第一章 隠者

最後の一針を結び終わり手術が終了した。

「ありがとうございました。」

 喜内(きうち)勝(まさる)は丁寧に助手と麻酔科医師、オペナースに挨拶をして手術室を去った。

 膵癌の難しい手術であったが、予定よりも一時間程度早く終わることができた。

 白衣を羽織り患者の家族のもとに説明に向かった。

 患者の男の妻と娘に手術が順調に終わったことを伝えると、妻は涙を流して喜内に感謝を述べた。

 大学生の娘も不安から解放されたからか、強張っていた顔が緩んだ。

「よかったですね。」

 喜内はそう言ってその場を離れ、ロッカーに着替えに向かった。

 ロッカーの端の方から若手医師の声が聞こえてくる。

「今日の喜内先生の手術、すごかったわ。いつも凄いけど、今日は本当に神がかってたね。」

「テレビにも取り上げられるくらいなんだろ。日本外科医のホープって。」

「それでもって、あれだけ謙虚な人だから。もう仏だよ。」

 神なのか仏なのかどっちなのだろう。

 喜内はそれくらいしか、この会話から感じるものはなかった。

 こうやって本人がいないところで賞賛されることは、いいことなんだろうけどな。

 喜内は汗ばんだオペ着を脱ぎ捨てて、スクラブを着てロッカーをでた。

 医局に戻ると、ソファの前のテレビでは夕方のエンタメニュースが流れていた。

『最近、女子高生の間では〈泣けるタピオカ〉が流行っています。なんでも、本当に涙が出るほどだとか。実際に飲んでいる女子高生に話を伺ってみました。』

 アイドル卒業したばかりの女性キャスターが制服姿の女子高生にマイクを向けてインタビューしていた。

『私も半信半疑で飲んだんですけど、飲むと別れた彼氏のこと思い出しちゃって。泣いちゃいました。』

 目を真っ赤にしている女子高生がコメントしていた。

 喜内は苦笑しながらそのニュースを立ち見した。

 そんなタピオカがあったら哀(あい)川(かわ)にでも飲ませてやりたいよ。

 席に戻り編集中の論文作成に取り掛かった。大した論文でもないが、ある程度書いておかないと教授がうるさい。

 しばらくノートパソコンにかじりついた後、最近買ったスイスのブランドの腕時計を確認した。二〇時を少し過ぎた頃であった。

 パソコンを閉じ、荷物をまとめて病院を出てタクシー乗り場に向かった。

 外にでると日本特有の湿度の高いもったりした空気がまとわりついてきた。病院の中はスクラブ一枚でいられるし冷房も効いているから快適である分、外に出た時の不快感は大きい。

 会社でもずっとスーツを着ている世間のサラリーマンに比べればまだましか。

 タクシーに乗ってから、運転手に一〇分待ってもらうよう指示した。

 喜内がタクシーに乗り込んでから時間をおかずにドアが開き、すらりと伸びた細い足が喜内の隣に乗り込んできた。

「もう少し間をおいて乗り込んでくれといつも言ってるだろ。ばれたら大変だ。」

 喜内はあからさまにため息をついてみせた。

「なにがそんなに大変なのよ。別にあなたも私も独身だし、悪いことをしている訳じゃない。」

 石川(いしかわ)聡(さと)美(み)はいじわるそうに窓を開けて、外から見えるようにした。

 聡美は同じ病院の美容形成外科の女医で、喜内と同じ三四歳であった。

 父親は大手美容クリニックの病院長でありながら、その権威を利用せずに総合病院に出て外傷から腫瘍、先天性奇形といった多岐にわたる疾患を相手に日々奮闘していた。

 喜内は、聡美になんで父親の病院で働かなかったのかと訊いたことがある。

 外見を必要以上に磨く必要はない。けれど、外見がハンディキャップになってはならない。だからプラスを大きくする仕事よりマイナスを減らす仕事をしたい。

 聡美は真っ直ぐな目をして喜内に言った。

 そういう聡美の外見はハンディどころか、大きくアドバンテージになる容姿であった。

 魅力的な目をした女性だった。芯がある強い目をしていながらも、笑った時はどこか甘えた猫のような可愛らしい目をしていた。

 病院では普段は薄い化粧で済ましているが、今は重厚な赤のリップをしていた。

 二人はそのまま行きつけのバーに向かった。

 完全予約制の貸し切りのバーであり、今日もオーナーと喜内と聡美の三人であった。

 喜内と聡美はビールで乾杯した。

「今日の手術凄かったって、ナースさん達目がハートになってたよ。」

 聡美は頬杖をついて、喜内の顔を覗き込んでくる。

「別にいつもどおりやっただけだよ。大したことじゃない。」

「そういうことを含みなしに言えるところが、さらに格好良く見えちゃうんだろうな。」

 聡美は嬉しそうにビールを飲んだ。頬が薄紅色になってきた。

 喜内は俯瞰(ふかん)で今の自分を見た。

 きっと自分は恵まれているのだろう。

 外科医として腕がよく、収入も高水準だ。顔も、美容のプロの聡美の横を歩いても問題ない程度。女性にも困らない。

 現に隣には美女がいて、美味しいお酒を飲んでいる。

 あとはこの状況を噛みしめられる感情さえ持ち合わせていれば、きっと満たされるのだろう。

 だからこそ、来たるべき日のために常にベストコンディションにしておきたい。

「この後はいつも通りホテル?」

「そうだな。」

「たまには勝の家に行きたいんだけど。」

「うちは無理だよ。前も言ったけどシェアハウスに住んでるから。」

 喜内は予想通りの聡美の発言を早めにシャットダウンした。

 聡美は、追求を諦めビールを小さい口の中に流し込んだ。

「でも意外よね。勝ってシェアハウスとか嫌いな人かと思ってた。今でもそう思ってるけど。」

「べつに意外じゃないさ。こう見えて寂しがり屋なんだ。」

「どの口が言うんだか。私のことなんか全然相手にしてくれないし。」

 聡美は不服そうな顔をして喜内に睨んだ。

「そんなことないだろ。聡美のことは、大切に思ってるよ。」

 喜内はグラスをおいて聡美の方に身体を向けて言った。

 聡美は顔を向けてこなかったが、横顔は嬉しそうだった。

 聡美はアイリッシュ・カー・ボムを注文した。

 アイリッシュ・カー・ボム。ギネスの中にベイリーズという甘いリキュールの入ったショットグラスを落として完成だ。

 聡美は心を許した人とお酒を飲むときに、必ず注文すると言っていた。

 このカクテルは聡美に似ている。

 ギネスという苦みのある黒ビールの中に甘いベイリーズが隠れている。

 そして、アイリッシュ・カー・ボムの飲み方にも特徴がある。

 ゆっくりと飲むとベイリーズが固まってしまうため、一気に飲み干すのが正しい飲み方である。

 聡美の攻略方法も一緒である。

「面白いものを見せてあげるよ。」

 喜内はそう言ってオーナーに目で合図をした。

 オーナーは壁を覆っている木製の本棚の前に移動した。オーナーが本棚を横から押すと、スライドしていき隠れ扉が現れた。

「すごい。」

 聡美は驚きを隠せなかった。

 喜内はカウンタ―の椅子から降りて聡美の手を取り、扉を開けた。

一〇畳ほどの隠し部屋が現れた。ヴィンテージ感と清潔感が両立する落ち着いた部屋だ。キングサイズのベッドと天窓がついているだけのシンプルな寝室。

 喜内と聡美が部屋に入ると、オーナーは何も言わず扉を閉めた。

 完全防音室となっているため、外からの音は何一つ聞こえず、もちろん外にも聞こえない。

「これって、、、」

 動揺する聡美が喜内の顔を見て話しかけようとした時、喜内は不意にキスをした。

 力が入っていた聡美に、柔らかさが戻る。 


 初めて喜内がここを訪れたのは二年前だった。

 オーナーが胃癌となり、喜内がいる病院を受診した。喜内が主治医となり、オーナーの手術の執刀を行った。

「せっかくなので、お礼に私の店で御馳走させて頂けませんか。」

 五三歳のオーナーは、姿勢の良い紳士的な男性だった。昔と比べると、術後の退院時期は早くなっており、多少の痛みが残っていても退院することが多い。しかし、退院日のオーナーは手術の影響を全く感じさせないほど、自然体であった。

「お連れの女性がいた方が楽しめます。」

 オーナーは小さく微笑んで、退院していった。

 喜内は翌週、友人である聡美を連れて行った。

 “お連れの女性”という言葉から、エスコートする女性を選ぶ必要があると喜内は考えた。知人の中で、どんな場所でも馴染むことができて、何より綺麗であること。

喜内の予想は当たっていた。店に入ると木の温もりがありながらも重厚な雰囲気の

内装であった。嫌味なほどギラギラすることもなく、静かに高級感を醸し出していた。

 二人は乾杯し、たまにオーナーと一緒話したりしながら静かな夜を楽しんだ。

「私まで御馳走になってよかったんですか。」

 聡美はオーナーに言った。

「喜内さんのお連れの方であれば、もちろんですよ。それにしても、喜内さん。美しい方ですね。」

 オーナーはつまみを作りながら、喜内に言った。

 喜内は小さく頭をさげた。聡美は頬を赤くして、嬉しそうだった。

 オーナーが出すお酒もおつまみも最高に美味しいものだった。味以上に凄いことは、客の空気を壊さない様に料理を変えてだすことだった。

 お酒を楽しみたい雰囲気の時はお酒の味をサポートするような軽食を、仕事で疲れてお腹が空いている時はメイン料理を入れてコースを考えてくれる。そしてオーナーの空気を読み取る能力は非常に長けていた。

 聡美がお手洗いのため席を外すと、オーナーはこっそり喜内に隠し部屋を見せてきた。

「喜内さんが今日だと思う日に使って下さい。」

 オーナーは一度だけにこりと笑い、すぐにもとの料理人の表情に戻った。


 喜内は聡美をそっとベッドに横たえた。天窓から月の光がベッドに差し込むだけ。二人の顔がうっすらわかる程度の暗闇。こんな夢見心地な瞬間でも喜内の頭はクリアであった。

 俺は今、世界で何番目に幸せな人間なのか。

 喜内は聡美に見られないように苦笑し、月の光で輝く聡美の白く細い腕を抱いた。

 翌日、土曜日であったが喜内は平日と同じ六時に目を覚ました。

 オーナーの作ったお酒は、次の日に残りづらいように思える。決して医学的ではないが、体調が証明している事実だ。

 聡美は気持ちよさそうに枕を抱いて寝ていた。

 喜内は起こさないように静かに着替えて、寝室を出た。オーナーは昨夜と同じ位置で、アイスコーヒーを入れて待っていた。

「いつも思うんですけど、オーナーはいつ寝てるんですか。」

 喜内はカウンタ―に座って、アイスコーヒーを口に含んだ。無糖ですっきりとした味わい。

「人目を忍んで寝ていますので。」

「野生動物みたいですよ。」

「お互い様です。二階はもう開いてます。」

 オーナーは軽い冗談を挟みながらも、長話にならないように次の行動を促した。

 このビルの二階は会員制ジムになっている。ジムとこのバーは提携しており、シャワーを自由に使えるようになっている。

 喜内は店をでて、ジムでシャワーを浴びた。夜をすべて流し、朝が始まった。

 今日は新しい住人がやってくる日だ。夕方に到着するようだから、昨日手術した患者の診察をしてから帰っても時間はある。

 入居祝いでも買って帰るか。

 喜内は頭の中でスケジュールを整頓してから外にでると、朝日が容赦なく照りつける。

 

         * 

どうして美術館という場所は斯くも涼しいのだろうか。

 不健康なまでに冷えた空気が、肺の中の生ぬるい空気と瞬時に入れ替わる。

 猛暑を避けながらお金をもらえるのだから、夏にはもってこいの仕事だ。

 楽(がく)幸太郎(こうたろう)は担当フロアを歩きながら周囲を見渡した。

 還暦前くらいの婦人が、作品一つ一つをじっくり眺めながらうんうんと頷いていた。

 あとは涼みにきただけのおじさんが二人いるくらいだった。

 婦人は花瓶の油絵を隅々まで観察していた。そして一定の間隔で頷いたり首を横に振ったりした。

 大した作品でもないのに。

 こんなしょぼくれた入場料無料の美術館に、価値のあるものなんて置かれない。

 もっと言えば大した作品をおいていないフロアを警備している自分も駄作の一つなのだろう。

 楽はフロアをゆっくりと歩き回りながら、年中変わらない作品に目をむける。

 このフロアは無機物の写実画のみを扱っている。

 花瓶、りんご、ボールペン、机などが丁寧なタッチで描かれている。

 楽自身は写実画を見ることも描くことも好きだった。三次元の物を平面の世界に落とし込む作業が心地よかった。

 ただ最近になって、このフロアに異物が混入された。

 楽はその異物の前に立った。

 ワンピースを着た少女の人物画であった。

 こちらを見て、満面の笑みを浮かべていた。

 作者不明。半年前にこの美術館の正面玄関に匿名で寄贈されていたものを、館長が気に入って展示することにしたのだ。

 展示品を交換する時期ではなかったので、空きスペースがあったこのフロアに展示された。

 統一感のないフロアになると思われたが、予想外にしっくりくると楽は感じていた。まるで少女が自分の持ち物を紹介しているようなフロアになった。

 楽は少女の絵が気になって仕方がなかった。

 これまでプライベートで行った美術館でどんなに有名な人物画を見てもなにも感じることはなかった。

 しかし誰が描いたかもわからない、ありきたりな少女の絵に惹かれている自分がいた。

 理由は自分でもわからない。

「君はどうしてそんな顔ができるの?」

 楽の口からぽつりと零れた音が、静かなフロア内に思いの外広がり、婦人が楽に視線を向けてきた。

 楽は視線を避けるように再び歩き始めた。


 楽が仕事から帰り、一直線で自分の部屋に向かった。

 階段を登ろうとしたところで、リビングにいた喜内に呼び止められた。

「楽。今日から新メンバーがコアに入るから。」

 喜内は楽を手招きした。

「あ、そう。」

 楽は喜内を一瞥して、また階段を登り始めた。

「おい。挨拶くらいし、、、」

 楽は喜内の言葉に句点がつく前に部屋に逃げ込んだ。

「もうだれが入ったって一緒だよ。」

 楽はショルダーバックを床に放りなげ、ベッドにダイブして言った。

 共同生活を始めて二年経過するが、誰も何も変わっていない。

 今更新しい人が入居しても、期待した変化なんかおきやしない。

 楽は寝ころびながら腕をベッドの下に伸ばして、裏に張ってあった紙を剥がした。

 紙には、楽が模写した美術館の少女が描かれていた。

 ただ肝心な顔は空白で、のっぺらぼうの状態であった。

 完璧な不完全体であった。

 楽は自分が見惚れた少女の顔を必死に思いだそうと目をつぶったが、モザイクがかかったままこちらに身体をむけているだけだった。

 最近は思い出すことを諦めるまでの時間も早くなった。別に記憶障害がでているわけではないし、生活に支障はでていない。

 楽は表情を描くことが苦手だった。今まで描けたことがないのだから、苦手というよりできないといった方がいいか。

 中学・高校の美術の授業でも毎回人物画は顔の無いの人を描いていた。先生すら不気味がっていたのを覚えている。

 自分が笑ったことがないんだから、笑顔なんて描けるはずもない。

 楽は諦めとともに脱力し、そのまま眠りについた。


 しばらくして、ギィギィと軋む音で楽は目を覚ました。

 身体を横にしたまま顔を音のする方にむけると、誰かが椅子にもたれて不快な音を奏でていた。

 楽は起き上がり鬱陶しい前髪をかき上げ、椅子に座っている奴を見た。

 見たこともない女が回転椅子に座っていた。

 誰だ。いやその前にどうやってここに入ったんだ。いつも鍵をかけているはずなのに。

 楽は開きっぱなしのドアを見て、鍵をかけ忘れて寝てしまったことに気がついた。 

 楽はため息をつきながら女を見た。

「あっ。」

 楽は固まった。

 美術館の少女が体育座りで、楽の回転椅子に座っていた。

 楽が何も言えず固まっていると、少女は楽に笑いかけた。

「君、口あきっぱなしだよ。」

 少女は見た目の幼さの割に、低く落ち着いた声をしていた。

「あ、ごめん。」

「べつに謝らなくても。」

 少女は笑いながら回転椅子でくるくる回った。

 沈黙が始まる。楽には珍しくもないし、予想出来ないことでもなかった。

 小中高のクラスで数えるくらいしか話したことがないほどの女性経験の少なさだった。

 楽は頭を掻きながら、視線を隠して少女を見た。

 小顔で目が大きく猫目。いわゆる男から可愛らしいとされる顔だった。

 視線を合わせるのも恥ずかしいが、一九歳にもなって女性ときちんと話せないことを恥ずかしいと思えるくらいには大人だった。

 楽がどうしようか困っていると、少女が右手に持っているものに気がついた。自分が描いた美術館の少女の絵だった。

 反射的に少女から絵を乱暴に奪い取り、布団の中に隠した。

「何勝手に見てんだよ。」

「え、見ちゃだめだったの?」

 楽が少し反省するような乱暴な口調にも、少女はまったく怯むことなく素朴な反応をした。

「だめだよ。というか、初対面の人の部屋に勝手に入っちゃだめだろ。

「そうなんだ。上手な絵だから隠さなくても。」

 かみ合わない会話に楽は呆れるしかなかった。

 すると少女は急に背筋を伸ばし、楽を見た。

「わたし“心”って言います。二〇歳です。今日からお世話になります。」

「お世話にって、、、コアの新住人って、、、」

 楽は“心”が年上だと知って、急にどうしゃべっていいかわからなくなった。

「ため口でいいよ。ここでは私が新参者だし。」

 楽の気持ちを汲むように言った。

 楽は少し落ち込んだ。

 なんの根拠もないが、いざ女の子と話す時は上手く話せると思っていた。

「てか、さっきコアっていった?」

「ああ、ここのシェアハウスの名前。コアって言うんだ。」

「そうなんだ。珍しい名前だね。どういう意味なの?」

「よく知らないけど、どうせ大した意味はないさ。」

「えー。気になる。」

「むしろ“心”はなんで、、、」

 楽は途中で口を止めた。

 いつもの自分なら相手の事を質問したりしない。気にもならない。

 “心”は不思議そうに楽をみた。

「もう皆集まっているだろうから。」

 自分のペースを崩されていることを自覚した楽は、一人部屋をでて階段を降りていった。

「ちょっと置いていかないでよー。」

 “心”もついて降りていった。


          *

「だから弁償しろよ!大切なデータがたくさん入ってたんだよ。どうしてくれんだよ。」

 男にしては甲高い声が受話器の向こうから響いてくる。

「申し訳ありません。先ほどもご説明した通り、水没での故障の場合、室岡様の端末は保証期間をすぎており有料での修理となります。」

 怒賀(どが)愛(あい)はマニュアル通りの返答を受話器に吹き込む。会話が成り立っているのかどうかは私には関係ない。

 相手の落ち度を責めることも、過度に謝罪することない文章。

 話し方も棒読みにならないように注意する。

それでも、電気信号に変わると悪意が付随させるのか、男の怒りは助長されていく。

「それはそっちが耐水性を自慢するような宣伝をするから悪いんだろ。ちょっと海に潜ったくらいで壊れるかね。」

 男はもてる限りの憎しみを込めて言った。

 壊れるに決まっているだろう。水深一〇メートル近くを三〇分以上うろうろダイビングしていれば。

 もちろんそんなことを口に出すわけもなく、マニュアル通りの方針を淡々とこなすだけである。

 どんな人間でも怒りは消耗する。怒り続けることのできる人間などいないのだ。 

 この怒声も一過性のものであり、怒りより疲労の比率が上回った時一気に収束する。

「もういい!おたくの携帯なんて二度と使うか!」

 男はそう言って電話を切った。ほらね。

 コールセンターの仕事は心を病む人が多い。

 日常的に他人からの罵詈雑言を浴びているからだろう。心が疲弊してしまう。

 怒賀は人とは違うところで最初苦労した。

 怒賀は生まれてから今まで、怒りを感じたことがない。

 どれだけ傷つけられても、理不尽に扱われても。

 残念に思うことはあっても、それが攻撃的な衝動に変わることはなかった。

 そのため、なぜ相手が怒っているのか理解できなかった。今思えば、健常人が理解できない人のことまで、気に病むようになっていた。

 家に帰ると自然と涙が流れることも頻繁にあった。 

、それが人間としての欠陥のように思えたから。

 相手の気持ちに必死に答えようとしているわけではない。

 人間は、こんな些細なことでも怒ることができるよう出来ていると見せつけられているようであった。

 しかしある時から、このコールセンターに怒鳴り込んでくる人は大半が大げさに怒っているだけだと気がついた。自分の損失が少しでも減る様にパフォーマンスしているだけなのだ。そんなのは本当の怒りではない。

 そこから、この仕事は天職のように思えた。

 相手も偽物だと思えば、自分の欠陥について考えることもない。

 ひたすらマニュアルに沿っていればいい。

 人生にもこんなマニュアルがあれば、快適に生活できるのにとさえ思うこともあった。

 そんな受け身な怒賀が、占いにはまるのは必然だった。

 一七時三〇分の定時となり、怒賀は透明なバッグに荷物をまとめ、そそくさとロッカーにむかった。

 ロッカーに誰もいないことを確認し、制服からゆったりした白いブラウスと紺色のワイドパンツにすばやく着替えた。

 自分が太っていることを怒賀は自覚していた。そしてこの見た目が周囲の人に不快感を与えることも。小さい頃からの習慣が今になっても抜けない。

アトピー性皮膚炎のため、肘周りや首に湿疹があることも理由だった。

 この暑い夏でも不自然にならない程度の肌隠しをした。

 ちょうどロッカーを出ようとした時、上司の女が入ってきた。

「あれ怒賀さん。お早いご帰宅ね。そんなおしゃれして。まさか、これ?」

 女は小指をたてて、にやりとした。黄ばんだ前歯が、ねっとりした顔をより卑しく見せた。

「違いますよ。友人とご飯に行くので。」

「あら、あなたにも友達いたのね。よかった。大切にしなさいよ。」

 女は次から次へと嫌味をこぼした。

 怒賀は女の悪意をロッカーに置いて、足早に会社を出た。

 女のいう通り、怒賀にはご飯に行く友達なんていなかった。

 怒賀が向かった先は、会社と駅をつなぐメイン通りから外れた路地裏のビルの二階であった。

 階段を上がろうとすると、すでに長蛇の列ができていた。

 あのロッカーでの時間がなければ、もう少し早く着いたのに。 

 怒賀は小さくため息をついた。列に並びイヤホンを耳につけて音楽は流さない。怒賀が世間をシャットアウトするいつもの方法だ。

 それなら耳栓でいいんじゃないかと言われそうだが、そんなことをすれば変な注目を浴びることになり逆効果だ。

 カップルが嬉しそうに降りてきた。きっと良い占い結果だったのだろう。

 ここの占い師はANという男だ。

 ANの占いには二つの特徴がある。

 タロット占いだが、こちらからは質問ができない。ANが尋ねる質問はいつも同じ。

あなたが今一番求めていることと、一番望まないことは?

この質問に答えて、ANがカードを提示する。流れはいつも一緒だ。

 薄暗い階段を上がると重そうな扉の前でセミが裏返って死んでいた。

 まだ夏が始まったばかり。怒賀は今季まだセミの鳴き声を聞いていなかった。

 他のどのセミよりも早く地上にでてきて、孤独に鳴き、相手を見つけることなく死んでいった。

 そう思うと、いつもは気持ち悪く感じるセミの死骸も、不憫に感じた。

 セミの死骸をじっと見つめると、扉が音をたてて開いた。

 中からモデルのようなスタイルの女性が出てきた。

 それと同時に官能的な、動物的な香りが通過した。

 怒賀は本来であれば癖のある苦手な臭いのはずだったが、この女性が身に纏うと女性の怒賀でさえ性的に惹きつけられた。

 女性は何も言わず怒賀とすれ違って、階段を降りていった。

 自分の番になり、怒賀は高揚感を残したまま部屋に入った。

 もう一つの特徴がこれだった。

怒賀の目の前には暗い部屋の中に事務デスクとパイプ椅子が一組あり、机の上に黒電話が置かれていた。

ANは電話越しに占いを行う。だから誰もANの姿を見たことがない。

 電話は常にANからかかってくる。

 ジリリリリ。ジリリリリ。

 昔ながらの古い音が部屋中に鳴り響く。怒賀はなるべく間をおかないように電話に出た。

「はい。」

「名前と年齢を。」

「怒賀愛、二七歳です。」

 何回通ったとしても、ANは名前と年齢を尋ねる。単純に覚えていないだけかもしれないし、占う上で大切なプロセスなのかもしれない。

「あなたが今一番求めていることと、一番望まないことは。」

 ANは抑揚のない声で尋ねた。

 この質問も毎回同じであった。

 時々、質問に関係ない会話をしようとする人がいるらしい。そうすると、いきなり電話が切れて、そのまま占いの時間が終わるらしい。

 マニュアル通りに進めれば、しっかり占ってもられるのに。

「一番望んでいることは怒りにまかせて衝動的に動けるようになることです。一番望まないことは、怒りという感情がつまらないものだったと知ってしまうことです。」

 嘘偽りのない答えだった。

 一か月に一回はANの元を訪ねて同じ質問に同じ答えをぶつけてきた。

 そしてANが出すカードもいつも同じだった。

 『吊るし人』

 自己放棄を意味するカード。

 ANはカードのみを提示し、解釈などの追加説明は一切ない。

 本当にお前は怒りを知りたいのか。心の奥底では諦めているんじゃないか。

 ANがそう言っているように思えた。

 たしかにそうかもしれない。だからといってどうしろと言うんだ。

 自分でどうにかできる問題ならもうしている。どうにもできないからきっかけを待っているんじゃないか。

 怒賀にはおみくじを繰り返しひく人の気持ちがよく理解できる。他力本願と言われればそれまでだが。

 電話の奥でカードをシャッフルする音がした。

 祈るような気持ちでANの言葉を待った。

 無音が数十秒続き、ANがついに話し始めた。

「『運命の輪』と『女帝』の、、、」

「きゃあ!」

 何かが硬いものが頭に当たった。

 ANが話し終わる前に、怒賀はその場を離れて頭を払った。

 足元には先ほどのセミが暴れていた。まさかの死んだふり。

 わたしが何をしたのよ。

 怒賀はそう思いながら、急いで机に戻った。受話器を耳に当てたが、通話は切れていた。

 怒賀は力がぬけてパイプ椅子の背もたれに体重を預けた。

 ANの短い言葉を思い出す。

 運命の輪。

 なにか、自分の人生が変わる重大な出来事が起きるということだろうか。そうであれば、やはり怒りを知ることができるということだろうか。

 ついに、チャンスが訪れる。

 怒賀は今までにない興奮を覚え、立ち上がれずにいた。

「大丈夫ですか。」

 歳そこそこのカップルがドアを開けて覗き込んでいた。

 二人の顔は、心配しているというより早く代われと焦れ込んでいるようであった。

「あ、すいません。大丈夫です。今出ます。」 

 怒賀は荷物をまとめて、階段を駆け下りた。

 外にでると、日中とは打って変わり心地よい夕風が吹いていた。

 ANが『運命の輪』の次に言っていた、『女帝』。

 怒賀はスマホを取り出し検索した。

 女帝。すべての面で満たされ、何一つ欠けているものがなくなる。欲しいものがすべて手に入る

 怒賀はこれまでにない期待感に心躍っていた。

 今まで夏は暑いし、かぶれるし嫌いだったが、好きな季節になりそうだ。   

 この日初めて“心”に出会った。


          * 

哀(あい)川(かわ)美(み)月(つき)は高校を中退してから、週刊誌の編集部に入社した。

 小さい頃から、正義のヒーローが好きだった。テレビで戦隊モノやセーラームーンが始まると食いつくように見た。

 その影響から悪党をみると、常に先頭に立ち闘った。

 ある時は女子をからかう男子、ある時は集団でいじめをする不良グループ、そしてある時は痴漢をする変態おやじ。

 暴力に屈しないようにキックボクシングを小学生から習い続けた。セーラームーンを意識して中学生で金髪にした。ただ長い髪はボクシングには向いていないため、ショートヘアにした。

 高校三年生のある日、哀川は今までにない悪と対峙した。

 大学受験を控え、哀川は必死に受験勉強をした。高校は進学校ではないし勉強は苦手だったが、法学部に入り弁護士になるため、小さい頭に知識を詰め込んだ。

 そんな哀川と一緒に勉強していたのが、同級生の前田(まえだ)という女友達だった。

 高校は違うが前田は小学校からの付き合いで、いつも一緒に遊んでいた。

 ヒーローごっこも好きなキャラクターが被るからいつも取り合いになっていた。

 高校性の前田も弁護士を目指していた。前田の両親は、前田が小学生の時離婚しており、それ以来母と二人きりで生活をしていた。離婚の原因はギャンブル依存症の父の家庭内暴力。なかなか離婚できなかった母を救ってくれたのが、初めて相談に行った女性の弁護士だった。

 前田と母の生活を守ってくれた弁護士に憧れて、前田自身も弁護士を目指すようになった。

 哀川が初めてその話を前田から聞いた時、本当に驚いたのを覚えている。一緒に遊んでいた小学生の前田がそんな苦悩を抱えていたなんて、全く気がつかなかった。そしてそんな逆境から這い上がる前田を尊敬し、自分なんかよりずっとヒーローだと思った。

 二人は放課後と休日に町の図書館で勉強する習慣になっていた。別に連絡して待ち合わせしていたわけじゃない。自然と同じ時間に一緒になることが多かった。

「二人で絶対法学部行こうね。」

 前田は成績が伸び悩んでいた哀川を励ましながら、自分自身も必死に勉強した。

 ある日、前田がぱたりと図書館に来なくなった。

 体調がよくないのかな。

 哀川はそのくらいに思って、あえて連絡しなかった。

 わたしなんかが心配しなくても、前田は自分でしっかりやれる。変にお節介して、気を遣わせたら申し訳ない。

 その分哀川は、前田が心配しなくてもいいように受験勉強に励んだ。

 三週間が経過し、さすがに連絡しようか哀川は悩んでいた。

 図書館からの帰り道、駅のホームで前田を久しぶりに見かけた。

 これまで見たことのない露出の高い、ブランドの服に身を包んだ前田は気だるそうに階段を降りていった。

 哀川は急いで追いかけて声をかけようとした。

 発車メロディがかかり、階段から一番近い六号車に飛び乗った。金曜夜ということもあってか、座席は全部埋まっており、ちらほら立っている乗客がいた。

 哀川が隣の両隣の車両を確認すると、五号車に座っている前田を見つけた。

 しかし哀川はすぐには声をかけられなかった。

 前田の近くには、腰の曲がったおばあさんが立っていた。前田は優先席の真ん中に座って、隣にクラッチバックを置いてスマートフォンをいじっていた。

 普段の前田であれば、優先席にはガラガラでも座らないし、荷物も隣におかない。

 しかし、哀川が最も話しかけるのを躊躇したのは、前田の顔つきだった。

 血色の良くふっくらしていた顔は青白く痩せこけ、桃色だった頬が毒々しいワインレッドに染まっていた。

 哀川は貫通扉越しに前田が眺めるのが精一杯だった。この重い扉を開ける勇気は、高校生の哀川にはまだなかった。

 電車は六本木で止まった。

 前田が吸い寄せられるように降車すると、哀川は静かにその後を追った。

 降り立ったことのない街。

 メイク、服、香水、時計、バッグ。男も女も個々に性的魅力を醸し出していた。

 図書館帰りの自分には不釣り合いな場所だ。

 改札をでると、哀川はより浮いた存在となった。

 街全体が一体感をもって、艶やかに華やいでいた。

 今日は新月であったが、夜の街にはもう月など必要ないようにみえた。

 前田は闇に溶けるように、徐々に人気のない通りに入っていった。

 良くないものに近づいていることは間違いなかった。

 前田は灯りの灯っていないビルの地下に降りていった。

 哀川は少し時間をおいてから、地下に降りた。

 天井から一つだけレトロなランプが釣り下がり、足元がギリギリ見えるくらいの明かりを灯していた。

 踏み外さないように階段を降りると、絵本にでるような重厚な両開きドアが構えられていた。看板はない。

 扉の右隣りにはインターホンが隠されるように設置されていた。

 ここは悪の巣窟だ。自分が前田を助けないと。

アニメ通りなら、悪党をやっつけて前田を助け出してハッピーエンド。だが高校生の哀川は、現実はそんな風にならないと分かるくらいは社会を知っていた。

 哀川はセーラームーンのきめポーズをした。普通の精神状態では入っていけない。

 意を決して、インターホンを鳴らした。

「どちら様の紹介?」

 男がインターホン越しに話してきた。

 やるしかない。前田を助けないと。

 哀川は勇気が逃げないように拳を握った。

「前田の友達です。一緒に来る予定だったんですけど、用事で私遅れちゃって。前田、もう来てますよね。」

 インターホンから返答はなく、沈黙が続く。

 緊張から喋りすぎて警戒されただろうか。そもそも未成年がはいって良い店なのだろうか。

 しばらくすると、扉が内側から開いた。

 紺色のスーツを着た体格のいい男が、扉を開けてくれていた。

「前田様のお友達ですね。前田様はすでにご来店されて、お楽しみ中です。案内いたします。」

 男は俳優のような整った顔立ちだった。テレビで正義のヒーローが見せる優しい笑顔を哀川に向けた。

 哀川は握っていた拳が少し緩んだのを感じた。

 レッドカーペットが敷かれた長いレンガ廊下を二人は歩いた。

「前田様はこちらの部屋にいます。」

 スーツの男は蛇の模様が入った扉の前に立った。

 中からは全く音が聞こえない。

 哀川は不気味な扉をゆっくりと開けて中に入った。

 重い扉が蓋をしていたかのように、まず騒がしい音楽と甘ったるい煙が溢れてきた。

 我慢しながら哀川が部屋に入ると、中はカラオケボックスになっていた。しかしただのカラオケボックスではないことはすぐに分かった。

 テーブルの真ん中に怪しい草と紙、ライターが置かれており、すでに使用された痕があった。

そして男二人といちゃつく乱れた服装の女がソファで横になっていた。

薄暗い中、哀川は顔を確認すると頭が真っ白になった。

前田だった。

しかし哀川が知っている真面目で、真っ直ぐでしっかり者の前田はそこにはいなかった。

哀川が言葉を出せずにいると、後ろからスーツの男が話しかけてきた。

「本物の大麻です。」

 男は草の方を指差して、わざわざ哀川に教えてきた。

哀川に気がついた前田が話しかけてきた。

「あいかわー。おそいよー。」

 前田の目はうつろで、聞いたことのない甘えた声を出した。

「前田。何してるの?」

「あいかわもいっしょにあそぼー。ふたりともかっこいいでしょー。」

 前田がホスト風の男にキスをせがむように口を前にだした。

 隣の男が前田にキスしようとすると、哀川ははっとして前田の腕を掴んで引っ張った。

「帰るよ!」

「あいかわーいたいよー。」

 ここは地獄だ。

地獄とは悪が蔓延る世界ではない。善と悪の境界線。善良な市民が堕落していく場所。

 哀川は振り返らず、逃げるように部屋をでた。

「もうお帰りですか。哀川様。」

 背後からスーツの男は嘲りを含んで哀川に声をかけた。

「なんでこんなことするの。前田が何をしたっていうの。」

「哀川様は何か勘違いされているようですね。何も私達は無理やり前田様を連れこんだわけではありません。」

「えっ。」

「前田様は自らこの地にきたんですよ。」

「そんなわけないじゃない。」

「初めてお会いした前田様は、ひどく落ち込んでいました。前田様の家庭は一人親で貧しい。それでも必死に勉強して弁護士になって母親に楽をさせてあげようとしていました。しかし、努力だけではどうにもならないこともある。母親も苦渋の決断だったと思います。」

 まさか。哀川は悲しすぎるほど話の続きがわかってしまった。

「金ですよ。前田家には圧倒的に金がたりない。子供を大学にいれることができないほど。その事実を知った前田様の悲しみはいかほどだったでしょう。」

「そんな。」

「もちろん、厳しい環境でも大輪の華を咲かせる方もいらっしゃいます。しかし、淘汰され朽ち果てていく人間も大勢います。前田様もその一人です。」

 男は優しい声で、世の中の道理を説いた。

「夜の街を一人で歩いていた前田様に私達は声をかけました。私達は逃げ場を用意しただけ。飛び込んだのは前田様ご自身なのです。」

 哀川はそのまま前田をひきずって外にでた。スーツの男はそれ以上何も言わず、追いかけもこなかった。

 哀川は近くの公園の長椅子に前田を横たえ、その横に座った。前田はそのまま寝てしまった。

 哀川は今日の忌々しい出来事を振り返った。

 今回の場合悪とはなんだ。

 大麻か。大麻を製造した人間か。それを売りさばいているやつか。大麻を利用して若い女を食い物にしている男か。それとも、大麻の魅力に負けた前田か。

 スーツの男はたしかに何も強要しなかったのかもしれない。であれば、やはり誘惑に負けた前田が悪なのか。

 頭の中がまとまらない。あれだけ良い子だった前田がこんな風に。

 横で倒れている前田を眺めていると、だんだん頭の中の嵐が収まってきた。

 そして自分でも信じられないくらい冷たくなる自分を感じ取った。

弱い心は悪だ。弱い人は悪だ。

 私は、絶対に負けない。正義であり続ける。

 足元に転がる女を見ながら、一一〇番に電話した。

 

 哀川は次の日高校を退学した。

 誰かを守る弁護士の仕事は、自分の正義とは違うことに気がついた。

被害者の悲しみに寄り添い闘うより、加害者を憎み成敗する方がずっと性分にあっているように思えた。

自分の正義を突き通し、悪と判断した人間を制裁できる仕事。

 高校生の哀川は週刊誌の編集部に手土産をもって頭を下げにいった。

 編集長は最初履歴書も見ないで、不採用としようとした。

 哀川は切り札の手土産を出した。

 前田のカメラロールに入っていた未成年飲酒、違法薬物使用現場の写真と違法薬物使用を示唆するメッセージのデータを編集長に渡した。

 編集長はデータに目を通して、デスクの近くを通った男を呼び止めた。

「松岡(まつおか)!これ明日までに記事にしろ。詳しい話はこのJKから話聞け。」

 編集長はUSBにデータを移して渡した。そして再び自らの仕事を始めた。

「あの。採用は。」

 哀川は食らいつく。

「お前、この写真の子はどうゆう関係だ。」

 編集長はパソコンから目を離さず哀川に言った。

「えっ。」

「だから、どういった関係なんだよ。」

 今度は哀川の目を見て言った。出版業界の獰猛な目に哀川は少し怯んだが、正直に答えた。

「し、親友でした。」

「そうか。」

 編集長は煙草に火をつけて、哀川にむけて煙を吐き出した。

 哀川はむせるのを我慢して、編集長から目を離さなかった。

「今日からバイトとして雇ってやる。今日の仕事は、この事件でお前が知っていることを全部松岡に話すことだ。いいか、全部だ。使うかどうかは松岡が判断する。勝手に取捨選択すんんじゃねーぞ。」

 編集長はそう言い残してオフィスの外に出ていった。

「ありがとうございます。」

 哀川は出口に向かって深く頭を下げた。


 最初はバイトとして入社した。雑用ばかりの日々が続いた。ご飯の買い出し、ごみ捨て、掃除、コピーなど、なんでもこなした。

 パワハラ、セクハラ、アルハラも日常茶飯事で、同期の男も女もみんな一年もたず辞めていった。

 それでも哀川は淡々と続けた。

 普通ある程度ジャンルに振り分けられて仕事をするが、哀川は編集長直属の部下としてオールジャンルで働いた。

 アイドルのスキャンダル、いじめ問題、歌手の不倫、殺人事件などなんでも担当した。

 二年たって二〇歳で正社員としてなり、自分で記事を書くようになった。

 加害者へ正義の鉄槌を。

 自分の全身全霊の批難を、文章にして世に出した。

 

「哀川!ちょっとこっちこい!」

 編集部に雷が落ちた。今回の落雷地点は、というより今回も落雷地点は三二歳になった哀川幸子であった。

「なんでしょう。」

 哀川は編集長から出世した部長のデスクの前に向かった。

「なんでしょう。じゃねえよ。この前お前が取材に言ったうつ病の女が自殺未遂したんだよ。マンションから飛び降りたんだとよ。同行した松岡から、お前が自殺を煽るようなこと言ったと聞いた。家族からクレームがうちにきてるんだよ。」

「えっ。」

 哀川は今、『新型うつ病』に関して記事をまとめている。

 新型うつ病は最近急増する精神疾患である。

 従来うつと違う点はいくつかある。

 過眠。

 会社に行くと気分が沈むが、休日は元気。

 中高年者ではなく、二〇代の若者が多い。

 この特徴のためか、『怠け病』と揶揄されることも多い。 

 哀川は先週新型うつ病と精神科医から診断された山口(やまぐち)という看護師に会いに行った。

 山口は看護師一年目の新人で、集中治療室に配属されていた。

 常に神経すり減らしながら働く現場では、新人への教育は愛があったとしても粗雑になる。

 そう言った職場では、新型うつ病が発症しやすい。

 山口もその一人であった。

「平日朝起きると、頭が重いんです。家から職場まで行く途中に、頭が必ず痛くなるんです。それで病院の入り口の前で足が動かなくなるんです。今日は出勤しないと、仕事が回らなくなる。わかってるんですけど、足が固まって動かないんです。お腹も痛くなって吐き気も出るし。気がついたら家に帰ってるんです。」

 山口は顔を青白くして話した。

 哀川は取材の暗い雰囲気をなんとかしようとした。

「それって怠け病っていうんですよね。名前つけた人もなかなかセンスありますよね。」

 哀川は半笑いしながら冗談で言った。

部屋の空気がさらに重くなったのを感じた。すぐさま一緒に来ていた松岡に横から頭を叩かれた。

 そんなことはあったが、哀川は真面目に記事を書いた。

 今回の悪は厳しい職場環境を放任した病院だ。いつも通り、大衆も味方につけ断罪できるような文章を考えた。

 なぜ、山口が自殺未遂なんかしたのだ。しかもそれが私の責任。

 私は山口のために、闘っているのに。納得がいかなかった。

「なるべく早く鎮火してこい。この馬鹿が。」

 部長はそう言い残して、帰宅した。

 頭の中がもやもやして全く仕事が手に着かなかった。 

 諦めて哀川も家に向かった。冷静な思考ができない時は何も考えない。哀川はそういう癖があった。

 頭をからっぽにして歩いていると、いつの間にか家の玄関の前についていた。

 わんっわんっ! 

 急に後ろから吠えられ、哀川は小さく悲鳴を上げた。

 哀川の家の前には、一戸建ての家があり、庭に一頭のゴールデンレトリバーを飼っていた。いつも大人しい犬で、躾もしっかりされていた。

 なのに今日に限ってこの犬は自分に向かって吠え続けている。

 今日は新しく住人が増えると喜内が言っていた。今日はこれ以上問題を抱えたくない。

 哀川はため息をつきながら家に入った。            


          *

五人はリビングに集合して、テーブルを囲んだ。

「今日から新メンバーが入居します。“心”ちゃん、挨拶を。」

 喜内は”心”の方を見て、微笑みながら言った。

「今日からお世話になります、“心”と言います。宜しくお願いします。」

 “心”は黒髪ショートの小さい頭を下げた。

 楽はその様子をみていると、頭を上げた“心”と目が合った。

 人形のような大きな茶色の瞳。

 楽は手元のコップに入った水に映る自分の顔を確認した。特に変化はなかった。

「あのさ、“心”は本名なの?初対面だし、フルネームと年齢、職業くらいは教えてよ。」

 哀川が椅子の上で胡坐をかきながら訝しげに質問した。

「えっと、、、“心”は名前です。苗字は、、、ありません。二〇歳です。会員制のクラブで今は働いていて、、、」

「ちょっとまって。苗字が無いってどういうことよ。不思議ちゃんじゃあるまいし、自己紹介くらいしっかりしなさいよ。」

 哀川は苦笑まじりに言った。

 テーブルについてから一〇分も経っていないのに、哀川の前には三本の缶ビールが潰れて転がっていた。

「酔っぱらって強く当たるなよ。彼女には彼女なりの事情があって苗字が無いんだから。最後まで話聞けって。」

「あっそうですか。じゃあ納得できる理由を続けて、”心”ちゃん。」

 哀川は不服さを前面に出して、冷蔵庫にビールを取りに行った。

 “心”は哀川の敵意に萎縮してしまってか、説明が要点を得なくなってしまった。

 

 喜内が話を要約すると、つまりはこうだった。

 “心”は友達に紹介された銀座の会員制クラブで働いていた。

 もともと人と話すのは苦手で、どちらかというと人見知りな方であった。

 それでも続けているのは、紹介してくれた友達と優しく接してくれる店長を裏切れないからだった。

 幸い、来店する客は行儀の良い人が多く、たまにくる素行の悪い客からは店長がさりげなく遠ざけてくれた。

仕事にも慣れてきてから、仲良くなった客の男がいた。頻繁に来店して、毎回“心”を指名していた。男はおとなしい雰囲気で、口数も多くないため、“心”は落ち着いて話せた。

しかし男の好意はエスカレートしていった。外に連れ出そうとしたり、帰りのタクシーに無理やり乗り込んでこようとしたりした。

ついに自宅を男につきとめられ、ようやく危機感を抱いた“心”は自宅をでた。

転がりこめるような友達もおらず、店のスタッフにも迷惑をかけたくなかった。

自宅をでて悩んでいた“心”に声をかけたのが喜内だった。

コアの近くのコンビニの外の椅子に何時間も座っている“心”に気がついた喜内が心配に思い声をかけた。

事情を訊き、喜内は“心”をコアに誘ってみたところ、二つ返事で了承した。


「入居理由はわかった。で、それと苗字がないことがどんな関係があるの。」

 哀川はカウンタ―キッチンから言い放った。

ビールのために冷蔵庫とテーブルを行き来するのが面倒になったようだ。

「それは僕も分からない。」

「はあ?そんな身元もわからないやつを家にいれるのかよ?」

「じゃあ哀川は自分のこと全部話せるのか。」

喜内と哀川は静かに睨み合った。

「なにか問題が起きても、私は知らないからな。喜内がなんとかしろよ。」

哀川は冷蔵庫にある最後の缶ビールを飲み切ってから、二階の自分の部屋に向かった。

「いつも何とかしてるだろ。」

喜内は哀川の後ろ姿に言い放った。

「すいません。わたしのせいで。」

 “心”は申し訳なさそうに体を小さくした。

「 “心”ちゃんは悪くないよ。哀川は、いつもあんな感じだし。ねえ愛ちゃん。」

怒賀愛は急に喜内から話をふられて、あたふたした。

「そ、そうですね。」

怒賀はそういいながら、かぶれた肘を掻いた。

「じゃあ家を案内するね。部屋は、二階の楽の部屋の隣なんだけど。」

 そう言って喜内と“心”は二階に上がっていった。 

 楽と怒賀が二人きりになった。

 怒賀はもじもじしながら楽に話しかけた。

「楽君と“心”ちゃんはもともと知り合いだったの?」

「いや、初めましてですけど。どうしてですか。」

「あ、ごめん。楽君の部屋から二人が出てきたから、顔見知りなのかと思って。」

「ああ。勝手に入ってきただけですよ。」

「そ、そうなんだ。」

 怒賀は会話の続きを探そうとしたが、適当なネタもなく黙り込んでしまった。

 怒賀と二人きりになった楽は、沈黙に耐えられず自分の部屋に戻っていった。

 いくらタロットが良くても、急に変わるわけじゃない。焦らないで。

 怒賀はスマートフォンの待ち受けにした、運命の輪と女帝のタロットカードを眺めた。

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