8-6

「……兄さんが……俺に、蘇生魔法を……」

 呟くリュカの声が、足もとに、硝子のように落ちていく。

「これで分かったでしょう」

 貴方にかけられた、ふたつの魔法のこと。

「もっとも、狼になる魔法のほうは、偶発的なものみたいだけれど……蘇生魔法は成功しているから、その副作用か、あるいは魔力のひずみが起きたのかもしれない」

 蘇生魔法に使われる魔力は、回復魔法の比じゃないから。

「もし、獣化の魔法が、蘇生魔法の副作用で引き起こされたものなら、貴方にかけられた魔法は、いずれも貴方のお兄さんの命次第ということになるわね。お兄さんが死ねば、貴方の獣化の魔法は解け、人に戻れる。でも、同時に貴方は、お兄さんからの命の供給を断たれて、死ぬことになる」

 せめて獣化の魔法だけでも解く方法があれば良いわね、と、ニナは肩をすくめた。

「……もう、良い」

 リュカが、静かに、ニナの言葉を遮った。

「教えてくれて、ありがとうございます。おかげで俺は……兄さんを守れる」

 淡い微笑をひとつ置いて、リュカはきびすを返した。ニナの呼ぶ声を振り切って走り、洞窟を出る。

 知ることができて良かった。

 今ここに、兄がいなくて良かった。

 兄に見られずに、できる。

 急げ。

 一刻も早く。

 駆けて、駆けて、崖の縁で、リュカは膝をついた。

 風と波の音が響く。

 ここで良い。

 腰の剣に、リュカは手を伸ばした。

 星明かりに白刃が光る。

 リュカは、それを、自分の首に押し当てて構えた。

 目をつむる。

 風と波の音が遠のき、代わりに自分の心臓と呼吸の音が、耳の内側でうるさく鳴る。

 あぁ、なんて、命だ。

 この心臓も、兄の命で動いている。

 歳を取らない、時を刻まない、限りなく死者に近い体で、それでも呼吸をして、生者の真似事をしている……兄の命を使って。

 この体が生きれば生きるほど、兄の命は減っていく。

 兄を守らなければ。

 この体から、兄の命を守らなければ。

 命の砂時計を、一瞬で砕いて。

 もう二度と、回復も蘇生もしないように。

 早く。

 今すぐ。

 死んで――

「リュカ!」

 兄の声が、リュカの耳を打った。

 剣を握る手をつかむ、温もりを感じた。

 目を開ける。視界が反転する。

 背中に硬い地面の感触。

 目に映ったのは、星空を背に、リュカを見下ろす、兄の顔。

 兄が、リュカを、組み敷いていた。

 ここまで走ってきたのか、兄は、息を切らして。

 張り詰めた面持ちで、リュカを見つめて。

「……なに、を……して、いるんだ……リュカ……っ!」

 震える手で、リュカの剣を、押さえつけている。

「……放してよ」

 兄を見上げて、リュカは、ぎゅっと、眉根を寄せる。

「死なせてよ……兄さん……」

 あぁ、こうしているあいだにも、兄の命は減ってしまう。刻一刻と、短くなってしまう。

「守らせてよ……俺が死ねば、兄さんの命は、これ以上、俺に流れなくなる……俺が兄さんの命を奪うことがなくなる……兄さんの命を守れるんだ……」

 リュカは、剣を強く握った。剣士と魔法士。たとえ兄弟でも、腕力の差は歴然だ。リュカは、兄を押し退けられる。兄を突き飛ばし、その手を振り払い、一思いに、この首を斬ることができる。

「ごめん、兄さん――」

 リュカが体に力を込めたとき、

「……聞いてくれ、リュカ」

 兄の声が、静かに降りた。

「お前が死んでも、俺の命は、もう延びない」

「……え……?」

 兄を見上げる。リュカの瞳が、大きく見開かれる。

 兄は続けた。

「俺の魔法は……始祖の魔法とは、違う」

 常に命を供給し続けるものじゃない。

「注ぎ続けるのでなく、切り取って移植した……俺の命の半分を、お前に」

 だから、リュカが先に死んでも、兄の命の残りは変わらない。

 逆に、兄が先に死んでも、リュカは生き続けることができる。

 体に残る命が尽きるまで。

 命の砂時計が割れるまで。

「……そんな……」

 剣を握る手から、力が解ける。

「どうして……そんなこと、したんだよ……兄さんの命を使って生きるなんて……耐えられない……」

「……耐えられないのは、俺も同じだった」

 兄が目を伏せる。声を、微かに、震わせて。

「俺より先に、お前が死ぬなんて……お前に、死なれるなんて……死なせるなんて……とても耐えられなかった……お前がいない世界で、ひとり、生き続けることになるのなら……俺は、命の意味を、失ってしまう」

 ふたりだから、生きていたいと思えた。

 ふたりきりの、兄弟だったから。

「……ごめん、リュカ……ごめん……」

 兄の手が、リュカから離れていく。リュカから身を引き、兄はうつむいた。

「……獣化の魔法が、蘇生魔法の副作用かもしれないと……考えなかったわけじゃない……俺の蘇生魔法は、まだ創り出したばかりで、検証も確立もできていない、未完成の魔法だったから……でも、言えなかった……蘇生魔法のことを、お前に、知られたくなかったから……知ってほしくなかったから……」

 だから、ずっと、ひとりで抱えて。

「蘇生魔法の発動中に現れた、知らない青い魔法の光……あれは俺の魔法じゃない……その可能性に、すがりたかった……ずるくて、ごめん……弱くて、ごめん……」

 兄の手が、固く、かたく、こぶしを作る。握り込んだ手の爪が、てのひらを傷めるほどに。

「償いを、させてほしい。お前の獣化の魔法を解く。解いてみせる。だから――」

 生きてくれ。

 兄の言葉の終わりを、リュカは、耳もとで聴いた。兄の体を、抱きしめる。謝らなければならないのは、自分のほうだ。兄は悪くない。何も、なにも、悪くなんか、ない。

「生きるよ……生きる……生きるから……」

 重なる頬のあいだで、ふたり分の、涙が混じる。

「ひとりで苦しませて、ごめん……知らなくて、ごめん……分からなくて、ごめん……兄さん、ひとりで……俺を守らせて、ごめん……」

 守られて、傷ついた。

 守ろうとして、傷つけた。

「ふたりだよ、兄さん……ここからは、これからは、本当に、ふたりだ」

 今まで、守ってくれて、ありがとう。

「生きるから、生きて。俺も死なないから、兄さんも死なないで」

 半分に分けた命で。

 さいごまで、ふたりで。

「……リュカ」

 兄の腕が、リュカの背中に回る。大切に抱えるように、離れないでとしがみつくように。それは、リュカを守ることがすがることだった、強くてもろい、兄の心、そのもののような、抱きしめ方だった。

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