8-2

 渓谷の下には霧がなく、視界は晴れていた。河原は広く、川幅もあるが、水量はそれほど多くなく、流れも緩い。しかし、辺り一面に、クラウスを戦慄させるものが転がっていた。数えきれない、魔獣の骨だった。

 リュカを探し、対岸に目を凝らす。瞬間、ふっと、頭上を、大きな影が、ふたつ、クラウスを追い越し、川を斜めに渡っていった。大きく蛇行する川の先、リュカの吠える声が、聞こえる。

「リュカ!」

 散らばる骨に足を取られながら、クラウスは河原を走った。対岸に、リュカの姿を探して。

 落石だろう大きな岩を越えた先に、その光景はあった。

 竜鳥ドラゴンバード――大きな鳥に似た、炎を吐く魔獣――が、二体。リュカに襲いかかっている。リュカは果敢に反撃しているが、相手は炎を吐き、空を飛ぶ魔獣だ。しかも二体。

 クラウスは、ぐっと手に力を込め、攻撃魔法を放った。

 二体とも命中し、ギャッと悲鳴を上げる。

 だが、狙ったほどのダメージは与えられていない。

 それでも、こちらに注意を向けさせることはできた。

『兄さん……⁉』

 クラウスに気づいたリュカに、大丈夫だと微笑んで。

 いつか、クラウスをアカデミーに導いた、王都の役人の言葉を思い出す。

――魔力を探知されないよう抑える方法も学ぶと良い。

 深く息を吸って、吐く。

――魔力に惹かれた魔獣を寄せてしまうこともある。

 一度、目を閉じ、そして再び、ゆっくりと開く。

 抑えていた魔力を、解放する。

 ピクリ、と魔獣が即座に反応する。爛々らんらんとした瞳孔に、クラウスを映して。

「どうだ。極上の餌が、ここにいるぞ」

 不敵に笑い、クラウスは魔獣を見据える。

「俺を喰いたいだろう。かかってきなよ」

 そして身をひるがえす。河原を駆ける。リュカから少しでも遠くへ。

 背後で、リュカの声と、羽音が聞こえた。魔獣が一体、クラウスを狙って、追いかけてくる。

 釣れたのは一体だけか……それでも、一体だけでも、リュカから引き離すことができれば……。

 人の足では、すぐに追いつかれる。背中に吹きつけられた炎を、クラウスは横に跳んでけた。

 足を止め、魔獣と対峙する。瞬時に魔法陣を展開し、攻撃魔法を撃ち込む。魔獣の羽が、ぱっと周囲に舞う。

 だが、

「……威力が、弱い……?」

 クラウスは眉根を寄せる。おかしい。一撃で仕留められるはずの魔力を込めたのに。

 血をしたたらせながら、それでも起き上がった魔獣が、大きく胸をふくらます。まずい。炎が来る。クラウスは地面を蹴った。髪とローブの端を、炎がかすめていく。舌打ちして、クラウスは体勢を立て直すと、再び魔獣にてのひらを向けた。魔法陣を展開し、二撃目を放とうとしたとき――

 体の力が、がくんと抜けた。

 魔法陣がき消える。膝をつき、クラウスは、はぁっと大きく息をついた。呼吸が苦しい。体に力が入らない。いったい、何が起きている……?

 見ると、魔獣も、なかなか次の炎を吐いてこない。

「……まさか、この渓谷は……」

 竜鳥ドラゴンバードは、本来、渓谷には棲息しない。こんなに低空を飛ぶこともない。

 棲息しているのではなく、迷い込んで出られなくなっただけ。

 低空を飛んでいるのではなく、高く飛べなくなっただけ。

 渓谷の底に積み重なる、無数の魔獣の骨。

 半ばで解けた、吊り橋の魔法。

 発動しない魔法陣。

 急激に衰弱する体。

「……魔力を……吸い取るのか……」

 苦しさに、肩で息をしながら、クラウスは、地面についた手を握り込む。

 おそらく、この渓谷を形成する岩石には、魔力を吸い取る特殊な鉱物が含まれているのだろう。

 広く知られて採掘されれば、魔法使いにとって脅威の武器が作られかねない。

 だから、人々を遠ざけたのか。《死の渓谷》と呼び、恐怖の噂を流したのは、魔法使いの先人だろう。

 竜鳥ドラゴンバードが、再び胸をふくらます。まだ炎を吐くのか。クラウスは身構える。

 自身に防御魔法をかけられない魔法のことわりの下で、魔法使いが自身を守る方法は、ひとつだけある。それは、結界魔法を使うことだ。人や物を対象に施す防御魔法と違い、結界魔法は空間に施す。魔法の使い手を、その空間に含めたとしても、魔法の使い手自身に施すわけではないため、魔法のことわりに抵触せず、発動する。

 しかし、空間に施すということは、そこから動けなくなるということも意味する。結界魔法は、シェルターにもなれば、おりにもなるのだ。

 そして、魔力を吸い取られていく、この状況で、魔力を放出し続ける結界魔法を使うのは、自殺行為に等しい。

 だが――

 炎がせまる。やむなくクラウスは、結界魔法を展開した。

 魔獣の炎を防ぐほどの結界を張るには、それだけ多くの魔力が必要になる。体の重さが、格段に増していく。

 結界がはじく炎の先に垣間見えた魔獣を、クラウスは睨みつけて笑った。耐久勝負だ。魔獣か、自分か、先に魔力の尽きたほうが死ぬ。

「負けられない……生きないと……いけないんだ……今は、まだ……」

 弟のために。

「……リュカ……」

 クラウスが、かすむ目を細めたとき――

 青い光が、炎をいだ。

 吹きつける炎が消え、代わりに血飛沫しぶきほとばしり、結界の表面を伝い流れていく。

 血に濡れた結界の先。

 倒れていく魔獣の前に、揺れる黒髪。

 振り返る、青い瞳。

「兄さん!」

 呼びかける、声。

 狼じゃない。人に戻った、弟の声。

 そうか、この渓谷では、獣化の魔法も解けるのか。

 リュカ。

 川を渡って、来てくれたのか。

 守ってくれたのか。

 ごめん、リュカ、ありがとう、ごめん。

 怪我してないか? 今すぐ、回復魔法、かけてやるから……。

「兄さん! 兄さん!」

 き消える結界。駆け寄るリュカの声が遠ざかる。手放すまいと握り込んだ意識は、しかしむなしくクラウスの手から滑り落ちていった。

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