置いていた。床には黄色のワンピースが脱ぎすててあった。
「ちょっと。“心”酔いすぎじゃない?」
楽は顔も身体も直視できず、横を向くしかできなかった。抵抗することもできなかった。
そんな楽お構いなしに、“心”はぐいぐい攻めてくる。
“心”は楽のズボンのベルトをはずした。
「楽。好きだよ。私のことをわかってくれるあなたのことが好き。」
“心”は楽の耳元で囁いた。
楽は自分の理性の脆弱さに愕然とした。
これまで美術館の少女の絵に惹かれ、実在する女性には全く興味がでなかった。
そして恋した美術館の少女にそっくりな女性が現れ、初めて現実で恋をした。
その笑顔に、泣き顔に、怒った顔に。
ただ、今目の前にいるのは恋した女性ではない。魂が抜かれた人形だ。
でも自分は拒めない。好きじゃない女性に迫られて、我慢できないでいる。
結局自分もただの雄だった。なんてことはない。
楽は“心”に自分からキスをして、それから抱いた。
“心”の顔をみることはしなかった。
その後の事はあまり覚えていない。
ただ、気がついたら“心”は目の前から消えていて、二度と生きて会うことはなかった。
楽の手元に残ったのは、自分が好きな“心”の絵ではなく、抱いた女の絵だった。
どうして。
どうしてあの時、欲に負けずに“心”とちゃんと話をしなかったんだろう。
勝手に受け入れられないと決めつけて、絵を描くことしかできないと決めつけて。
楽は膝を抱えて泣いた。初めて人のことを想い泣いた。
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